注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
ドイツ
中央ヨーロッパ西部に位置する連邦共和制国家。古代ローマにおいてゲルマニアと呼ばれた地域であり、
ローマ帝国、フランク王国による統治を経て843年のヴェルダン条約によってフランク王国が三分割され
その一つ東フランク王国の国王オットー1世がローマ皇帝としてローマ教皇に戴冠される。
後に神聖ローマ帝国と呼ばれるこの国家は次第に皇帝の権力が衰え領邦君主の自治権が強まっていく。
宗教改革、三十年戦争による混乱と領邦の細分化が進む中、17世紀後半よりプロイセン王国が台頭していき
ナポレオン戦争、ウィーン体制を経て、ドイツ統一の役割を巡ってハプスブルク家のオーストリアと争うが
プロイセンはオーストリアを除外しドイツ帝国を建設する。
第一次世界大戦で敗北したことにより君主制が終焉し、ヴァイマル共和政、ナチス・ドイツによる政権掌握を迎える。
第二次世界大戦の敗北で国土の多くを失いドイツは東西に分裂する。東ドイツの共産主義国家が崩壊し
西ドイツによる東西再統一を経て現在に至る。欧州における屈指の経済大国であるだけでなく、
その先進的な文化、学芸などは日本を始め世界中に多くの影響を与えている。
アルミニウス
生年 | 登場 | 没年 |
前16年 | 後21年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 84 | 72 | 56 | 78 | 封殺 | 森戦 | 地利 | 不屈 | 召募 | 変幻要撃 | 鼓舞 | 鯨波 | 急襲 | 地勢研究 | 割拠 |
1世紀に活躍した古代ゲルマン系の一部族であるケルスキ族の長。
アウグストゥスの時代にローマ帝国の従属から離反して他の部族と共にゲルマニア(後のドイツ周辺)の進出を図る帝国軍に抵抗し、
紀元9年にはトイトブルクの森の戦いでウァルス率いる帝国軍の三個軍団を殲滅した。
ティベリウスの時代にはゲルマニクス率いる帝国軍と幾度となく交戦し、ゲルマニアを守ったが他部族との争いの中で受けた傷が元で死亡した。
後世においてはドイツにおける最初の国民的英雄として崇められる事になる。
フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 76 | 74 | 76 | 86 | 任才 | 長駆 | 求心 | 英名 | 粗忽 | 突撃 | 激励 | 挑発 | 政令徹底3 | 覇道 |
神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝初代皇帝。叔父のコンラート3世の指名で
ローマ王に即位、後に帝冠を戴く。帝国諸侯には緩急剛柔な対応で協調と弾圧を図る。
イタリア政策に専念するが決定的な勝利を得られず、イタリアの各都市に皇帝への忠誠と引き換えに
自治権を認めた。その一方で息子ハインリヒ6世をシチリア王位に就けた。
1189年に第3回十字軍の総司令官となり順調に軍勢を進めるが、翌年小アジアで溺死するという最期を遂げた。
赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことに因み赤髭王(バルバロッサ)と呼ばれた。
※ 中国語では腓特烈一世。バルバロッサは紅胡子もしくは紅鬍子。
※ 能力値はチンギスハーンIVをベースに少し調整。
フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 72 | 100 | 83 | 86 | 詩想 | 論客 | 文化 | 法律 | 悪名 | 才気煥発 | 上兵伐謀3 | 覇道 |
神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝皇帝。
幼少期にシチリアやパレルモの文化に影響され、先進的な思想と学問を身に着けた合理主義者に育つ。
宗教対立の枠組みにも囚われず、イスラム勢力の先進性を評価し、交渉によるエルサレムの奪還という大功を挙げたが
それ故に保守的なカトリック勢力とは度々衝突し、教皇庁から二度の破門を受け「アンチキリスト」扱いもされている。
その主義思想は時代に対してあまりにも早く、諸勢力の警戒と妨害を呼び、イタリア統一という悲願も果たせずに終わった。
※ 「世界の驚異」「300年早いルネサンス人」などの異名を持つ。
ジギスムント (神聖ローマ皇帝)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
69 | 65 | 83 | 72 | 58 | 扇動 | 寡欲 | 動員 | 教唆 | 悪名 | 苦肉の計 | 奮戦 | 激励 | 混乱 | 罵声 | 投石 | 上兵伐謀 | 割拠 |
ジギスムントは、神聖ローマ帝国のローマ皇帝。
半世紀にわたりハンガリー王として在位し、治世後半にはローマ皇帝およびボヘミア王も兼ねたが、その死によって皇帝家・王家としてのルクセンブルク家は事実上断絶した。
ハンガリー王になったジギスムントの課題は、バルカン半島で膨張著しいオスマン帝国への対策であった。
対オスマン戦を熟知しているジギスムントはブダにオスマン軍を引きつけて消耗させる案を示したが、血気に逸るブルゴーニュ公ジャン(無怖公)がエルサレム解放の大義を掲げるのに押され、積極的な攻撃策を採ることになった。
こうして10万を超える軍勢が出撃したが、カトリックを奉じる西欧騎士と正教を奉じるバルカン戦士との確執、旧態依然の騎士突撃戦法が仇となり、1396年のニコポリスの戦いでバヤズィト1世に大敗北を喫した。
そして神聖ローマ皇帝になった後にボヘミア国民に人望があったフス派の創始者であったヤン・フスは、コンスタンツ公会議で異端として有罪とされたが、ジギスムントはフスを火刑に処した。
このことによってフス戦争が勃発。
ジギスムントは反乱を鎮圧するため何度もボヘミアに軍を送り、教皇と共に対フス派十字軍の号令もかけたが、その都度フス派の指導者であるヤン・ジシュカの指揮する義勇兵(市民軍)の前に敗れ続けた。
その後ジギスムントは軍事的な解決ではなく政治的な解決を試みたが、政治改革や外交などの全てにおいて失敗したため、皇帝としての威信を完全に失った。
ジギスムントのハンガリー統治は、ラヨシュ1世の遺産をことごとく食い潰したと言える。
特に、対オスマン対策を怠ったことは後世非難され、現代でもハンガリーでの評価は低い。
もっとも、ラヨシュ1世の統治自体がすでに不安定なものであり、そのつけをジギスムントが払わされた格好となったのも、また事実である。
粘り強い外交により教会統一を実現させることができた点はジギスムントの功績である。
ザヴィシャ・チャルニ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
93 | 100 | 87 | 79 | 98 | 神威 | 一騎 | 護衛 | 血路 | 胆力 | 神威穿貫 | 天下無双 | 奮戦 | 突撃 | 斉射 | 激励 | 三軍強化 | 我道 |
ザヴィシャ・チャルニは、ポーランド出身の騎士、外交官。
黒い甲冑を装備していたことから「黒騎士」の称号を持つ。
時の神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントの元で活躍した。
現在でも伝説の騎士として有名である。
ザヴィシャは槍試合で無敗を誇り、1412年のハンガリーのブダで1500人の騎士の中で優勝し、1416年には南フランスのペルピニャンで開かれた大会では当代最強とされたアラゴンのフアンという騎士にも勝利を収めている。
外交官としても活躍し、ジギスムントとポーランド王ヴワディスワフ2世との和平交渉を実現させ、コンスタンツ公会議にポーランド使節団の一員として参加するなどしている。
コンスタンツでは監禁状態のヤン・フスに面会し、フスへも理解を示し、彼への不当な扱いと処刑にも反対した。
後にヤン・ジシュカに敗れ捕虜にされたが、身代金と引き換えに釈放されたのはフスへの対応をジシュカが評価したものと考えられる。
理想の騎士として信義に篤い高潔な人物でポーランド王やジギスムントからも信頼され、存命中から騎士の鑑と評されていた。
ポーランド語では「ザヴィシャのように信頼できる」という言葉がある。
マルガレータ・フォン・ヴァルデック
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
14 | 4 | 32 | 44 | 64 | 傾国 | 才媛 | 応援 | 慈悲 | 虚弱 | 縦横術1 | 王道 |
ドイツ中部・ヴァルデック゠ヴィルドゥンゲン伯・フィリップ4世の娘。
神聖ローマ皇帝カール5世に囚われたヘッセン方伯フィリップとの人質交換でブリュッセルに送られるが、
その背景には彼女の美貌を憎んだ継母の工作があったとされる。
長い人質生活で身体を壊し、1554年に21歳の若さで病死するが、毒殺であったとする説もある。
近年、彼女が童話「白雪姫」のモデルであったとする説が浮上して注目されている。
※ フィリップ4世の子孫は周辺地域を統合して18世紀にヴァルデック侯となり、ドイツ革命まで存続した。
ビスマルク
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 67 | 92 | 97 | 84 | 論客 | 輿望 | 王佐 | 教化 | 発明 |
【ビスマルク】
プロイセン王国の政治家、宰相。「俾斯麦」。「鉄血宰相」の異名を取る。
皇帝ヴィルヘルム1世に仕え、プロイセンの外交官として主に活躍した。
その後、これまでの功績や自由主義への批判などから、1862年首相に任命され、
ドイツ統一と軍制改革、古豪フランスへの締め付け政策を行った。
内政では社会主義思想を弾圧しつつ、社会保障を認めるという「飴と鞭」を機敏に使い、
普墺戦争、普仏戦争をはじめとするドイツ躍進とヨーロッパの秩序構築に多大な功績を残したが、
晩年は皇帝ヴィルヘルム2世に疎まれ失脚。失意のまま没した。
カール・モルトケ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
99 | 76 | 100 | 62 | 90 | 洞察 | 長駆 | 補佐 | 妙算 | 機略 |
【カール・モルトケ】
プロイセン王国の軍人。参謀総長。近代ドイツ陸軍の父とも呼ばれる。「毛奇」
始めはデンマーク軍に所属していたが、のちにプロイセン軍へ移り、参謀将校となる。
その後は長く参謀本部に所属しつつもオスマン帝国の軍事顧問なども勤めたが、
58歳の際にプロイセンの参謀総長に就任。デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争では
作戦立案の中核を担い、クラウゼヴィッツの思想を受け継いだ采配によってその勝利と
ドイツ統一に多大な功績を残した。鉄道や電信を重用し、外線作戦による敵戦力の殲滅など
彼の戦争采配は、近代戦争の礎となる。
※ 全名「ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ・フォン・モルトケ」。甥の「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」と区別するために「大モルトケ」と呼ばれることがある。
カール・マルクス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
22 | 8 | 100 | 86 | 34 |
【カール・マルクス】
プロイセン出身の哲学者、経済学者。思想家でもある。「卡尔·马克思」。
もとは大学教授や新聞社で勤務していたが、プロイセンからの亡命前後から思想・哲学・経済研究に明け暮れた。
後に生涯の友と言われるエンゲルスと交流を持ち、ヘーゲル哲学を研究し続けて
「経済学批判」、「資本論」を著す。のちに自らの思想を創りだしてマルクス主義と呼ばれる
社会主義、共産主義の源流を生み出した。死後社会主義、共産主義各国から神のように崇められたが、
生前はルイ・ナポレオンへの批判やビスマルク派との抗争などもあり、エンゲルスの支援に頼るほどの不遇であった。
フリードリヒ・エンゲルス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
78 | 36 | 85 | 100 | 88 |
【フリードリヒ・エンゲルス】
ドイツ出身の思想家、実業家。軍事研究家でもある。「弗里德里希·恩格斯」
工場を経営するかたわら、マルクスを始めとする経済学者らとの交流を深めた。
弁舌家、軍事研究家としても知られ、マンチェスターの将軍と言われるほど軍事研究で
高い評価も受けていたと言われる。マルクスの生活を支援しつつ、自らも「国民経済学批判大綱」を発表。
マルクスの死後はその遺産である著書を完成させるべく奔走、「資本論」を編集して世に送り出した。
カール・マルクスを公私共に支え、その快活な人柄は後世へ社会主義を広める要因ともなった。
マックス・ヴェーバー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
7 | 4 | 98 | 100 | 78 |
【マックス・ヴェーバー】
ドイツの社会学者、経済学者。宗教にも明るい。「马克斯·韦伯」
政治家の子供として生まれ、12歳の時に『君主論』を読み解き、15歳で民族史の論文を手掛ける。
その後ベルリン大学などで勉学に励み、30歳にして大学の経済学正教授として招聘された。
古代ユダヤ教にはじまり、仏教、ヒンドゥー教、儒教などを研究する傍ら、
資本主義や支配の三類型などを定義し、「合理主義」の概念を生み出した。
カール・マルクスと並ぶ社会学の黎明期を作った人物として名高い。
アドルフ・ヒトラー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
15 | 46 | 82 | 99 | 99 | 虚実 | 名声 | 論客 | 策士 | 悪名 | 覇道 | ||||||
65 | 46 | 92 | 99 | 99 | 虚実 | 名声 | 論客 | 策士 | 悪名 | 覇道 | ||||||
65 | 46 | 92 | 99 | 99 | 虚実 | 名声 | 策士 | 粗暴 | 悪名 | 覇道 |
【アドルフ・ヒトラー】
オーストリア出身、ドイツの政治家。国家元首。「阿道夫」「希特勒」
出自については定かではなく、ドイツ系ともアフリカ系ともユダヤ系とも言われている。
第一次世界大戦の終了後に政界へ参入し、大ドイツ主義を唱えた。ミュンヘン一揆で一度
投獄されるが、釈放後は権力を取りまとめ、ナチス党を選挙活動の末に第一党に押し上げた。
全権委任法案の可決、大統領と首相を兼任するという独裁体制を築き、第二次世界大戦を引き起こす。
外交戦略を見誤った頃からその才覚に陰りが生じ始め、最期は連合軍包囲下にあったベルリン市街の総統地下壕で自殺した。大戦中の
ホロコーストから20世紀最大の悪人と言われる。
ラインハルト・ハイドリヒ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
91 | 42 | 98 | 86 | 2 |
【ラインハルト・ハイドリヒ】
ドイツの政治家、軍人。海軍中尉、警察大将。「莱因哈德」。「死刑執行人」の異名を取る。
ドイツ帝国の領邦プロイセン王国に生まれ、15歳でドイツ義勇軍、のちドイツ海軍へ入隊した。
しかし素行不良が酷く問題を起こし、軍法会議の末に不名誉除隊処分となる。その後
彼に才能を見出したヒムラーによって親衛隊拡充の中枢として雇われ、同時期にナチス党にも入党。
以後はその類まれな謀略の才を発揮し、国家保安本部長に任命され、謀略、弾圧、政治工作、粛清など
あらゆる手段を駆使してドイツ第三帝国に貢献。身内の粛清のみならず、ユダヤ人殺害計画「ホロコースト」をも主導、
敵味方からその謀略の才を恐れられていたが、1942年にチェコで暗殺された。
補足:圧倒的な才を持ち、上官であるはずのヒムラーや、はては総統ヒトラーまで内心では見下していたと言われる。暗殺は現地ゲリラ等によるものとするが、
上官ヒムラーによる謀殺説も根強い。ドイツ第三帝国の支配が長引けば、彼が跡を継いだだろうとまで言われている。
エルヴィン・ロンメル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
94 | 83 | 88 | 48 | 92 |
【エルヴィン・ロンメル】
ドイツの軍人。陸軍元帥。「埃尔温」「隆美尔」。
ドイツ帝国領ヴュルテンベルク王国出身。1910年に軍人となり、第一次世界大戦に従軍。
各地の戦線に従軍して活躍し、戦後もドイツ陸軍に残り続けた。その後はアドルフ・ヒトラーの姿勢に
共感し、彼を支持。第二次世界大戦ではそのヒトラーに抜擢され、ポーランド、フランスへの電撃的侵攻を成功させた。
北アフリカでも連戦連勝を重ね、世界にその名を轟かせたが、物資兵站に勝るイギリス軍を完全打倒するには至らず、
ついにアフリカからの撤退を余儀なくされた。本土の防衛戦に回されるも英米戦力を図り損ねる同僚と対立。翌年
発生したヒトラー暗殺未遂事件への関与を疑われ、服毒自殺した。祖国ドイツのみならず敵対した英米からも英雄視され、
「砂漠の狐」「ナポレオンの再来」と言われた。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 96 | 76 | 54 | 88 | 神威 | 掃討 | 泰然 | 頑健 | 粉砕 | 三軍強化2 | 覇道 |
【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】
ドイツの軍人・空軍大佐。「魯徳」。
独ソ戦でJu87「スツーカ」による戦車撃破を主任務としていた。
500輌を超える戦車撃破など多大な戦果を上げ、一人で一個師団の価値があるとまで評された。
「黄金柏葉剣ダイヤモンド付騎士鉄十字勲章」を賜った唯一の人物でもある。
フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン
統率|武力|知力|政治|魅力
100 98 100 97 71
フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン(Fritz Erich von Lewinski genannt von Manstein、1887年11月24日 - 1973年6月10日)は、ドイツの陸軍軍人、貴族。最終階級は陸軍元帥。
第二次世界大戦で活躍した将帥たちの中でもとりわけ有能な将帥として知られる[1][2]。彼は西方電撃戦の立案者であり、後にクリミア半島とレニングラード攻撃を指揮し、その後、スターリングラード攻防戦後に優位に立った赤軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させた。これは緒戦におけるキエフ包囲戦に並び、東部戦線におけるドイツの最も大きな勝利の1つである。
彼は最高指導者であるヒトラーの決定に逆らわなかったが、対案を具申し、ヒトラーに対してはっきりと意見を開陳する数少ない将軍の1人だった。その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、「タイム」でも醜悪な顔に描かれることなく毅然とした顔で表紙を飾り、「我らの最も恐るべき敵」と評された[3][4]。