注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
イタリア
エンリコ・ダンドロ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
74 | 66 | 94 | 78 | 90 | 矍鑠 | 富豪 | 論客 | 特使 | 嚮導 | 水軍育成 | 我道 | ||||||
75 | 68 | 95 | 79 | 90 | 矍鑠 | 富豪 | 論客 | 特使 | 嚮導 | 水軍育成 | 我道 | ||||||
74 | 69 | 97 | 80 | 92 | 矍鑠 | 富豪 | 論客 | 特使 | 嚮導 | 水軍育成 | 我道 |
12世紀~13世紀初頭のベネチア共和国41代頭領。
かつて、ビザンツ帝国との戦いに参加して敵軍に失明させられたと言われている。
その後のビザンツとの交渉でベネチアが支払う賠償金を減額させるなど、外交交渉にも巧みな才能を示す。
80歳を過ぎてしかも盲目であったにも関わらず、人望と経験を買われて頭領に選出され、ベネチアから独立してハンガリーの支配下に入ったザラと激しく争った。
第4回十字軍が起こると表面的には協力的な姿勢を示すが、ベネチアへの債務を盾にザラとコンスタンチノープルを攻撃させてビザンツ帝国を一時滅亡に追い込んだ。
コンスタンチノープル入場直後に現役頭領のまま死去、98歳であったと言われている。
※コラボ武将の戦法が使えるならば「義眼の睨」を入れたいところだが。
エッツェリーノ・ダ・ロマーノ
生年 | 登場 | 没年 |
1194年 | 1259年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
79 | 84 | 64 | 37 | 34 | 昂揚 | 崩壁 | 監守 | 悪名 | 粗暴 | 罵声 | 大喝 | 突撃 | 投石 | 侵略荒廃 | 我道 |
中世イタリアの貴族。
北イタリアのトレヴィゾの小領主の出身で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に仕えて娘婿となる。
イタリアにおける有力な皇帝派貴族として活動し教皇派に属する諸都市を攻略、その残忍さにより恐れられた。
フリードリヒ2世死後も皇帝派として戦い続けたが、ミラノとの戦いにて捕虜となった際に自害した。
ベネデット・ザッカリア
生年 | 登場 | 没年 |
1248年 | 1307年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
84 | 67 | 83 | 77 | 69 | 水戦 | 果敢 | 富豪 | 徴税 | 調達 | 駆逐 | 強襲 | 混乱 | 鼓舞 | 運搬開発 | 名利 |
中世ジェノヴァの商人・海軍提督。
ジェノヴァの貴族の家に生まれ東ローマ帝国に渡り皇帝ミカエル8世と親しい関係を築き
その縁にて小アジアにて明礬の鉱脈を発見し一財産を築き上げ、主に東ローマ帝国相手を中心に地中海に幅広く事業を広げた。
海軍提督としてはジェノヴァ海軍を率いて1284年にメロリア沖の海戦でライバルであったピサの艦隊を打ち破り、ピサを没落させた。
親愛武将:ミカエル8世
ジョン・ホークウッド
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
98 | 94 | 91 | 54 | 78 | 神機 | 掃討 | 威風 | 強奪 | 粗暴 | 百戦錬磨 | 奮戦 | 突撃 | 斉射 | 激励 | 罵声 | 三軍強化 | 我道 |
ジョン・ホークウッドは、14世紀イタリアにおける、イングランド出身のコンドッティエーレ(傭兵隊長)である。
百年戦争でイングランド軍に従軍した後に傭兵となり、イタリアに渡った。
その後30年以上の間、都市国家が乱立し分裂状態が続くイタリアにおいて、教皇をはじめ多くの勢力に仕えた。
そうした戦いを通して、彼の率いる白衣団は高い評判を得、彼はその指揮官として有名になった。
死後、ホークウッドは、フィレンツェなどを敵から守った騎士としての評価と、チェゼーナなどで虐殺を働いた殺戮者としての評価の2つを得た。
アンドレア・コンタリーニ
生年 | 登場 | 没年 |
1300年 | 1382年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
73 | 47 | 85 | 86 | 78 | 富豪 | 工面 | 封殺 | 捕縛 | 監守 | 足止 | 駆逐 | 文事武備 | 割拠 |
ヴェネツィア共和国第60代統領。
1370年には息子のアンドロニコス4世に追い出された元東ローマ皇帝ヨハネス5世
を拘束し、多額の身代金を得た。第4次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争では自らの
財産を提供して戦争を遂行しヴェネツィア海軍総司令官としてヴェットール・ピサーニ
やカルロ・ゼンといった有能な海将を率いて戦争を勝利に導いた。
ヴェットール・ピサーニ
生年 | 登場 | 没年 |
1380年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
90 | 81 | 77 | 45 | 83 | 水戦 | 操舵 | 封殺 | 求心 | 一心 | 連環の計 | 駆逐 | 強襲 | 矢嵐 | 水軍育成 | 割拠 |
ヴェネツィアの海将。
海軍の統率に秀でて下級の船員から人望があった。
1379年、ジェノヴァ海軍のヴェネツィア攻撃の際にヴェネツィア海軍の最高司令官に任命される。
ポーラ海戦の敗北により一時更迭され投獄されたが、ジェノヴァ海軍の海上封鎖の危機により
海軍最高司令官となった統領アンドレアの次席として復帰、実質的な海軍の指揮を執りヴェネツィア防衛に尽力、
カルロ・ゼンと共にキオッジャの海戦でジェノヴァ艦隊を撃破した。その後のアドリア海でのジェノヴァ艦隊
追撃の際に負った傷が下で亡くなった。
カルロ・ゼン
生年 | 登場 | 没年 |
1333年 | 1418年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 84 | 79 | 41 | 75 | 水戦 | 操舵 | 強奪 | 長駆 | 功名 | 錦帆強襲 | 駆逐 | 強襲 | 矢嵐 | 三令五申 | 我道 |
ヴェネツィアの海将。
ヴェネツィアの貴族階級出身で僧籍に入る為に神学を学んでいたが傭兵に転じ、
その後は頭角を現してキリシャ方面のヴェネツィア海軍の提督に出世した。
1379年、ジェノヴァ海軍のヴェネツィア攻撃では地中海各地を転戦してジェノヴァの船を襲撃、
その後はヴェネツィアに戻りヴェットール・ピサーニらの艦隊と共にキオッジャの海戦でジェノヴァ艦隊を撃破した。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
20 | 5 | 100 | 70 | 90 | 王佐 | 医術 | 学者 | 発明 | 楽奏 | 神火計 | 連弩 | 治療 | 井闌 | 衡車 | 投石 | 文事武備5 | 覇道 |
50 | 5 | 75 | 70 | 90 | 楽奏 | 発明 | 医術 | 文化 | 学者 | 絡繰利器 | 連弩 | 治療 | 井闌 | 衡車 | 投石 | 文事武備3 | 我道 |
15世紀~16世紀のイタリアの画家。しかし、その業績は建築・彫刻・医学・数学・自然科学など多岐にわたり、人類史上屈指の天才とする評価もある。
フィレンツェ共和国やミラノ公国、ローマ教皇領に赴き、ロレンツォ・デ・メディチやチェーザレ・ボルジアなどのルネサンス期イタリアを代表する英傑に画家及び軍事技術者として仕え、
フランス国王フランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平会談の会場演出にも関わっている。
これが縁でフランソワ1世に気に入られ、晩年は邸宅の1つを与えられて顧問として遇された。
代表作に『最後の晩餐』・『モナリザ』。
ロレンツォ・デ・メディチ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
82 | 55 | 87 | 94 | 80 | 築城 | 文化 | 論客 | 徴税 | 富豪 | 縦横術 | 我道 | ||||||
83 | 57 | 89 | 93 | 79 | 築城 | 文化 | 論客 | 徴税 | 富豪 | 縦横術 | 我道 |
15世紀のフィレンツェ共和国の商人。ヨーロッパ屈指の財力で、フィレンツェの事実上の君主とみなされ、豪華王と呼ばれる。
20歳でメディチ家当主を継ぐと、市民を買収して反対派を徹底弾圧すると共に各国の王侯に対する債権を武器にイタリア諸国の合従連衡策に主導的な役目を果たした。
また、多くの芸術家の庇護者としても知られ、イタリア・ルネサンスの最大の功労者とも言える。
しかし、国内外での政治工作や芸術活動のための出資やその影響力を警戒する各国の圧迫(要は返せなくなった借金の踏み倒し)によって、
家業の銀行業の経営は不振となり立て直すことが出来ないまま死去、サヴォナローラの台頭を許すことになる。
※フィレンツェ共和国は15世紀初め以来メディチ家が表向きの要職には就かず、
国家収入の半分以上がメディチ家からの納税であったとも言われる財力を背景とした選挙買収によって自派の市民に要職を独占させることで陰から政治的支配を続ける体制を続けていた。
ジロラモ・サヴォナローラ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
20 | 2 | 84 | 42 | 93 | 幻術 | 扇動 | 名声 | 柱石 | 寡欲 | 神火計 | 地域巡回 | 礼教 |
15世紀のフィレンツェ共和国の修道士。
フェラーラ侯国の出身で、22歳でドミニコ会の修道士となり、30歳でロレンツォ・デ・メディチ支配下のフィレンツェに赴任する。
メディチ家を始めとするフィレンツェの支配層の腐敗を非難して外国軍の侵攻を予言した。
そして、ロレンツォの死を知ったフランスがフィレンツェに侵攻してくると、予言が当たったと信じた市民の暴動によってメディチ家は追放され、新しい政府の顧問に迎えられる。
しかし、厳格な信仰に基づく生活を強要された市民は熱狂的な支持から強い敵意へと態度を変え、
更に対立したローマ教皇アレクサンドル6世から破門されたことをきっかけにフランシスコ会による異端糾弾の動きが始まってそれに呼応した市民による暴動が再発、
捕らえられたサヴォナローラは弟子と共に火刑にされた。
※ロレンツォ・デ・メディチはサヴォナローラの思想を危険視しながらも、その人格は高く評価して弾圧に踏み切れなかった。今日ではフスと共に非業の死を遂げた宗教改革の先駆者として評価する意見もある。
戦法に神火計を付けたのは、本人が火刑にされたからではなく、市民に化粧品やドレスなどの贅沢品や書籍や美術品を焼き捨てさせた「虚栄の焼却」の故事から。
ニッコロ・マキャヴェッリ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
71 | 53 | 88 | 78 | 68 | 崩壁 | 召募 | 論客 | 学者 | 史官 | 軍制改革 | 覇道 | ||||||
72 | 51 | 86 | 79 | 68 | 崩壁 | 召募 | 論客 | 学者 | 史官 | 軍制改革 | 覇道 |
15世紀末から16世紀前期のフィレンツェ共和国の政治家・外交官・歴史家。
青年時代はロレンツォ・デ・メディチとサヴォナローラの時代を過ごし、共和国政府の書記官として登用されると外交官や軍の参謀として活躍する。
当時イタリアで主流であった傭兵隊が自分の利益を優先して国益に反する行動を平気で取るのを見て国民軍導入などの軍制改革を行うが、メディチ家の復権によって追放される。
元々共和派であったが、チェーザレ・ボルジアの活躍などから当面は君主制による強力な国家建設を優先すべきという考え方に転じ、『君主論』・『ローマ史論』・『フィレンツェ史』などを著す。
メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世に重用されたことで、メディチ本家からも赦されるが、
その直後に共和派の反メディチ家クーデターが成功したために再び失脚、「裏切者」、「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と糾弾されて失意のうちに病死する。
※マキャヴェッリの死から5年後に神聖ローマ皇帝カール5世がフィレンツェを占領して共和派を滅ぼし、ロレンツォの曾孫・アレッサンドロをフィレンツェ公に任じて共和国は滅亡する。
「マキャベリズム」の祖と言われている割には処世術と運の無さは折り紙付き。
ジュゼッペ・マッツィーニ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
58 | 28 | 78 | 68 | 88 | 扇動 | 不屈 | 論客 | 動員 | 直情 | 縦横術 | 我道 |
19世紀のイタリアの思想家。「イタリア統一の三傑」の一人。
ジェノヴァ出身で、分裂したイタリアを再統一して民主的な共和国を樹立する「青年イタリア」運動を起こす。
1849年にローマで共和国樹立を宣言するが、ローマ教皇ピウス9世は共和国の破門とフランス軍の介入を要請して失敗に終わった。
その後、サルディニア王国主導による統一の動きに反発して抵抗するが、
ガルバルディらかつての「青年イタリア」の運動家の中からも統一を優先する立場からサルディニアへの協力をする動きを見せ始め、やがてイタリア王国による統一が実現する。
イタリア統一の先駆者としての評価は受けたものの、その後もイタリア王国を認めずに労働者の蜂起による共和革命を目指すが、
マルクスとの意見対立から社会主義勢力とも対立するようになり、左右両翼から批判される中で失意のうちに病死した。
※マッツィーニの没後、支持者達はイタリア共和党を結党して運動を続け、1980年代に1度だけ首相を出した(スパドリーニ内閣)が冷戦後の政党再編の波に飲まれて国政での議席を失って事実上の地方政党化している。
カミッロ・ベンソ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
54 | 44 | 92 | 94 | 68 | 論客 | 策士 | 能吏 | 王佐 | 輿望 | 先従隗始 | 王道 |
19世紀のイタリアの政治家。イタリア王国初代首相で「イタリア統一の三傑」の一人。カヴール伯爵。
カヴール侯爵の次男としてトリノで生まれ、父の領地経営を手伝う傍ら、鉄道会社や銀行を経営する。
後にサルディニア王国の憲法制定運動に加わって国会議員となる。
自由主義者とされていたため、サルディニア国王・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世から嫌われていたが、
首相のマッシモ・ダゼーリョは経済的な能力を評価して農商務相に起用した後に、自らの後継者に指名した。
首相就任後は経済・軍事改革を行って国力を高め、北東イタリアを支配するオーストリアと戦うためにフランスとの同盟を結び、更に共和派のガルバルディを味方に取り込んだ。
フランスの援軍やガルバルディの活躍でオーストリア軍を破ると、世論の支持を受けて北イタリアの大半を平定し、
ガルバルディの義勇軍が南イタリアを制圧したことでローマとベネチアを除いたイタリアの大半を統一した。
ただし、保守的なヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は度々彼の追放を計画し(ただし、その後任が得られずにすぐに呼び戻した)、
フランスにニースを割譲したことで同地出身のガルバルディの恨みを買うが、政治的な駆け引きでこれらを押さえ込むことに成功した。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王国の建国を宣言すると初代首相兼外相に任じられるが、3か月後に病気で急死した。
※日本では「カミッロ・カヴール」と呼ばれるのが一般的だが、カヴールは称号(功労によって兄から独立して伯爵が授けられた)なので正しい呼称とは言えない。
縁戚にフランス貴族が多くイタリア語は苦手で通常はフランス語を話していた。
兄である侯爵とはしばしば政治的に対立していたが、独身であったために最期まで兄の家で暮らしていた。
「三傑」の中では最初に死去しているが、三傑の他の2人からは勿論、主君である筈のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世からも終生嫌悪されていたなど、エピソードは尽きない。
ジュゼッペ・ガリバルディ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
97 | 90 | 92 | 52 | 98 | 神威 | 疾走 | 英名 | 森戦 | 胆力 | 単騎駆 | 破竹之勢 | 急襲 | 激励 | 攪乱 | 投石 | 鋒矢強化 | 我道 |
19世紀のイタリアの革命家。「イタリア統一の三傑」の一人。
ニースの出身で若い頃は船乗りであったが、分裂していたイタリアに共和国建国を目指すジュゼッペ・マッツィーニに共感して統一運動に加わる。
亡命先の南米で義勇兵として各地を転々としてゲリラ戦術を取得する。
イタリアに帰国後に共和革命運動を指揮して伝説的な戦いぶりを示すもフランスなどの介入にあって敗れ、一旦はカプレーラ島に退く。
後に現実主義的な立場からマッツィーニと決別してサルディニア王国によるイタリア統一に協力、陸軍少将の待遇でオーストリアとの戦いで活躍する。
その後、約1000人からなる義勇軍「赤シャツ隊」を率いてシチリア島に上陸、民衆の圧倒的支持を得て両シチリア王国の首都・ナポリを落として南イタリアを制圧する。
サルディニア王国が故郷のニースをフランスに割譲したことで、元々共和主義者であったガリバルディの離反が危惧されていたが、
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世との会見で軍職と征服地の返上を申し入れたことで内乱による統一の挫折は回避された。
その後は普通選挙運動に関わったものの、自らが議員などの政治家になることは固辞し続け、カプレーラ島の一介の農夫として余生を過ごした。
ローマ教皇庁・バチカン市国
ローマを本拠とする、イエスの使徒・ペトロに由来するとされる使徒継承教会。
495年に「キリストの代理者」を自認するなど、他の大司教に対する優位を宣伝した。
1054年の東方正教会との分裂以降は、特にカトリック(普遍派)を自認するようになった。
カトリックは、21世紀現在でキリスト教の最大勢力となっている。
476年の西ローマ帝国滅亡後、教皇に寄進された領地は存在したが、ローマ教皇庁が世俗の政権化するのは、
752年、フランク王国のピピン3世よりラヴェンナ地方の寄進を受けて以降である。
名目上はフランク王国領であったが、教皇の地位はフランク王国に左右されることはなく、
また800年、教皇レオ3世がカール1世を西ローマ皇帝に戴冠したことが、むしろ教皇の優位性(称帝には教皇の承認が必要)を示す根拠になった。
1798年、フランスのナポレオンによっていったん全領土を失ったが、ナポレオンの敗亡後、1814年のウィーン会議で復活した。
1870年、イタリア王国に併合され、再び全領土を失った。
1929年、イタリア王国とのラテラノ条約により、教皇庁が外交的には永世中立を保ち、イタリア内政に干渉しないことを条件に、
教皇庁のあるバチカン一帯のみが独立国として承認された。これがバチカン市国である。
ペトロ
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
67? | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
55 | 59 | 68 | 76 | 87 | 求心 | 使役 | 医術 | 動転 | 礼教 |
ローマ帝国シリア属州・ベツサイダ(エッ・テル?)の人。新約聖書の十二使徒の第一人者。ヨハネ(ヨナとも)の子。本名はシモン(シメオン)。弟にアンデレ。
漁夫であったがイエスの最初の弟子となる。イエスの信頼をうけ、アラム語で「ケファ(岩の欠片、石)」とあだ名された。「ペトロ」はラテン語訳の表記である。
キリスト受難に際してイエスとの関係を三度否認したが、それはイエスの予言通りだったという。
のち回心し、ヤコブ(イエスの兄弟)がエルサレム教団を率いるようになると、エルサレムを離れて伝道を始めた。
当時、イエスの教えはユダヤ人だけのものか、異邦人(非ユダヤ教徒)をも対象としているか議論があった。
ペトロは後者を取り、ローマ帝国の百人隊長であるコルネリウスを洗礼させた。
『新約聖書』では晩年は不明だが、外典である『ペトロ行伝』によるとローマへ伝道し、ネロの迫害を受けて殉教したという。
初代ローマ司教とされ、のちにカトリックによって初代ローマ教皇とされた。
※処刑された「ウァティカヌスの丘」が、バチカンの語源。現在でもバチカン市国領。ただし、プロテスタントからはエルサレムで没したなどの異論もある。
ディオニュシウス・エクシグウス
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
470? | 544? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
15 | 15 | 84 | 74 | 65 | 礼教 |
ローマ教皇庁の神学者。東ローマ帝国・小スキタイ地方(現:ブルガリア領ドブロジャ)の人。
ギリシャ語とラテン語に精通し、「生まれはスキタイだが真のローマ人」と評された。
トミス(現:コンスタンツァ)の修道院で修行し、496年頃からローマ教皇庁に仕えた。
ギリシャ語の聖典のラテン語翻訳に貢献。ニカイア公会議を始めとした4つの公会議を筆頭に、138の公会議の翻訳に携わった。
当時、キリスト教徒の暦は、ディオクレティアヌス紀元(ユリウス暦284年8月29日を元年)が使われていた。
ディオクレティアヌスによるキリスト教弾圧を忘れない意図があったが、ディオニュシウスは迫害者の名を残すことを嫌い、
525年、イエスの生年の翌年を元年とした「ab incarnatione Domini(主の体現より)」暦を提案した。これが今も使われる西暦(正式には"Anno Domini"「主の年」暦)である。
ディオニュシウスの計算は、アレクサンドリア教会のものを根拠としたという。
また当時、「イエス生誕から500年後にキリストの再臨と世界の終わりが来る」と考える者がいた。
そこで、既に500年を過ぎたことを示し、終末説を否定する意図もあったという。
西暦が教会に普及するのは7世紀から、一般人にも普及したのは16世紀以降である。
また、実際のイエスの生年はB.C.7~4年と推測され、西暦とは数年のズレがあるが、現在でもそのまま使われている。
チェーザレ・ボルジア
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1475 | 1483 | 1507 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
87 | 85 | 100 | 72 | 40 | 虚実 | 長駆 | 果敢 | 策士 | 動員 | 豪気衝天 | 酖毒 | 急襲 | 連弩 | 鯨波 | 投石 | 三軍強化 | 覇道 |
15世紀末から16世紀前期の聖職者・政治家・軍人。
スペイン出身のローマ教皇アレクサンドル6世ことロドリーゴ・ボルジアの子。
当時の教会の風潮により公然とアレクサンドルの実子として扱われ、父の教皇就任後に17歳でバレンシア大司教、翌年には枢機卿に任じられた。
アレクサンドル6世とフランス国王ルイ12世の和睦に際してフランスのヴァランス公爵に任じられて特別に枢機卿を辞任して俗世に戻ることが許され、ナバラ王国の王女を妻とする。
父から教皇領軍の軍司令官に任じられると、イタリア各地に勢力を広げてロマーニャ公爵の称号を与えられる。
軍事に秀でただけでなく謀略にも優れ、数多くの暗殺・粛清に関与したと伝えられ、
その勢いを恐れたイタリア諸国は度々反チェーザレ連合を画策するが、そのたびにこれを撃破している。
ところが、父のアレクサンドル6世が急死して政敵のユリウス2世が教皇に就任するとロマーニャの没収とチェーザレ討伐を号令、
その呼びかけに応じてフランスがチェーザレとの同盟を破棄してヴァランスを没収、
更に同じく呼びかけに応じたスペインの謀略で捕虜として連行されてしまう。
その後、脱獄して妻の母国であるナバラへの亡命に成功すると、その客将としてスペインとの戦いに参加するが、31歳の若さで戦死した。
※チェーザレの実の弟や妹婿も彼に暗殺されたと言われ、スペインは弟殺害の容疑で捕縛を正当化している(父のアレクサンドル6世がスペイン人であるため、チェーザレ兄弟も自国民だという論理)。
また、マキャヴェッリは存命中はチェーザレと敵対していたために激しく批判していたが、チェーザレが死ぬとイタリアには彼のような指導者が必要と考えるようになり、『君主論』を著す一因となった。