生まれ
こばやかわひであき
1582-1602
どんな人?
戦国時代の武将
おいたち年表
1582年 | 0歳 | 誕生 |
1584年 | 3歳 | 子供のいない豊臣秀吉の義理の甥っ子だったので養子になる |
1592年 | 11歳 | 中納言に出世。金吾と呼ばれる |
1593年 | 12歳 | 秀吉にのちの豊臣秀頼が生まれると、邪魔になり小早川隆景の養子に出されることに。 |
1595年 | 14歳 | 関白豊臣秀次の謀反事件に関係していたと疑われ丹波国亀山10万石を没収 |
1595年 | 歳 | 父の小早川隆景から家督を譲られる |
1597年 | 16歳 | 慶長の役(第二次朝鮮出兵)に出兵。 が、大将でありながら前線に出て戦をしたという事をを石田三成にチクられ 、豊臣秀吉から越前国北ノ庄18万石に減封される |
1598年 | 17歳 | 豊臣秀吉死去。大老の徳川家康により、秀吉が命じた減封・移封処分は無効になる。 家康に感謝するようになる |
1600年 | 19歳 | 関ヶ原の合戦では西軍につき1万5千の大軍勢で松尾山に陣取る。 決戦で東軍に寝返り、大谷吉継に攻めかかる。この寝返りによって西軍は敗北。東軍の勝利に。 そして石田三成の父、石田正継が守る佐和山城を攻めて落城させる。 戦後は宇喜多秀家の旧領備前国と美作国、52万石を拝領し、岡山城を居城にする |
1602年 | 21歳 | 裏切りの心苦しさから酒に溺れ、ノイローゼ気味に。ついに死んでしまう |
子供がいない秀吉とねねに引き取られ、めっちゃくちゃ可愛がられる
「金吾中納言」となり、異例のスピード出世をし、秀吉も一時は相続人にしようと思ってた
ケド、淀殿との間に豊臣秀頼が生まれると、態度が一変し、秀秋が邪魔になってきた
とゆーことで、黒田官兵衛の計らいによって小早川隆景の養子に行かされる
朝鮮出兵の時は総大将をまかされるんだけど、軽率な大将っぷりに秀吉に激怒される
それを石田三成が秀吉にチクッたせいだ!と思い込み、三成を憎むように
落ち込んでた秀秋を助けてくれたのが、徳川家康
家康はいろいろ取り計らってくれたので、秀秋は家康に感謝しまくる
秀吉が死ぬと徳川家康VS石田三成のバトル・関ヶ原の合戦が始まる
ここで秀秋は「秀吉殿にはお世話になったから、豊臣方の西軍に入ろう。でも、俺、三成がダイッキライだからなんとなくむかつくんだよな。それに家康には世話になったからな~。どーしよー」と悩みまくる
結局、西軍に入るんだけど、裏では家康に内応する交渉をしまくってた
でもって、当日合戦が始まると、西軍のほうが押し気味だった
「うっわ~。やべぇ~。これ、西軍勝っちゃうんじゃないの??もう少し様子みてよ」と、静観してた
いつまでも秀秋が動かないので、イライラしまくってた家康は、とうとう秀秋の陣めがけて一斉射撃!!
これにビビった秀秋は「うわぁ!家康が怒ってる!!と、突撃しなくちゃ!」と、西軍の大谷吉継めがけて襲い掛かった
ここに寝返り成立
西軍は秀秋の寝返りにより、敗北となった
家康は秀秋に約束どおり51万石を与えたんだけど、秀秋は裏切り者として精神を病み、21歳という若さで死んでしまった
その他
性 格・・・ビビリ
好きな人・・・ねねサマ
嫌いな人・・・石田三成と豊臣秀頼 「秀頼が生まれたせいで、人生めちゃくちゃだよ」
嫌いなスポット・・・松尾山
死ぬ前に見た夢・・・「大谷吉継がボクのことを恨んだような目で見るんだ・・・。あわわ」
ヒトコト・・・「ボク、愚鈍じゃないからねっ!!愚鈍だったら秀吉の養子にもなれないし、他の人を差し置いて小早川家の当主になんてなれないんだから!!ふんっ」
さらにもうヒトコト・・・「だって、家康恐いんだもん」
逸話
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関連のある人々
豊臣秀吉・・・義父
ねね・・・義母
徳川家康・・・恩人?
小早川隆景・・・義父
弟・・・木下秀規
家臣たち
長崎元家?
松野重元?
山口宗永?
祐筆の人物批評
由衣・・・日本の歴史上、一番有名な「裏切り者」ではないでしょうか?裏切ったことが後遺症となり、病死してしまうという悲惨な人生ですね。まだ若かったので、自分がしたことの大きさに耐えられなかったんでしょうね
祐筆
●一番手・・・ハガクレ
●二番手・・・愛 「ドラマになる時、この人の役やる人っていつもアホっぽい」