生まれ
しまづいえひさ
1547~1587
どんな人?
戦国時代の武将
島津貴久の四男として生まれ、島津義久・島津義弘・島津歳久という兄たちがいる
母親は本田親康?の娘のため、兄達とは母親が異なる
おいたち年表
1547年 | 1歳 | 薩摩にて島津貴久の四男として誕生 |
1564年 | 15歳 | 初陣。廻坂の戦いで敵将を討ち取る |
1566年 | 20歳 | 兄の島津義久が家督を相続 |
1575年 | 29歳 | 島津家に神仏の加護を得るため伊勢神宮へ。その後上洛し織田信長らと交流する |
1577年 | 31歳 | 島津家が伊東家を追放し、日向佐土原城主となる |
1578年 | 32歳 | 耳川の戦い。追撃し大友家を打ち破る |
1584年 | 38歳 | 沖田畷の戦いで総大将となり、肥前国の龍造寺隆信を破る |
1585年 | 39歳 | 島津義久が島津義弘に家督を譲る |
1587年 | 41歳 | 戸次川の戦いで総大将となる。豊後国の大友家に勝利 |
1587年 | 41歳 | 豊臣軍の豊臣秀長と講和後、突然の病死 |
逸話
●祖父・島津忠良は「軍法戦術に妙を得たり」と、家久を大層評価していた
●島津家の主要な合戦にはほぼ参戦し、武功をあげていた
謎の死亡理由
豊臣秀吉が九州統一を目指し、1586年に仙石秀久が長宗我部元親、長宗我部信親?、十河存保ら6000の兵を率いてやってきた戸次川の戦いでは、家久が4000の兵で迎え撃ち、長宗我部信親?、十河存保らは討死し島津の勝利となった。
この後、豊臣秀長と単独で講和をしたが、1587年に佐土原城にて急死する。
豊臣家による暗殺かと思われたが、家久を暗殺するメリットがあまりなく、また豊臣秀長の側近である福地長通?が島津義弘宛に出した書状に家久が病気であるとあったため、病死かもしれない
関連のある人々
父・島津貴久
母・本田親康?の娘
子・島津豊久
祐筆の人物批評
島津ファン「家久にはもっと生きていて欲しかった。島津にとって彼の突然の病死は大きな痛手であったであろう」
祐筆
●一番手・・・島津ファン