注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
イギリス
ヨーロッパ北西部に位置し、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの地域によって構成される立憲君主制国家。
正式名称は「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」。
1066年にノルマンディー公であったウィリアム征服王がイングランドを征服し、現在も続く王室の祖となった。
以後イングランドはウェールズ、スコットランド、アイルランドを併せていき、
議会政治の発達、産業革命、時節に叶った軍事・外交等を経て国家の近代化を成し遂げ、
19世紀には全世界の陸地と人口の4分の1が支配下にある世界帝国を実現した。
これは世界で歴史上最大の帝国である。
二度の世界大戦や各植民地等の独立を経てその覇権をかつて植民地だったアメリカ合衆国に譲るも、
現在でも国際連合の常任理事国の一員を占め、欧州の中での大国として依然存在感が大きい。
革命戦争、ナポレオン戦争期の人物はイギリス(革命戦争・ナポレオン戦争)を参照
プランタジネット朝以前
ブーディカ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 80 | 31 | 20 | 68 | 森戦 | 昂揚 | 動員 | 粉砕 | 粗暴 | 急襲 | 鯨波 | 侵略荒廃5 | 割拠 |
紀元1世紀、ブリタンニアの現イギリス・ノーフォーク地域を治めていたケルト人イケニ族の女王。
夫プラスタグスの死後王国を乗っ取り自身や娘達に恥辱を加えたローマ帝国に対し、周辺の諸部族を纏め上げ大規模な反乱を起こす。
ローマ軍団を打ち破り大勢のローマ人を虐殺するが、反撃体制を整えたブリタンニア総督スエトニウスとのワトリング街道の戦いで、
多勢ながらローマ軍に一方的な大敗を喫する。その死は服毒自殺とも病死ともいわれる。
ルネサンス期にその事績が再発見され、ヴィクトリア朝の時代に人気が高まった。
※ 中国語では布狄卡。
※ 能力はだいたい趙氏貞に合わせています(20万とも言われる大勢の軍勢を従えたなど、事績から一部変更しています)。
アルフレッド大王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
100 | 97 | 89 | 96 | 85 | 神将 | 掃討 | 水戦 | 文化 | 操舵 | 瞞天過海 | 錦帆強襲 | 奮戦 | 斉射 | 強襲 | 矢嵐 | 水軍育成 | 王道 |
アルフレッド大王は、イングランド七王国のウェセックス王。
約100年続いたデーン人(北欧ヴァイキング)の侵攻を食い止め、衰退したイングランドのキリスト教文化を復興し、古英語での読み書きを習慣化した王として知られる。
アングロ・サクソン時代最大の王とも称せられ、イギリスの歴史において大王と称される君主である。
また、海上で敵を迎え撃ち、上陸を阻止するための海軍力の適正運用を行った初めての君主として、しばしば英国海軍の父と称される。
晩年のアルフレッドは、デーン人の侵略によって荒廃したイングランドの復興に従事した。
度重なる侵攻によって荒廃したロンドンをアルフレッドは立て直した。
この際、当時の主流であった木造建築ではなく、石の建材が用いられた可能性がある。
ロンドンの他にも外敵からの防衛拠点としての役割を持たせたバラの建設など後世に引き継がれていく政策など行っている。
ウィリアム1世
生年 | 登場 | 没年 |
1027年 | 1087年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 80 | 84 | 87 | 83 | 機略 | 明鏡 | 長駆 | 法律 | 徴税 | 機略縦横 | 鎮静 | 斉射 | 文事軍備 | 覇道 |
イングランド王国のノルマン朝初代国王。
元々はフランスのノルマンディー公ギヨームであったが英王エドワードの死後、
縁戚関係から王位を主張し1066年に軍を率いてグレートブリテン島に渡りヘイスティングスの戦いで
英王ハロルドを倒し自らが英王ウィリアム1世として即位した。
ゴダイヴァ
生年 | 登場 | 没年 |
990年頃 | 1067年?(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
27 | 16 | 72 | 65 | 80 | 諌止 | 慈悲 | 歳出改善 | 王道 |
中世イギリスの女性。マーシア伯レオフリックの妻。
レオフリックが支配するコヴェントリーにて重税を課した際に夫に減税を求め、
夫が減税の条件に裸で馬に乗り街を練り歩く条件を出すが、ゴダイヴァは求めに応じて
コヴェントリーの街中を裸で馬で回る事を行い、減税を勝ち取った伝説が残る。
プランタジネット朝期
リチャード1世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 96 | 44 | 26 | 82 | 神威 | 築城 | 詩想 | 英名 | 直情 | 神威穿貫 | 奮戦 | 突撃 | 斉射 | 大喝 | 三軍強化3 | 王道 |
イングランド王国プランタジネット朝2代国王。獅子心王と称される。ヘンリー2世の三男。父と領地をめぐって対立し、
その死後1189年に即位する。第3回十字軍に参加し、その勇猛ぶりは敵であるアイユーブ朝のサラディンをも感嘆させた。
帰国途中オーストリア公レオポルト5世に捕らえられるが身代金と引き換えに釈放、敵対する弟ジョンやフランス王フィリップ2世と争う。
1199年にシャリュ城を攻略中に肩に矢を受けその傷が元で死去。
治世の大半をイングランド外で過ごし、内政を顧みず国家財政を悪化させたことは次代に禍根を残した。
※ 中国語では理查一世。查の字は上から木、日、一と書く(「査」とは異なる)。
※ 能力値は馬超に似せています。
ジョン欠地王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
28 | 46 | 65 | 17 | 6 | 詐謀 | 扇動 | 徴税 | 悪名 | 高慢 | 挑発 | 罵声 | 強襲 | 水軍育成4 | 我道 |
イングランド王国プランタジネット朝3代国王。ヘンリー2世の五男。父から領地を与えられなかったことから欠地王と称される。
父や兄リチャード1世に反旗を翻し続け、兄の死後1199年に即位する。自身の結婚問題からフランス王フィリップ2世と対立し、
大陸内のイングランド領を大半奪われた。ローマ教皇に破門され臣従したのを機にフィリップ2世に一時攻勢に出るもまたしても敗れ、
ジョンの失政に対する国内諸侯や民衆の反発を受け、王権を制限するマグナ・カルタを認めさせられた。
その後再び国内諸侯らと争うも1216年赤痢で病死した。
※ 中国語では约翰、約翰。
※ 現在でも再評価(海軍の強化など)の声はあれど評判の芳しくないイギリス王。信長の野望の一部シナリオでは劉禅と共に今川氏真の勢力下にいたりするなど、
公式からも一時ネタキャラとしての扱いを受けていた。本作でも三馬鹿トリオによる中原統一に挑戦してみるのも一興かもしれない。
※ 能力は孫綝に似せています。政策は、海軍を育成し一時仏軍を破った功績から。
アーサー(ブルターニュ公)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 79 | 44 | 50 | 76 | 昂揚 | 果敢 | 召募 | 軽率 | 突撃 | 攪乱 | 投石 | 駆逐 | 軍制改革4 | 覇道 |
イングランド国王ヘンリー2世の四男・ジョフリー(ジョフロワ)の子。
母のブルターニュ女公コンスタンスからブルターニュを継承する。
伯父のリチャード1世は初めは弟のジョンを嫌って甥のアーサーを事実上の王太子とみなしていたが、
リチャードがフランスのフィリップ2世と対立するとフィリップに近いコンスタンスの影響力を排除するためにジョンを後継者に指名して死去した。
リチャードのこの判断は母のアリエノール・ダキテーヌと事実上の宰相であるウォルター・ヒューバードの賛同を得てジョンが王位に就く。
これを覆そうと、フィリップの支持を受けて挙兵をすると祖母・アリエノールのいるアキテーヌに攻め込むが、ジョン側の軍勢に敗れ、姉のアリエノール(祖母と同名、エレノアとも)と共に捕らえられる。
アーサーは1203年に16歳で殺害され、19歳の姉のアリエノールも1241年に死去するまでイングランドのコーフ城に幽閉された。
アリエノール・アーサー姉弟への仕打ちはジョンを支持したイングランド貴族にも不信感を高めた。
※ フランス名は「アルテュール」。
※ 能力は劉封に似せています。
ヒューバート・ウォルター
生年 | 登場 | 没年 |
1205年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 36 | 91 | 93 | 73 | 王佐 | 徴税 | 法律 | 工面 | 能吏 | 鎮静 | 激励 | 牽制 | 先従隗始 | 礼教 |
プランタジネット朝イングランド王国の聖職者・政治家。
英王リチャード1世に仕えて第三回十字軍に参加し、帰国途中にオーストリア公に
捕らえられたリチャード1世の身代金を工面している。
この功績により英国の聖職者と政治家の頂点であるカンタベリー大司教と大法官に
任じられ財政収入の増加や法律の改革等の内政面に功績を挙げリチャード1世の死後はジョンを擁立した。
ジェラルド・オブ・ウェールズ
生年 | 登場 | 没年 |
1146年 | 1223年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 32 | 86 | 75 | 62 | 論客 | 召募 | 徴税 | 学者 | 法律 | 罵声 | 挑発 | 牽制 | 地勢研究 | 割拠 |
中世イギリスの聖職者。
ウェールズ在住のノルマン人貴族の家に生まれて同時にウェールズ王族の血を引く複雑な立場にあり、
当初はイングランド王国の官吏として司教を目指したがウェールズ人の血を引く事で蔑まれて妨害された。
ウェールズ人としての意識に目覚めイングランド王国によるウェールズ地方の教会に対しての支配を脱して教会の独立を目指し、
イングランド王やカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターらと対立、ローマ教皇インノケンティウス3世とも接触したが失敗に終わり隠棲した。
嫌悪武将:ヒューバート・ウォルター
ウィリアム・マーシャル
生年 | 登場 | 没年 |
1146年 | 1219年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 97 | 72 | 75 | 84 | 勇将 | 一騎 | 柱石 | 築城 | 召募 | 鎧袖一触 | 鯨波 | 激励 | 奮戦 | 突撃 | 文事武備 | 王道 |
プランタジネット朝イングランド王国の騎士。威廉·马歇尔
元は身分の低い騎士であったが、若い頃に参加した馬上槍試合では負けなしの強さを誇り
王子だった頃のリチャード1世が反乱を起こした際に一騎打ちをして落馬させた。
ヘンリー2世と若ヘンリー王からヘンリー3世の時代まで仕え、1189年にペンブルック女伯イザベルと
結婚した事によりペンブルック伯となり王国の有力者となり、晩年には幼いヘンリー3世の摂政を務めて
フランスと手を結んだ反乱貴族と戦った。
親愛武将:ヘンリー2世 ヘンリー リチャード1世 ジョン ヘンリー3世
シモン=ド=モンフォール
生年 | 登場 | 没年 |
1208年 | 1265年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 72 | 75 | 82 | 79 | 驍将 | 不屈 | 捕縛 | 調練 | 王佐 | 深謀遠慮 | 急襲 | 牽制 | 挑発 | 鼓舞 | 経世済民 | 割拠 |
プランタジネット朝イングランド王国の貴族。西蒙·德孟福尔
ノルマンディ出身の名門貴族で父が母親からレスター伯を継承したことからイングランドに仕え、
最初はヘンリー3世の寵愛を受けてその妹を妻に迎えるほどであった。
しかし、失政を重ねるヘンリー王に反発するイングランド諸侯の指導者として政治改革を目指し挙兵、
1258年に王権を制限するオクスフォード条例を王に承認させる。
だが、ローマ教皇のアレクサンデル4世の勅書を盾にしたヘンリー3世が条例を破棄したためにバロン戦争を引き起こして勝利、
1265年に諸侯・高位聖職者・州の騎士・都市代表からなる国政を議論する議会を招集した。
しかしシモンに権力が集中するのを恐れた保守派の貴族が離反して内戦が再開、
シモンは保守派と結んだ皇太子エドワード(後のエドワード1世)の反撃に遭ってイーヴシャムの戦いで戦死した。
※ シモンの戦死によって改革のほとんどが破棄されたが、エドワード1世の即位後に遠征費用の確保のために大幅な妥協を迫られて議会の招集が制度化されることになる。
エドワード1世
生年 | 登場 | 没年 |
1239年 | 1307年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 76 | 90 | 89 | 79 | 掃討 | 妙算 | 長駆 | 法律 | 徴税 | 沈毅大略 | 連弩 | 投石 | 斉射 | 先従隗始 | 覇道 |
プランタジネット朝イングランド国王。
ヘンリー3世の子。
王子時代には父に従い第七回十字軍に参加し改革派諸侯の反乱の征討に功績を挙げた。
父の死後に王位を継ぎ法整備を進め、1295年には幅広い社会階層による「模範議会」
を開催し、後の議会の基礎となった。
対外的にはウェールズを武力併合し、スコットランドの王位継承問題にも介入して
優位に戦争を進めたが晩年は諸侯との対立が再燃、ロバート・ブルースによるスコットランド側
の反撃も激しくなりスコットランド遠征の途中で病死した。
ウィリアム・ウォレス
生年 | 登場 | 没年 |
1270年頃 | 1305年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 91 | 83 | 63 | 86 | 勇将 | 堅守 | 地利 | 胆力 | 不屈 | 反骨刃 | 鉄壁 | 激励 | 突撃 | 上兵伐謀 | 割拠 |
中世スコットランドの英雄。
スコットランドの下級貴族の出身とされ、13世紀後半のアサル王家断絶によるスコットランドの
王位継承問題に介入し事実上の支配下に置いたイングランド王国に反旗を翻し1297年のスターリングブリッジ
の戦いでイングランド軍を撃破、スコットランド守護官となった。
しかし翌1298年のフォルカークの戦いによりエドワード1世率いるイングランド軍に敗れて守護官を辞し、
以後はフランス等と手を結んで抵抗運動を続けたが捕らえられて処刑された。
ロバート・ブルース
生年 | 登場 | 没年 |
1274年 | 1329年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
91 | 89 | 85 | 82 | 80 | 堅守 | 封殺 | 再起 | 胆力 | 不屈 | 不撓不屈 | 鉄壁 | 三軍強化 | 割拠 |
スコットランド王ロバート1世。
アサル王家の縁戚の流れを汲むスコットランド貴族の出身で、アサル王家断絶後
によるイングランド王国の支配に反旗を翻し、ウィリアム・ウォレスがスコットランド守護官を
退任した後にジョン・カミンと共に守護官となり後に対立したジョン・カミンを殺害して
ロバート1世としてスコットランド王に即位、イングランドに抵抗を続けて1314年のバノックバーンの戦い
においてイングランド王エドワード2世率いるイングランド軍に勝利しスコットランドの独立を成し遂げた。
エドワード3世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 83 | 85 | 74 | 67 | 三軍強化2 | 覇道 |
プランタジネット朝イングランド国王。フランスでカペー王家が断絶すると、母方の血筋からフランス王位継承権を主張、
ヴァロワ朝フィリップ6世に挑戦し百年戦争を引き起こした。
戦力で数倍する仏軍に対し、長弓兵を主体とした組織化された戦術で対抗。クレシーの戦いで旧来の重装騎兵に固執する仏王軍を
全滅に追いやるなど、戦役の序盤では陸海で優勢を築き、ブレティニー・カレー条約で英王家が領有するアキテーヌ公領の独立を勝ち取る。
しかし戦場をイベリアに移して以降は精彩を欠き、シャルル5世の反攻に対抗できぬまま敗退を重ね、征服地の大半を失った。
ガーター騎士団の創設者としても知られる。
エドワード・オブ・ウッドストック
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 92 | 74 | 45 | 66 | 遠矢 | 驍将 | 捕縛 | 徴税 | 浪費 | 妙才連箭 | 雁行強化5 | 覇道 |
中世イングランドの王族。「エドワード黒太子」「エドゥアール4世」「黑太子爱德华」などとも。
エドワード3世の長男として生誕、1343年から王太子を努め、1346年からフランスとの百年戦争に従事。
百年戦争ではイングランドの精強な弓兵を中心に指揮し連戦連勝を重ね、
1356年のポワティエの戦いでフランス王を捕虜にする大戦果をあげ、イングランド優位を決定的なものとする。
その後、1360年からは攻め取ったフランス南部の支配を任され、以後もフランス軍を苦しめた。
だが、この頃から病気がちになり、反イングランド運動も激化。生涯のほぼ全てを戦陣で過ごすが病には勝てず、まもなく死去。
ランカスター朝・薔薇戦争期
ヘンリー5世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 91 | 87 | 75 | 92 | 驍将 | 三軍強化3 | 王道 |
ランカスター朝イングランド代2代国王。典型的中世騎士であり、シェイクスピア史劇の主人公としても著名。
少年期より、父王ヘンリー4世を助けてランカスター朝の勢力安定のために奮戦。即位後はフランスの内紛に乗じて渡海し
百年戦争を再開する。アジャンクールの戦いでは消耗した7千の軍で数に勝るフランス諸侯軍を壊滅させる傑出した軍才を示した。
従来の略奪型の戦術を転換、領域確保を重視する戦略をとり、ノルマンディー征服など急速に領土を拡大。
ブルゴーニュ派と結んでパリに入城し、歴代イングランド王が目指したフランス王位継承権をついに手に入れた。
しかしその二年後に急死。イングランド優位で推移していた戦局は再び混迷の様相を呈することになる。
ジョン・トールボット
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 90 | 52 | 45 | 50 | 掃討 | 酒乱 | 軽率 |
百年戦争期のイングランドの貴族。シュールズベリー伯。「イングランドのアキレウス」と畏怖された猛将で、
米英統一王国の仏軍総司令官として活躍。戦況がアルマニャック派に傾く中奮戦するも大勢を挽回するに至らず、
自身もしばしば手痛い敗戦を喫した。カスティヨンの戦いで、ワインを飲みすぎた挙句に不正確な情報を信じて無謀な突撃を敢行、
呆気ない討死を遂げた。この敗戦によってイングランドは最後の拠点ボルドーを失陥し、戦役における敗北が確定した。
リチャード3世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 95 | 63 | 55 | 71 | 奸雄 | 掃討 | 驍将 | 頑健 | 悪名 | 勇往邁進 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 大喝 | 魚鱗強化5 | 覇道 |
ヨーク朝最後のイングランド王。
幼くして父を失ったリチャードは兄エドワード4世やウォリック伯リチャード・ネヴィルの庇護をうけて成長した。1461年にイングランド王に即位するとグロスター公に叙位された。政権内の争いからランカスター派に寝返ったウォリック伯によって兄が追放された際も、ウォリック伯の誘いを拒否して一貫してエドワード4世に忠誠を誓った。その後、エドワード4世は復権するが、1481年に死去。後を継いだエドワード4世の息子であるエドワード5世の摂政に就任。しかしその後、リチャードはエドワード5世とその弟リチャード・オブ・シュルーズベリーをロンドン塔に幽閉し、殺害。イングランド王リチャード3世として即位した。ただしその政権は不安定なものであった。ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がフランスから侵入すると、国王自ら軍を率いて出陣しボズワース決戦する。この戦いでリチャード3世は味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。
テューダー朝期
エリザベス1世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 36 | 88 | 78 | 95 | 強運 | 才媛 | 徴税 | 文化 | 監守 | 水軍強化5 | 我道 |
イングランド王国チューダー朝6代国王。処女王と称される。ヘンリー8世の次女。
ヘンリー8世の死後、王位継承や宗教問題を巡って王室内部で混乱が続き、エリザベスも一時幽閉されるなど生命の危機に晒されたが、25歳で女王に即位する。
父が創設したプロテスタントの国教会を再興して、カトリック教徒であるスペイン国王フェリペ2世(エリザベスの異母姉で先代国王・メアリの夫でもある)と対立、
オランダの独立運動を支援したのを機にスペインと開戦し、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を打ち破った。
各国王侯からの求婚を断り、また実際には愛人と目される人物がいたにも関わらず生涯独身を貫き、結果的に国民からの人気を得る一因にもなった。
しかし、度重なる戦争に伴う重税や「囲い込み」の横行によって民衆の生活は急速に悪化していく事態に有効な対策を打ち出せないまま69歳で死去。
更にこれまでの王位継承の規則に反して次期国王に政治体制の異なる隣国スコットランド国王のジェームスを迎えることを決めたことで結果的には17世紀のイングランドは革命と内乱の時代を迎えることになる。
※一般には第5代国王とされているが、現在のイギリス王室では長年歴史学的に正式な即位と見なされていなかった廃王のジェーン・グレイ(エリザベスの従姉の娘)を歴代国王に数えているため、第6代とする。
名誉革命以降
オリバー・クロムウェル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
98 | 95 | 91 | 84 | 90 | 神威 | 驍将 | 規律 | 捕縛 | 粗暴 | 白馬鉄騎 | 奮戦 | 突撃 | 連弩 | 激励 | 三軍強化5 | 我道 |
イングランド共和国初代護国卿。
ピューリタンの地主の家に生まれ、庶民院(下院)議員として、国王チャールズ1世の政策を批判する。
後に議会と国王が決裂して内乱状態になると、私財を投じて熱心なピューリタン信者からなる部隊「鉄騎隊」を結成し、各地で国王軍を破って戦況を逆転させた。
チャールズ1世の捕縛後、議会内の反対派を軍事クーデターで追放し、国王を処刑して共和制を宣言、自ら護国卿と称して事実上の独裁者となった。
カトリックの多いアイルランドやスコットランドの反乱を鎮圧し、対外的には重商主義路線を進めてオランダやスペインとの戦争に勝利をしているが、
インフルエンザの悪化で急死した。
※護国卿は息子が継ぐが軍の統治に失敗して引退を表明して後に亡命、共和国の混乱に乗じてチャールズ1世の遺児であるチャールズ2世がロンドンに乗り込んで王政復古を宣言した。
ロバートウォルポール
統率|武力|知力|政治|魅力|
42 32 90 97 74
初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(英語: Robert Walpole, 1st Earl of Orford, KG, KB, PC、1676年8月26日 - 1745年3月18日)は、イギリスの政治家、貴族。
1701年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入り。高い討論力で頭角を現し、ホイッグ政権(あるいはホイッグの参加した政権)で閣僚職を歴任した。1720年の南海泡沫事件の後処理を指揮。事件後にはホイッグ政権の最大の有力者となり、1721年に第一大蔵卿に就任した。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ、1741年の総選挙で与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣した。
ジョン・チャーチル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
99 | 72 | 99 | 70 | 82 |
近世イギリスの軍人。マールバラ公。名門チャーチル家及び、スペンサー家の祖。
ジェームズ2世の知遇を得て軍人になると、若くして仏蘭戦争、大同盟戦争に従軍して活躍。
スペイン継承戦争ではイギリス軍の総司令官に任命され、オーストラリア軍を率いるプリンツ・オイゲンと連携し、ルイ14世治世下の軍事強国フランスを相手に連戦連勝した。
類まれな知謀と機動戦術を武器に、幾度も兵力的劣勢を覆し、ヴァンドーム公、ヴィラールなどフランスの名だたる名将たちを連破。
マルプラケの戦いではフランス最後の抵抗をも粉砕して防衛線を突破したが、フランスとの講和推進を目指す野党トーリ派に
横領の嫌疑をかけられて更迭させられ、晩年は不遇なまま領地に籠って余生を過ごした。
後世、継承戦争最大の功労者にして、イギリス最高の名将の1人に数えられる。
ウィンストン・チャーチル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
75 | 51 | 91 | 93 | 90 | 脱兎 | 不屈 | 論客 | 策士 | 史官 | 文事武備5 | 王道 |
19世紀末から20世紀中期のイギリスの政治家・作家。
マールバラ公爵の孫として生まれ、父は財務大臣を務めた。母はアメリカの資産家の令嬢。
英語を除いて落第点ばかりの落ちこぼれであったが、公爵の孫ということで優遇を受けながら陸軍士官学校に入学、ここで歴史や軍事学に関心を持ち、才能を開花させる。
騎兵連隊の一員として第二次ボーア戦争などで戦功を挙げ、特に捕虜収容所からの脱走劇とその後の体験談の執筆で話題になったことをきっかけに保守党から下院議員選挙に出て当選する。
その後、党内の対立から保守党を離党して自由党に移り、通商大臣・内務大臣を経て海軍大臣として第一次世界大戦を迎えるがガリポリ上陸作戦失敗の責任を問われて辞任する。しかし、程なく軍需大臣として呼び戻される。
戦後は戦争大臣(陸軍大臣)兼航空大臣(空軍大臣)や植民地大臣などを歴任するが、度重なる反共発言が労働者層の反感を買って2度連続で落選、自由党と労働党の連立内閣の動きに反発して自由党を離党して保守党に復帰した。
保守党が政権に復帰すると父も務めた財務大臣に任命されるが、保守党は再び政権を失い、更に世界恐慌下の挙国一致内閣でも自由・労働党から嫌悪されて入閣できなかった。
しかし、この不遇の時期に行ったソ連やヒトラー批判が関心を引き、第二次世界大戦が始まると海軍大臣を経て首相に任じられた。
ドイツ軍によるイギリス本土空爆や日本軍によるアジア植民地の制圧などにも屈服せず、大戦を勝利に導くがポツダム会議中の総選挙で労働党に敗北し、途中退席を余儀なくされた。
しかし、6年後の総選挙で雪辱を果たして政権を奪還、2度目の首相在任中に核開発に成功する一方、戦前には強く反対していた植民地の独立とドイツの再軍備を容認する方向に転じた。
また、著作『第二次世界大戦回顧録』が高く評価されてノーベル文学賞を受賞した。90歳で逝去したが、国王・エリザベス2世はこれまで守られてきた「イギリス国王は臣下の葬儀に参列しない」慣例を破って国葬に参列した。
※祖父は公爵であったが、父が庶子であったために親子2代で閣僚を務めたものの生涯平民身分であった。なお、第二次大戦の功績から貴族に叙する話が度々持ち上がっているが最終的に辞退している。
ダイアナ・フランセス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
17 | 22 | 59 | 66 | 98 |
【ダイアナ・フランセス】
イギリスの名門令嬢。のちイギリス王妃。「戴安娜」。
スペンサー伯爵家の娘として生まれ、幼い頃から活発であったという。
その後1981年にイギリス皇太子であったチャールズと結婚し2人の息子をもうける。
しかし価値観のすれ違いから1995年に別居、翌年に離婚した。離婚後は慈善活動に
力を注いでいたが、1997年に交通事故で世を去った。自由を愛したその独特の振る舞いは
祖国イギリスのみならず、世界中でダイアナフィーバーを巻き起こしたとされる。