gooいまとぴ - 「タガタメ」戦後ではなく戦前のいまこそ

Last-modified: 2015-09-10 (木) 14:13:14

「子供らを被害者に 加害者にもせずに この街で暮らすため まず何をすべきだろう?」
こんばんは、ナカノヒトヨです。今夜もお酒をたしなみながらiTunesでMr.Childrenの楽曲をランダムで流し、偶然かかったものを題材に個人的な思いを綴ってこうと思います。
お酒といえばあなたは、たとえば居酒屋で友人と飲み交わしているとき、はじめはごく身近なできごとの話をしていたのに、それが次第にエスカレートしていって、気づけばとんでもなく大きなテーマの話になっていたという経験はありませんか?
戦争だとかオゾン層の破壊だとか、もう庶民にはどんなにがんばっても解決させられっこない問題。それについて深刻な面持ちで観念論を戦わせれば、あたかも自分が問題に貢献したかのような錯覚に陥りますが、それらは多くの場合、実際には1ミリも動かすことができやしない問題です。結果的に己の無力さを痛感して虚無感におぼれたという経験は、特に男性に多いのではないでしょうか。
まさに「彩り」という楽曲で歌われる、「今 社会とか世界のどこかで起きる大きな出来事を 取り上げて議論して 少し自分が高尚な人種になれた気がして夜が明けて また小さな庶民」のようなシチュエーションです。
さて、冒頭で紹介したのはいまから10年前に発表されたアルバム、『シフクノオト』のなかの「タガタメ」のフレーズです。
子供らが被害者、加害者だって?そんなネガティブな未来は誰も想像したくはありません。できれば耳をふさぎたい話題のひとつです。
けれど最近は、「もはや日本は戦後ではなく戦前だ」なんて意見を耳にすることもしばしば──だからこそあなたは、10年前に歌われたこのメッセージに「いま」耳を傾け、受け止め、なにかを抜本的に変えてく必要があるのかもしれません。(無粋な反抗をあおるつもりは毛頭ありませんが……。)
シフクノオト
先ほどの居酒屋の話のように、「タガタメ」もまた、ごくごく身近な視点からはじまり、気づけばものすごく大きなテーマに変わっている、そんな展開の作品です。
「ディカプリオの出世作なら さっき僕が録画しておいたから もう少し話をしよう(中略)この星を見てるのは 君と僕と あと何人いるかな」
ストーリーは控えめな演奏とやさしい語り口ではじまり、主人公(僕)の意識はパートナー(君)を引き連れて、テレビの前から窓の外へ、そして夜空の星々を通じて世界へと広がっていきます。
「この世界に潜む怒りや悲しみにあと何度出会うだろう それを許せるかな?」
やがて宇宙規模まで広がった意識は、ひとりで背負うには大きすぎる問題となって、主人公の頭上に豪雨のように降りそそぎます。
「タガタメダ タガタメダ タガタメタタカッタ?」
静かにはじまった楽曲も意識の拡大にともなっていよいよ壮大となり、演奏はストリングスなどを交えてよりダイナミックなものへ、歌声はついにシャウトへと変貌を遂げていきます。
──そして歌詞カードを見たことのあるひとなら多くが気になったであろう、サビの後半で歌われるカタカナ表記のことば。これらはどのような意図があってカタカナ表記なのか?もちろんそこには、聴き手の数だけ自由な解釈があっていい。しかしあえて私の考えを述べるなら、それは犬がワンと鳴くように、あるいは猫がニャアと鳴くように、ヒトという動物がただ鳴き声を発している──すなわち、もはやことばが意味を持たずにサウンド化してしまったことを表しているのではないか、そんな風に私は感じます。
カタカナ表記されたことばは、主に3つです。
「抱き合って」「戦って」
融合とそのために生じる衝突。調和と対義語にあたる混沌。そしてその相反するものを生む根源的理由ともいえるのは、それぞれが抱えた利他の精神
そう、「誰がため」の精神です。
抱き合うことも、戦うことも、根本をたどれば誰かのために行うこと。そしてこの楽曲のメッセージはまさに、同じ「誰がため」という理由なのにそれらが混じり合わないとき、葛藤の先でできることは、祈ることか、あるいは動物のように、母乳をせがむ赤ちゃんのように鳴くことしかないのか?ということ──楽曲そのものがそんな「問題提起」だと、私は思うのです。
されどあなたは赤ちゃんではないので、ストーリーがこのまま終わっていいはずがありません。誰かから与えられるのを待つただの子ども(Children)ではなく、それを解決へと導くのが大人(Mr.)の役割です。では、この問題に対する回答は、一体どこにあるのでしょう?
連載2回目にしてさっそく自らが課したルールを破るのはよくないことですが、私は「タガタメ」がかかると、必ずそこでランダム再生をやめてしまいます。なぜならでここで歌われる問題に対するヒント、あるいは回答は、『シフクノオト』で「タガタメ」の次に歌われる曲であり、ラストの曲、「HERO」のなかに隠されているからです。
HERO (初回盤)
「例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして」
テレビの前から窓の外へ、そして宇宙規模の視点で葛藤を叫んでいた「タガタメ」の意識は、この一行で再びいっきにテレビの前(目の前の現実)へと引き戻されます。
「僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ」
そしてヒーローというタイトルとは裏腹に、ヒーローらしからぬ庶民の本音を告白します。その理由は……
「愛すべきたくさんの人たちが 僕を臆病者に変えてしまったんだ」
この三行がすべてです。世界のためのではなくひとりのためのヒーローになること。それが、結果として世界を救うことにつながる。
子どもの頃にみたヒーローはいつも仮面をかぶっていて、そのミステリアスな魅力はあなたをテレビに釘付けにしたことでしょう。彼らのポーズを真似てみせたことだってあるかもしれません。けれどそんなヒーローに憧れて大人になったいま、あなたは大切なひとのまえでちっとも謎めいていないし、秘密もない。けど、それでいいのです。
あなたがすべきことは、一番身近な大切なひとがつまづいたとき、ころんだとき、ほんの少し困ったときに、そっと手を差し伸べるということ。それは決して派手なことではなく、表彰されるようなことでもありません。しかしそんなさりげない、そして当たり前のことをできるひとこそが真のヒーローだと、Mr.Childrenは「タガタメ」での果てしない葛藤のすえ、「HERO」で結論づけます。
かっこいい戦闘服ではなく、私服こそが至福なのだと。まさにアルバムタイトル『シフクノオト』の通りの締めくくりで、そのことにはっきりと気づかせてくれるのです。
(余談ですが、私ははじめて「HERO」を聴いたとき、頭のなかでThe Beatlesの「Hey Jude」とリンクしました。なぜならそこで歌われる内容もまた、世界を自分の肩で背負うのではなく、彼女を受け入れること、それが結果的に世界をよくしてくれるんだというメッセージだから。しかもそれが父から子へ歌われることで、その説得力はとてもすさまじい。)
もしこの思いを一人ひとりが抱くことができたら、それはひょっとしたら世界を救うことにつながるかもしれない。誰がこれをきれいごとといえるだろう?
あなたは一番近くにいるひとを、ちゃんとたいせつにできていますか?
大きな問題にばかり目がくらみ、目の前のことがおろそかになっていませんか?
こんなにも当たり前のことを(しかしあなたが忘れかけていたことを)音楽という武器を使って教えてくれるMr.Childrenは、まさにここで歌われるヒーローそのものといえるのかもしれません。
ナカノヒトヨ

・世界のためのではなくひとりのためのヒーローになること。それが、結果として世界を救うことにつながる。
 
ヒーローという単語も頻出ワード Mediumでも記事になっていた
なかのひとよの目的は世界を救うこと=誰かひとりのためにヒーローになる=現代で誰か救いたい人がいる(?)