石見(A66E)

Last-modified: 2024-05-26 (日) 09:34:12

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石見

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諸元造船所呉海軍工廠第4船渠
立案計画名大正12年度艦艇補充計画
全長215m
全幅32m
満載排水量39525t
基準排水量39154t
速力31.23kt
装甲甲板170mm
舷側75mm
兵装平射砲45口径四一式35.6cm連装砲
50口径三年式14cm単装砲
高射砲40口径八九式12.7cm連装高角砲
機銃九六式25mm機銃(三連装、単装混載)
同型艦なし(石見のみ)
所属艦隊第1艦隊第12航空戦隊(通称由木サーカス団)
艦載機帝国海軍零式水上偵察機

艦歴

1923年、大正12年度艦艇補充計画によって建造された戦艦で、伊勢型戦艦の改良型。しばらくは名前がなく、計画番号のA66Eの名で呼ばれていた(1927年、石見と名前が決まる)。1931年、将来の航空機運用に対応する為に後部に航空甲板が設置された。1935年、由木宗高少将が艦長になった。石見の転機はここから始まる...
石見、海に散る...由木事件
1938年10月3日午前9時3分、由木は長年望んできた「軍部の政治介入、大政翼賛会の廃止」を武力で訴える為、廃戦艦「河内」を目標とした実艦標的演習中に第3艦隊第24戦隊を引き連れて反乱を起こした。

  • 石見、最初の砲撃 ~相模湾海戦

    石見と24戦隊は、最初に巡洋戦艦「高野」に向けて砲撃。「高野」は艦橋に356mm弾を4発喰らい、戦闘不能に。直後、駆逐艦「丘月」の魚雷が迫るが、石見の機銃掃射で魚雷は全て迎撃。そして「丘月」は石見側砲の14cmの集中放火を喰らって沈没。近くで水上機を運搬中だった徴用商船「晴明丸」も巻き込まれて沈没。
  • 敵増える!! ~横須賀砲撃

    石見は24戦隊に囲まれて東京湾へ侵入。まずは石見の艦砲全門射撃。これにより、横須賀鎮守府に入渠していた重巡洋艦「青葉」に命中、そして転落した。続いて24戦隊の軽巡洋艦「芦田」の雷撃、そして軽巡洋艦「九頭龍」の砲撃により、先遣隊の海防艦「礼文」と「青ヶ」は沈没。続いて軽巡洋艦「北上」の雷撃で駆逐艦「夕波」初め多数の駆逐艦、海防艦が戦闘不能または沈没した。さらに24戦隊の各艦が投下した爆雷は、潜水艦「伊80」と「伊210」を沈没させた。だが、石見も副砲の12.7cm高角砲5基が破壊され、艦尾に潜水艦「波78」が放った魚雷が命中した。しかし、石見の乗員は元技術士官の者もいたため、兵装や船体の修理はすぐに終わった。
  • ついに裏切り!!~24戦隊の近接攻撃

    10月4日、土佐湾で石見と行動を共にした24戦隊が裏切り、石見の味方はいなくなった。しかし、この状況でも石見は24戦隊を戦闘不能状態にさせた。皆が喜ぶ中、由木は戦艦「豊前」を旗艦(臨時)とする第1艦隊と交戦準備をするように命じた。
  • さらば石見!~小笠原海戦

    10月7日、石見は小笠原諸島の父島へ向かい、父島要塞に砲撃した。父島要塞は崩落し、警備兵たちは捕らえられた。しかし、その行動は母島に係留されていた試験駆逐艦「乱雲」の試作電探によってバレてしまい、それを知った第1艦隊は八丈島で待機することにした。夜になり、第1艦隊司令副長官(長官は由木)であり、戦艦「豊前」艦長の岡島唯宏少将は、「豊前」から九五式水戦5機を、重巡洋艦「成相」からは九五式水偵2機に350kg爆弾を搭載して石見へ向かわせた。7機とも石見への投下に成功し、石見の航空甲板を使用不能としたが、3機は石見の対空砲火に晒され、撃墜された。
    そして「乱雲」の通信を頼りに第1艦隊戦艦群が砲撃を始めた(この時、艦橋を破壊された「高野」も、3日に及ぶ呉での突貫工事で修復が終わり、戦線に復帰していた)。負けじと石見も砲撃し、石見の徹甲弾を駆逐艦「地風」に当てて艦首を切断することはできたが、他は全て外してしまった。午後11時45分、戦艦群が主砲を一斉砲撃。石見に21発中14発が命中し、石見は傾き始めた。午後12時3分、石見の乗員は退艦した。由木は先程の砲撃で左腕が吹き飛ばされ、意識がなくなった。10分後、豊後の水上機が由木を発見、救助したが、心配になって救護室へ来た岡島が彼の右手を掴んだ瞬間、息絶えた。彼は最後、モールス信号にて「我、願ツテイタ事1ツ果タセリ。2ツ目ノ願ヒハ、政党ヲ復活サセ、軍部ノ政治介入ヲ無クス事ナリ。後ハ岡島少将、貴官ニ託ス。」と打った。その後、日中戦争、太平洋戦争は起こしてしまったが、彼の反乱によって史実よりも3年早く降伏し、死傷者や本土への被害は最小限で済んだ。

余談

日本は太平洋、日中戦争中に内部で推進派、反対派に分かれて対立していた。1943年8月13日、陸海軍の戦争反対派が推進派の軍人と抗争を起こし、反対派がギリギリ勝利、2日後に連合国に降伏する。その後日本は連合国側に付き、ドイツ殖民地へ侵攻。一部はドイツ本土へ侵攻し、ユダヤ人強制収容所を次々と解放していき、多くのユダヤ人を助けた。

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