小田原の陣

Last-modified: 2009-10-19 (月) 13:59:48

いつ??

1590年(天正18年)

どんな戦い?

九州を平定し、残っていたのは関東の北条のみ!!

 

秀吉は何度も小田原に向け「挨拶に来い」と言っていましたが、プライドの高い北条は「我らは早雲からなる関東の名門であるぞ?何故あんな成り上がり者に頭を下げなければならんのだ?」と、「誰が行くか!」と突っぱねていました

 

そしてとうとう秀吉は北条攻めを開始したのです

 

小田原攻めを決めた秀吉は、さっそく諸将を集め軍議を開きました

 

そこで先鋒を徳川家康に命じたのです

 

これは北条と同盟関係にある徳川家康をわざと先鋒にし、どこまで本気で北条と戦う気があるかをチェックしようとしたのです

 

が、徳川家康は10万人もの兵力を用意し、惜しみなく戦費を使いました

 

また三男の長丸(のちの徳川秀忠)を人質として秀吉のもとへ送り、異心のないことを表明したのです
秀吉に疑われる余地がないほどの素早い行動でした

 

だけど石田三成秀吉側近は「徳川家康は絶対危ない!秀吉殿は絶対、出陣中に家康の城とかに寄らないで下さい!」と、疑いまくっていたのです

 

そしてこのあたりから、家康石田三成をうざったく思い始めるのでした

 

先鋒である家康は、先陣として本多忠勝井伊直政榊原康政らを送りました
ここに小田原討伐の幕が切って落とされたのです。

 

秀吉は3月1日に出発

合計22万人もの大軍が、小田原城めがけて集まってきました

対する北条は6万人でした

 

戦いの火蓋を切ったのは山中城
山中城を守っていたのは北条重臣の松田康長?ら5000人

 

そこへ豊臣秀次を総大将とした山内一豊田中吉政中村一氏ら2万の大軍が押し寄せたのです
山中城は技巧を凝らした城でしたが、大軍に攻められあっという間に落城しました

 

先陣を務めたのは中村一氏中村一氏
そして一氏のもとで一番槍を務めたのが渡辺勘兵衛です
山中城を落とした秀吉軍は、勢いを得ました

 

4月1日には箱根へ到着し、3日には小田原城を包囲する態勢が整ったのです

 

が、小田原城はめちゃくちゃ堅城
力攻めで落とすには、余りにも労力を使いすぎる
ということで、秀吉は「兵糧攻め?」をすることにしました

 

氏政の方も1年分の兵糧を蓄え、長期戦覚悟で望むつもりでいました
秀吉も長期戦を覚悟

 

石田三成らに命令し、こちらも2年以上小田原に滞在できるほどの兵糧をゲットしたのです
長期戦になるとなれば、対となる城が必要と考えた秀吉
小田原城をよく見渡せる場所に、城を作ることにしました

 

それが「石垣山一夜城」です。

 

実際は4月から6月まで、約80日かかりましたが、一夜のうちに周りの木を伐採し、城が突如として現れたように見せかけたそうです

 

これには小田原城内騒然
秀吉は天狗か!?」と、北条家の士気が下がりまくったのです

 

秀吉は小田原城の周りを取り囲みました
そして愛妾の淀殿(茶々)などをを呼び、毎日宴会三昧

 

ちなみに淀殿淀君を呼ぶ時、秀吉は一応おね?に断って、おね?の口から淀殿に伝えてもらいました
これはねねの顔をたてるためです。
淀君は「なんでいちいちねねを通して言われなきゃなんないのよ!」と、ムッとしてました

 

で、秀吉は他の大名達にも妻・妾を呼ぶことを許可しました
毎晩飲め歌えやのドンちゃん騒ぎとなったのです

 

突然小田原に20万人以上もの人がきたもんだから、一時大都市状態
遊女小屋も出来たり、市場もできたりと、すごく賑やかになっていったのです

 

それに対する小田原城内はとうと・・・
昼は双六や将棋をして遊んだり、笛を吹いて乱舞したりと負けず劣らずの余裕ぶりをみせていました
というのは4月ごろの話

 

実際この頃は、「いきなりデカイ城は出現するわ、毎晩ドンちゃん騒ぎだわ。こりゃやばいんじゃないか?」と焦り始めていたのです
小田原城を包囲して、余裕ぶりを見せていた秀吉

 

実は裏では「北条の支城を攻めろ!小田原城を孤立させろ!」と命令していました

 

上杉景勝前田利家ら北陸チームは、松井田城を攻め込み落城させ、進軍
4月27日には江戸城を落とし、河越城・松山城などガンガン快進撃
ちなみに「忍城」は利家らの攻撃に耐えまくっていました

本城である小田原城が落ちてからも、忍城だけは城を守り通したのです
次々と支城が落とされているというニュースを聞いて、北条氏政はだんだんと弱気になってきました

 

重臣らを集め「降伏したほうがいいのか?それとも出撃し迎え撃つべきか?」などなど悩みまくっていました
なかなか結論が出なくて、だらだらといつまでも議論。
議論ばかりしてなかなか結論がでないことを「小田原評定」と言うようになるのです

 

が、決定的となったのが「韮山城落城」でした
韮山城は氏政の弟・氏規の居城で、これにより小田原城内の兵たちの戦意は喪失していったのです
さらに、秀吉への内応が発覚したのです
老臣筆頭である松田憲秀の内応でした

 

松田憲秀はずっと「徹底抗戦じゃ!」と言っていた重臣でしたが、いつの間にか秀吉と内応していたのです

これには城内蒼然

次第に徹底抗戦から降伏へと気持ちが変わっていったのです
韮山城から弟の氏規がやってきました
実は氏規は家康と仲良し

 

というのも、徳川家康が今川家の人質時代に、氏規も人質としていたからです
その頃からの幼馴染で、家康は氏規に「もう降伏した方がいいよ!」と忠告したのでした
こうして支城を次々と落とされ、援軍の希望もなくなった氏政は、とうとう降伏を決意したのです

 

北条氏政の息子である氏直氏直は、弟の氏房とともに家康のもとへ
北条氏政の息子である氏直は、弟の氏房とともに家康のもとへ
そして「オレが切腹するから、父と城兵の命を助けて欲しい!」とお願いしました

 

徳川家康はさっそく秀吉に報告

すると秀吉は「氏直は家康の娘と結婚してるから切腹はさせない。だが、氏政・氏照兄弟と松田憲秀・大道寺政繁の老臣2人は切腹じゃ!」と言って来たのです

こうして氏政は7月11日に切腹。53歳でした

そして北条家は滅亡したのです