松山舜汰右衛門

Last-modified: 2023-11-08 (水) 19:55:07

松山舜汰右衛門(まつやま すんだえもん又まつやま ずんだえもん、享保16年5月7日(1731年6月21日)- 享和元年9月25日(1801年11月1日))は、日本の国学者、数学者、言語学者、教師。江戸時代後期にかけて活躍した。主な著作は『全訳語林』『和漢三才図会』など。

概要

自らの専攻分野だけでなく様々な分野の学問の解説書を執筆し、また自らも学者としてそれらに多大な貢献をした。あくまで本分は国学者であったが、それ以外の分野にも驚くべき知見の深さを見せ、「まるで何人もの学者が舜汰右衛門の中にいるようだ」と『明良洪範』では評されている。また、芸術にも造詣が深く、その著書は多岐にわたる。

著名な門下生には結月優花里(ゆいづき ゆかり)、永積安明(ながつ やすみ)、沢木敬之進(さわき けいのしん)などがいる。

生涯

1731年、会津藩主・今河通充(いまがわ みちみつ)の侍医である父・松山言栄(まつやま ごんえい)と母・和泉守霊香(いずみのかみ れいか)との間に誕生。幼年期の大半を江戸で過ごした兄・安行に対し、舜汰右衛門は藩の学問所で漢学や和算を習う。

1745年、江戸に赴き、安田佳江のもとで蘭学と医学を学び始める。しかし、医学や蘭学に限らず幅広い分野の学問を多くの師から学んでいた。

1752年、兄・安行が死去したため会津に戻るが、そこで様々な学問のターミナル的存在を目標とした本の執筆を開始する。5年後に『大明一統志』が完成。その後もそのような著作を増やしていき、特に『全訳語林』『和漢三才図会』などは多くの学者に影響を与えた。

1758年、父・言栄の死去に伴い、会津藩医となるが、医師業は他の人物に任せ、主に教鞭を執っていた。

1762年、松平定信が行った寛政異学の禁により、西洋医学の研究が禁止される。これに対抗するため、「尚古堂」を密かに開き、講義を行う形で学問を守った。

1771年、『和漢三才図会』を刊行。

1772年、「尚古堂」を正式に開設。この年、弟子の沢木敬之進が門下生に迎えられ、沢木は以後舜汰右衛門門下の重鎮となった。

1787年、『聖教要録』を密かに執筆。西洋文化があまり流入していなかった日本において、ヨーロッパの歴史書を詳らかに著したため、当時の貴重な日本語による資料として高く評価された。

1797年、尚古堂の学長を引退。

1801年に死去。享年70。

没後、学問への貢献から、菅原道真と並べられるかのように、南野天満宮にて祀られる。南野天満宮の鳥居は『舜汰門(ずんだもん)』と呼ばれている。

人物

緑色をよく好み、江戸時代でありながら髪を緑色に染めていたという記録が残っている。身長は高くなく、青年期には子供に間違われることもあったという。

晩年の日記では、その人生がいかに豊かであったかを述べており、最後のページには「これでよい」と書き残されている。

関連項目

沢木敬之進
結月優花里
永積安明