島津家久

Last-modified: 2010-08-05 (木) 18:13:15

生まれ

しまづいえひさ
1547~1587

どんな人?

戦国時代の武将

島津貴久の四男として生まれ、島津義久島津義弘島津歳久という兄たちがいる

母親は本田親康?の娘のため、兄達とは母親が異なる

おいたち年表

1547年1歳薩摩にて島津貴久の四男として誕生
1564年15歳初陣。廻坂の戦いで敵将を討ち取る
1566年20歳兄の島津義久家督を相続  
1575年29歳島津家に神仏の加護を得るため伊勢神宮へ。その後上洛し織田信長らと交流する   
1577年31歳島津家が伊東家を追放し、日向佐土原城主となる  
1578年32歳耳川の戦い。追撃し大友家を打ち破る  
1584年38歳沖田畷の戦いで総大将となり、肥前国の龍造寺隆信を破る   
1585年39歳島津義久島津義弘に家督を譲る  
1587年41歳戸次川の戦いで総大将となる。豊後国の大友家に勝利  
1587年41歳豊臣軍の豊臣秀長と講和後、突然の病死   

逸話

●祖父・島津忠良は「軍法戦術に妙を得たり」と、家久を大層評価していた
●島津家の主要な合戦にはほぼ参戦し、武功をあげていた

謎の死亡理由

豊臣秀吉が九州統一を目指し、1586年に仙石秀久長宗我部元親長宗我部信親?十河存保ら6000の兵を率いてやってきた戸次川の戦いでは、家久が4000の兵で迎え撃ち、長宗我部信親?十河存保らは討死し島津の勝利となった。
この後、豊臣秀長と単独で講和をしたが、1587年に佐土原城にて急死する。
豊臣家による暗殺かと思われたが、家久を暗殺するメリットがあまりなく、また豊臣秀長の側近である福地長通?島津義弘宛に出した書状に家久が病気であるとあったため、病死かもしれない

関連のある人々

父・島津貴久

母・本田親康?の娘

兄・島津義久島津義弘島津歳久

子・島津豊久

祐筆の人物批評

島津ファン「家久にはもっと生きていて欲しかった。島津にとって彼の突然の病死は大きな痛手であったであろう」

祐筆

●一番手・・・島津ファン