
| 最高速度 | スラスト | 定員 | 貨物の種類 | 搭載速度 | 重量 | サイズ | 年代 | 寿命 | 維持費 |
| 時速331km | 2,549重量kg | 10人 | 人 | 2.0倍 | 7,700kg | 小 | 1935~1970 | 40年 | $299,395/年 |
ゲーム内説明
Douglas DC-3は、プロペラを推進力として利用する固定翼機で、優れた速度と航続距離により、1930、40年代の航空産業に革命をもたらしました。
概要
巡航速度がとうとう300km/hの大台を突破し、形も私達が見慣れた形になってきました。しかし、定員10人という数はまだまだ少ないもので、数を運行しなければあっという間に空港は満杯になってしまうでしょう。
史実

| 製造国 | 製造会社 |
| アメリカ合衆国 | ダグラス・エアクラフト |
ダグラス・エアクラフト(現在のボーイング社)が開発した双発のプロペラ旅客機・輸送機です。輸送機の方に関してはDouglas C-49 Skytrainを参照してください。
この機体は、飛行性能と輸送力と経済性のバランスを高い水準で両立させることに成功した30年代40年代における航空産業の革命児です。それまでも商用旅客輸送は行われていましたが、この機体が登場したことにより本格的に航空機による旅客輸送が実現したと言っても過言ではありません。
1945年までにのべ1万機以上が製造され、双発機としては異例とも言える生産数でした。この機体は、日本とソ連にてライセンス生産も行われました。
DC-3は、前世代のDC-2から定員が50%増になったにもかかわらず、運行経費が3%の上昇で済んでいるという点で革命的でした。当時の航空会社は運行経費の高さから旅客輸送だけでは採算が合わず、政府の郵便輸送の補助金を受けることでなんとか成り立っていました。それがDC-3の登場により旅客輸送の運賃のみで採算が合うようになったため、補助金に頼る必要のない「飛ばして儲けが出る」初めての飛行機でもありました。しかもDC-3は巡航速度などの飛行性能でも当時トップクラスで、さらにエンジンの交換が簡単と、整備性も高いとまさに当時における理想的な旅客機と言えたのです。
歴史
1920年代、広大なアメリカ大陸の移動手段として航空機が台頭してきましたが、航続距離が足りず、横断するだけでも複数回離着陸を行わなければなりませんでした。座席数も少なく、貨物容量も少なかったため、経済性はかなり低くなってしまっていました。
そこでアメリカのトランス・ワールド航空・ユナイテッド航空・パンアメリカン航空などの大手航空会社は、全金属製で多くの乗客と貨物を運ぶことができ、なおかつオートパイロットや引込脚などの最新技術を取り入れた新しい航空機を、ダグラス・ボーイング・カーチスなどの各メーカーに打診しました。
ダグラス・エアクラフトは、1933年に試作機“DC-1”と“DC-2”を開発しました。カーチス社は“カーチスT-32”を開発。アメリカン航空にて“カーチス・コンコルドⅡ”として就航しました。しかしこのカーチスT-32は技術的には既に旧式のものでした。ボーイング社は“ボーイング247”を開発。優秀な機体でしたが系列企業だったユナイテッド航空に優先配分したためアメリカン航空へは納入時期が未定でした。そこでアメリカン航空は旧式機であるカーチスT-32を更新するべく、ダグラス社にDC-2をベースとした新型機を発注しました。
1935年から開発が行われ、機体の大半を設計し直さなければならなかったにもかかわらず、わずか半年というスピードで1935年12月17日に初飛行。これを“Douglas Sleeper Transport”略してDSTの名称で呼ばれました。この機体は翌1936年にアメリカン航空に就役しました。
DSTは寝台機であり、寝台室を通常の座席に変更すれば、DC-2より機体幅を拡張したため座席数がDC-2の2倍になる事に気が付きました。すぐに派生型として通常座席バージョンが制作され、これがDC-3となりました。アメリカン航空で就航し、それが成功を収めると、トランスワールド航空・イースタン航空などの大手航空会社も採用し、アメリカ民間輸送機市場を席巻するベストセラー旅客機となりました。更にはヨーロッパでも英国海外航空・スイス航空などに就航しました。1939年までにのべ600機以上が生産されました。
日本では1935年から中島飛行機がDC-2をライセンス生産しており、その能力の高さゆえに後継機であるDC-3にもすぐに三井物産経由でライセンス契約を取得。1937年から昭和飛行機工業によって生産されました。最初はノックダウン方式、後に国産化されました。その際、ヤード・ポンド法を採用するアメリカと、メートル法を採用する日本とで設計図の単位が違ったため設計図を書き直しており、そのためオリジナルのDC-3と日本製のDC-3では寸法が微妙に異なっています。
世界大戦が終結し、派生型であるDouglas C-49 Skytrainが大量に民間に放出されました。民間機仕様に改造され、"DC-3C"とされた数千機に登る大量の放出品は、アメリカの大手航空会社のみならず、ローカルの航空会社にまで行き渡り、また世界中の航空会社にも引き渡されたため世界中至るところで使われました。
しかし1950年代にもなると、後継機であるDouglas DC-4やDC-6、コンベア240などが就航し、DC-3は大手航空会社から撤退。日本でもコンベア440やビッカースバイカウントなどに置き換わっていき、1964年3月15日に全日空の旅客便から撤退。翌年に貨物路線からも撤退したことで日本から完全に撤退しました。しかし、アジア・アフリカ・南アメリカなどの発展途上国では1970年代まで使われ続けました。
現在、世界全体に稼働機は数百機単位で現存していると思われ、現在でも旅客輸送を担っている路線もあります。スカイダイビング用の航空機に改造して使用され続けている機体もあります。また歴史保存目的で保存されている機体も多く、航空ショーなどでその姿を見ることができます。