シミュレーションデータ

Last-modified: 2023-01-14 (土) 15:17:15

旅の始まり 12冊

説明ミーナはアストラ大陸でも著名な旅行家である。彼女の旅行記は光霊の間で広く親しまれ、中でも自伝的旅行記の中には、彼女の若き日の辛い出来事が記されている──ゴールド・リバー河畔の村に暮らしていた少女と白夜城の「騎士」セリョージャは意気投合し、交流を続けていたが、最後には袂を分かつしかなかった。この『旅の始まり』と題された物語では、白夜城騎士団や光力術についても詳しく語られている。
情報
  • 暗潮の危機:暗潮の危機は17年前に起こった。「日蝕」は古代の先端技術で作られた乗り物「巨像」を奪い、数多くの暗鬼を空輸して、空の末裔の居住区「天空ノ谷」を奇襲した。これにより空の末裔は滅亡の運命を辿り、今やごく少数の生存者しかいない。10年前、暗鬼の大群がアストラ大陸の諸勢力連合軍によって遂に撃退され、「暗潮の危機」は終わった。
  • ベツレヘム女王の彫像:北境の住民は皆、心から女王を愛している。北境では時がゆっくりと流れ、人々はゆったりとした時間を過ごしている。手先の器用な北境の光霊は木材を集めて彫刻を楽しむが、女王ベツレヘムは最もよく見られるモチーフである。
  • 光力笛飴:シンプルなお菓子で、子供たちからとても人気がある。口の中で笛のような音が出せる。多くの光霊にとって、幼い頃の思い出であり、童心を持ち続ける光霊は大人になっても、よくこれを買って食べている。
  • カジカジ油パン:砂漠地帯のご当地グルメ。他の地域の人からするとやや恐ろしい見た目だが、それもまた魅力の一つである。小さなトカゲをカリっと揚げ、乾燥させて作ってあり、トカゲの生前の姿を完全に留めている。これも砂漠の悪趣味のあらわれといえようか。

第1冊:ゴールド・リバーの日

概要ミーナにとって、ゴールド・リバーの過半で過ごした幼年期は思い出したくない日々であった。あの頃の毎日には、物語のような出来事もなく、生きている意味も分からず、ただ味気ない苦しい生活に耐えるしかなかった。しかし、キャラバンの出現が、そんな彼女の人生に転機をもたらした。
内容

昔はよくゴールド・リバーの岸に座り、太陽が空を移動していくのを眺めていた。
冷たい川の水が足に触れると、決まって胃がびっくりしたものだ。シフのお父さんは川で魚を獲っている。その親指と人差し指の間に網が食い込み、私に笑いかける時には、シフのお父さんはよく手を後ろにして、手のひらにできた褐色の痛々しい痕を隠していた。
その一方で、シフは裸足のまま河岸を走り回り、拾ってきたイシガイを私の側に積み上げ、ナイフで殻を開き、中の身を取り出すように言う。そして彼女自身は、足を川の水につけ、石で傷つけた足の裏の傷口を洗っていた。
日の光は休むことなく、私たちを照らし続けた。
1日で最も辛い時間はシフの家での食事だった。私はいつだって、食べる速度を抑え、シフと一緒に食べ終わるよう気を付けた。シフより早くても、遅くても、礼儀に反すると思ったからだ。
シフのお母さんはとてもいい人で、いつも私に食べ物を持たせてくれた。干した魚や燻製肉など、飲んだくれの私の父に食べさせてあげるよう、私に持たせるのだ。
「ミーナのお母さんが生きててくれたら、どんなに良かったか。」
シフのお母さんはよく、私のボサボサの髪を手櫛でとかしながら、疲れ切った目で私を見つめた。その瞳はいつも、どこか遠くの誰かを見つめているようだった。
お母さんはきっとシフのお母さんと仲が良かったんだろう。私とシフみたいに。
そして、私とお父さんはお母さんの遺してくれたこの縁に頼って、今もこの世で生きている。
お父さんは、お酒を飲んでいるところを私に見られたくないらしい。私が家にいると、いつも私から遠く離れていた。それでも、家の中に充満するお酒のすっぱい匂いは隠しきれるはずもない。お父さんは大声で食べ物をガタガタのテーブルの上に置くように言い、また洗濯するよう言いつけた。お父さんが寝付くのを待って、私はお父さんの隠したお酒の瓶を探し始めた。
ベッドの下、服の山の中、暖炉の灰の中…お酒の瓶は、いつだって思いもかけないところから出てきた。
瓶を川の水できれいに洗い、魚網を編む紐で10本ずつつなげ、寝室の窓の両脇に打ってある釘に1連ずつ掛ける。空を見上げると、ガラス瓶に白い明るい日の光が集まり、輝いて見える。ガラスのぶつかり合う高い音が心地よい。
あの日まで、それが私の唯一の楽しみだった。
(つづく)

情報
  • ゴールド・リバー:ゴールド・リバーは「世界の尾根」を水源とするアストラ大陸最長の河川である。山脈の峰々の間で集まった雪解け水が源流となり、うねる地形に沿って流れている。
  • ゴールド・リバー沿岸の風土:ゴールド・リバー流域の村は、この豊かな川の流れの恵みによって生業を営む。ゴールド・リバーの主支流では水上輸送が発達し、流域の村の交流を活発にするとともに、徐々に商業を発展させていった。
  • 村の飲食文化:ゴールド・リバー河畔の村人たちは彼らが生活の中で最も手に入れやすい食材である。エンドウ豆の加工品や塩漬けの魚および肉を主食とする。
  • 商業:ゴールド・リバー流域の商人は決まったルートで商売をすることが多く、水路を利用し、豊かな都市の間を行き来している。

第2冊:ゴールド・リバーの日々(下)

概要ミーナにとって、ゴールド・リバーの過半で過ごした幼年期は思い出したくない日々であった。あの頃の毎日には、物語のような出来事もなく、生きている意味も分からず、ただ味気ない苦しい生活に耐えるしかなかった。しかし、キャラバンの出現が、そんな彼女の人生に転機をもたらした。
内容

今でもよく覚えている。あの日は曇りだった。落ち葉とほこりが風に巻きあげられ、空中でさらさらと音を立てながら円を描き舞っていた。
馬鈴が遠くに聞こえると、子どもたちは寝そべり、耳を地面につけ、ばらばらと音を立てる蹄の音を聞いていた。キャラバンがやって来たのだ。キャラバンは村の外れの空き地に停まり、白い布を広げ、日よけの転とを張り、馬の背から下した荷物を1列に並べる。
キャラバンがやってきたことを聞きつけた村人たちは、空き地にやって来ると、興味津々に眺めている。私とシフもしっかりと手をつなぎ、キャラバン見物の人混みの中にいた。緊張と興奮で自分の心臓がドクドクいっているのが分かった。
乾燥した馬糞の匂いが漂ってくる。キャラバンの中から誰かやってきて、若い大胆な光霊とおしゃべりをしている。彼らはとてもきれいな恰好をしていて、長旅をしてきたというのに、顔は汚れておらず、しかも疲れた様子もなかった。その時は、それが光力術のおかげだとは私も知らなかった。
キャラバンがやって来たという知らせはあっという間に広がった。村人たちは豆や小麦、毛皮、鹿の角といった品物を衣料や麦酒に交換し、キャラバンの人たちは村へやってきて、半年間休業していた旅館に宿泊し、宿からはすぐにエンドウ豆を煮るいい香りが漂って来た。
衣料品を売る商人は、商品を腕に掛け、布を広げては取り巻く村人たちに見せて回った。ベージュ、鮮やかなグリーン、ブルー、夕日のような赤…あの日、私は初めて、この世界にはこんなにも豊かな色彩があることを知った。
シフが前の冬に狩りで獲った狼の皮と淡いピンク色のスカートを交換したいと言い出した。それを聞いた私は、窓の両側につるしたガラス瓶を思い出した。
「とにかく、試すだけ試してみなきゃ」心の中で、そうつぶやいた。

情報
  • ゴールド・リバー:空から眺めるゴールド・リバーは西北から東南へと大陸を貫いて連綿と続き、最後には海に流れ込む。
  • ゴールド・リバー沿岸の風土:一部支流では、いまだに伝統的な生活様式が保たれており、人々は川での漁業や川の水を灌漑用水とした農業に頼って生活している
  • 村の飲食文化:村では小麦も栽培されているが、食用ではなく、麦酒の原料とされている。作られた麦酒は、村の生活に欠かせないものとなる。
  • 商業:一部の商人は、何らかの商機をつかもうと陸上に新しい商業ルートを拓くこともある。しかし、世の中は泰平とはいかず、こうした商人の多くが武装勢力を雇い、身の安全を守っている。

第3冊:白銀の騎士(上)

概要商品との交換の申し出を拒否され、困り果てたミーナは成す術もなく、キャラバンの日よけテントの側に呆然と立ちつくしていた。すると1人の白い鎧を身に付けた男が現れ、彼女を窮地から救ってくれた。彼の名はセリョージャといった。
内容

私とシフはそれぞれ家に戻り、彼女は筒状に巻いた狼の皮を腋に挟み、私は繋げておいたガラスの酒瓶を両手に持った。ガラス瓶が歩く度にカチカチと楽し気な音を立てる。私たちが手に持っているものは、どちらも自分の大事な物だ。
シフはキャラバンのいる方向へと飛んで行かんばかりの速さで歩く。だが、ガラス瓶は重く、割れやすい。私は彼女の後ろをのろのろとついて行くしかなかった。けれど、誰もがこちらを見ているような気がして、今までこんなにたくさんの人の注目を浴びたことのなかった私は、急になんだか嬉しくなった。
「君は一体、これを何を交換したいんだい?」商人は困ったように私をうかがう。
しかし、その時の私はこの言葉の真意が理解できず、慌てて首を伸ばすと商人の後ろにならべられた目移りせんばかりの商品に一通り目をやった。
「酒瓶はいらないよ」商人はとうとう、はっきりとそう言うと最後に一言「それはただの酒瓶だろう?」と付け加えた。
その瞬間、突然耳鳴りに襲われた。困り果てた私はその場に立ち尽くし、まるで頭の上に輝く太陽が震動しているかのように、手に持ったガラス瓶がキンキンと音を立てた。私にとって、その音はもう、耐え難いものに変わっていた。
ガラス瓶の重みがずっしりと紐を伝ってきて、私の手は震え出す。首や耳の後ろからは、じっとりと汗が湧き出てくる。けれども、足は相変わらず言うことを聞かない。一歩も動くことができなかった。
突然、右の方から、低い声が響いた:
「お嬢ちゃん、その酒瓶と何を交換したいんだい?」
(つづく)

情報
  • 光力術:すべての光霊が生まれつき光力術を使えるわけではない。光力術は「潜在能力」のようなもので、後天的に覚醒させる必要がある。
  • 白夜パン:白夜城兵士に配給される食糧。適量の砂糖と塩が加えられ、光力術で調合されたパン。
  • プレートアーマー:騎士が身に付ける鎧。鎧は教会から支給される。大部分の騎士は思いが防御性の高いプレートアーマーを用いる。機動性を重んじる一部の兵士にはチェーンメイルが支給される。
  • スクトゥム:騎士団員たる身分を表す盾。騎士団員には必ず支給される。兵種の違いによって、形状やサイズがわずかに異なるが、盾面には必ず同じ紋章が刻まれている。

第4冊:白銀の騎士(下)

概要商品との交換の申し出を拒否され、困り果てたミーナは成す術もなく、キャラバンの日よけテントの側に呆然と立ちつくしていた。すると1人の白い鎧を身に付けた男が現れ、彼女を窮地から救ってくれた。彼の名はセリョージャといった。
内容

それが私とセリョージャの出会いだった。彼の白銀色のプレートアーマーが日の光を反射し、目を開けられないほどに眩しい。
この時、セリョージャは30歳を少しすぎたくらいで、キャラバンに雇われ、商人とその財産を守るため、同行しているのだという。兜をとった小麦色の額からは汗が流れ、その下にたっぷりと生やした髭はまるでハリネズミのようだった。笑いかけるセリョージャの髭の中から、きれいに並んだ真っ白な歯が見えた。
セリョージャは、私の酒瓶と「白夜パン」という食べ物を交換したいと言う。スカートの裾をまくり上げ、パンを受けとった私に、セリョージャが白夜パンは白夜城の兵士のために作られた食糧なんだと教えてくれた。
きっと素晴らしいものに違いない!そう思った途端、さっきまでの切羽詰まった気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。
さらにセリョージャは、縛っていた紐から酒瓶を1本外し、手に握った。すると、透明な、ゆらゆらとした熱気が膨張しはじめ、瓶を包みこみ、太陽より熱いのではないかと思うほどの熱を放ち始めた。ガラス瓶は彼の手の中でゆっくりと収縮してゆがみ、さまざまな形に姿を変えていく。
「君はワンちゃんは好きかい?僕は小さい頃、とても犬が好きだった」
セリョージャはそういうと、私に向かって手を広げて見せた。その掌には透き通ったガラスの犬がちょこんと座っていた。
ガラスの犬よりも、先程突然現れた熱気に気をとられた私に気付くと、セリョージャは自分からこう教えてくれた。
「あれはね、光力術というんだ。勉強してみたいかい?」
キャラバンが滞在した3日間、村全体が生気を取り戻したかのようだった。家々から上がる煮炊きの湯気や煙のなかには肉の香りが混じり、子供たちは裸足で道路を駆け回る。老人たちも杖を突きながら、暗い部屋から外へ出てきて、ゴールド・リバーの水さえも、今までのように冷たくは感じなかった。セリョージャはよく村中央の高台に座り、私に光力術を教えてくれた。シフは私の隣で、時には真面目に、時には私に寄りかかって居眠りをしながら聞いていた。
セリョージャは食後に村をぶらぶら散歩するのが好きで、私とシフはいつもその後を付いて歩いた。セリョージャが鎧を脱いだことはほとんどなく、背負った盾と剣をおろしたこともない。私は足を速めて追いつくと、彼の背負っている紋様が施された盾を軽く叩き、これは何かと尋ねた。
「スクトゥムだよ。白夜騎士団の証なんだ」セリョージャは答える。
こうして私は、セリョージャが白夜城騎士団の騎士であることを知ったのだった。
3日後、キャラバンが村を離れ、セリョージャも私たちに別れを告げて去った。
1か月後、私はようやく、こぶし大の水の塊を掌の上に凝縮できるようになった。
この時、私の新しい運命が始まったのだった。

情報
  • 光力術:光力術覚醒の契機となる出来事はさまざまで、誰かの指導のこともあれば、あるいは突然の不幸であることもある。多くの光霊は光力術を使うことなく生涯を過ごすが、日の光はそうした光霊にもあまねく降り注いでいる。
  • 白夜パン:長期間保存が効くだけでなく、味も良く、軽量で持ち歩きに便利である。単に飢えを満たすだけでなく、ちょうどよい甘みと塩分で庶民一般の食事よりも深い味わいが楽しめる。
  • プレートアーマー:特別な身分の騎士は鎧をオーダーメイドすることもある。実戦では、多種多様な鎧を身に付けることも珍しくない。
  • スクトゥム:騎士団に入ったその日に教会によって授けられる。白夜城の騎士は征伐よりも、守護を主な責務としているため、スクトゥムの象徴的意義は他の武器よりも高く、騎士の精神と職務の証となっている。

第5冊:翡翠色のクーリエ(上)

概要セリョージャは村を離れた後も、ミーナに手紙を送り続けた。ミーナは外の世界に際限のない幻想を抱くようになり、とうとう村を離れ、心に描く世界を見に行こうと旅の一歩を踏み出した。
内容

セリョージャが村を去ってから3か月くらい経った頃、私の部屋の窓を叩く人がいた。
「すみません、ここはミーナさんのお家ですか?」
ほっぺたを赤くし、銀色の髪を高くおさげに結んで、後ろにぴょんと垂らした少女の顔が窓に張り付いていた。少女は私を見つけると、オリーブ色の瞳をぱちぱちとさせ、後ろを向いたかと思うと、リュックの中から茶色い皮の表紙の冊子を取り出した。少女の背中には翼が生えている。翡翠色の光沢のある羽は日に照らされ流れるように光を輝かせていた。彼女は私に向かって冊子をもちあげ、尖った爪のある指で冊子に付けた紋章を指さし、一文字一文字読み上げた。
「クーリエ隊。」
私が探していた相手だと確認できると、彼女は防水紙で包んだ小包を突っ込むように私に渡した。そして、そのまま数歩下がって、土を巻きあげながら、翼を力いっぱいに広げ、手を振ったかと思うと、空中でくるりと身を返し、あっという間に視界から消えてしまった。
小包を開くと、セリョージャからの手紙とプレゼントが入っていた。手紙はとても短いものだった。後に読み書きを覚え、彼の書いた文は間違いだらけだったこともわかった。プレゼントは樹脂で六角柱状に固めたタンポポの標本で、細い華奢な茎が白い綿帽子を支えている。随分後になって、そのタンポポが遥か遠くの天空ノ谷で摘んだものだったと知った。
それからというもの、セリョージャは次々と小包を送ってくるようになった。プレゼントはさまざまで、北境のソーセージやベツレヘム女王の木の彫刻、啓光の2つ星のロゴが入った弾丸、笛の音がする光力笛飴、それから奇妙な味のカジカジ油パン、ある時などは暗鬼の目玉まで送ってきたこともある。
一方、小包を届けてくれるクーリエは毎回違った。けれど程度は異なりこそすれ、誰もが例外なく、翼や鹿の角、斑点だらけの豹の足、唇から飛び出して見える牙など亜人族の特徴を持っていた。クーリエがやってくることに慣れてくると、私は彼女たちと話すようになり、セリョージャからの手紙を読んでもらうことさえあった。
クーリエはあの頃の私が最も会いたいと望んでいた人たちだった。
セリョージャからの最後の小包は白夜城から贈られてきた。包みを開けると、中から1枚の手書きの絵が落ちてきて、そこには高く大きな空の下、広いテラスのような場所に立った彼の姿が描かれていた。私はすぐにそこが白夜城だと分かった。セリョージャが前に話してくれたことがある。白夜城は空に浮かんだ島の上にあって、光霊たちはそこで生活し、雲と澄んだ日の光を眺めながら、日々暮らしていると。
その後、二度とセリョージャから手紙がくることはなかった。
(つづく)

情報
  • クーリエ隊:クーリエ隊は100年以上続く郵便配達機関である。メンバーは多くないが、その高い効率と利用者からの良好な評判によって、大陸で広く信用を得ている。
  • 『止まり木』:クーリエ隊の施設。クーリエの休憩所で、宿泊も可能。食料などクーリエが必要とするさまざまな物資を提供している。また、同時に客が郵便物を預ける施設でもある。
  • 配達簿:クーリエの配達行程を記録するノートで、「行程記録」とも呼ばれている。
  • タンポポ:タンポポは天空ノ谷の象徴たる花である。空の末裔がこの花をめでるのは、その純白でふんわりとした姿に、颯爽や自由といった言葉を連想するためである。

第6冊:翡翠色のクーリエ(下)

概要セリョージャは村を離れた後も、ミーナに手紙を送り続けた。ミーナは外の世界に際限のない幻想を抱くようになり、とうとう村を離れ、心に描く世界を見に行こうと旅の一歩を踏み出した。
内容

それから半年たった頃、私はお父さんが酔った隙を見計らい、家を出た。背負ったバッグの中は、わずかな食料以外、全てセリョージャからの手紙とプレゼントで埋め尽くされていた。クーリエたちが以前話してくれたルートに従って、私はクーリエ隊の『止まり木』にたどり着いた。
そこに足を止めていたクーリエの何人かは私のことを知っていた。お父さんの堕落した生活ぶりを利用して話を作り、『止まり木』に泊めてもらえることになった私は、手紙の仕分けなどの雑用を手伝い、その間に読み書きもできるようになった。
そうして私は、よくセリョージャのくれた手紙を取り出しては、何度も読み返した。手紙に書かれた文はめちゃくちゃだったけれど、私には彼の伝えたいことが分かった──セリョージャは自分の足取りについては多くを語らず、幼い頃の経験を語るのが好きだった。白夜城に生まれたものの、若い頃は私と同様、辛く苦しい日々を過ごしていたと。手紙には私に対する慰めが感じられた。今やセリョージャは白夜城の騎士だ。どんなに辛くとも、最後にはきっと立派な存在になれる。そのうち、私も彼に手紙を書くようになり、最後にもらった手紙の封筒の住所に送ったが、返信が届いたことは、結局一度もなかった。
シフがシフのお母さんと一緒に町に来た時、私は2人とばったり出会った。
シフは私の手をぎゅっと握って離さず、しばらく泣き続けた。泣きながらも、少しずつ、どれだけ心配していたかを話し続け、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにするシフに、私は何も言わずに出てきてしまったことを悔いた。けれど、何をどう伝えたらいいか分からず、私はただ彼女の涙を手で拭ってあげることしかできなかった。
最後にシフは自分の袖で鼻水を拭くと低い声で一言、
「見て。」
と言い、目を閉じた。
すると彼女の周りにまぶしい雷光が立ち上り、一瞬で空を切り裂いた。

情報
  • クーリエ隊:クーリエ隊が引き受ける業務は主に各地区を跨ぐ長距離配達である。道路の通っていない危険地帯でも、郵便物を届けてくれる。
  • 『止まり木』:『止まり木』の出入り口にはポストが設けられている。手紙を送るにはポストに投函するだけでよく、『止まり木』に来たクーリエが、中の手紙を回収していく。
  • 配達簿:クーリエはこのノートに配達中の郵便物やすでに配達した郵便物、経由した『止まり木』などの情報を記録する。クーリエにとって最も大切なものである。
  • タンポポ:天空ノ谷にはたくさんのタンポポが生えている。空の末裔のお祭りでは、タンポポを象った装飾品も作られる。

第7冊:碧空の島(上)

概要クーリエ隊に入るという望みは断たれ、待ち望んだセリョージャの手紙も届かない。ミーナはついに生まれ育った土地を離れ、外の世界を自分の目で確かめに行こうと決心した。最初の目的地は、白夜城だ。
内容

私はかつてクーリエ隊に入ろうとしたことがあったが、断られた。
「ミーナはまだ小さすぎる。」
「走るのが速くないでしょ。あなたのせいじゃないんだけどね。ただ…足しかないんじゃ、速く動くのは無理なのよ。」
「クーリエの仕事はとても危険よ、ちょっとした不注意ですぐに怪我するし。」
「暗鬼に出くわしたことはある?私はあるわ。」
「それなのに、給料少ないよね。」
「そうそう、それが一番の問題。」
クーリエの仕事にどんなに不満があろうと、彼女たちは変わらず、毎日ニコニコと楽しそうに配達を続けていた。
クーリエたちが「よし」と言わない限り、私のこの願いは、胸にしまっておくしかない。引き続き手紙の仕分けに励みながら、セリョージャからの手紙が来ないか、待ち続けた。けれどクーリエ隊に入ることも、私宛の手紙を見つけることも、どちらも叶わずじまいだった。
シフが光力術を習得すると、彼女の両親はシフを自由に行動させることも多くなり、シフは一人で町まで私に会いに来るようになった。私たちはよくクーリエたちと『止まり木』の前のナラの木の下に座って、木の実が頭や肩に落ちてくるのも構わず、おしゃべりに熱中した。
私はクーリエから白夜城の話を聞くのが好きだった。特に騎士団について、よく尋ねたけれど、答えはいつもごく簡単なものばかりだった。
「騎士団は威厳のある人たちでね、全員すごい光力術が使えるんだよ。」
「騎士団にいる光霊に手紙を届けたことがあるんだけど、手紙を開ける時の様子は、一般人よりエレガントだったなぁ。」
そう言い終わると、彼女たちは顔を見合わせ、お互いに尋ねる。
「他に何か知らない?」
「実は私も騎士団とはそんなに交流がなくて。」
シフは手を腰にやり、頭を後ろに反らせる。木漏れ日がシフの顔にこぼれた。シフは言った。
「この目で見てみたいなぁ。」
この瞬間だったのだろうか。白夜城だけでなく、天空ノ谷や啓光のシェルター、R・W砂漠、影ノ街、そして秘境も──この目で確かめに行こうと私が結審したのは。
(つづく)

情報
  • 浮空島:浮空島はアストラ平野上空に浮かぶ巨大な島である。遠い昔、はるか遠くの北方で誕生した光霊は過酷な環境と暗鬼の脅威の中で生きていた。アストラへ移住した後、さらに知恵を絞って浮空島へ辿り着いた。
  • フィーダーポート:白夜城ダウンタウンの「フィーダーポート」は白夜城唯一の玄関口である。白夜城との間を行き来する飛空艇は皆、ここに停泊する必要がある。白夜城の出入り検査は非常に厳しく、多くの場合、事前申請が必要である。
  • 影ノ街と浮空島:浮空島に最も近い街である影ノ街は、白夜城と他の地域との中継点の役割を果たしている。
  • 飛空艇:飛空艇は白夜城を行き来する最も主要な交通手段である。製造地の違いによって、飛空艇の見た目や駆動エネルギーも異なる。例えば、啓光連邦製は機械構造にこだわって造られ、熱エネルギーを動力とする。一方、白夜城製は外観がより美しく優雅で、光力を動力とする。

第8冊:碧空の島(下)

概要クーリエ隊に入るという望みは断たれ、待ち望んだセリョージャの手紙も届かない。ミーナはついに生まれ育った土地を離れ、外の世界を自分の目で確かめに行こうと決心した。最初の目的地は、白夜城だ。
内容

もしかしたら、私が故郷を離れたのは、嫌気がさし、逃げ出したかったというだけではなかったのかもしれない。もしかしたら本当は、手を伸ばせばそこにある、生きることの意義をつかむためだったのかもしれない。セリョージャと同じように、私は生まれてからずっと平凡でつまらない生活に耐え続けてきたわけではない。17歳の時、私とシフは旅に出た。私の提案で、最初の目的地は白夜城に決まった。
ゴールド・リバーに沿って、船に揺られること半月、ようやく白夜城付近の海岸に到着した。
「浮空島よ!」
シフは腕を挙げ、宙を指さした。手を顔にかざし、彼女が指さす先を見ると、浮空島はまるでとんがり帽子のように、東の荒野の上に浮かび、白く輝く太陽に輪郭が浮かび上がったその姿は、まるで島全体が光っているかのようだった。
近付けば近づくほど、白夜城の巨大さと威圧感が迫ってくる。白夜城の影の下に入ると、重苦しい寒さが私たちを包んだ。光霊にとって、影はあまりにも暗く、あまりにも冷たすぎた。
フィーダーポートは白夜城に出入りできる唯一の港だ。白夜城に行くには、飛空艇に乗らなければならない。しかし、私とシフは飛空艇に乗る前から、白夜城を離れるよう言われる羽目になった。
「観光客も外交部の審査と許可を受けないと白夜城には入れないのだ!」
シフはあわてて尋ねた。「審査には、どれくらい時間がかかりますか?」
「半月から1か月だろうな。」
持ち合わせの旅費では、シフも私もそんなに長く滞在はできない。飛空艇に乗るだけでも、相当の出費だ。成す術もなく、私たちは引き返すしかなかった。
次の目的地はどこにしようかと相談していると、シフはぷんぷんと怒って「行くなら絶対『審査』の要らない所がいいわ!」と言った。
次の目的地は北境に決まった。
しかし、その北境に行く途中で、私たちは偶然お金も支払わず白夜城に行くチャンスに恵まれたのだった。

情報
  • 浮空島:光霊は古代史に残る帝国中の体制に基づき、貴族を中心とした統治をしき、浮空島を華麗な大型中都市──「白夜城」として築き上げた。
  • フィーダーポート:「フィーダーポート」は全部で4つの区画に分かれ、それぞれ「旅客」、「物流」、「軍事」、「特殊」の流通を担っている。
  • 影ノ街と浮空島:影ノ街には白夜城に出入りする飛空艇の港が設けられ、その港は白夜城が直接管理している。ほとんどの場合、浮空島に入るには影ノ街を経由しなければならない。
  • 飛空艇:影ノ街と白夜城の港には大衆が利用できる公共の飛空艇が出入りしている。一部少数の貴族は個人の飛空艇を使用している。

第9冊:白夜の城(上)

概要白夜城に入城できなかったミーナだったが、あることがきっかけでお金も払わず、白夜城に行くことができた。白夜城では、セリョージャの家を尋ね回ったが、得られた答えは、なんとも信じがたい情報ばかりだった。
内容

白夜城から北に100㎞ほど行ったところで、私たちは怪我をしたクーリエに出会った。彼女は白夜城に行く途中、暗鬼に遭遇したのだ。暗潮の危機の後、大陸には暗鬼が徘徊するようになっていた。怪我をしたクーリエは1頭のシカに覆いかぶさるように乗り、翼と足は血だらけだった。真っ赤な血がシカの毛や肌を伝わって、地面にぽたぽたと落ちていた。
私とシフは彼女を近くの『止まり木』に連れて行った。そこにいたクーリエが光力術で傷口を治したのだが、彼女はお礼として私たちに数日泊っていったらどうかと提案した。そして、私たちは彼女に白夜城に入れなかったことを話したのだった。
「私たちはね、白夜城に出入りする特別許可をもらっているの。門衛に身分証明を見せれば、入れるわ。」
そう言うと彼女は冊子を取り出した──それは故郷近くの『止まり木』で何度となく見たクーリエが自分たちの行程を記録するためのノート──なめらかな線で描かれた羽ペンの紋章の飾りを2つ付けたノートだった。
彼女は紋章を外し、1人1つずつ、私とシフの服の襟元に掛けてくれた。「これがあれば、止められずに白夜城へ出入りできるわ──ただ、私が貸してあげたってこと、他の人には絶対言っちゃダメよ。」
私とシフは白夜城に向かうクーリエに付いて、クーリエ隊専用の飛空艇に乗った。
地面が徐々に遠くなっていく。私はポケットの中でひそかに、ある手紙をしっかりと握りしめた。セリョージャが最後に送ってきてくれたものだ。
(つづく)

情報
  • クーリエのバッジ:「羽ペン」の模様が施されたバッジ。クーリエ隊員たる証明であり、非常に大切なものである。通常、「配達簿」に付けられている。
  • 白夜城ダウンタウン:ダウンタウンは手工業と農業の集積地であり、居住面積は小さい。そのため、人口密度が非常に高くなっている。
  • フィーダーポート内部:フィーダーポート内は白夜城で商業色が最も濃い場所である。飛空艇を持つ多くの商人や貴族が集まる他、懐具合のよい旅行客も集まってくる。
  • 白夜城の商品:白夜城でよく見られる商品には贅沢品が多い。様々な装飾用の金銀宝石や珍しい皮革製品などがある。

第10冊:白夜の城(下)

概要白夜城に入城できなかったミーナだったが、あることがきっかけでお金も払わず、白夜城に行くことができた。白夜城では、セリョージャの家を尋ね回ったが、得られた答えは、なんとも信じがたい情報ばかりだった。
内容

フィーダーポートがあるのは白夜城ダウンタウンだ。この地は高潔な白夜城で最も乱れ、最も騒がしく、最も危険なところだと言われている。けれど初めてこの街の様子を目にした時、私は皆が言葉を間違って使っていると思った──ダウンタウンは白夜城で最も賑やかで、刺激的で、活気に満ちた所だ。
フィーダーポート内で、まず目に入ってくるのはさまざまな酒場やカフェ、宝石店だ。辺りの空気には、香料や麦酒、カカオのいい香りが漂っていて、シフはくしゃみをしてしまったほどだ。光霊たちは腕を組みながら歩き、辺り一帯の石畳の道にヒールの音が高く響いていた。店の前に立つ店員たちは、鮮やかな服を身に付け、優雅な立ち振る舞いで客引きをする。その指の間に揺れるハンカチが、行き交う人々に濃厚な香りを届けている。
ここがセリョージャの故郷だ。
シフがショーウィンドウに顔をべったりとつけ、木のマネキンがつけているバロック式ネックレスを見開いた目でじっと眺めている間、私は階段に座って麦酒を飲んでいる光霊にセリョージャの手紙に書かれていた住所がどこか尋ねた。
「ああ、それは貧民窟だね。」ほろ酔いの光霊は、口髭に円状の白い泡を一回り付けたままそう答える。彼は視線を上げ、私の様子をうかがい、「お嬢ちゃん、あんなところに何しにいくんだい?」と尋ねた。
私は、手紙の送り主は、騎士だと答えた。
「騎士?」光霊は首を振りながら笑い、「あんなひどい所から騎士なんて出やしないよ」と言った。
私は、自分の顔が一瞬でこわばったのが分かった。しばらくしてから、不安な気持ちを抑え、私は反論した。「彼はスクトゥムを持っていたわ。騎士団だけが持っている装備なんでしょ?」
「スクトゥム?」光霊はそうつぶやく。私はまた否定的な言葉が続くのかと恐れていたが、「それは確かに騎士団の装備だね。お嬢ちゃん、その人にはどこで会ったんだい?」
心の中では、私もこの会話は続けないほうがいいとうすうす感じていた。しかし、相手の傲慢な態度を嫌悪した私は、セリョージャがどんな格好をしていたか、いかにしてキャラバンの安全を守っていたか、またどうやって光力術を見せてくれたか、などといったことも、すべて話して聞かせた。
「キャラバンの護衛だって?」男は突然大声で笑い出し、こう言った。「自分の身分を貶めて、キャラバンの護衛をするような奴は、騎士にはいないね。」

情報
  • クーリエのバッジ:『止まり木』の倉庫内には予備が備えられている。不注意で失くしてしまったクーリエのための予備である。
  • 白夜城ダウンタウン:白夜城のダウンタウンには下級貴族が住んでいる。その中には大貴族や中級貴族に仕える者たちも混じっていて、アップタウンやミッドタウンに比べると、都市と農村が混在した街になっている。
  • フィーダーポート内部:商売感覚に鋭い商人は、フィーダーポート内の商機に早くから目を付け、贅沢品や各地の特産品などを販売している。
  • 白夜城の商品:よく見られる商品の他にも、様々な地域でとれた香辛料など、珍しい舶来品も人気である。

第11冊:分かたれし袂(上)

概要セリョージャを尋ね歩くミーナを信じがたい情報が次から次へと襲う。それでも、セリョージャを追い続け、ようやく彼を見つけることができたが、目の前にいた男はまったく別人のようだった。
内容

どうやってフィーダーポートを離れたのか、もう覚えていない。気が付いた時には、シフの腕をつかんでいた私の手を彼女が叩き、顔をゆがめながら、「ミーナ、痛いってば!」と叫んでいた。
「あっ、ごめん。」私は急いで手を放した。
シフは腕をさすりながら、山の上に規則正しく並ぶ白壁の家々を眺め、「こっちで本当に合ってるの?」と尋ねた。
数歩先には標識が立っている。近づいて見ると、やはりセリョージャが封筒に記していた住所で間違いなかった。
道と家屋が入り組んで並び、私たちは迷ってしまった。道の両側にある家の壁には靴跡やら、落書きやらが、大量に残っている。足元の道も石畳ではなく、でこぼことした土の道だ。物陰からは、見知らぬ、警戒の視線が私たちに向けられている。
シフは私の腕を引き、「誰かに聞けばいいんじゃないの?」と言った。
私は不安だった。誰かに聞いてしまったら、秘密がすべて明らかになってしまう気がした。
けれど、シフはそんなことはお構いなしだ。人の好さそうな大柄の婦人を見つけ、近づいていくと、セリョージャという人物を知らないか尋ねた。
「あんたたち、あのろくでなしに何の用があるんだい?」そう言うと夫人は口元をゆがめ、しわのある顔に蔑みをたっぷりと浮かべ、「あんたたち、代わりに借金でも返してくれるのかい?だったら、教えてやるよ」と続けた。
シフは訳もわからず、「まさかこの近くに同じ名前の人がいるの?」とでも思ったのか、婦人に再び熱心にセリョージャの外見を描写してみせた。
「お嬢さん、1つ言い忘れてるよ。」家の角に座っていた流浪者がその汚れた指を立て、何本か抜けて隙間だらけの黄色い歯を見せながら、「もう1つ──使い物にならない左足ってのを追加しないとね。」と言った。
私はシフの手を引き、そこから立ち去った。
更にしばらく先へ進んだところで、道端にいた光霊にセリョージャのことを尋ねた。誰の言うこともほとんど同じだった。セリョージャは賭博で借金を作り、白夜城騎士団の装備を売ったが、見つかり、兵士と争いになって、足に障害を負ったと…
「いつか酒に酔って、いいもん拾った、なんて言ってたな。どんなものかと思ったら、騎士団のスクトゥムとプレートアーマーだってよ!そんなの、自分から面倒を引き寄せるようなもんじゃないか!」
「若い時、騎士団に憧れてたようだぜ。騎士団は条件が厳しいからな、あいつじゃ到底無理だったんだよ!」

「坂を下りると、突き当りに酒場がある。そこでよく奴を見かけるよ。」
ようやくセリョージャの居場所を教えてくれる人があらわれた。
(つづく)

情報
  • 白夜城騎士団の職責:騎士団は白夜城に所属する戦闘組織。上級暗鬼に対抗することと、古代文明の遺跡探索を主な目的として設立された。
  • 白夜城ダウンタウンの貧民窟:貧民窟は白夜城が最も他人に知られたくない一面である。石造りの建物はほぼ廃墟と化し、街は清掃する人もおらず、病的に暗い灰色の様相を呈している。住民たちも辛うじて肌を隠せる程度の服しか身に付けていない。
  • 護衛隊:白夜城近衛軍の俗称。白夜城の治安維持とソルラド家の警護を責としている。
  • 白夜城平民の生活:ダウンタウンは白夜城の平民たちが集まる場所である。仕事以外にも、近くの酒場やカフェ、劇場などへ足を運び、過ごしている。

第12冊:分かたれし袂(下)

概要セリョージャを尋ね歩くミーナを信じがたい情報が次から次へと襲う。それでも、セリョージャを追い続け、ようやく彼を見つけることができたが、目の前にいた男はまったく別人のようだった。
内容

シフが私に尋ねた。「行くの?」
私は顔をこわばらせながら、うなずき、「もしかしたら、人違いかもしれない」と言った。
坂を下っていくと、みずぼらしい酒場が見えてきた。背丈も腰にぶら下げた道具も異なる数人の男たちが腕まくりをした姿で酒場の壁に寄りかかり、木のコップに入った麦酒を片手に大きな声でおしゃべりをしていた。
壁に寄りかかってあぐらをかいたボロボロの服の男は、褐色の髪をくねくねと丸めて頭のてっぺんでまとめ、髭で顔の半分を覆っていた。男は手をついて体を前に乗り出すと、別の男に向かって笑いながら「おい、ウェイブ、少し酒を分けてくれ!」と言った。
黒髪の恰幅のいい男は、褐色の髪の男を足蹴にすると、あざけり笑いながら言う。
「満足に歩けもしねぇくせに、まだ酒を飲む気か?」
褐色の髪の男は叫び声をあげ、すでに感覚の無くなった足を両手で動かしながら、再び壁に寄りかかって座った。けれど、その汚れた顔に浮かんだ笑みは消えることなく、乾いた唇を舌で舐めると、他の男たちが持っている酒をじっと凝視している。
シフが私に尋ねた。「セリョージャはいる?どんな顔だったか、私はもう忘れちゃったわ。」
私にはわかった。
けれど、言葉が出なかった。
太陽が頭の上で太鼓でも叩きながら近づいてくるかのように思えた。まるで私の体の中に蓄積されたゴールド・リバーの生臭い川の水が膨張し、どんどんと水位を上げ、口や鼻、さらには私の目まで水没させようとしているかのようだった。
「ううん」私はそう答え、「やっぱり、また今度…」と言葉を続けようとした。だが、喉元でつかえた。続きを言ってしまえば、それは全部嘘になる。けれどシフは、私がセリョージャ探しをあきらめたと察して、喜んで私の手を取って引き返した。そしてフィーダーポートでみた数々の珍しい物について語り始めた…
こうして、私たちはその日のうちに白夜城を離れた。
その後、私が再びあの空に浮かぶ地に足を踏み入れることはなかった。

情報
  • 白夜城騎士団の職責:騎士団も通常時は治安維持を職務としている。
  • 白夜城ダウンタウンの貧民窟:貧民窟は混乱とまではいかずとも、治安は非常に悪い。日の光はこの世を隅々まであまねく照らすが、この場所だけは薄暗闇の中、朽ちていく運命だ。
  • 護衛隊:現在、白夜城の近衛軍はいくつかの部隊に分かれ、それぞれの地域を担当している。例えば、アップタウンの守護を担う近衛軍は「アップタウン護衛隊」と呼ばれているが、今は主に治安維持を担い、単に「護衛隊」とも呼ばれるようになった。
  • 白夜城平民の生活:多くの人は貴族を超えようといった大きな抱負も持たずに暮らし、享楽主義が横行している。

銀世界の歌 12冊

説明北境に伝わる物語だが、真偽は誰も知らない。北境をさすらう吟遊詩人により物語集の中に組みこまれた。1人の来歴不明のブロンドの光霊と両親を失った2人の子どもが北境の村で出会い、互いを受け入れ、助け居合ながら深い友情を育んでいく物語である。また、この物語を通して、北境の光霊の日常生活をうかがい知ることもできる。
情報
  • 北境の書籍:北境では、知識は口述、或いは彫刻、結繩、木簡などで伝えられるため、書籍は少ない。その数少ない書籍も羊皮紙に書かれたものである。
  • 家具調度品:北境には「シンプル」を基調としたスタイルの調度品がある。華やかな装飾は施さず、室内の構造や調度品の配置をうまく工夫することによって、独特の美しさが作り上げられている。
  • 音楽:北境の音楽は主に子供たちが楽しむものである。軽快で、おとぎ話に相応しい曲調を特徴とする。
  • 北境の軍事:北境に常備軍はない。地理的に辺境であるため、アストラ大陸の他の地域のことにも関与しない。そのため、各地に自発的に設立された防衛を目的とする民兵が存在するのみであり、その数も1000人に満たない。

第1冊:ドロシー姉弟

概要ドロシー姉弟は北境の村に住んでいる。両親を早くに亡くした2人は、村人の雑用を手伝って食べ物をもらっていた。村の長老は2人が新しい家族に引き取られることを望んだが、姉のドロシーはそれを断る。
情報

村の入り口には2つの石柱がある。山から切り出した岩石を組み上げて、それを何層にも重ねて造ったものだ。松の木が一本、その上に渡されていて、石柱と共に門を形作り、寂しげにたたずんでいる。松の木には枝がまだ残っていて、そこに結ばれた五色の色とりどりの布が冷たい風に吹かれ、バタバタと音を立てていた。遠方から訪れる旅人たちが、視線のはるか向こうにこの門を見れば、この先に足を休める村があると分かるだろう。この石柱にはよく村の子供たちが登り、足を組石の隙間に引っ掛け、色とりどりの布が結ばれた松の枝につかまりながら、身を乗り出して道の先を見つめていた。しかし、この日は酷く冷え込んだせいで、石柱に氷が張り、数人の子供が落ちて怪我をしてしまったため、とうとう長老が禁止令を出していた。
昨夜の内に雪がうず高く積もっており、屋外に出れば膝まで雪に埋まってしまう。長老はドロシーとクルスを呼ぶと、1本ずつスコップを手渡し、他の村人と一緒に雪かきに行くよう言いつけた。村人の中には光力術を使える者もいて、彼らが大半の雪を村の近くにある森にどけてくれていた。ドロシーも光力術を使えたのだが、雪かきには向いていない。ドロシーと弟のクルスは村人たちの後について、スコップで道の上の雪や氷を綺麗に掻きとった。スコップを長老に返した時にはもう夕方になっていて、長老はいつものようにたくさんのニシンの缶詰をくれた。
それから家にまだどのくらい食べ物が残っているのかと尋ねて、最後にクルスの手にグミを一掴み握らせた。クルスはグミをポケットに入れたが、1つまた1つとグミがポケットの空いた穴から落ちてしまった。クルスは恥ずかしそうにポケットを手で押さえ、ドロシーは弟の替わりにグミを拾った。すると長老が、村の東南の隅に住んでいる夫婦のことを話しだした。
「あのご夫婦は子供を欲しがっていてね。お前たちはまだ幼いというのに、面倒を見てくれる大人もいない。家族になってみてはどうかな」
ドロシーは長老の言葉には答えず、弟のポケットに空いた穴を掴んで塞ぎながら、小さな声で言った。「今度また穴が開いたら、お姉ちゃんに言うのよ。繕うことぐらいできるわ」
長老は溜息を吐くと、2人に早く帰るよう手で促した。ドロシー姉弟はもう一度長老にお礼を言い、手を繋いでゆっくりと言えへと向かった。

情報
  • 長老:村は領主や徳の高い年長者、或いは村人たちが共同で治めている。しかし、重大な事柄については、どの村も北境王家の決定に従わなければならない。
  • ニシンの缶詰:北境特産の長期保存食で、地元の人々には大変な人気。しかし、他の地域の人たちにとっては、その味は少々「濃すぎる」とか。
  • グミ:北境では果汁をたっぷり含んだ野生の果実が数多く採れる。それらの果実を使って作られたグミは、子供たちの大好きなお菓子である。
  • サメの発酵肉:北境で獲れるサメの肉は発酵させなければ食べられない。北境のサメは寒冷な水域に生息できるよう変異を遂げている。

第2冊:ブロンドの光霊

概要帰宅途中、ドロシー姉弟は雪原に倒れていた光霊を助ける。その光霊は村に住むことになったのだが、深夜の吹雪で家が倒壊し、再びドロシーたちに助けを求めてきた。
内容

帰り道、また雪が降り始めた。辺りはすっかり暗くなり、村にはぽつぽつと黄色い灯が点っている。家が近くなると、クルスが走り出した。しかし、思いがけず何かに躓き、俯いて下を見てみると、雪の中に何か黒い影が横たわっていた。
弟の叫び声を聞き、ドロシーが急いで駆け付けると、その黒い影は咳き込みながら、何とか立ち上がろうとしているようだった。目を凝らすと、黒い影の正体は見知らぬ光霊だった。ドロシーは弟にもう片方の肩を支えるように言い、2人で光霊を助け起こした。ちょうど近くの道端に焚火用の草や薪を保管している茅葺の建物があったので、2人は光霊をそこの軒下まで連れて言った。光霊は掠れた声でお礼を言うと、そのまま壁に寄りかかり、声も出さなくなった。近くのランプの明かりに照らされた光霊の帽子の下からは、乾き切ったブロンドの髪が覗いていて、呼吸に合わせるように揺れているのが見えた。
見知らぬ光霊を助けたことは大した事件とも思わず、ドロシーとクルスはすぐにそのことを忘れてしまった。しかし、次の日異郷の者が村に住み着いているという知らせが村中に伝わり、ドロシー姉弟が雪掻きに出かける頃には、長年ボロボロのまま放置されていた隣の古い家のドアや窓がきちんと閉まり、煙突からは煙が一筋寒々しい青空に向かってのぼっていた。
クルスは古い家の屋根に空いた、甕の口ほど大きな穴を指しながら、姉に聞いた。「こんな家に住めるの?」
ドロシーは弟の襟の後ろを引っ張り、古い家の前から立ち去った。
この日の夜も、相変わらず強い風と雪が続いた。姉と弟は布団に包まり、森中に響く鋭い風の音とぱちぱちという破裂音の中、眠りに就いた。すると突然、扉の向こう側で大きな音がしたかと思うと、その後すぐにガラガラという音が一頻り続いた。どうやら何かが倒壊したようだ。クルスはまだ夢心地のまま、ぶるっと身を震わせただけだったが、一方のドロシーはハッと目を覚まし、驚いて顔を上げ、警戒しながら辺りを眺めた。
ドアの外はすぐに静寂を取り戻し、窓の隙間から漏れる唸るような風の音しか聞こえなくなった。ドロシーは目を擦ると、再び横になり眠り始めた。ぼんやりした意識のまま、一体どのくらい眠っただろうか。再び目を覚ました時には、トントンと木のドアをノックする音が聞こえてきた。弟を起こさないように気を付けながら、そうっと掛け布団を捲り、床に足を下ろして、ランプに火を灯すと、窓辺に向かった。そして、ほんの少しだけ窓を開けて外の様子を窺った。ドアの向こうには背中を丸めた影が一枚の薄い毛布を羽織り、カールしたブロンドの髪を風に靡かせながら、じっと立っていた。
ドロシーは一目で誰か分かった。しかしドアを開けようとはせず、ただランプを持ち上げて、顔を外の冷たい空気の中に晒し、「どうかしましたか?」とだけ尋ねた。
ブロンドの髪の光霊は古い家の方向を指しながら「私の家が崩れてしまったの──一晩だけ泊めてもらってもいいですか?」と言った。
ドロシーは暗闇を見つめながら、しばらく迷っていた。それから「長老のところに行った方がいいと思います」と告げた。
光霊は頷くと、毛布をぎゅっときつく体に巻き付け、向きを変えて立ち去った。ドロシーはその時初めて、この光霊が裸足のまま、雪の上に足跡を残しながら、歩いていくのを見た。しばらく歯を食いしばりながら躊躇った後、ドロシーはようやく走っていってドアを開け、声を抑えながら、立ち去っていく光霊を「あの…やっぱり、中にどうぞ!」と呼び止めた。

情報
  • 茅葺小屋:穀物や木材を保管しておくための建物。造りは粗末だが、耐風性能に優れている。
  • 北境の人口流動:北境の若者の多くは、一度はこの遅れた、寒冷な気候の地を離れ、外の世界で生きることを選ぶ。しかし、他のものには代えられない北境の魅力が、そうした若者たちを帰路に向かわせる。北境と外の世界を繋ぐ道には、いつもそうした帰還者の姿が見られる。
  • 北境特有の気候:北境の大部分は一年中解けることのない氷と雪に覆われている。ごくわずかに穏やかな気候の場所もあり、白銀の大地に一筋の初春の色を添えている。
  • 北境の雪山:北境は大陸最高峰を誇る山脈「世界の尾根」に隣接している。この雪山を越えると、そこは「極夜の地」であるという伝説がある。しかし、山の中には数多くの危険が潜んでいると知っている北境の民が「世界の尾根」の奥深くに足を踏み入れることはほとんどない。

第3冊:家が倒れて

概要長老の助けもあって、見知らぬブロンドの光霊──マーサはドロシー姉弟の家に住むことになった。一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、3人の関係も徐々に親密になっていく。
内容

その光霊の名は「マーサ」といった。マーサは毛布に包まり、壁の暖炉の側で一晩眠った。夜が明け、ドロシーとクルスが外に様子を見に行くと、あの古い家は倒れて、もう半分しか原型を留めていなかった。屋根は完全に剥がれてしまい、梁や柱もあちらこちらに傾いて、組石が辺り一面に散らばっていた。
マーサは壊れた家の中を探って、まずはブーツを引っ張りだした。それから中の雪と木くずを綺麗に出してブーツを履くと、今度は折れた梁をどけて、中から黒い布のリュックを引っ張り出した。
「食べる?チョコレートよ」マーサはそう言いながら、中からホイルで包んだチョコレートを取り出した。クルスが手を伸ばしてもらおうとすると、ドロシーが止めた。マーサはそれを気にする様子もなく、チョコレートをリュックの中にしまうと、今度は真空パックのパンを取り出し、雪と一緒に口に放り込み、パクパクと食べ始めた。
マーサは廃墟となった家の上に座り、パンを食べながら、倒壊した家を眺めていた。それから、まるで誰かに約束するかのように「できるだけ早く修復するから」と言った。
ドロシーは頷き、弟を連れてその場から立ち去った。
長老がこのことを聞きつけ、ドロシーにマーサをしばらく泊めてやってはどうか、家が修復できたら、出て行ってもらえばいいと言った。ドロシーは気が進まなかったが、長老からサメの発酵肉の大きな塊をもらって、断るわけにもいかなくなった。一方のマーサは長老の家から馬を1頭借り、毎日森の中から石や木材を運んできては、倒れた古い家の裏に積み上げていった。昼間はほとんどマーサの姿を見かけることはなく、お昼と夜だけ、台所で料理したり、暖炉の側で寝ている様子が見られるだけだった。
最初の頃、マーサはドロシーたちと一緒に食事をしなかった。彼女は暖炉の前であぐらをかき、ぼうっとしながら、おがくずパンをただ黙々と食べていた。焼いた肉や魚のスープが付いている時もあった。ドロシーもどちらが先に始めたのか忘れてしまったが、マーサが新鮮な兎の肉をドロシーに分けてくれたり、クルスがマーサと一緒になって暖炉の前であぐらをかき、グミやチョコレートを食べたりするようになり、最終的には結局、同じテーブルを囲み、同じ食事をするようになった。

情報
  • 北境の建材:北境では、古来からの材料が未だに建材とされ、簡単な加工のみが施された原石や木が使われている。しかし、だからといって北境の家屋が粗末だというわけではなく、自然との調和を重んじる建築理念は、ある種の純朴な美しさを備えている。
  • 北境の建築様式:北境の一般的な建築物は直線的なシルエットを持ち、族柱が高く伸びている。ドーム屋根の高さや幅の制限はなく、大きく高い建物が特徴的である。
  • 北境の建築工程:通常、木材は馬車で運ばれる。また、作業工程では、光力術が補助的に使われることもある──例えば、氷で構造体を造ったり、光力で石材を切り出したりなどである。
  • 北境の地理地形:北境は森に囲まれており、広大な森は天然の障壁であると同時に、取り尽くせないほどの天然資源の恵みをもたらしている。

第4冊:無料の塩

概要マーサは料理に熱心で、よりおいしいものを作るため、自分で塩を手に入れた。マーサから塩の作り方を聞いたドロシーは、自分でも試してみたいと思い始める。
内容

それからというもの、マーサは村の側の森で一日中過ごすことはなくなり、料理に時間を割くようになった。マーサはニシンの缶詰やサメ肉を冷たいまま食べるのを好まなかったため、ドロシー姉弟の食卓には野菜スープやとろみをつけた魚のスープ、肉の串焼きやマッシュポテトなどが並ぶようになった。ドロシーは最初、マーサが料理することを快くは思っていなかった。というのも、それではマーサが客人らしくなくなるからだ。しかし、ドロシーの下手な料理よりも、クルスは明らかにマーサの作った食事の方を気に入っていたので、ドロシーはマーサの側で出来るだけ食材を洗ったり、分けたりするのを手伝い、密かに料理のレシピや手順を覚えていくしかなかった。
マーサの料理にかける野心は、単に空腹を満たすことだけに留まらなかった。お玉でスープを取って口に含み、じっくりと味見をすると「少しだけ塩を入れた方がいいかも」と言った。
「塩?」ドロシーはしばらく考えて、ようやくあの雪の粒のような調味料を思い出した。そして言った。「でも、そんなの中々手に入らないよ」
マーサはそれを聞くと、何か思うところがあるように頷いた。
次の日、ドロシーが長老の雑用の手伝いを済ませて家に戻ると、クルスが袖を引っ張り、嬉しそうに飛び跳ねながら、台所に連れて行った。それから、隅に置かれた小さな麻の袋を指差し、大声でドロシーに「塩だよ!」と言った。
ドロシーは身を屈め、人差し指で真っ白な細かい粒を少量とり、口の中に入れた。すると、塩味が舌一杯に広がった。
「これ、どうしたの?」
「マーサだよ。マーサが持って帰ってきたの!」クルスはドロシーの後ろを指差した。そこには、イノシシのモモ肉を手にしたマーサがまさに台所へ向かて歩いてきていた。
ドロシーは慌ててマーサに聞いた。「この塩…高かったんでしょ?」
マーサはしばらく黙っていたが、その後ようやく口を開き「買ったんじゃないの」と言った。
「だったら、どうやって手に入れたの?」
マーサが笑って答える。「近くの塩湖よ」
ドロシー姉弟の質問攻めに遭い、マーサは塩を入手した経緯を詳しく話して聞かせるしかなかった。マーサは少し前に狩りをしていた時、獲物を追っていった先で塩湖を見つけたらしい。そこで、その湖の水を汲み取り、湖畔で凍らせ、氷が張らなかった部分の水を家に持ち帰って火にかけ塩分を摂り出した。その後、何度も濾して、食用の塩にした…ドロシーとクルスは夢中になってマーサの話に聞き入り、マーサが豚肉を塩漬けにしている時でさえ、マーサに付き纏い、あれやこれやと質問した。
「マーサは何でそんなにたくさんのことを知っているの?」ドロシーはマーサを真似て塩を豚肉に揉み込みまがら尋ねた。
「知ろうと思えば、これぐらいは簡単よ」マーサは質問とは少し違う返事をした。ドロシーは心の中で密かに頷いて言った。そう、確かに簡単なことだ、と。

情報
  • おがくずパン:大戦時、非常用に緊急開発された食糧だったが、今でも食べ続けられている。奇妙な味だが、高い満足感を得られ、必要な栄養も摂取できる。おがくずのような食べられる異物が入っているのではないかと疑う者も多く、啓光連邦で専ら「おがくずパン」と呼ばれるようになった。
  • チョコレート:寒冷地の人々は甘い物好きである。濃厚な深い甘みと香りの楽しめるチョコレートは北境では舶来品であり、流通量が少ない。
  • 北境の家畜:北境の民は、シカや羊、家禽などの性格の穏やかな動物を飼育している。食卓にはヒグマやイノシシなど荒々しい野獣も並ぶことがあるが、こうした食材は、猟師の手によるものである。
  • 北境の漁業:北境の沿海地域では海洋漁業が行われ、内陸地域では河川や湖での内水面漁業が盛んである。しかし、北境の光霊が鏡湖で漁を行うことはない。鏡湖には様々な伝説があり、全ての民によって聖地と崇められているからだ。

第5冊:帰らぬ姉

概要マーサはドロシー姉弟のために夕飯を作りながら、弟のクルスとおしゃべりをしていた。弟の話から、ドロシーの抱える心のわだかまりを知ったマーサだったが、それよりも重要な事があった──日もすっかり暮れたというのに、ドロシーがまだ帰ってこないのだ。
情報

その日もまたいつもと同じ1日だった。長老は雪掻きの他に、新しい仕事をドロシーに与えた。それは、村の羊たちを森の中に連れて行き、草を食べさせることだった。一方、マーサは新しい木材と石を運んでくると、家に戻り、夕飯の支度を始めた。クルスは窓に張り付いて、頭をもたげ、隣の古い家の氷で出来た構造体を見ると、大声で台所のマーサに尋ねた。
「マーサ、引っ越すの?」
「あと1、2週間はかかるわ」マーサは人参を一枚一枚削って、鍋の中に入れながら答えた。
クルスは台所に駆け込むと、マーサの近くに座り、頬杖をついてしばらく静かに座っていた。それからようやく口を開いて、「でも僕、マーサに引っ越してほしくないな」と言った。そして少し間を置いてから、一言付け足した。「お姉ちゃんには言わないでね」
「どうしてお姉ちゃんに言っちゃいけないの?」マーサがお玉でスープをかき混ぜながら聞いた。
「お姉ちゃんが言ってたんだ。大人に頼っちゃいけないって…大人は結局、いつかは僕たちを見捨てるからって」
お玉は音もなくスープをかき混ぜている。時折鍋に当たって、カチンと音を立てた。
「大人にはね、やることがたくさんあるんだって。そして、その内の一つは必ず、僕たちの面倒を見るよりもずっと大切なことなんだ。お姉ちゃんがそう教えてくれたんだよ」クルスが目線を下に向けながら言った。暖炉の火に温められ、頬が赤く染まっている。「でも、マーサはきっと、僕たちを見捨てたりしないよね」
「あなたたち…」マーサは何か尋ねようとしたが、結局はそのまま言葉を吞み込んだ。そして辺りを見回し、「ドロシーはどうしてまだ帰ってこないの?」と聞いた。
クルスも顔を上げ、窓の外を見た。空はもう暗くなり、闇が家の中にまで徐々に迫ってきている。雪の粒がパタパタと音を立てて窓硝子にぶつかり、冷たい風は益々強くなるばかりだ。
クルスもこの時になってようやく慌てだし、「お姉ちゃん…どうしてまだ帰ってこないんだろう?」と呟いた。

情報
  • 食塩:北境で使われる食塩は通常、海塩である。村人自らが製塩し、余ったものは物々交換で取引される。しかし、北境の食塩使用量は全体としては多くない。一部の沿海地域で海鮮を食することによって塩分を摂取できるためである。
  • 食塩の流通:北境の食塩流通量は少ない。沿海部の人々は、簡単に食塩を入手できるが、海で獲れた食材はそれだけで十分に味わい深く、食塩を調理に使うことは好まれない。内陸部には食塩の需要があるが、北境の商品流通は発達しておらず、遥々海辺に出向いてようやく食塩を手に入れることができる。
  • 塩湖:北境には大きな塩湖がいくつか分布している。学者たちの説では、それらの湖は、古代の大陸移動の中で取り残された「海」であるという。
  • オオカミ:北境に住む恐ろしい捕食者である。群れで生活する習性があり、その頭たるオオカミは、野獣を遥かに超えた知恵の持ち主のようである。

第6冊:吹雪の足止め

概要マーサの話の通りに進んでいくと、ドロシーは塩湖にたどり着いた。しかし、猛吹雪に見舞われ、家に帰れなくなってしまった。吹雪を切り抜けたドロシーだったが、不運にもお腹を空かせたオオカミに遭遇してしまう。
内容

狂ったような風に足を取られ、思うように進めない。ドロシーは体を震わせながら雪原を進んでいた。雪が顔に吹き付け、前方が見えない。ドロシーは、今日自分が下したありとあらゆる選択を悔やんでいた:羊を村に戻してから、すぐに帰宅していれば、今頃は暖炉の前でうたたねでもしていただろう。途中で道程が遠いことに気付いていれば、もう少し早めに折り返すことも出来た。湖を見つけた後、湖畔で氷が張るのを待っていないで、空を見上げて天候を窺うべきだった…気付いた時には、風と雪はすでに音を立てて渦を巻き、おまけに日も暮れ始めていた。周りの様子を眺め、ドロシーは最悪の事態を予想した。この凍てつく雪原で一晩過ごさなければならないかもしれない。
そんな風に考えながら、ドロシーは手探りで岩石の山に近付き、吹雪を避けられる場所を探した。幸運にも、2つの岩石が浅いアーチ型の洞穴のような空間を作っていて、ドロシーが中に座ってみるとちょうどすっぽりと収まった。ドロシーは頭を岩石にもたせかけ、ゆっくりと一息ついた。
思わず弟のクルスのことを考えた──慌てて泣き出してやいないだろうか?吹雪の中、長老を尋ねたりしてはいないだろうか?このような悪天候では、自分が行方不明になったと聞いても長老が捜索の人を寄越すか分からない。マーサは自分が帰らないのを心配しているだろうか?それとも、暖炉の側で何事もなかったかのようにぼうっとしているのだろうか?
ドロシーには分かっていた。ドロシーがマーサを受け入れ、マーサを居候のお隣さんとしてではなく、自分たちの家族として受け入れてほしいとクルスは望んでいる。しかし、自分たちはマーサが一体どこからやって来たのかも知らないのだ。彼女の過去は真っ白なままで、しかも彼女は自分たちに過去を話そうとしたこともない。
ドロシーは暖炉の前にいるマーサの姿を思い出していた。項垂れ、ブロンドの髪を頬の辺りまで垂らし、穏やかに、そして、とても疲れた、いや、ほとほと疲れ切ったという様子で呆然としている。ドロシーは食卓を囲む時くらいしかマーサの笑顔を見たことがない。束の間ながら過去を忘れ、やっとのことで零れ落ちる楽しそうな笑顔だ。ドロシーはそんな彼女が良き「家族」になれるとは思えなかった。マーサは秘密を背負ってやってきて、その秘密のために自分たちから離れていくに決まっている。ドロシーは、もう十分すぎるほど色々なものを失ってきたのだ。
幸い、マーサの家の修復はもうすぐ終わる。
考え事をして、ふと気が付いた時には、もう吹雪が止んでいるようだった。ドロシーは痺れた足を揉み解し、洞窟の中から外に出ると、暗闇の中、懸命に道を探した。すると突然、微かな声が聞こえたので、声のした方向に視線を遣った。その瞬間、ドロシーは全身の血液が全て凍り付いたかのように感じた──暗闇の中、微かな緑色の光がこちらに向かって集まって来ていたのだ。
徐々に弱まる風の中、ドロシーには向かってくる生物の呼吸音が聞こえる気がした。
前方からやってくるのは、他でもない、オオカミだ。

情報
  • 松の谷:松の谷は北境の出入り口である。険しい地形で、北境はここに見張り所を設け、辺りを徘徊する暗鬼が北境に侵入しないよう警戒態勢を敷いている。
  • ワンダービレッジ:北境の国境沿いにある村。人口が多く、町と呼べる規模である。
  • 緑松ノ地:未採掘の水晶が多く眠る丘陵地。丘陵地の間に散在する穏やかな平地には、村人たちが築いた大小様々な荘園が数十か所点在している。
  • 風脈の森:北境南部に位置する森林。一年中常春の穏やかな気候に恵まれ、多くの動植物が生息している。

第7冊:双頭の短剣

概要ドロシーは光力術でオオカミの群れに対抗したが、依然として危機は続いていた。間一髪のところで、飛びかかってきたオオカミを何者かが凍らせ、ドロシーを危機から救った。
内容

「バン!」
ドロシーの前で渦巻く雪に、また1匹のオオカミがぶつかった。もう何度オオカミの群れの攻撃をこの光力術で阻止したか知れない。
両親が亡くなってから、ドロシーは自分に空気を凝縮させる力があることを知った。最初は掌ほどの大きさの透明なブロックでしかなく、10数秒もすると消えてしまったが、その内、凝結できる範囲が徐々に大きくなり、持続時間も長くなっていった。一番良い時には、ドア1枚分ほどの大きさの空気を2分間凝結させることができた。
しかし、闇夜の中では、最良の状態など到底敵わなかった。オオカミの攻撃は徐々に近くまで迫ってきて、生臭いオオカミの涎の匂いさえ感じる程になった。
急に足元が絡まったように感じ、下を向くと、1匹のオオカミがドロシーのズボンに噛みつき、引っ張っていた。彼女は悲鳴を上げ、空気を凝結させてオオカミの頭に向かって落としたが、オオカミは痛みに呻き声を上げながらも、彼女のズボンを半分引き千切ってしまった。服を破かれたが、何とかその1匹は防ぎ切った。
しかし、まだたくさんのオオカミが攻撃のチャンスを窺い、低い唸り声を上げて今にも飛び掛かってこようとしている。
「バン!」歯はガタガタと震え、冷や汗が額から流れてくる。それでもドロシーは再び何とかオオカミの攻撃を阻止した。
このままではいけない。恐怖で体が麻痺し、空気を凝結させられる速度がどんどんと遅くなっている。この時、ドロシーは耳元ではっきりとした声がこう囁くのが聞こえたような気がした。「あなたには無理よ。夜はまだまだ長いのよ。オオカミを全部防ぐことなんてできない」
素肌の露わになったドロシーの足に冷たい風が刃のように刺さる。随分と時間が経ち、ドロシーはようやく自分がまるで篩にかけられているかのように震えているのに気付いた。一度恐怖を意識すると、堰を切る洪水のように絶望が襲ってくる。
やがて空気の壁が吹雪の中に散って、それ以上凝結させることができなくなってしまった。そう遠くない所で、オオカミが残忍な緑色の目を光らせている。次の瞬間、また1匹のオオカミが襲ってきた。この時ドロシーはもう、腕で自分の顔を覆うことくらいしかできなかった。
しかし、予想に反して、痛みは襲ってこなかった。ガチガチという氷の張る音と共に冷たい空気が漂ってきて、何かが一瞬で凍結したかのようだった。腕を下ろして見ると、驚いたことに、目の前には向かって来たオオカミが滑稽な姿になり、空中で静止している。そのすぐ後、青い光が走ったかと思うとオオカミの首が飛び、空中で1回転して雪の中に落ちていった。オオカミの血は噴き出すこともなく、体内で固まってしまっていた。ドロシーは叫ぼうとしたが、声が出ない。オオカミの身体は駆け付けてきた何者かによって蹴り飛ばされ、同時にその何者かはさっと向きを変え、ドロシーに背を向けてその前に立ちはだかった。滑り落ちた帽子の中から、ブロンドの巻き毛がはらりと落ち、優しくドロシーの頬に触れた。その手には双頭の短剣が握られ、寒い夜の闇の中、鋭い光を放っていた。
ドロシーは自分の顔を何か暖かなものが流れるのを感じた。すぐに、それが涙だと気付いた。

情報
  • 北境の光力術:北境の光力術は自然と根源を崇める。自然物の何ものかと共鳴することによって、最も根本的な光力の運用方法を理解し、「想像力」と「念力」によって世界に干渉する。
  • 北境光力術の媒体:北境の光霊は光力術を使う際、純粋な自然物を媒体とすることが多い。最もよく使われるのは、木々の枝から作った道具であるが、動物を媒介とする場合もある。白夜城の儀式的なものに比べると、北境の光力術はより原始的であり、その効果も単純なものが多いが、往々にして、より強大な力をもっている。
  • 北境の信仰:北境の人々は万物すべてに魂があると考え、従って、万物は対話、交流の対象であり、動物、植物、自然環境、あるいは自然現象もそうした万物に含まれる。
  • 信仰と統治:北境の信仰には、厳格な組織や機構が存在せず、従って北境王家の統治にいかなる影響も及ぼさない。一方で、北境王家の統治は世俗の力を遥かに超えたものであり、信仰とほぼ肩を並べる特有の組織機構を成している。

第8冊:北境の新年

概要北境の新年がやってきた。マーサとドロシー姉弟は一緒に年を越した。村の集会で暖かな感情が静かに育まれていく。
内容

あの危険な雪夜から随分と時が経ち、ドロシーはもう自分がどうやってマーサに負ぶさって村に戻ったのかも、自分の足元を嗅ぎまわるそり犬たちのことも、ほっとして溜息を吐く長老たちのことも思い出すことはなくなり、当然、驚いて泣きじゃくるクルスの姿を思い出すこともなかった。彼女は今、ただ一心に手元の氷のランプを彫り上げ、廊下に飾ることだけを考えていた。もうすぐ新年がやってくるのだ。
マーサの家の修復はすでに終わっていたが、客を迎え、もてなす場所として長老に借り上げられてしまっていた。そのために長老はバケツ一杯程にもなる大量のサメの発酵肉を支払った。
ドロシーはマーサにあの双頭の短剣の来歴を尋ねたことがある。マーサは金属の柄の留め金をいじり、両側の刃を柄の中に納めると、それをドロシーに渡した。そして、自分はこの先もう二度とこの短剣を使わない──だから、短剣は今、ドロシーのものだと言った。ドロシーはすぐにマーサの言いたいことが分かった。そして、黙って短剣を受け取り、これまでの心配事をすべて忘れ去った。
マーサは言った。自分は過去を捨てる。永遠にドロシーたちから離れないと。
氷のランプが一つ、また一つと点り、村の中央にある空き地に篝火が灯され、長老が鐘を鳴らした。村人たちが続々と家から出てきて、それぞれ様々な食べ物を持ち寄った。チーズ、ハチミツパン、ソーセージ、肉のとろとろスープにフルーツパイ、そして白ワイン…ドロシーとクルスはモコモコとした厚手の白いローブを着て、手に串焼き肉を持ち、口いっぱいにグミを頬張って笑いながら外へと出てきた。
マーサはすでに篝火の側に立ち、袖に手を入れた長老と話していた。ドロシー姉弟が来ると、マーサは2人に手を振り、いつもと同じく優しい笑顔を見せた。
村人たちも次々と篝火と長老の側に集まって来た。この1年に起こったことをお互いに語り合い、持ってきた料理を分かち合う。間もなく、1人の若い娘が歌を歌い出すと、村人たちはその透き通った歌声に合わせ、古くから伝わる歌を歌い出す。また別の娘が舞を踊り出すと、毛皮を裾にあしらったスカートが美しく回転した。彼女の独特の光力術で、飛び散る火花が彼女の周りを飛び回っていた。
ドロシーはマーサの側に座り、リズムを取りながら、昔の歌を口ずさむ。その瞳には火の光が映り、まるではるか遠くに光る2つの星が飛び跳ねているようだった。
歌声が徐々に小さくなると、ドロシーは微笑みながら目を閉じて、両手を合わせて握り、その上に顎をのせた。マーサが周りを見てみると、村人たちのほとんどがドロシーと同じように頭を垂れて目を閉じ、何か祈りを捧げているようだった。マーサは小さな声で側にいたクルスに尋ね、ようやく村人たちは来年の願い事をしているのだと知った。
ドロシーは目を開けると、何をお願いしたのか尋ねるようにマーサに笑いかけた。しかし、その次の瞬間、マーサの笑顔が強張った。その目は焚火の光が届かない炭に向いていた。
ドロシーは訳が分からず、マーサの視線の方に顔を向けて見たが、そこにあるのは空っぽの寂し気な暗闇だけだった。

情報
  • 啓光の光力術:啓光連邦が使用する光力術は他とは異なり、より光学的な特徴をもっている──すなわち、科学技術によって研究開発された機械を媒体に発動するため、使用者は自身の意志の力を高めずとも術を発動できる。
  • そり犬:北境の民はみな通常この種の犬を飼っている。雪そりを引き、交通手段となるだけでなく、主と共に狩りに出ることもある。単にペットとしても非常に人気がある。
  • 北境の日常:北境では、単調で変化に乏しい暮らしが繰り返される。日の出とともに起きて働き、日が沈むと同時に休む。誰もがそれぞれの役割──畑仕事、牧畜、狩猟、手仕事などをして過ごしている。老人は家で子供たちの面倒を見ながら、様々な知識を子供たちに授ける。
  • 人力郵送:北境で最も普及しているのは人力による郵送である。多くの物資が人の力によって運ばれる。幸い多くの者が光力術を使えるので、郵送作業の助けとすることができる。

第9冊:見知らぬ客

概要村にまた1人見知らぬ者がやってきた。マーサのいつもと異なる様子にドロシーは確信する。その者はきっとマーサ目当てに村にやって来たのだ。しかし、ドロシーが問い詰めても、マーサは真相を語ろうとしない。
内容

村に新しい客人がやってきた。村人の手伝いで薪を運んでいる時に気付いたことだ。黒髪の見知らぬ光景が長老の家から出てきて、修復の済んだあの古い家に入っていった。ドロシーが出かける時、マーサはいつもと違って暖炉の側に座り、クルスの服を繕っていた──普段ならこの時間、マーサはとっくに狩りに出かけているはずだ。ドロシーが家に戻ると、暖炉の前はがらんとしていて、クルスにマーサはどこに行ったのか尋ねると、クルスは隣の古い家を指差した。
あの黒髪の光霊はマーサに会いにやって来たのだ。ドロシーは確信した。
昼食が食卓に並べられると、ドロシーは何としても黒髪の光霊の来歴を聞き出そうとしたが、マーサの抵抗は頑として口を割らなかった。
マーサはしばらく黙り込み、ドロシーが何度も問い詰めてからようやく小さな声で、黒髪の光霊は自分の「友達」だと認めた。
しかし、ドロシーはこの答えに満足できず、相手の来歴、目的、そしてマーサに何かするのではないかと立て続けに問い詰めた。
「ただの友達よ」マーサはたった一言そう答えて、一方的な詰問を終わらせた。
ドロシーは落胆し、問い質すのを諦めた。
ドアの外で警戒の鐘が鳴り響くまで、3人はただ黙々と食事を口にしていた。
マーサは鐘の音を聞くと、真っ先に食卓を離れ、ドアの開けた。
はるか遠くを眺めると、村の中央の空き地には村人たちが集まり、ある者は大声で罵り、ある者は顔を覆い、声を殺して泣いている。顔を寄せ合い、何かひそひそと話す者たちもいる。ドロシーも様子を聞きつけ、マーサの後について家の外に出ると、遠く前方に目をやった。
人々の話し声が徐々にはっきりと聞こえてくると、ドロシーの顔色が変わった。
──暗鬼。村の近くに暗鬼の痕跡を見つけたのだ。

情報
  • 祝日の集会:北境の民は心清らかに欲のない生活方式を守っており、普段の生活にはほとんど娯楽がなく、大勢が集まることも少ない。ただ祝日には皆で集まり、最近起こった面白い出来事などを互いに語り合う。
  • 北境の集会:新年などの祝日には、人々は集まって話をしたり、歌を歌ったり、語りのうまさを競ったりする。近くの森でキャンプを楽しむ者もあり、男たちは互いに連れ立って、狩りをして祝日を過ごす。
  • 飲食:甘い物が多い。北境王家が客をもてなすのに供される。北境には海があるため、アザラシの丸焼きやサメの発酵肉など、様々な海の幸が食卓にあがる。
  • 酒:蜂蜜酒、ジュネヴァなどの酒が飲まれている。氷や雪の意のある名前が付けられることが多い。

第10冊:捜索隊

概要長老が捜索隊を組織すると、ドロシーはこっそり隊に紛れ込もうとしたが、マーサに止められた。マーサの手から逃れようともがくうち、ドロシーは心にもない言葉を口にしてしまう。
内容

長老は村中の成人男子を全員一か所に集め、5人1組の捜索隊を編成し、村の付近に現れた暗鬼の痕跡を探らせることにした。
捜索隊が村を出る時には、子供たちが村の入り口にある石柱に上り、捜索隊の中の自分の家族に手を振って別れを告げた。一方、ドロシーは人混みに紛れ、服の中に隠した諸刃の短刀を握り締めた。長老は捜索隊に入ることを許してくれなかったが、ドロシーは自分が絶対に行かなければならないと思っていた。
捜索隊が次々と出発していくと、人混みも徐々に散っていった。ドロシーは周りを見渡し、誰も自分に注意していないことを確かめると、俯いて村を出る道へと足早に向かった。今なら恐らく最後の一隊の出発に間に合うだろう。
すると突然、ドロシーは誰かに腕を掴まれた。
「ドロシー、あなた何をしに行くつもり?」マーサの声だった。
ドロシーは無意識に腕を振り払おうともがく。「放してよ!」
マーサはすぐにドロシーの服の異常に気付き、手で探って双頭の短剣を取り出した。
「隊について暗鬼探しをする気?」
「関係ないでしょ」ドロシーは短剣を取り返そうとしたが、マーサに軽くかわされてしまった。「返してよ!」
「一緒に帰りましょう」マーサが優しく宥める。「帰るなら短剣も返してあげるわ」
ドロシーは歯を食いしばり、「ビリ」と音をさせて袖を引き裂くと、フラフラと躓くようにマーサの手から逃れ、前に進もうとした。だが今度はマーサに腰を抱きかかえられ、引き戻されてしまった。
「暗鬼がオモチャか何か面白いものだとでも思ってるの!?」
ドロシーは呆気にとられた。マーサは今まで一度もドロシーを叱ったことがない。
いくら失礼な態度をとろうとも声を荒げたことはなかった。ドロシーは思わず振り返ってマーサを見た。マーサの顔は怒りで震えていて、全く見知らぬ人に見えた。
「お説教は要らないわ」ドロシーははっと気を取り戻し、冷たい表情で言った:「あなたは私の一体何なの?」
マーサはドロシーを抱えていた腕を放した。ドロシーはマーサを振り切り、一度も振り返ることなく、速足で前へ進んでいく。
「ドロシー、弟を置いていくつもりか!?」
長老の怒声が後ろから聞こえてきた。ドロシーは悔しそうに目を閉じ、足を止めた。

情報
  • 閉ざされた国:北境も近年になり、他の国や都市とも交流するようになったが、やはり閉鎖的な国であることに変わりはない。北境内陸部の多くの村の人々が土地の者以外に出会うのは難しく、そのため物珍しい話を聞かせてくれる異郷の客人は大変歓迎される。このような背景から、北境の民は情熱的で客好きだというイメージが広がっている。
  • 北境人の気持ち:閉鎖的な環境で長い間自給自足の生活を送って来た北境の人々は、素朴で純粋な人柄である。しかし、頭が固く、融通が利かないという点も特徴である。変化を嫌う傾向があり、そのため、影ノ街のように商業色の濃厚な、変化の激しい暮らしには適応できないことも多い。
  • 幻想の感知:北境の人々は常識を超える場景や事物を目にしても全く驚かず、ごく当然のものとさえ思っているようである。例えば、言葉を話すシカに会っても、北境の人々は驚きもせず、シカと会話するだけである。
  • 北境の商業貿易:北境は海に面しており、一定間隔で定期的にやってくる船が遠くからの舶来品をもたらしてくれる。しかし、北境の人々は贅沢品に一切興味を示さないため、商人たちは一刻も早く北境を離れ、アストラ大陸の他の国へ急ぎたがる。

第11冊:脱走兵

概要長老からドロシーの両親が亡くなった理由を聞いたマーサは、北境を離れることを決意する。このままドロシーたちの側にいれば、自らを苛む気持ちに押しつぶされてしまうと思ったからだ。
内容

マーサがドアを開けると、家の中は生気がなくなったかのように静まり返っていた。ドロシー姉弟の部屋のドアは固く閉じられ、マーサはその前に立ち、ノックしようとしたが、手はしばらく宙に浮いたまま、いつまで経ってもドアを叩こうとしなかった。
「5年前村が暗鬼に襲われて、ドロシーとクルスの父親は捜索隊に加わったんだ──しかし、その隊は二度と戻ってはこなかった。その後、ドロシーたちの母親が痕を追って父親を捜しに行ったのだが、途中で暗鬼に遭い、重傷を負って村に戻って来た。それから数日もしない内に亡くなってしまったのだ」長老の言葉が耳元で反響し続ける。「ドロシーをあまり厳しく叱らないでやってくれ。誰しも忘れられない過去があるものだろう」
マーサは迷いに迷って、結局ノックをやめた。ただ黙って振り返り、家の中を眺めた。
「マーサ」廊下には黒髪の光霊が待っていた。「ここを離れる決心はついた?」
「行きましょう」そう答えるマーサの声は、溜息のようだった。
突然、「ギィ」という音と共にドアが開き、服の裾が引っ張られるのを感じた。マーサが振り返ると、クルスが立っていて「マーサ、中に入ってきてくれる?」と言った。
部屋の中では、ドロシーが黙ってベッドに座っていて、マーサが入ってくると、そっぽを向き、こう尋ねた。「出て行くの?」
マーサが答えるのも待たず、続けて尋ねる。「私のせいなの?」
「…今日は、ごめんなさい」ドロシーは唇を震わせながら言う。「私があまりにも無鉄砲だった。それと、あんなこと言うんじゃなかった…」
「それは違うわ」マーサは身を屈めて、今にも涙が零れ落ちそうなドロシーの目を真っ直ぐに見つめながら、「ただ、どうしても行かなきゃならないの」と言った。
「どうして?」
「私はね…脱走兵なの」マーサは一瞬言葉を止めてから続けた。「啓光連邦から逃げて来たのよ」
ドロシーには「啓光連邦」が何なのか全くわからなかったが、それでも「脱走兵」が何かは分かった。
「私ね…暗鬼と戦えなくなってしまったの。戦友が一人残らず死んでしまって、ずっと暗鬼と戦い続けることに耐えられなくなった…それで、逃げ出して、北境まで逃げ延びてきたのよ」マーサは下を向いた。「でも、昔の仲間に見つかってしまったの。もし私が戻らなかったら…」
「戻らなくていいよ」ドロシーは慌てて言った。「戦友に言えばいいよ、ここにいると楽しい、ここにいたいって。そうすれば、きっとみんな分かってくれるよ…それと、長老にも頼めばいい。長老にも一緒にお願いしてもらえば…」
「私たちを置いて行ったりしない、そうでしょ?」
「ドロシー」マーサは手でドロシーの涙を拭いてやりながら言った。「あなたのご両親のこと、聞いたわ…本当にごめんなさいね」
ドロシーは呆気にとられた。しばらくして、ドロシーはマーサに尋ねた。「それが原因でここを離れるの?」
「私は…あなたたちの側にはいられないの。許して…」
ドロシーは自分の歯がガクガクと震えるのを感じた。「マーサは、また逃げるの?」
部屋の中が息の詰まるような沈黙に包まれた。マーサには、それ以上自分を弁護する理由が見つからなかった。マーサは、そのまま脱走兵を演じ続け、その拙い演技で皆に彼女の本質──人を失望させることしかできない自分の本質を知ってもらおうとした。
「じゃあ、出て行けばいいよ!」ドロシーは吐き捨てるように言うと、身体を後ろに竦めて、彼女を避けるかのような動きをした。
マーサは立ち上がり、隅に立ったままのクルスの頭を撫でようとしたが、クルスは黙ってその手を避けた。
マーサは苦笑し、しばらく沈黙してから、小さな声で「しばらく村を出てはダメよ。自分のことは自分で守るのよ」と言った。
言い終わると、マーサは部屋を出て、あの双頭の短剣を客間のテーブルの上に置き、家を出て行った。

情報
  • 捜索隊:暗鬼の侵入が発覚した、行方不明者が出たなど、必要な時には北境の村々で捜索隊が編成される。捜索隊の規模は決まっておらず、4~6名を1組として手分けして捜索を行う。捜索は村を中心とするか、或いは暗鬼が発見された地点を中心とした範囲を対象に行われる。長老は全ての成人男子を参加させ、猟師や野外の環境に詳しい者をそれぞれの組のリーダーに任命する。
  • 北境の教育:北境では体系立った教育は行われておらず、あらゆる知識は基本的に口述で伝えられている。
  • 北境の法律:北境に明文化された法律はない。村人たちの自律的な道徳観が互いの制約となり、揉め事が起こった場合には、地元の領主や統治機構が調停に入る。
  • 北境の統制:北境の人々は、外部の者に自分たちの村を管理させることを嫌う。また、どの村も時には1000年以上にも及ぶ長い歴史があるため、人々は現在の慣例に従っていれば十分だと考えている。

第12冊:送別

概要マーサが村を離れようという時、ドロシーが追いかけてきた。ドロシーはマーサに、マーサの過去は気にしない、村を離れようという決心を変えるつもりもない、ただいつか必ず北境に帰ってきてほしいと告げる。
内容

出発する頃には、もう翌日の早朝になっていた。マーサと黒髪の光霊は村を出て、石柱を通り過ぎた。松の木の枝から落ちた雪解け水が、道路のあちこちに泥水の水溜まりを作っている。
「あの子たちとお別れしなくていいの?」
「必要ないわ」マーサは帽子をかぶって上から落ちて来る雪解け水を遮り、「私には会いたくないでしょう」と言った。
「本気で見つかりたくなかったのなら、簡単だったはずよ」黒髪の光霊は複雑な面持ちで言った。「追手が諦めるまで、ずっと逃げ続けていればいいだけ。啓光だって、たった1人の脱走兵のためにそこまで資源を使ったりしないわ」
マーサは自嘲するように笑って言った。「だったら、今、私を逃がしてくれない?」
黒髪の光霊は黙った。
「あなたも私も分かっているはずよ。逃げ続ける暮らしなんて、何の意味もない」マーサはあちこちから聞こえてくる雪解けの音を聞きながら、小さい声で言った。
「生き永らえようと思って啓光を離れたわけじゃないの。私はただ…兵器として、戦闘に明け暮れる日々に嫌気がさしただけ」
「なら、どうして私と一緒に戻る気になったの?」
「それは」マーサはしばらく黙ってから、言葉を続けた。「私が脱走兵だからよ…私は、仲間たちのためにも、自分が許せないの」
「矛盾してるわね」
「ええ」マーサは苦笑した。「だから、こんなに長く逃亡してたのに結局、逃げ切れなかったんでしょ」
黒髪の光霊が突然足を止めた。「この角を曲がったら、もう二度とあの村は見られないわよ」
マーサはにこりと笑い、小さな声で「ありがとう」と言った。
彼女の立っている所からは、まだ村の入り口の石柱が見えた。松の木に結ばれた色とりどりの布は雪解け水を吸って、風に揺れることもなく、重く垂れ下がっている。
さらにその先を眺めると、村の家々の黒く高い屋根が見える。まだ時間が早いからか、どの煙突もただ静かにたたずんでいる。
マーサが振り返り、立ち去ろうとした時、村の入り口の石柱の上に1つ頭が飛び出して、遠くこちらを眺めているのが目に入った。マーサは一目でそれがクルスだと分かった。
マーサは今にも何かを言い出そうとするかのように、黙ったまま口を開けていた。
冷たい風がブロンドの髪を揺らし、頬を冷やす。しかし、その目だけは熱かった。白いローブを羽織った女の子が飛ぶような速さで走ってくる。手がすぐ届くくらいの距離まで来ると、勢いよく立ち止まった。
「ドロシー?」
「返すわ」ドロシーは肩で息をしながら、手を開くと、あの双頭の短剣だった。「私には、要らない」
「これ、持っていって。短剣からは、逃げる必要もないでしょ。これがお詫びだっていうなら、私、いらない。別にすごいものでもないし、こんあの、私が気に掛ける程のものじゃないもの」ドロシーは短剣をマーサの手に握らせ、強情そうな視線をあげて、大きな声で続けて言った。
「私が心配してるのは、いつ帰ってくるかってことだけ」
そう言い終わるとドロシーは満面の笑みを浮かべ、「きっと帰ってくるよね、そうでしょ?」と言った。
マーサは胸がいっぱいで声を詰まらせた。短剣を握る手は震えていた。マーサは言葉が出ず、ただ軽くうなずいた。
「約束だよ」ドロシーは爪先でぴょんと一歩下がると、マーサに手を振った。「それじゃ、またね、マーサ」
言い終わると、ドロシーは村に向かって走り出し、クルスも石柱から飛び降りて、姉と手を繋ぎ、一緒に村へと帰っていった。マーサは、家々の壁で見えなくなるまで、2人の後ろ姿を見つめていた。
村の家々の屋根から、ようやく炊煙が立ち始めた。松の木に結ばれた布も風に揺れ始め、雪解け水の音がぽたぽたと森から畑へ、道から村へと鳴り響く──
誰もが思い描いていた。氷が解ける季節になれば、また、あの石柱の中で大勢の子供たちが遠くを眺めるのだろう。

情報
  • 幻想の感知:北境の人々は常識を超える場景や事物を目にしても全く驚かず、ごく自然のものとさえ思っているようである。例えば、言葉を話すシカに会っても、北境の人は驚きもせず、シカと会話するだけである。
  • 北境の現状:北境も徐々に対外的に開放されつつある。外界の人々も北境の存在を知り、R・W砂漠の住民でさえ、北境のウワサを耳にするようになった。今や大陸のその他の国でも、時折あちこちを旅行する北境の民に遭遇したり、北境から持ち込まれた様々な商品を買うこともできるが、長い間閉ざされてきた北境は、外の者にとって未だその神秘性が失われておらず、時に一般人にとっての北境は相変わらず神秘と幻想に満ちた土地のままである。
  • 北境の統治:現在の北境王家成員はベツレヘムただ1人である。彼女はその強大な光力術と高貴な血統により、北境の唯一の統治者となっている。北境の人々は皆、ベツレヘムを心から尊敬しており、その命に背く者も彼女の決定を疑う者もいない。
  • 北境王室:北境の王室は北境の統治者であり、守護者である。代々強力な力を有しており、千何百年もの間、王室の交替が起こったことはない。