吉川元春

Last-modified: 2010-02-02 (火) 09:43:40

生まれ

きっかわもとはる

どんな人?

戦国時代の大名
毛利元就の次男

おいたち年表

1530年0歳誕生!
1547年18歳母親の実家・吉川家に養子に行く。  
 歳毛利元就が強制的に元春の義父になった吉川興経を隠居させて、元春に家督を継がせた 
 歳熊谷信直の娘と結婚   
1550年21歳恨みを残さないように、毛利元就吉川興経と息子を殺す  
1555年26歳厳島の戦い   
1556年27歳尼子家と険悪になっていく。石見銀山をどちらのものにするかで対立   
1563年34歳毛利本家で、元就の長男・毛利隆元が死去。その子供の毛利輝元があとを継ぐ   
1566年37歳第二次月山富田城の戦で出雲国の尼子氏に勝利☆出雲国をゲット  
1569年40歳筑前国立花城をめぐり、大友宗麟と対立する  
1568年40歳尼子勝久に出雲国を奪回された  
1570年41歳毛利元就の謀略が成功☆尼子家が降伏。
毛利家は中国10ヶ国120万石の支配者になる  
1571年42歳毛利元就が死去。弟の小早川隆景と、本家の毛利輝元の補佐役に   
1578年49歳織田信長が中国地方へ。
織田家の部将豊臣秀吉の中国攻略に対し戦う   
1582年53歳豊臣秀吉の備中高松城の水攻め。
その間に本能寺の変が起こる。ケド、そのことを知らないまま秀吉と和睦。(交渉役は安国寺恵瓊
和睦した後に織田信長の死んだことを知ったんだけど、弟の小早川隆景
誓いを破って秀吉を追うのは卑怯だと主張したため追うことをやめた
1582年 歳豊臣秀吉の臣下につくことが嫌で家督を息子に譲って隠居した。 
1586年57歳息子の元長と秀吉の九州征伐に向かう途中、豊前国小倉城で病死。   

逸話

●秀吉を追撃しようと言ったのは元春じゃなくて、元春の三男・吉川広家という説もある
●病気になった時、仲のいい黒田官兵衛が鮎料理をお見舞いに持ってきてくれた。鮎は病状に適してないことを知ってたんだけど、断るのは無礼だと思い食べた。そのため病気が悪くなって死んだといわれている
●すごい負けず嫌い。ちなみに元春の合戦通算戦績は76戦64勝12分
●あえてブスと結婚しました♪

毛利家の切り込み隊長的存在だった元春
元春は結婚するってお年頃になった時に「熊谷信直の娘を貰いたい」と言いました
元就はじめみんなビックリ!熊谷信直の娘といえば「ブス」として超有名人だったのです。
いったい何を考えとんじゃ?と元就が元春に尋ねると

「昔から美女に溺れて国を傾けちゃう人が沢山いるでしょ?俺はそんなふうにはなりたくないし、誰も貰い手のないブスを嫁にもらえば熊谷信直は喜びますぜ?そして恩義を感じ、戦の時によく働いてくれるでしょう」と答えたのです

そして元春は信直の娘を貰い、信直は感激してその後戦において活躍するのでした

関連のある人々

お父さん→毛利元就
お母さん→妙玖吉川国経の娘)
義理のお父さん→吉川興経

お兄さん→毛利隆元
お姉さん→五龍局宍戸隆家の妻)
弟→小早川隆景
弟→二宮就辰
弟→穂井田元清
弟→毛利元秋
弟→出羽元倶
弟→天野元政
弟→末次元康
弟→毛利秀包
正室→新庄局(熊谷信直の娘)
子供たち
吉川元長
毛利元氏
吉川広家
女の子→(益田元祥?の妻)

祐筆の人物批評

●一番手・・・愛 義理堅くって、強い武将のイメージがありますよね。でも関ヶ原の合戦後、毛利本家から仲間はずれにされちゃうんですよね。ちょっと気の毒だなあ

●二番手・・・ハガクレ 逸話だけプラス

祐筆

●一番手・・・愛