佐竹義宣

Last-modified: 2009-11-15 (日) 12:37:27

生まれ

1570年 父は佐竹義重。母は伊達晴宗の女である

どんな人?

久保田藩(現在の秋田県)の初代藩主になった人

おいたち年表

1570年0歳常陸国太田城主の佐竹義重の嫡男として誕生
1586年17歳伊達政宗北条氏直に脅かされている頃、家督を譲られる  
1589年20歳窪田の戦い?実弟の蘆名義広と連合を組み、伊達政宗と戦う。
摺上原の戦い?で実弟の蘆名義広が敗北したため会津や黒川城を伊達政宗に奪われる  
1590年21歳仲良しの石田三成の忠告により豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣したことから、
本領を安堵される   
1591年22歳常陸国南方の小領主33名を謀略でゲットし、常陸国での主導権を得る   
1594年25歳居城を水戸城に移す   
1596年27歳常陸国54万石の大大名になる   
1600年31歳関ヶ原の合戦。親友の石田三成がいる西軍に入る予定だった。
が、徳川家康が小山から引き返したため動けなくなりそのまま静観する  
1602年33歳関ヶ原の合戦時の曖昧な態度を徳川家康から怒られ、出羽国秋田18万石に転封される   
1604年35歳出羽国久保田に久保田城を築城。居城にする  
1614年45歳大坂冬の陣に参陣   
1615年46歳大坂夏の陣に参陣   
1633年64歳死去   

逸話

●家康による義宣評は「困った程の律儀者」であり、義理堅い所は評価されたらしい
●能や茶の湯が好きで、古田織部とも親しかった
●義宣が建築した久保田城は隠れた名城と言われ、義宣自身は「攻め込まれたら、城に火を放って打って出るより無い」と言ったが、久保田城の堅牢さは戊辰戦争?の時に発揮された
●ちょっとお洒落な面もあったらしい
●秋田の名物の魚・ハタハタは元々は常陸の大洗沖に棲んでいたが、義宣が秋田に転封された時と同時に秋田に行ってしまったと言う。以後、常陸ではハタハタは獲れなくなった
●常陸国多賀郡(現在は多賀郡は消滅している)あたりでは金銀が採掘出来たが、義宣が秋田に転封されてからは金銀が石灰岩に変わったと言う

関連のある人々

佐竹義重・・・義宣の父
蘆名義広・・・佐竹義重の次男。義宣の弟
岩城貞隆?・・・佐竹義重の三男。義宣の弟

祐筆の人物批評

●藤原義信・・・「伊達政宗とか長宗我部元親よりマイナーなんですけど、魅力はあると思います」

祐筆

●二番手・・・藤原義信「年表以外の所を書いただけです」