本多忠勝

Last-modified: 2020-04-24 (金) 15:34:57

生まれ

天文17年2月8日(1548年3月17日)

どんな人?

戦国時代の武将 徳川四天王の一人 上総?大多喜藩?初代藩主 伊勢?桑名藩?初代藩主

おいたち年表

1948年1歳誕生!
1949年2歳第四次安城合戦で父・忠高が戦死。叔父の忠真?のもとで育つ
1560年13歳桶狭間合戦にて初陣
1563年16歳三河一向一揆。家康側に残り武功を挙げる
1566年19歳旗本先手役に抜擢される
1570年24歳姉川の戦い?に参加。単騎駆けを敢行し、それが反撃へと繋がる
1572年26歳二俣城の戦い?の前哨戦である一言坂の戦い?殿を務める。12月の三方ヶ原の戦いにも参戦
1575年29歳長篠の戦いに参戦
1582年36歳本能寺の変。家康に随行して和泉にいた為、伊賀越えを敢行。三河に戻る
1984年38歳小牧・長久手の戦いに参戦
1586年40歳従五位下・中務大輔に叙位・任官される
1590年44歳家康の関東移封に伴い、上総夷隅郡大多喜に10万石を与えられる
1600年54歳関ヶ原の戦い?では家康本陣に従軍
1601年55歳伊勢桑名藩10万石(一説には12万石。または15万石)に移封される
1609年63歳6月、嫡男・忠政に家督を譲り、隠居
1610年64歳慶長15年10月18日(12月3日)、桑名で死去

本多忠高の長男として生まれ、幼い頃から徳川家康に仕える

初陣は桶狭間の合戦(13歳)

以後、57回の合戦に参加し、大活躍

その活躍っぷりは敵からもほれ込まれるほど

武田軍からは「家康に過ぎたるもの」と言われ、小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉から「忠勝はもったいないから殺すな」と言われた

が、平和な江戸幕府が始まると活躍の場がなくなってくる

幕政の中枢から外され、遠ざけられた

忠勝は長年仕えて来た家康に遠ざけられるのは辛い・・・と言いながら死んでいった

その他

大好きな人・・・家康様!!絶対お側を離れません!

宝物・・・蜻蛉切

ポリシー・・・薄着

特技・・・トンボを切ること

ニヤリ話・・・「俺様ってば、合戦の時はいつも無傷なんだけどさ、同じ四天王の井伊直政はいっつも重装備で傷だらけでやんの」

苦手タイプ・・・加藤清正「おなじ匂いがすんだよな」
嫌いなタイプ・・・インテリ

豊臣秀吉談・・・「天下無双の大将」

織田信長談・・・「花も実も兼ね備えた武士だな」

小杉左近談・・・「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」

逸話

●57回の合戦で刀傷をひとつも受けなかった猛将

忠勝といえば「家康に過ぎたるものがふたつあり 唐の頭に本多平八」と言われるくらい、猛将として名高いお人
このひと、生涯で57回も合戦に参加しましたが、一度も傷を受けなかったようです

●真田親子を助けたのもこの人

関ヶ原の合戦後、家康は西軍について息子・秀忠の邪魔をした真田昌幸&幸村親子をどうしようかと考えていた
ここで出てきたのが忠勝
昌幸の長男が自分の娘と結婚しているため、真田親子の助命を家康にお願い
このとき、「助命してくれなければ殿と戦います!」宣言!!
あの家康に対してここまで言うとは・・・すごい

●人の手柄はいりません!!

まだ若かりし頃の忠勝
武功があまりなかったので、おじさんの忠真が手柄をたてさせてあげようと
おじさんが討ち取った首を忠勝にあげようとしました
すると忠勝
「人の手を借りた武功などいりません!!」と、奮起し、単騎で敵陣に突入し
敵の首を討ち取ってきました


関連のある人々

本多忠高・・・父親

阿知和玄鉄?の娘・・・正室

小松姫・・・娘。真田信之の正室になる

もり姫・・・娘。奥平家昌の正室

本多忠政・・・嫡男

本多忠朝・・・次男

娘・・・本多信之の妻

娘・・・松下重綱の妻

娘・・・蒲生瀬兵衛?の妻

徳川家康・・・主君

井伊直政・・・徳川四天王

榊原康政・・・徳川四天王

酒井忠次・・・徳川四天王筆頭

家臣
織田信照・・・異説として中根平右衛門忠実?を称したとされる。
都築秀綱?
梶勝忠?
河合政光?
中根忠実?
梶原忠?

祐筆の人物批評

むっちゃん・・・かっこいい

祐筆

●一番手・・・ハガクレ
●二番手・・・鱒