1902年 大清帝国 戦艦 鎮遠
中国ツリーの低ティア戦艦。βテスト終了報酬であるらしく、現状いかなる手段でもアンロックは不可能。
所持者は極めて少ない(おそらく運営のテストプレイヤーのみが所持している。一般にはまだ配布されていない模様)
基本性能
※括弧がある欄は【改修後の数値(初期値)】
年代 | 1902 | 国家 | 中国 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
艦種 | 戦艦 | 対潜 | × | ||||
耐久値 | 000(21950) | 戦闘成績(BR) | 000 | ||||
無装甲排水量(t) | 000 | 無装甲速力(kt/h) | 00.0(00.0) | ||||
基準排水量(t) | 000 | 最大速力(kt/h) | 22.0(00.0) | ||||
最大排水量(t) | 7355 | 最大舵角 | 00.0(70.0) | ||||
可視距離(km) | 00.0(9.65) | 絶対視認距離(km) | - | ||||
アンロック費 | βテスト終了報酬(?) | 購入費用 | 000S |
装甲防御
※単位はインチ(in)表示
※史実/技術ツリースペック準拠の場合。購入時は無装甲状態
防御区画 | 前部 | 中部 | 後部 | 装甲重量(t/0.1in) | ||
---|---|---|---|---|---|---|
甲板部 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 00 | ||
舷側部 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 00 |
搭載武装
主砲 | 名称 | 火力 | 射程 距離 (km) | 装填 速度(s) | 旋回 速度(°/s) | 重量(t) | 貫通力 | 基本弾数(HE/AP) | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
なまえ | 000 | 00.0 | 00 | 00 | 00 | 00 | 00/00 | |||
副砲 | 名称 | 火力 | 射程 距離 (km) | 装填 速度(s) | 旋回 速度(°/s) | 重量(t) | 貫通力 | 基本弾数(HE/AP) | ||
なまえ | 000 | 00.0 | 00 | 00 | 00 | 00 | 00/00 | |||
魚雷 | 名称 | 火力 | 射程 距離 (km) | 装填 速度(s) | 旋回 速度(°/s) | 重量(t) | 雷速(kt) | 基本弾数 | ||
なまえ | 000 | 00.0 | 00 | 00 | 00 | 00 | 00 |
まだ配布されていないので主砲等の装備は不明だが、おそらく同型艦の定遠とほぼ同じラインナップと思われる。そちらの記事も参照。
グラフィックを見る限りでは、副砲が舷側部に一基ずつ追加装備されている。
部品改修
改修段階 | 火力 | 索敵 | 速度 | 装甲 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
Ⅰ | ||||||
Ⅱ | ||||||
Ⅲ | ||||||
Ⅳ | ||||||
Ⅴ |
立ち回り
主砲
副砲
魚雷
装甲
機動性
総評
歴史背景
鎮遠(ちんえん, Zhen Yuen)は、清国海軍がドイツのフルカン・シュテッティンに発注して建造した甲鉄砲塔艦「定遠級」の1隻。建造当時東洋一の堅艦と呼ばれた。日清戦争において日本海軍に鹵獲され、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。
1881年 - ドイツ・シュテッティン(現・ポーランド領シュチェチン)のフルカン・シュテッティンで起工。
1882年11月28日 - 進水。
1885年 - 竣工
1886年8月 - 清国北洋艦隊の旗艦「定遠」らとともに、補修の名目で長崎に入港。その際、上陸した乗員により騒動が起こった(長崎事件)。
1894年9月17日 - 黄海海戦中、日本の旗艦「松島」に直撃弾を与えた。大火災を生じながらも厚い甲鉄のおかげで主要部を貫徹されず、威海衛に入った。
12月24日 - 威海衛沖で座礁。
1895年2月17日 - 威海衛にて鹵獲。
1898年(明治31年)3月21日 - 二等戦艦に類別。
1904年(明治37年) - 日露戦争に参加。黄海海戦、旅順攻略戦、日本海海戦に参加。
1905年(明治38年)12月11日 - 一等海防艦に類別変更。
1908年(明治41年)5月1日 - 運用術練習艦に指定。
1911年(明治44年)4月1日 - 除籍。
11月24日 - 装甲巡洋艦「鞍馬」の実艦的として破壊。
1912年(明治45年)4月6日 - 売却。横浜にて解体。