gooいまとぴ - 「Prelude」世界の終わりの前奏曲

Last-modified: 2015-09-10 (木) 14:06:51

あなたは大人になり「ばか」になっていませんか?
だしぬけになんだと怒られてしまうかもしれませんが、酔った勢いのまま続けます。
あなたが生まれたとき、「常識」はすでに先人の手によって用意されていました。そして多くのひとがその「常識」からなるたけ足をふみはずさぬよう、慎重にここまでの道のりを歩んできたと思います。
けれど「常識」の延長線の最先端を生きるいま、世の中を見渡すとどうでしょう。
社会的、あるいは経済的発展と引き換えにあとまわしにしてきたさまざまな問題のしわ寄せが顕著にあらわれはじめ、はっきりいってあまりいい雰囲気といえない気がするのは私だけでしょうか?
果たしてこのまま「常識」にとらわれ、呪われたように行進することは正しいのでしょうか?
国会中継や謝罪会見、戦場の映像を目にするたびに、そんな本質的な疑問が頭をかすめます。
しかし幸いにも、この世の中には「常識」的な大衆にうしろ指をさされながらも、時代を逆走し続けてくれたひとたちがいます。
それは子どものような絵を描いたピカソ。
それは子どものように道化を演じたチャップリン。
それは子どものころの疑問を忘れなかったアインシュタイン。
それは子どものようにわがままだったスティーブ・ジョブズ。
そして子どもの憧れのまま大人になった数々のミュージシャンやアイドル、スポーツ選手。休み時間のたびに笑わせてくれた友だちのように、いまもテレビのなかから笑いを届けてくれる芸人。
彼らに共通していえるのは、「子どもの気持ちを忘れないで居続けた」ことではないか。だとしたら彼らは、時間が子どもを社会に染めあげてくなか、勝利も敗北もない孤独なレースを続けながら聖域を守り続けてくれた、いわばヒーローではないか。
そして彼らはいつの時代も、うっかりしてまともになった大人に問いかけます。
──あなたは大人になり「ばか(まとも)」になっていませんか?なにか大切なことを忘れていませんか?と。
TOY’S FACTORY(おもちゃ工場)と名付けられたレコード会社から聞こえてくる叫び声、鳴き声、はしゃぎ声。それは日常の下敷きになって埋もれたモノを取り返せと、多くの日本人の胸の鐘の音を鳴らします。
そのバンドの名は、Mr.Children。彼らもまた、子ども(Children)のまま大人(Mr.)になってくれた希少な存在です。
SENSE 16作目のオリジナルアルバム『SENSE』がリリースされたのは、2010年の冬。全体を通してどことなく暗い雰囲気と危うさの漂うこのアルバムからは、楽観的な希望を歌うだけではすまされない時代を生きるひとたち、それぞれに課された責任感のような、使命感のような重みがひしひしと感じられます。
しかしそんなアルバムにも、彼らはすばらしい希望の言葉を残してくれました。
「Prelude」という楽曲は、和訳すると前奏曲。しかしこれは12曲中11曲目、つまり最後から二番目に収録されており、歌詞は「Hey you 日が暮れる 今日はどんな一日だった?」と、一日の終わりからはじまります。
「信じていれば夢は叶うだなんて口が裂けても言えない」
「だけど信じていなければなし得ないことが、きっと何処かで僕らの訪れを待っている」
そこで歌われるのは、逆の発想。終わりからのはじまり、否定からの肯定、絶望から見いだすトンネルのさきの光のような、かすかな希望です。
──大変前ふりが長くなりましたが、この場ではMr.Childrenの楽曲をランダムに再生し、偶然流れたものを題材にして、(ちょっぴりお酒を飲みながら)個人的な思いを綴ってこうと思います。
世界の終わりを感じさせるいま、あなたにとってこの個人的な駄文がまさに「希望への前奏曲」になったら本望です。
ただし音楽に限らず、すべての作品は「個人の想像をふくらめること」に意義やおもしろみがあります。ゆえにここに書く内容は、「あくまで個人の解釈」ということを踏まえたうえで楽しんでいただければと思います。
Mr.Childrenに、最大の感謝と尊敬の念をこめて。
なかのひとよ

・なかのひとよ氏はかなりのミスチル好き
・Mr.Childrenの歌詞にはスピリチュアルな側面がある

neotenyであること 子供であることの重要性を何度も強調している