ドイツの歴史ノート

Last-modified: 2023-05-10 (水) 12:14:42
↑↓はドイツの項目にまとめられていた項目です。あまりにも長すぎるためにこちらに移管しました。許し亭、許して。
⚠このノートは第二次大戦以降のBRDvsDDRについて主に力点が置かれています!⚠

プロイセン州とかいう元凶と大戦

歴史的には世界と争うこと二回経験し、二回とも凄まじい被害を様々な国々・自国問わずに与えまくって敗北している。ちなみに、結構歪な権力構造をしている国家でもあり、どちらの戦争でも決定的役目を果たした政治的中心地のベルリンを首府としていたプロイセン州は戦争の元凶として名指しで解体されている。どれくらいいびつだったかといえば、拓也さんの下半身ならぬ上半身くらいの強力な権力・軍事力、行政権が付与されており、まるでドイツの中にもう一つの国家があるようなくらいの影響力があった。しかも、集められる官僚はことごとくナショナリストだったりしていたため、割と強硬派とも言える意見がバンバン飛び出していたり、影の国防軍ことSchwarze Reichswehrが巣食う温床みたいになっていた。しかも、プロイセン州自体は他の行政機関とは頭2つくらい抜けているぐらいには独立していたため、二度の大戦においてもそこそこ重要な役割を果たせてしまっていた。これマジ!?他の行政機構に対して、州中央の持つ権力がでかすぎるだろ……。そんなこんなでカール・シュミット先輩の『パルチザンの理論 -政治的なものの概念における中間的な所見』(新田邦夫訳 筑摩書房 1995)においては「政治的パルチザンの元凶というか親玉みたいなもんやし……(解体されるのも)仕方ないね♂」とか言われるくらいにはDKSGな権力が付与されている国家形態をしていた。その後はご存知、ユ虐おじさんが台頭したことにより、プロイセン州はあっさり、ナナチの支配下に収まり、色々と戦争とか犯罪をやらかす中央部みたいな働きをしてしまった。

戦後(概略)

その後、もう許せねえからなぁ~?となった連合国によってDeu帝国時代~ナナチ時代においてのレジームにおいての重要な機構や権力構造はそこそこ壊されてしまい、更地のような状況になった権力の座に市民階級出身のアデナウアーのジッちゃまが居座ったり、芋ハゲが加わった学生運動が街を練り歩く70年代運動があったり、ドイツの秋とかいう連合赤軍が銃を持ってヴァイマル再現とかやったりしている中で、東側への西側陣営の写し鏡というかショーウィンドウとなった西Deuは経済成長を遂げていき、あらたなヘゲモニー国家の座に居座るようになった。そんなわけで、次の項目より、DDR(東ドイツ)とBRD(西ドイツ)を巡る政治上の駆け引きなどを記述するとする。

DDRとBRDの関係 概略

東ドイツとは社会主義によるソビエトのショーウインドーということや、西ドイツは資本主義のロールモデルとかいうのはおそらく、使い古されたクリシェ-であろう。そこで、本記事ではDDRは西Deuとどう絡んでいたのだろうかということを具体的に扱う。実はこの内容を紐解くのは骨が折れる。というのも、DDRは西Deuと交流を持たなかったり、持ったりしたりしていたからである。
戦後、ユ虐おじさんがやらかしまくったあと、Deuは東西陣営の2つに分かれ、文字通りの最前線としての役目を負うこととなった。そうなった場合、Deuの政治には何がおきるのか?そう。自国の正統性の主張である。東も西もドイツ国(Deutsche Reich:帝国~114514帝国までを示す)の後継国家を名乗るのである。しかし、両国とも正統性を主張することとなると互いに互いを否定することに発展する。

例えば、両国とも違いをパーリア国家(INDの不可触民の最底辺 転じて、国家として扱われない意味)呼ばわりしたり、東ドイツくんがSED東側の政党で固めた、Deuの統一政党。Deu共産党のようなもの)を形成して西Deuからみた場合DDRは勝手に居座って……何者だ?という建前でDDRを認めなかったりと、まあ、いがみ合っていたのである。しかも、東も西も指導者が変わるたびに太陽政策になったかと思えば、一転して北風に変じたりと歴史書を読むと首脳ごとに互いへの温度差があることがうかがえる。

とは言え、東西ドイツはそれぞれ、WTO(ワルシャワ条約機構)とNATOの軍が駐留する一大拠点であり、最悪の場合は軍事衝突が起きる最前線とされていたため、ゴルビーが台頭し、冷戦終結に至るまでは独特の緊張感があり、奇妙な空気に満ちていたことも見逃せない事実である。

ベルリンの壁の形成 ―物不足(Mangelgesesllschaft)とかいう悪夢を視点として―

そして、BRLNといえばご存知、ベルリンの壁である。この壁は一言で言えばDDRがあまりにも魅力がないために築かれたと言える。
DDRを象徴するMangelgesellschaftという言葉がある。この言葉は不足する社会とでも訳出できようか。
↑↓では一例に留めるが、DDRの物不足は凄まじく、テレビやあの(皆さんご存知)トラバントを購入するにも順番待ちになっていた。
この物不足の遠因としては固定価格という概念が挙げられる。DDR体制では市民(なお、J. Kocka(岩波 2011)にいわく、市民階級なんて概念はDDRはないそうであるが)の心をつなぎとめるために価格を固定させることを行ったのである。この固定価格制度は輸送・販売・製造コストといったものを度外視したものであり、DDRが終焉を迎える90年まで維持されたのである。
この結果として、十分な物資を調達できないガバガバ国家となったDDRは拓也さんの評判もかくやという状態に陥る。
そんなモノ不足の極めつけはDeuならば誰もが愛する飲料であったコーヒーの欠乏である。
通称Kaffeekriseと呼ばれるこの現象は70年代に表面化する問題であるが、すでにDDR体制の構築される50年代においてもその諸相が見える見える……太いぜ……。となってしまっていた。というのも、東側はコーヒー豆を買うにしても深刻な外貨不足に直面しており、戦後の54年にようやくDDRにコーヒー豆がくソ連経由でもたらされるまで、西側の親戚から送ってもらうような悲惨な生活をする羽目に陥っていたのである。
「(こんな場所に住むなんて)ふざけんな!(迫真)」となったDDRの人々はこうして国↑境↓がガバガバな50年代にドォンドォン流出しまくる。しかも、逃げ出す人材は医師だったり、エンジニアだったりと替えのききにくい人材だったこともDDRの物不足+人材不足に拍車をかけ、「この国は(財政とかシステムが)ビョーキだよね、きっと」(ある市民のエゴドキュメント)とか言われるまでの状況に陥る。
そして、上記から読み解けるようにベルリンの壁が築かれるまではなんだかんだ言って東と西は往来は自由であったことがうかがえる。遮るものは鉄条網だけだし、使える穴を通って逃げ出すだけ。
DDRの生活は密告とかが横行しており、隣人が消えたり、抹消されたりとされることが状態化しており、社会には恐怖が蔓延したと言ってもいいかもしれない。自由がある程度あるけど、琴線に触れると取り返しがつかない……一方でBRDは自由ですよ!自由!とか歌いまくっており、必然的にBRLNを境にコントラストが生まれてしまっていた。結果として、こんなクソ国家から逃走するのも当たり前だよなあ?かくして、一方的な往来……ようは逃亡が頻発する。というわけでDDRから人材が逃げ出しまくったため1961年に「西ドイツに追いつくまで」という建前で築かれたのがベルリンの壁である。
この壁は崩壊へと至るまで巨大な分断の象徴であり、今もシュタージなどによるナナチ以上の監視社会、DDRを語る上で欠かせないモニュメントとしてBRLNにまんじりとそびえ立っている。
さて、そんなこんなでベルリンはDDR時代には東西の交差点であり、情報や官民を問わない交流が壁を築かれてもなお、盛んでもあった(もっとも、民間の交流はやがて企業などに絞られていくなどする)。

政治上のコロッサスとしてのDDR

そして、このようなことを書いてしまったので、なんとなく察しが付くと思われるが、東西の交流が盛んであったということは情報戦もお盛んであるということである。
実際、西Deuには相当数のDDRなどのスパイが存在していたことがわかっている。こうした人々を巡っては協力者であったり、マジモンのDDRの諜報員であったりしたことが判明している。こうした一連の情報はBRLNなどのシュタージのあった場所から掘り起こされた文書によって明らかになっており、例えば、隣人がシュタージだったかと思えば、家族も協力者で互い互いを密告しあっていたとかいう地獄絵図もあまり珍しいものではない。そして、これらの協力者・消えた人々といったことについては Helmut Müller-Engbersなどの手によるWer war wer in der DDR?(Berlin, 1992.)のプロジェクトのように今なお、進行形の根深い問題である。
そして、本スレにおいて灰色の猊下と呼ばれるゲアハルト・シュレーダーのレジームにおいてもDDRは隠すことのできない亡霊として存在している。その一例としてあげられるのがシュタインマイアー連邦大統領である。シュタインマイアーはFAZが伝えるところによるとDDRから資金提供を得ていた出版社に学生運動時代に参加し、その後、シュレーダーとカリーヴルストの屋台で接触し、友人となったとのことである。その後、シュタインマイアーはRUSとのパイプを持つ人物をシュレーダーにあてがい、PTNなどとも親密な関係を築くお膳立てをするまでに至る人物である。彼はDDRとの協力関係を結んでいたのかどうなのかは今後のジャーナリストたちの迫真の取材が光ることとなるだろう。
その他にも、統一ドイツにおいても多数の議員がDDR方面でのコネクションやRUSとのパイプを持ち続けていることが挙げられる。代表的な例としてはLinke(左翼党)の大物たちだろう。これはSEDの系譜をつぐ政党であり、親露のおそれはないのかなあと結構な懸念材料でもあったりする。
いずれにせよ、対東側協力者やシンパなどが存在することから推察できるように、DDRは西Deuと張り合いつつも、その後のDeu統一においても対RUS外交などで少なからぬ影響を行使したことがうかがえる一面などがあるのは確かではあり、Deuの政治において、DDRは無視できないコロッサスとして横たわっている。

参考文献

参考文献(代表例)
コーヒー欠乏については次を参照
Wolle, Stefan: Die heile Welt der Diktatur. Alltag und Herrschaft in der DDR 1971–1989. Econ & List, München 1999
Wünderich, Volker: Die „Kaffeekrise“ von 1977. Genußmittel und Verbraucherprotest in der DDR. In: Historische Anthropologie 11 ,2003.
日ペ人からみたDDR世界
三宅悟『私のベルリンめぐり ―権力者どもの夢の跡―』中央公論社(中公新書)1993.
邦訳文献
ヴァイス、フォルカー『ドイツの新右翼』、新泉社、2008.
ヴィンクラー、ハンス・アウグスト『自由と統一への長い道 1933―1990』昭和堂、2008.
コッカ、ユルゲン『市民社会と独裁』岩波書店、2008.