赤松義裕

Last-modified: 2009-10-26 (月) 14:24:03

生まれ

1537年生まれ
1570年没

どんな人?

播磨の戦国大名

おいたち年表

1537年0歳赤松晴政の子として誕生 
1554年18歳三好長慶と通じて安宅冬康と共に播磨明石城の細川晴元を攻める  
1558年22歳家臣の浦上政宗?と結託し、父の赤松晴政を追放し当主になる。
赤松晴政は娘婿の赤松政秀頼り義祐と対立する 
1565年29歳父・赤松晴政が死没したため、赤松政秀と和睦  
1566年 歳赤松政秀と再び対立。義裕は小寺政職と結んで赤松政秀を屈服させることに成功。
一方で東播磨においては別所安治が頭角を現してくる
1568年32歳三好三人衆と結んだ別所安治が、播磨国東部に台頭してくる。
?年 歳子の赤松則房に家督を譲る  
1569年33歳敵の浦上宗景を攻めるも、逆に逆に浦上宗景と通じた池田勝正
伊丹親興らの攻撃を受けて敗北。以後、衰退していく  
1576年40歳西から進出してきた毛利家と、東から進出してきた織田信長の部将。
羽柴秀吉誘降を持ちかけられるが、小寺政職と相談し織田氏につくことを決める   
1576年40歳死去   

逸話

赤松政秀を毒殺したのは義裕という説があります

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