生まれ
1573年生まれ
1626年没
どんな人?
織田信長の妹・お市の方と浅井長政の三女
姉には茶々・初がいる
三度目の結婚相手の徳川秀忠方が江戸幕府二代目将軍となる
三代目将軍徳川家光の生母
おいたち年表
1573年 | 0歳 | 近江国小谷城主、浅井長政とお市の方の三女として誕生! |
1573年 | 1歳 | 小谷城が叔父の織田信長に攻められ(小谷城の戦)、父浅井長政が自害する。 母お市の方や姉ふたり(茶々・初)とともに城から落ちのびる |
1582年 | 10歳 | 母のお市の方が、織田家重臣柴田勝家に再嫁し、越前国の北ノ庄城に移る。 |
1583年 | 11歳 | 羽柴秀吉に攻められ、柴田勝家とお市の方が自害。 三姉妹は落ち延び秀吉の庇護下に。 |
1584年 | 12歳 | 従兄の佐治一成(こっちは16歳)に嫁ぐ。 |
1584年 | 12歳 | 小牧・長久手の戦で、夫・佐治一成が徳川家康についたことから 羽柴秀吉が怒って、離縁させられる |
1592年 | 20歳 | 秀吉養子、豊臣秀勝と再婚 |
1592年 | 20歳 | 夫、豊臣秀勝が文禄の役(朝鮮出兵)で戦死 |
1592年 | 20歳 | 完子(九条忠栄?の妻になる)を産む |
1595年 | 23歳 | 家康の三男・徳川秀忠と再々婚 |
1597年 | 25歳 | 千姫(のちに豊臣秀頼に嫁ぐ)を産む |
1600年 | 28歳 | 関ヶ原の戦で、徳川の東軍が勝利。 |
1603年 | 31歳 | 徳川家康が江戸に幕府を開府し、征夷大将軍に。 |
1604年 | 32歳 | 長男の竹千代(徳川家光)を産む |
1605年 | 33歳 | 夫の徳川秀忠が二代将軍に |
1606年 | 34歳 | 次男国千代(徳川秀長?)を出産 |
1607年 | 35歳 | 娘東福門院和子(後に御水尾天皇?の中宮となる)を産む |
1620年 | 48歳 | 娘の東福門院和子が御水尾天皇?に入内 |
1623年 | 51歳 | 子の徳川家光が三代将軍になる |
1626年 | 54歳 | 病没。この時、秀忠・家光・忠長は上洛中だった |
浅井三姉妹の三女であります
お江・お江与・小督などという呼び名がありますが、ハガクレ★カフェでは「お江与」で通してます
母はお市・父は浅井長政で、1573年に小谷城で誕生しました
お江与が生まれた頃の小谷城は、すでに織田信長軍に包囲されていました
そして小谷城は落城し、父の浅井長政は自刃したのです
生まれたばかりなので、父の顔も覚えてないことでしょう
その後、信長の庇護の暮らしました
が、その織田信長が死去し、いざこざの中、母のお市が柴田勝家と結婚し、三姉妹は北ノ庄城へ行きました
この頃、お江与は10歳
そして柴田勝家が羽柴秀吉によって滅ぼされ、北ノ庄城は落城。
お江与にとって二度目の落城になります
三姉妹は城から脱出し、[[秀吉>豊臣秀吉]の庇護を受けるように
秀吉はこの三姉妹を政治の手駒にした
まず最初に選ばれたのがお江与であります
12歳になったお江与は、織田信雄(信長の息子)の家臣である佐治一成と結婚させられました
この頃、秀吉と織田信雄は仲が悪かったので、両家のバランスをとる為の結婚でした
正直、お江与からみれば、佐治家はかなり「格下」でした
が、嫁いだその年に|秀吉秀吉VS家康の小牧・長久手の戦いが始まる
この時、佐治家は徳川方についたのであります
怒った秀吉は、お江与を離婚させ、豊臣家へ戻しました
さて、お江与が20歳になった時、またも縁談が
今度は秀吉秀吉の姉の息子である羽柴秀勝であります
お江与が再婚した年に、秀吉は朝鮮半島へ兵を出しました
もちろん二度目の夫の秀勝も出陣
が、このとき秀勝は24歳で陣中で倒れ、死んでしまったのです
一年も続かない結婚生活でした
が、この結婚では子供が生まれました。女の子です
またも秀吉のもとへ戻ってきたお江与
秀吉はまたもお江与を結婚させます
お相手は徳川家康の三男である徳川秀忠でした
23歳のお江与と、初婚で17歳の秀忠です
結婚生活は離婚歴が二回もあり、年上のお江与が主導権を握っていました
また、お江与はやきもち焼きだったため、側室を置くことを許しませんでした
徳川秀忠も性格的にマジメだったので、側室を置かなかったのです
こうしてお江与は長男竹千代(のちの家光)など、二男・五女を秀忠との間に出産しました
徳川秀忠は江戸幕府二代将軍となり、まさに女性として栄華を極めたといえるでしょう
が、どうしてもそりの合わない人がいた
それが春日局(そのときはお福)です
春日局は家光の乳母でした
お江与は春日局になついている竹千代より、次男の国松を次期将軍にしたいと思うのです
それは秀忠も同じでした
こうして次期将軍を巡って、竹千代VS国松の対立が始まります
春日局は内緒で徳川家康に会いに行き、「お江与様が国松様を将軍にしようとしている。長男である竹千代様が可哀相です」と直訴
これを聞いた徳川家康は、みなの前で「次期将軍は竹千代である」と発表したのです
こうしてお江与の野望は崩れたのであります
が、お江与の娘・和子は時の天皇と結婚しました
お江与は将軍正妻・そして将軍生母であり、天皇の姑という、すごい人なのです
そして1626年 江戸城にて生涯を閉じました
54歳でした
秀忠と結婚してからは、姉の淀殿が自刃するという悲劇はあったものの、後半は平穏に暮らせていました
三姉妹の中では、もっとも幸せであっただろうし、また、当時の女性の中でもっとも最高位にいた女性でした
逸話
●正室の産んだ子が将軍になったのはお江のみ。あとの将軍はみな側室の子
●年上の女房だったため、秀忠は浮気をしたのは1度だけ。側室は一人もいなかった
●春日局と対立していた
●かなりの小柄で華奢な美女だったらしい
関連のある人々
徳川秀長?
九条忠栄?
祐筆の人物批評
江梨・・・この人好きです。二度の落城に三度の結婚という不幸にあいながらもノイローゼにもかからずに生きた逞しさ。流されても何事も受け止めた強い女性ですね。最後は幸せになれて良かった良かった
むっちゃん・・・今度大河ドラマになるんですよね?女性目線からみた戦国時代、おもしろそうです
ハガクレ・・・三姉妹の中では一番いい人生かな~
祐筆
●一番手・・・ハガクレ
●二番手・・・愛 年表作成しました