みんなの新武将/西晋・東晋/東晋後半

Last-modified: 2024-05-02 (木) 17:23:17

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

東晋後半

桓温の台頭から、劉裕の簒奪による滅亡までを扱う。

前半は東晋を参照



皇帝・皇室(宗室)

司馬昱(道万)

生年登場没年死因
320335372自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
419386767割拠

【シバイク(ドウマン)】
東晋の8代皇帝、簡文帝。元帝(司馬睿)の末っ子。母は鄭夫人。
幼少より聡明で、元帝に目を掛けられていた。寡欲で、清談を得意とした。
また、桓温は若い頃よりの学友だったようである。
幼帝が続く中、皇族の中心人物となり、345年、撫軍大将軍・録尚書六条事となった。
桓温が成漢征伐を計画すると、劉惔は桓温の野心を警戒して、司馬昱に承認しないよう説いた。
しかし司馬昱は、桓温の出兵を認め、桓温は成漢攻略に成功した。
後趙の石虎が死去すると、桓温は北伐の好機を主張したが、司馬昱らは桓温の功績が突出しすぎないよう
殷浩に出撃させた。しかし殷浩は失敗し、桓温は一時洛陽を回復する戦功を挙げたので、むしろ桓温の権勢が増す結果になった。
366年、丞相となった。371年、桓温によって皇帝に擁立された。372年、重体になると「桓温を摂政とし、
周公旦の故事のようにせよ」と遺勅を用意した。しかし王坦之は遺勅を破り捨て、「天下は宣帝?・元帝より受け継いだものです。陛下の勝手にはできません」
と主張したので、王坦之・謝安らの主導で「桓温に輔政させ、諸葛武侯?・王丞相(王導)のようにせよ」と改めた。その後まもなく死去した。

親愛武将:桓温

司馬曜(昌明)

生年登場没年死因
362372396不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3416102956酒乱軽率挑発

【シバヨウ(ショウメイ)】
東晋の9代皇帝、孝武帝。簡文帝(司馬昱)の六男。皇后は王法慧。
桓温の禅譲工作の影響でなかなか即位が決まらなかったが、王坦之・王彪之・謝安の尽力で即位した。
初期は謝安らが実権を握り、税制を土地単位から人頭税に変えるなどの改革を行った。
376年の元服後も、前秦の脅威があったので集団指導体制は続き、383年、淝水の戦いで前秦を退けた。
しかし謝安らの死後、孝武帝の親政になると、前秦の崩壊に付け込めず、酒色に溺れるようになり、実権を握った弟・司馬道子とも対立したようである。
396年、酒宴で側室の張貴人に「お前ももう年だからお役御免だな」と軽口を叩いた。そこで張貴人は宦官を買収し、
召使いを孝武帝の寝所に忍び込ませ、布団の上から窒息死させてしまった。

司馬徳宗(徳宗)

生年登場没年死因
382396419不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
121145

【シバトクソウ(トクソウ)】
東晋の10代皇帝、安帝。孝武帝(司馬曜)の長男。皇后は王神愛。
重度の知的障碍者で、話すこともできず、暑さ寒さも理解できなかったという。
当初は司馬道子・司馬元顕父子が実権を握るが、孫恩の乱を招き、司馬道子父子が桓玄に殺されると、
桓玄は安帝に迫って帝位を簒奪した。桓玄の敗死後に復位したが、今度は桓玄を討伐した劉裕が帝位を狙うようになった。
弟の司馬徳文が護衛していたが、419年、劉裕の意を受けた王韶之は徳文のいない隙を狙い、司馬徳宗を暗殺した。
当時、讖に「昌明(孝武帝)の後、なお二帝有り」と謳われていたので、
劉裕は二人目の皇帝として、弟の徳文(恭帝)を擁立した。
親愛武将:司馬徳文

司馬徳文(徳文)

生年登場没年死因
386400421不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4743685369護衛

【シバトクブン(トクブン)】
東晋の11代皇帝、恭帝。孝武帝の次男。皇后は褚霊媛。
始め琅邪王となり、司徒、車騎大将軍、大司馬などを歴任した。兄の安帝(司馬徳宗)を護衛したが、
劉裕の魔の手から逃れることは出来なかった。兄の暗殺後、劉裕に後継に擁立されるが、始めから禅譲前提の傀儡だった。
しかし禅譲を迫られると、「桓玄が簒奪した時に、晋は滅んでいるはずだった。劉公(劉裕)によって
20年寿命を延ばせたのだから、何を恨む事があろう」といったとされている。
420年、劉裕に禅譲し、劉裕は宋の皇帝(武帝)に即位した。司馬徳文は零陵王となった。
司馬徳文は毒殺を恐れ、常に褚霊媛と行動を共にし、目の前で火を通した食べ物しか口にしなかった。
しかし褚霊媛の兄弟は劉裕に通じていて、徳文との間に男子が生まれるたびに殺していた。
421年、褚叔度が妹の褚霊媛を呼びだした隙に押し入った劉裕の兵に暗殺された。仏教徒を理由に服毒自殺を拒んだため、撲殺されたという。
禅譲を受けた前皇帝が殺されるようになったのは、この時からである。

親愛武将:司馬徳宗

一般臣下

桓温(元子)

生年登場没年死因
312373自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9475909285奸雄長駆英名徴税高慢彊壮進軍斉射挑発罵声駆逐戸籍整備 5覇道

【カンオン(ゲンシ)】
東晋の将。桓彝の長男。一説には桓範?の一族。妻は司馬興男(明帝・司馬紹の娘)。
父の仇を弔問と偽って江家に乗り込み、その息子3人を殺して仇を討ったという。
荊州刺史に起用され、四川の成漢を滅ぼし声望を高め、北伐では西晋の旧都洛陽?を奪還した。
前燕が勢力を拡大し洛陽が奪われると三度目の北伐を行うが、前燕の慕容垂の軍に大敗する。
司馬昱(簡文帝)を擁立するも、簡文帝は翌年に病死する。
簡文帝は臨終に際し桓温に禅譲しようとも考えるが、謝安らの反対で取りやめ、
桓温に対し「諸葛亮?や王導のように」と遺詔した。
桓温はなおも禅譲を目指すが、謝安らの反対により失敗して死去した。

親愛武将:庾翼、司馬昱

殷浩(淵源)

生年登場没年死因
356自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5443597075泰然名声功名粗忽惰弱斉射挑発罵声兵站改革名利

【インコウ(エンゲン)】
東晋の政治家。
清談に優れて名声を高めた。
出仕せず隠棲を続けたため、益々名声が高まり世間から管仲、諸葛亮と比較された。
桓温に対抗できる人材として朝廷から期待され、度重なる招聘の末に出仕。
石虎の死で華北が乱れると北伐軍の大将となり、桓温を差し置いて北伐を敢行。
一時は許昌を制圧するが、各地に割拠する賊徒を慰撫できず、
さらに自軍の姚襄との仲違いの末に散々に打ち破られ北伐は失敗した。
桓温の上奏で庶人に落とされたが、失脚後も言動に変化はなく、終日「咄咄怪事」の四字を空に書いて過ごしたという。
のち、桓温は尚書令として復帰させると通知した。殷浩は喜んで返事を書いたが、書き間違いが無いか不安になり、
数十回も封緘し直した挙句に空の手紙を出してしまい、桓温の怒りを買って無かったことにされた。その後まもなく病死した。

郗超(景興)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3218876446妙算諌止策士教唆混乱挑発鎮静上兵伐謀覇道

【チチョウ(ケイコウ)】
東晋の政治家。大尉・郗鑒の孫。
桓温と深く親交を結び、その幕僚として補佐した。
父の手紙を改竄して桓温が北府の実権を握れるよう策謀したり、
廃帝を廃して簡文帝を擁立するよう薦めるなど、桓温の東晋内外における勢力拡大に貢献。
枋頭の戦いでは、補給の難しさから速攻で?を目指し兵糧は現地調達するか、
もしくは来年の夏を待って兵糧を十分に貯めてから攻め入るよう進言したが容れられず、結果桓温は慕容垂に大敗した。
桓温に重用されていたため、朝廷における権勢は一時王坦之、謝安ら門閥出身者を凌いだという。
※「郗」は認識されないので、代わりに「希」などを用いる。(PC版)

桓豁(朗子)

生年登場没年死因
320377自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7666657181

【カンコク(ロウシ)】
東晋の政治家・将軍。桓彝の三男。
兄・桓温の北伐に従軍し、許昌を攻略した。桓温が死去すると、征西将軍・都督・荊梁雍交広五州諸軍事として、西府軍を継承した。
しかし前秦の侵攻に苦戦し、376年には弟・桓沖と共に前涼救援の兵を送ったが、前涼は前秦に滅ぼされた。
桓豁は毛穆之・朱序を襄陽?に駐屯させ、荊州の防備を固めさせたが、まもなく死去した。

当時、「誰が堅い石を打ち砕けるというのか」という歌が流行った。
桓豁はこの歌を「前秦の苻堅を倒すのは、石の名を持つ者」と解釈し、自分の20人の息子全てに「石」を入れた名を付けた。
桓石虔のように将軍として活躍した者もいたが、苻堅を破った淝水の戦いに参陣したのは
息子のいずれでも無い、謝石(謝安の弟)だった。

桓沖(幼子)

生年登場没年死因
328343384自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8779807183剛将一心沈着地利寡欲聡明剛毅奮戦斉射鯨波駆逐文事武備王道

【カンチュウ(ヨウシ)】
東晋の将。桓彝の五男。
博識で武幹があり、兄・桓温の元で各地で功を挙げ、桓温死後は桓氏の棟梁となった。
兄・桓豁が亡くなるとその代役で荊州に移り、西方の軍事を統括。
当時華北を統一した苻堅が強勢で、襄陽が陥落し、朱序が捕虜となるなど苦戦するが、
反攻して魏興、上庸、新城を平定するなど一進一退の攻防を展開した。
東晋の軍事を裁くのは自分だと自負しており、謝安の軍才には懐疑的だったが、
謝安が抜擢した謝玄らが淝水で大勝すると元々の病に慙愧が重なり病没した。
東晋に忠誠を尽くしたため桓玄敗亡後に孫の桓胤が処刑を免れている。

習鑿歯(彦威)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
135736476詩想史官学者鎮静太学礼教

【シュウサクシ(ゲンイ)】
東晋の政治家。
博学にして文筆の才能で誉れ高く、桓温にも高く評価された。
長らく桓温の下で属僚を務めたが、簒奪を狙う桓温の前で簡文帝を褒めた事で左遷された。
桓温の野望を阻止するために『漢晋春秋』を著して蜀漢正統論を主張した。
襄陽が前秦の版図となると道安と共に苻堅に召されて厚遇されたが、病で帰郷した。
まもなく襄陽が東晋に戻ると朝廷から典国史に任命されたが、職に就く前に病死。
臨終間際にあってなお自身の蜀漢正統論に向けられた異議への反駁を上疏した。

桓石虔

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7495653963疾走威風豪傑猛者血路単騎駆突撃牽制大喝駆逐鋒矢強化3覇道

【カンセキケン】
東晋の武将。桓豁の子。桓温の甥。幼名は鎮悪。
勇猛果敢で抜群の素早さ、身のこなしを誇り、格闘戦で猛獣すら手玉にとるほどであった。
桓温の北伐に従軍し、関中で叔父の桓沖が前秦軍に囲まれ窮地に陥ったときには、
単騎で数万の包囲を突破して無事に桓沖を救出した。
この芸当に敵軍は震撼し、「桓石虔が来るぞ」と言えば敵国の数多くの病人が恐怖から病が癒えたという。
その後は、寿春?の叛乱征討で功績を上げ、益州が前秦に征服されると巴東を回復した。
淝水の戦いに際しては、前秦軍に対する牽制として樊城を掠している。

謝安(安石)

生年登場没年死因
320385自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6617859593泰然封殺使役名声柱石挑発罵声鼓舞墨守研究3割拠

【シャアン(アンセキ)】
東晋の宰相。陳郡陽夏県の人。謝裒の三男。妻は劉氏。
将来を嘱望されたが、若い頃は出仕せず王羲之と交流を深め、清談に耽った。
先に仕官した長兄の謝奕に先立たれ、弟の謝万が失脚すると、41歳で初めて仕官し、桓温の司馬となる。
簒奪の野望を見せる桓温に対して強硬に反対し、
結果桓温の寿命が先に尽き、東晋は命脈を保つことになる。
華北を統一した前秦の苻堅が中国の統一を目指し50万の大軍で南征すると、
征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した。
この功績で太保となり北伐を計画するが、皇族の権力者司馬道子に止められる。
司馬道子らに警戒されて左遷され、広陵歩丘で病没した。

謝万(万石)

生年登場没年死因
320361自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4229686439粗忽高慢挑発

【シャマン(マンセキ)】
東晋の武将・政治家。謝裒の四男。謝安の弟。
若くから才能が評価され、言論と作文に優れた。しかし人格面は謝安に及ばないと評された。
実権を握る司馬昱に召し出され、従事中郎、呉興太守を歴任。
358年、兄の謝奕が死去し、豫州刺史の地位を受け継ぎ、持節・監司豫冀并四州諸軍事を兼ねた。
しかし軍事的能力は疑問視されており、王羲之は桓温に、謝万を任用しないよう説得したが、容れられなかった。
北伐に当たって、偉そうにしていたので、心配して付いて来た謝安は、部下を慰撫するよう忠告した。
しかし謝万は、激励のつもりで将軍達に「諸君は最強の兵士だ」と演説し、「将軍を一兵卒呼ばわりするのか」と恨まれる始末だった。
謝安が代わりに丁寧に詫びて回った。
359年、桓温が奪回した洛陽が前燕に攻められ、歴陽に駐屯していた謝万は救援したが大敗。遁走して軍は壊滅した。
諸将にはこの際、謝万を殺してしまおうという者がいた。「隠士(仕官前の謝安)に免じて」殺されずに済んだが、官職を罷免され、庶人に落とされた。
361年、散騎常侍として官界に復帰するが、まもなく死去した。

『世説新語』によると、謝安の催した宴席で便意を催し、慌てて兄に便器の場所を聞いた。
同席していた阮裕は、その様子を見て「成り上がり者は人情に厚いが礼儀を知らない」と評した。

謝玄(幼度)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9385903467神機一心扇動水戦召募錦帆強襲突撃混乱駆逐強襲鋒矢強化4割拠

【シャゲン(ヨウド)】
東晋の将。謝安の甥。
孝武帝の時代、前秦の苻堅が南下して国境を脅かしていた。
謝玄は、叔父・謝安から江北諸軍事・兗州刺史を委任され広陵から出陣、
淮水の南で前秦の軍を破る功績を挙げた。
さらに苻堅は、弟の苻融・苻方・梁成・慕容暐・慕容垂らを先鋒とし、
自ら大軍を率いて再び南下する。
謝玄は北方からの避難民を再編して「北府軍」と称し、
率いて洛澗を攻撃し、前秦軍の先鋒・梁成を討った。
続いて淝水に進み、前秦軍を撃破、苻融を戦死させる大勝利を得た。

謝石(石奴)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8075687247堅守扇動文化強欲突撃鉄壁撹乱駆逐強襲方円強化名利

【シャセキ(セキド)】
東晋の武将、政治家。謝安の弟。
前秦の淮南侵攻では水軍を率い、謝玄らの勝利に貢献した。
苻堅の大群が南進すると征虜将軍仮節・征討大都督となり、
謝琰・謝玄・桓伊らを率いて抗戦する。
朱序が投降勧告の使者として赴くと、前秦軍の先鋒を撃って士気を奪うという朱序の作戦を容れる。
苻堅を挑発して淝水を渡河すると見せて前秦軍の先鋒を後退させると、
その勢いに乗じて前秦軍を攻め、大破した。
中軍将軍・尚書令となると、学校を復興して教育に力を注いだ。
軍功や治績を上げる反面、強欲で豪奢だったため評判は良くなかった。

朱序(次倫)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8978876077機略扇動堅牢改修突撃鯨波混乱鼓舞駆逐工法改革割拠

【シュジョ(ジリン)】
東晋、前秦の武将。
司馬勲の反乱を鎮圧し、司馬勲を捕縛した。
桓温の北伐に従い、前燕の傅顔を撃破する功績を上げる。
苻堅の南進により襄陽?を包囲され1年に渡って防衛するが、
配下の李伯護が内応して開城したため前秦に捕えられる。
苻堅は朱序を厚遇したが靡かず、淝水の戦いでは東晋の謝石に内応し、
前秦軍の中で「秦軍敗れる!」と叫び回って混乱させ、東晋軍に勝利をもたらした。
東晋復帰後は洛陽?を守備し、西燕の慕容永の侵攻を迎撃して敗走させ上党まで追撃した。
さらに、その隙に洛陽を攻めた後燕の翟遼も反転して撃ち破った。

劉牢之(道堅)

生年登場没年死因
402不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8390371057掃討威風消沈優柔粗暴疾風怒濤奮戦牽制撹乱駆逐鋒矢強化名利

【リュウロウシ(ドウケン)】
東晋の武将。
驍勇を以て謝玄の募兵に応じ、精鋭を率いて先鋒を務め、百戦百勝の盛名を誇った。
淝水の戦いでは前秦の将・梁成を斬るなど功績を上げた。
華北の混乱に乗じて北伐し、?まで到るが後燕の慕容垂に敗れ退く。
王恭の参軍を務めるが、王恭が叛乱を起こすと司馬元顕の調略で寝返り王恭を斬殺した。
孫恩の乱を配下の劉裕(後の宋の武帝)の活躍もあって鎮圧。しかし、民への掠奪と虐殺は孫恩軍より酷かったという。
桓玄が司馬元顕に叛旗を翻すと、劉裕ら部下の反対を押し切って桓玄へ寝返った。
その後、桓玄に対して叛乱を図り、3度の裏切りに劉裕らに見限られ、逃亡し自縊した。

桓玄(敬道)

生年登場没年死因
369373404不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7169796024梟雄捕縛消沈浪費悪名斉射足止混乱駆逐上兵伐謀覇道

【カンゲン(ケイドウ)】
東晋の武将、政治家。桓楚の皇帝。桓温の末子。
桓温の簒奪の野心ゆえに警戒され重用されず、棄官して隠遁する。
司馬道子の政治に対する反乱の気が起こったため、
朝廷は広州刺史に任じて厚遇しようとするが、任地に赴かず王恭の反乱に呼応した。
反乱は失敗したが兵を退いたことを評価され、江州(九江)刺史に任じられた。
孫恩の乱に乗じて荊州(江陵)・雍州(襄陽)を奪い取り勢力を拡大。
建康に侵攻して司馬道子を排し、東晋の実権を握る。
帝位を簒奪し楚(桓楚)を建国したが、劉裕(後の劉宋の武帝)に敗死し、約半年で滅亡した。

張禕

生年登場没年死因
420?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2314485866

【チョウイ】
東晋の政治家。呉郡の人。張裕の弟、張邵の兄。『資治通鑑』では「張偉」。
子供の頃から素行の良さで知られた。
恭帝(司馬徳文)が琅邪王となると、郎中となった。
恭帝が即位すると、実権を握る劉裕は、恭帝に取り立てられ親しい張禕を利用しようとした。
ある時劉裕は、張禕に毒酒を渡して恭帝を暗殺するよう命じた。
張禕は「主君を毒殺して生き延びるなら、世間は何というだろう。私が死んだ方がマシだ」と、
自分で毒酒を飲んで死んだ。『晋書』では、張禕は晋最後の忠臣として「忠義伝」の末尾に立伝されている。

『宋書』によると、劉裕が恭帝の毒殺を企てたのは即位前で、司馬徳文が外地から建康に戻るタイミングで
張禕に毒殺を命じ、張禕は同様の最期を遂げたという。

親愛武将:司馬徳文

顧愷之(長康)

生年登場没年死因
344?405?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1411792580詩想泰然文化混乱挑発工法改革我道

【コガイシ(チョウコウ)】
東晋の画家。中国絵画史上おいて重要な人物であり「画聖」と呼ばれる。
肖像画を得意としており、同時代の謝安は「顧愷之の絵は、人類史上始まって以来のものだ」と絶賛された。
若くして桓温の幕僚となり、画才・文才を高く評価された。
その一方で熱中癖がある変人でもあり、
「才絶(文才の極み)」「画絶(画才の極み)」「痴絶(阿呆の極み)」の三絶を備えていると言われていた。
桓温の死後は、謝安や桓玄らの有力者の庇護を受けながら渡り歩き、最後には東晋を滅ぼす劉裕に接近して官職を得た。
残念ながら現在では顧愷之が描いた絵は散逸して残ってはいないが、模写された作品ならいくつか残っている。

陶潜(淵明)

生年登場没年死因
365?384?427自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
74756371楽奏詩想泰然罵声地域振興我道

【トウセン(エンメイ)】
東晋~南朝宋(劉宋)の詩人、文学者。諱よりも字で「陶淵明」としてよく知られている。
陶侃の曾孫を称するが、出自は疑わしい。
桓玄、劉裕の幕僚として仕えていたこともあるがいずれも短期間で辞めている。
彭沢県の県令を辞した後は故郷で隠遁生活を送り、帝位についた劉裕の招聘を受けても応じることはなかった。
「帰去来辞」や「桃花源記」の2作品が特に有名。

嫌悪武将:劉裕

孫盛(安国)

生年登場没年死因
302?311373?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5223727544運搬論客史官補佐強欲太学3名利

【ソンセイ(アンコク)】
東晋の政治家・歴史家。孫資の玄孫、孫楚の孫。子は孫潜と孫放。曾孫に孫康がいる。父の孫洵は潁川郡太守だったが賊に殺された。
10歳の頃戦乱を避けて江南に移住し東晋に仕官、陶侃・庾亮・桓温の参軍となった。王導と庾亮の間を仲裁したり、
桓温の蜀(成漢)征伐や北伐に従軍。成漢征伐では老兵や輜重を率いて後方にいたが、敵軍の奇襲を受けた。孫盛は諸将の指揮系統を整理し、力を合わせて撃退した。
蜀征服後、劉備の曾孫の劉玄に会っている。長沙郡太守、秘書監を経て72歳で死去。
『魏氏春秋』『晋陽秋』『蜀世譜』『異同雑語』等の著作を遺し、裴松之が『三国志』注で頻繁に引用したことで知られる。
『晋陽秋』に桓温の北伐失敗を記録したため、桓温は子供達に消すよう圧力を掛けた。孫盛は、子供達が改竄に応じたことに気付くと、
敵国である前燕の慕容儁に原本の写本を贈呈した。のちに遼東に伝わる(慕容儁に贈呈した)『晋陽秋』と比較した結果、東晋に残った版と
多くの異同があったという。どちらの版も改めて朝廷に保存され、少なくとも唐まではどちらも残っていた。

※ 個性の運搬は蜀征伐で輜重を担当したこと、論客は王導と庾亮の間を仲裁した逸話や清談の名手だったこと、
  強欲は出世すると私腹を肥やすようになったという逸話から。裴松之からは習鑿歯と合わせて「異同を捜し求めて漏洩なし」と称賛されているが、
  登場人物の発言を勝手に創作する傾向があり批判もされている。
 『晋陽秋』は本来『晋春秋』となるはずだったが、簡文帝の生母・鄭阿春の諱を避けた表題。

在野

譙秀(元彦)

生年登場没年死因
268?357?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
614623668寡欲

【ショウシュウ(ゲンゲン)】
巴西郡安漢県の人。在野の士。譙周の孫で譙熙(譙周の長男)の子。
清浄な性格で、乱世を予感し、人付き合いを避けた。益州が成漢の手に落ちると、李雄・李驤は何度も招聘したが、応じなかった。
鹿革の冠を被り、ボロボロの衣服を着て、自給自足の生活を送っていた。
347年、桓温が成漢を平定すると、上表して譙秀の登用を主張した。しかし朝廷では、
高齢であり蜀は遠隔地であるという理由で採用せず、ただ身の回りの世話人を宛がった。
范賁・蕭敬文らが反乱を起こすと、一族の者数百人は彼に避難を勧めたが、
「私は気力・体力も十分あるから、他の者を先に避難させなさい」と応じなかった。
それから10年ほどして、家で亡くなった。