AfDとRUS ―もしくは大陸右翼の存在について

Last-modified: 2024-04-21 (日) 17:34:25

概要

このノートは欧州の右翼がどうして親ロ派になるのかというスレで出た疑問をもととして、取り組んだレポートのようなものでっす。
結論から言えば、この欧州右翼に見られる親露の構造は、RUSとC・シュミットの影響が思想面では大きいと言えますねえ!RUSの右翼思想の巨魁であるドゥーギンと、カール・シュミットのラウム理論の影響を欧州右翼は多分に受けているゾ。そして、反米についてはLGBTQなどのリベラルな価値観を押し付けるのは、もう十分堪能したよ……というレ帝の価値観への反抗心のためだと説明できまっす。要は、変革を恐れているがゆえの反動にくわえて、RUSと協力してレ帝に対抗したいという考えの表れとも捉えることができるわよ。

参考文献について

ここで解説する上で、2つの著作を中心にしてAfDあるいは、EUR右翼(親露)を扱うとしまっす。一つにAfDとDeuの保守層をカール・シュミットのラウム理論、シュペングラーに見られる憂国思想を元として読み解いたフォルカー・ヴァイスの『ドイツの新右翼』(長谷川晴生 訳 新泉社 2019)とマルレーヌ・ラリュリエル『ファシズムとロシア』(浜由樹子 訳 東京堂 2022)を挙げるぞ。この2つを中心として、いくつかの文献を挙げると気持ちがいい!

親露派右翼とはなにか?(DeuのAfDの前に)

『今や新たなるエレメントが加わろうとしている。「ラウム」(空間)だ。けれども、人々はその力の前になお一層の不安と恐怖を覚えるばかり』(うろ覚えのC. Schumitt, Land und Meer, 1942.より)

  • 1. イデオロギーについて
    まず、ベースとなるのが、ユーラシア大陸という空間とレ帝大陸という空間である。
    空間は一般にドイツ語ではラウム(Raum)という言葉が使われる。これは、「ゆとり」や「余地」といった残っている場所としてイメージされる言葉でもある。そして、AfDに代表される保守派の考えるラウムは地政学的な語彙、勢力圏として解釈されている。彼らの一般的な考えとして、世界はヨーロッパ大陸という「ヨーロッパ」の勢力圏、中国大陸という中国の勢力圏、北米・南米大陸というレ帝の勢力圏に分かれている。勢力圏はそれぞれが独立した空間であり、「一様に」まとまっていると認識される。例えば、フランスからロシアまでを支配する「白人」*たちのグループや中国と朝鮮半島(NKとKNKK)、日本を中心としたアジア人たちのグループ、よくわからん人種グループの「アメリカ」に分類される見方となっている。
    これらの勢力圏は独立した存在であるが、興味深いことにレ帝はこれらの勢力圏に対する全くの脅威としてみなされている。この理由として、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸という「海で隔てられた」空間として、両者を捉える必要がある。繰り返すように、ラウム概念は巨大なスペースであり、空間の中に存在する権力が世界を構築しているとの見方が欧州右翼の根底の要素にあると考えられている。
    大陸右翼たちの中心をなしているドゥーギンの見解では、この隔てられた空間は権力を互いに抑止し合う形で存在するのが正常であるとされる(例えば、ドゥーギンの『地政学の基礎』にこの概念が見える)。この各国の各空間で持つ権力のことを大陸右翼では「主権」と見る。そして、この「主権」を通して、強調せずに、対等に付き合う状態こそが主権国家とされる。このため、アメリカ合衆国はこの秩序をかき乱す存在として解釈される。例えば、ポリコレやLGBTQといった押し付けがましい「伝統的な道徳観」への修正的な思想や、ドルを通貨の基軸とする一強を志向する点が、この証左だと捉えられよう。そして、世界秩序は抑止し合うことが、大陸右翼たちから是とされる姿なのであれば、レ帝が欧州への主権を脅かす形で圧力をかけ、「お仲間」に加える点は、欧州各国の首脳が無能にうつるのみならず、半主権国家としてヨーロッパが存在するとされる。このため、大陸右翼たちはアメリカを追い払い、「主権」を欧州に再び取り戻すために活動することが、闇鍋とも言える思想の根底の一部にある考えてよいであろう。
  • 2. 歴史的な背景
    1990年代は冷戦の終焉であると同時に、アイデンティティの崩壊の年であった。冷戦によるアメリカ一強の時代。加えて、雪解けによる民主化から自由市場への参入による貧困化。ドイツでは、トイロ(Teuro=teuer+Euro)が示すように、あらゆる物の値段が上がり、旧東ドイツの地域では、国による公社のような互助組織から、西ドイツやフランス、イギリス、アメリカ由来の資本が続々と進出し、失業による恐怖が存在する社会となった。今までは、少なくとも社会主義国であれば、一定の生活保護などの公的なセーフティネットが存在した。しかし、西側のそれは、常に収入や勤労意欲を判定するのみならず、受給する資格を失う恐れのある「失業」を伴ったものだった。いつでも、ホームレスに転落する可能性のある厳しい社会が訪れたのである。言うなれば、競争社会が現実になり、失業がより実感を伴った恐怖となったことが、旧東ドイツの社会にダメージを与えたのである。この結果、東独への郷愁オスタルギー(Ostalgie=Ost+Nostalgie)がドイツ社会へと根ざすこととなる。
  • 3. 労働の変化ー外国人たちの参入
    1990年代以前から、ドイツは、東西を問わず、人口減少に悩まされていた。西側は、トルコ移民やパラグアイやブラジルなどの関わりの深い南米地域を中心に外国人労働者を導入。東側は、アフリカの地域から教育の建前で外国人労働者を受け入れ、社会を維持しようと試みてきた。現代でこそ、難民問題とクタにされるが、このドイツ人に変わる労働者たちの導入は、白人……正確にはゲルマン的見た目をもつ人々には、アイデンティティを揺さぶる現象として解釈された。外国人が我々の仕事を奪っている!寄生虫だ!と彼らには見えたようである。古今東西、経済的に追い詰められた人々にとって、ナショナル・アイデンティティは最後の砦となる。特に、保険による保護や生活保護は、元来、「ドイツ国民」を保護するものだった。それが、今や、ドイツ人だけを助けるのではなく、ベトナムや中国、日本を助け、さらには、黒人や南米人たちを助けている。彼らの多くは、肉体労働から医師や薬剤師のような技能職、さらには大手企業の顧問のように幅広く偏在し、ドイツ人の雇用を脅かしている。と経済的に追い詰められたドイツ人たちには映った(*2)。

そうだけど、そうじゃない

『キオスク』という小説がある。かいつまんで説明すれば、ヴィーンへと働きに来た若者と、ユダヤ人であるフロイトとの交流、そして、ナチによるアンシュルスからの迫害という物語である。全編を通して、人々との温かな交流の後ろで、重低音のように、ナチスによる人種排斥が描かれている。多様性の都であったヴィーンが、単一民族国家を志向としたとも取れるナチによって書き換えられていったという物語である。エーリッヒ・フロムよりは説教臭くないが、やはり、AfDを見るときに想起せずにはいられない、非合理とも言える排外主義を考える一つの視点として挙げることができる。
しかし、だからといって、ドイツ人たちの排外主義をナンセンスだね!と片付けてはならない(迫真)。ドイツ史のみならず、多国籍へのおそれは偏在する。なぜ、こんなことになるのか?すこし、回り道であるが、このテーマについて、一個人として、見解を述べる必要がある。
ポチメ(Wiki籠もり)としては、もちろん、多国籍なのは治安のリスクもあるが、幅広い層からフィードバックを受けられるので、あまり問題としては捉えていない。念のため、ポチメのスタンスを述べたうえで、解説する必要がある。
一言で表すと、アイデンティティを巡るNTUYの意見は、「そうだけど、そうじゃない」のだ。ここでは、多言語都市という視点を中心として、簡潔になにが、AfDを生み出したのかを語らなければならない。
いうまでもなく、ベルリンは都市である。それに、ミュンヒェンも、ハイデルベルクも、ケルンも、ドイツの有名どころは大体都市である。都市は様々な人々が古今東西から、人種、職業関係なく入り乱れる社会である。だが……農村や町はどうなのだろうか?今でこそ、村や町は様々な人々がいる。トルコ人の営むケバブ屋は偏在するし、理髪店で流暢なドイツ語を話すレバノン人の床屋さんも珍しくはない。しかし、1990年代はどうだったのだろうか。たしかに、外国人たちはいた。ソ連兵や工場に勤めるベトナムの人々もいた。だが、それは、ベルリンやミュンヒェンのように、溶け合った形だったのだろうか?工場の寮のように、村はずれや町外れにあったと見るべきかもしれない。溶け合う手前の、よそ者(Fremde)だったと見るべきである。姿形が似ている白人系統ならばいざ知らず、見た目が全く違うようなマッドジャーマンズ(有色人種)は、新生ドイツ人たちにどう映ったのであろうか?
仕事を奪いのみならず、いつの間にか、社会に滲み出てきている変な存在と見えたと考えるべきだろう。
特に、社会に侵食しているように見えたのは、イスラーム教徒たちだった。
ブルカやヒジャーブのように、異なる服装、あるいは慣習を持つ彼らは、トルコを経由する形で、フランクフルやベルリンのような都市部から、工場での労働や清掃業を担う形で、ドイツの各地域へと散らばっていくこととなる。彼らは、キリスト教やシャリバリのような古い社会の息づく農村で、モスクを建て、聞いたこともない言葉で祈りを捧げたり、先述のスカーフとも異なるファッションで村を歩く。ドイツ人にとって、「食糧」であるタンパク源の豚肉を食べず、発酵したパンではなく、薄い、ナーンのような平べったいものを「パン」として食べる。明らかに違う、異質な存在……それがイスラーム教徒への直感的なまなざしだったといっていい。

さて……ここで、陰謀論と疎外感が社会的に弱くなった人々に合流することとなる。舞台は切り替わり、パソコンとネット世界が00年代の社会の意見をつなぎ合わせていく。

そして、親露右翼へ

以上の人々の意識を踏まえたうえで、再度、親露右翼とイデオロギーの潮流を見てみたい。イスラーム教徒たちがドイツ各地へと労働力として散らばっていき、その流れがインターネットによって漸次、可視化されるのが90~00年代までであった。当初は、一部のプログラマーたちや好事家たちのプラットフォームだったインターネットは、あめぞうや西村博之(たらこ)の掲示板とともに、コミュニティとしての拡大を続け、様々な情報がやり取りされるようになった。
この90年代のインターネットの拡張する時期は、おりしも、ロシアの思想家ドゥーギンが90年代から00年代にかけて、頻繁にドイツやフランスの保守層たちと接近する時と重なる。アレクサンドル・ドゥーギンは、グラスノスチの情報公開と親ナチ的なグループがロシアで台頭する言論空間の中で生まれた思想家であり、特にドイツの公法学者だったカール・シュミットのラウム理論から強い影響を受けた人物でもあった。彼は、後述するPegitaの母体の一つとなる大学に籍を置く保守層たちと交流し、次のように要約できる考えを共有した。

1. LGBTQの背後にあるアメリカ
2. アメリカによるヨーロッパへの侵略
3. ヨーロッパ空間の主権の維持

編集中です!本借りてこい!

混迷 ーギリシア危機と難民の増加(2009~2015)

編集中です!

ソースもってこい!

AfDとPegitaの登場(2014~)

人々が違和感を共有するとともに、ヨーロッパの読書階級、つまり大学出のインテリ層にとって、このイスラーム教徒たちが社会へと参入することは、危機に映った。特に、ナショナリズム的な概念をもつ保守層たちには、オズヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』の一説が想起された。シュペングラーのこの本は、

編集中です!

*1:ファッ!?スラブ人は白人扱いなのぉ!?となるが、この白人至上主義にカッコが入っているのは、見た目が白人なら何でもよかろう。という雑な考えによるものだからである。これは、サイードの『オリエンタリズム』(平凡社 1993)の描いた根強いガバガバまなざしが指すように、なんだかんだ言って見た目の持つ偏見と、意味不明なくくりからはああ逃れられない!
*2:これは非常に興味深い現象である。この項目を執筆するにあたって、和田博文の『多言語都市 ベルリン 1861-1945』(2006)を読み返すと、ベルリンではアルメッパリやロシア語、フランス語、そしてギリシア語のような様々な新聞があることがわかる。さらには、ロシア人コミュニティやリトアニア人コミュニティ、アルメッパリマフィアのように、多国籍のコミュニティはたしかにドイツに存在していた。つまり、多国籍世界だったのだ。しかし、これでは、根本的なアイデンティティの問題への解決にはならない。アーレント姉貴がよく、『人間としての条件』で口酸っぱくいったように、「思考で世界は変えられる」のである。ドイツ人たちにどう映るのかをスレの兄貴たちには、解説せねばならない。