注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
フランス
ヨーロッパ西部に位置する共和制国家。古代ローマにおいてガリアと呼ばれた地域であり、
ローマ帝国、フランク王国による統治を経て843年のヴェルダン条約によってフランク王国が三分割され
その一つ西フランク王国が断絶しパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出されてフランス王国が成立した。
当初王権は弱かったが戦争や相続を通じ領土を広げ、欧州随一の強国として英仏百年戦争、宗教戦争など常に欧州における政治・経済・文化の中心地であり続けた。
フランス革命以降についてはフランス(革命以後)を参照。
フランク王国期
カール・マルテル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 64 | 91 | 83 | 79 | 堅守 | 地利 | 柱石 | 粉砕 | 慎重 | 虚誘掩殺 | 鉄壁 | 衝車 | 斉射 | 方円強化3 | 覇道 |
フランク王国の家臣。カロリング家出身でカール大帝の祖父。
フランク王国の北東部アウストラシア地方の宮宰ピピン2世の庶子で父の死後に宮宰争いに勝利し、さらにネウストリア宮宰のラガンフリドを打倒しフランク王国全体の宮宰となり王国の実権を掌握した。
732年のトゥール・ポワティエの戦いでイベリア半島から伸長したウマイヤ朝を撃破してイスラム勢力の進出を防いだ。
カール1世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 93 | 82 | 81 | 98 | 神将 | 英名 | 求心 | 文化 | 柱石 | 万馬奔騰 | 経世済民5 | 覇道 |
中世フランク王国の国王。「カール大帝」とも言われる。「查理」。
王国を分割相続するが、弟の死後に単独で統治を開始。その後、現イタリア、ドイツ付近に侵略を開始し、ヨーロッパの大部分を手中に収め、ローマ皇帝として戴冠を受けた。
多くの征服事業と内政事業を手がけたが、生涯それが完遂することはなく、死後一族の分裂によって王国は衰退したものの、現在のヨーロッパの祖となったことから「ヨーロッパの父」とも呼ばれている。
アルクイン
生年 | 登場 | 没年 |
735年頃 | 804年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
14 | 10 | 86 | 83 | 88 | 王佐 | 文化 | 法律 | 学者 | 諌止 | 太学 | 王道 |
フランク王国の修道士・神学者。
イングランドのヨーク出身でイタリアにてカール大帝と出会い、フランク王国の宮廷に招かれて
カール大帝の助言者となり主にキリスト教に関する政策面で多大な影響を与えた。
また大帝が創設した宮廷の学堂での教師も務め、多くの知識人を育成した。
カペー朝期
アンヌ・ド・キエヴ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
4 | 2 | 84 | 80 | 99 | 傾国 | 才媛 | 応援 | 文化 | 特使 | 太学 | 名利 |
フランスのカペー朝第3代国王アンリ1世の王妃。キエフ大公ヤロスラフ1世とスウェーデン王女インゲゲルドの娘。
アンリ1世が近親婚を避けるために遠国に王妃候補を求め、19歳でフランス王妃となる。
当時のフランスはビザンツ帝国と密接であったキエフと比べて立ち遅れており、アンナも野蛮な国に嫁がされたと嘆いていたが、
既に5か国語を習得していた彼女はすぐにフランス語を習得し、更にその美しさで王の心を掴んだ。
28歳で夫に先立たれ、7歳の息子・フィリップ1世の摂政となるが、ヴァロワ伯と恋に落ちてしまう。
反対派はこれをローマ教皇に密告したために教皇から破門されて宮殿から追放されるが、そのままヴァロワ伯と結婚してしまった。
新しい夫からも愛されるが42歳で再び先立たれ、息子のフィリップ1世に宮殿へ連れ戻されると静かな余生を送った。
※補足
キエフ大公国は後にモスクワに拠点を移して今のロシアになり、キエフはモンゴル帝国・リトアニアに征服されて後にポーランド領となった後にウクライナとして自立する。
そのため、彼女の母国を何処と規定するかを巡ってロシアとウクライナの間の政治論争の要因の1つになっている。
フィリップ2世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 62 | 85 | 93 | 86 | 任才 | 疾走 | 求心 | 文化 | 教唆 | 深謀遠慮 | 激励 | 足止 | 混乱 | 鎮静 | 経世済民4 | 覇道 |
フランス王国カペー朝7代国王。ルイ7世の三番目の王妃との子。「腓力二世」。15歳で単独王として即位、親政を開始する。
父の前妻の再婚相手イングランド王ヘンリー2世、その子リチャード1世、ジョンらと抗争を繰り広げる。
リチャード1世の死後攻勢に出て一時は劣勢に立たされるが、ブーヴィーヌの戦いでイングランド・ドイツ等連合軍に勝利する。晩年はアルビジョア十字軍に介入し領土を大きく拡げた。
内政面でも統治体制の整備、都市の保護・育成、パリ大学の設立など多くの功績を残し、アウグストゥスに因んで尊厳王と称された。
※ 能力値は田因斉をやや調整した感じにしています。「チンギスハーンIV」では全能力90台と過大評価だったのが印象的。
ルイ8世
生年 | 登場 | 没年 |
1187年 | 1226年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 84 | 65 | 72 | 76 | 掃討 | 功名 | 直情 | 衝車 | 投石 | 軍制改革 | 王道 |
カペー朝フランス王国第8代国王。通称は獅子王。
第7代国王フィリップ2世の子で王太子時代の1214年には父が北方のブーヴィーヌで戦う傍らで
別働隊を引いて英王ジョン率いる英国軍を撃破し、1216年には失敗に終わったが英王即位を目指してイングランドに侵攻した。
即位後はアルビジョワ十字軍を主導し南フランスの勢力拡大に成功したが遠征の途中で赤痢に罹り急死した。
ルイ9世
生年 | 登場 | 没年 |
1214年 | 1270年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 66 | 75 | 84 | 91 | 法律 | 文化 | 求心 | 名声 | 浪費 | 激励 | 三令五申 | 礼教 |
カペー朝フランス王国第9代国王。通称は聖王。
第8代国王ルイ8世の子で父の死後に若年で王位を継承した後は諸侯の反乱に悩まされるが、鎮圧に成功して国内を安定させた。
1248年の第7回十字軍を主導しエジプトに遠征を行うも最終的には敗北して捕虜となり、多額の身代金を払って解放された。
帰国後は再び内政に務めるも1270年に第8回十字軍を起こし北アフリカにチュニスに遠征に赴いたが熱病に倒れた。
死後、列聖され「聖王」と呼ばれるようになった。
フィリップ4世
生年 | 登場 | 没年 |
1268年 | 1314年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 57 | 88 | 85 | 82 | 法律 | 捕縛 | 徴税 | 眼力 | 強欲 | 活殺自在 | 挑発 | 牽制 | 混乱 | 撹乱 | 上兵伐謀 | 名利 |
カペー朝フランス王国第11代国王。フランス王フィリップ3世の子で容姿端麗にて「端麗王」と云われる。
フランドル地方に進出してイングランドと争う。その戦費調達の為に税を教会にも課したことで教皇と対立し破門されたが、
アナーニ事件を起こしてボニファティウス8世に退位を迫り憤死させ、新教皇にクレメンス5世を擁立してアヴィニョンに教皇庁を移転させた。
また政治の側近に聖職者ではなくギヨーム・ド・ノガレらの法曹家を起用し、テンプル騎士団を解散させる等王権の伸張も図った。
ギヨーム・ド・ノガレ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
48 | 30 | 92 | 85 | 53 | 法律 | 捕縛 | 徴税 | 能吏 | 策士 | 上兵伐謀 | 名利 |
フランス王家に仕えた法曹官僚(レジスト)。フィリップ4世の片腕として、教皇庁など宗教権威との対決に辣腕を振るった。
両親を異端審問で失っていたことからローマ教皇庁を憎んでいたと言われ、
アナーニの離宮に乗り込み教皇ボニファティウス8世を捕え憤死に至らしめた「アナーニ事件」の実行犯として悪名高い。
他にもテンプル騎士団の解散、教皇庁のアビニョン移転などに関与。カペー王権の絶頂期現出を支えた。
ヴァロワ朝期
ジャン2世
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 82 | 50 | 43 | 87 | 名声 | 直情 | 王道 |
ヴァロワ朝フランス王国第2代国王。勇敢で鷹揚、騎士道精神溢れる人柄で「善良王」と称される。
反面その資質は軍事・政治の駆け引きには向かず、彼の治世に百年戦争の戦況は大きく悪化した。
ポワティエでは圧倒的な優位を築きながらエドワード黒太子率いる英軍に惨敗、自身も捕虜となる失態を犯す。
ブレティニー・カレーの和約にともない解放されるも、逃亡した人質に代わって自ら再び英国に渡り、
捕虜となったまま当地で没した。
英国では厚遇され何不自由なく暮らしたと言われるが、その莫大な身代金はフランスの財政を少なからず圧迫した。
※「名声」は本人の人柄に加え、高額な身代金を表したもの。
シャルル5世
生年 | 登場 | 没年 |
1338年 | 1380年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 15 | 94 | 88 | 85 | 文化 | 論客 | 虚弱 | 上兵伐謀 | 王道 |
ヴァロワ朝フランス王国第3代国王。明晰な頭脳と学識を讃えられ「賢明王」と渾名される。
ポワティエの大敗で捕虜になった父王ジャンに代わり、王太子時代から百年戦争の指揮を取る。
病弱であり自ら戦場に立つことはなかったが、名将デュ・ゲクランを登用して遅滞戦術を展開し精強のイングランド軍を翻弄。
外交・策略も駆使して敵軍に奪われた領土を次々に奪回、戦役序盤の連敗による苦境を跳ねのけ、イングランドの攻勢からの防衛に成功する。
フランス優位を維持しまたまま停戦を実現するも、ほどなく死去。
英主亡き後の少年王シャルルの宮廷は有力諸侯の政治闘争の場となり、フランスの分裂と再度の対英戦争へと突入してゆくことになる。
ベルトラン・デュ・ゲクラン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 88 | 52 | 31 | 76 | 掃討 | 長駆 | 再起 | 召募 | 猪突 | 急襲 | 撹乱 | 挑発 | 罵声 | 鼓舞 | 上兵伐謀3 | 我道 |
98 | 97 | 52 | 31 | 78 | 神将 | 掃討 | 長駆 | 再起 | 召募 | 百戦錬磨 | 急襲 | 撹乱 | 罵声 | 鼓舞 | 上兵伐謀 | 我道 |
14世紀フランスの軍人。ブルターニュの領主の子として生まれ、醜男で乱暴者だったが義侠心に富み部下だけでなく敵からも尊敬されていた。
初めはブルターニュ公に、後にフランス王に仕え、百年戦争やカスティーリャ継承戦争等で臨機応変な戦術を展開し多くの武功を上げる。
幾度も敗北して捕虜となっているが、シャルル5世からは全面的な信頼を得ており、捕虜となる度に身代金を払われ救出された。
南仏シャトーヌフ・ド・ランドンを包囲中に赤痢で没するが、その頃にはフランスは百年戦争で奪われていた領土の大部分を奪い返していた。
※ 中国語では贝特朗・杜・盖克兰、貝特朗・杜・蓋克蘭。
※ 佐藤賢一の小説『双頭の鷲』で、日本でも広く知られるようになった百年戦争の名将の一人。
※ 能力値は李信を少し調整した感じ。
ニコラ・フラメル
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1340? | 1418 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
24 | 27 | 68 | 78 | 75 | 教化 | 富豪 | 地域巡回2 | 礼教 |
フランスの作家、出版業者、慈善家。伝説的な錬金術師とされる。妻はペレネル。中国語では「尼古拉・弗拉梅爾」。
恐らくはポントワーズの人。パリに工房を構えた。
この時代のフランスは、上流階級に世俗文学が発達し始め、出版がようやく修道院から外に広がりを見せ始めていた。
ニコラはパリ大学と契約し、製本や出版などを請け負った。また、大学により直接税免税の特権を得た。
1370年、二度未亡人となったペレネルと結婚。不動産投資などにより財産を築いた。
二人に子は無く、財産を教会・病院・礼拝堂などに献金した記録が残っている。
1397年、ペレネルに先立たれると、ペレネルの親族から遺産分与を求める訴訟を起こされたが、勝訴した。
1407年、貧民収容所を何軒か建築した。そのうちの一軒は現存し、パリの現存最古の建物とされている。
こんにち「ニコラ・フラメルの家」と称されているが、ニコラ自身が住んでいたわけでは無い。
1418年死去し、サン・ジャック・ラ・ブシェリー教会に葬られた。遺産は教会や病院などに寄付された。
死後まもなくから、「ニコラが富を築いたのは、卑金属を金に変える賢者の石の錬成に成功したから」という伝説が生まれ、
さらに妻・ペレネルと共に、不老不死の術を得て生きているという伝説も生まれた。
こんにちでも、『ハリー・ポッターと賢者の石』などにより錬金術師として知られているが、
実際のところフラメル夫婦が錬金術に携わっていた根拠は無いという。
シャルル7世
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1403 | 1417 | 1461 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 50 | 84 | 89 | 35 | 再起 | 徴税 | 召募 | 短慮 | 経世済民2 |
ヴァロワ朝フランス第5代「勝利王」。
百年戦争期、王太子時にブルゴーニュ・オルレアン両公の和平交渉の場でブルゴーニュ公を暗殺しフランスの分裂を決定的にする。
自身もパリを逐われ、アルマニャック派と結び英仏統一王国に抵抗。
敵の攻勢に追い込まれるも、ジャンヌ・ダルクによる"オルレアンの奇跡"を境に戦況は好転。
ノートルダムでの戴冠後、国内を再統一し英軍を大陸から駆逐、戦役を勝利に導く。
戦後も財政・軍制の改革を進め、絶対王政の基礎を築いた王として評価が高いが、ジャンヌを見捨てたと謗られ後世の人気は低い。
これは、当時の慣習として、捕虜は身代金を払えば解放されるものだったからである。
ジャンヌ・ダルク
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1412? | 1425 | 1431 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
77 | 76 | 68 | 7 | 82 | 勇将 | 長駆 | 不屈 | 寡欲 | 直情 | 長駆直入 | 奮戦 | 突撃 | 斉射 | 激励 | 軍制改革3 | 王道 | |
99 | 46 | 78 | 5 | 82 | 洞察 | 応援 | 求心 | 寡欲 | 直情 | 明察秋毫 | 奮戦 | 突撃 | 斉射 | 激励 | 軍制改革5 | 王道 |
15世紀フランスの軍人。ドンレミの出身。農民の娘だったが神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、オルレアン包囲戦に勝利し以後の戦闘でも活躍する。
シャルル7世をフランス王として戴冠させるのに貢献し、コンピエーニュ包囲戦で捕われるまでフランス軍の快進撃を支えた。
異端の罪を着せられ19歳の若さで火刑に処されたが、彼女の死後フランス軍は団結を強め最終的に百年戦争の勝者となった。
死後復権裁判で無罪となり、20世紀に列聖され、現在ではフランスの救国の英雄として不動の名声と人気を確立している。
※ 中国語でジャンヌは貞德、貞徳。「聖女貞徳」は彼女のことを指す。
※ 能力は花木蘭に似せています(政治は減らしていますが)。「BLADESTORM -百年戦争-」などコーエーゲームにおいても結構出番の多いヒロイン。
※ 出身地は1578年、ジャンヌを讃えて「ドンレミ=ラ=ピュセル」と改名された。
エティエンヌ・ド・ヴィニョル
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1390? | 1443 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
70 | 88 | 40 | 49 | 64 | 崩壁 | 火攻 | 強奪 | 癇癪 | 粗暴 | 奮戦 | 突撃 | 鯨波 | 侵略荒廃2 | 我道 |
フランスの軍人、傭兵隊長。恐らくプレシャック=レ=バンの出身。通称はラ・イル。妻はマルグリット・ダヴィッド・ド・ロンギュヴァル。
有能な戦闘指揮官で、騎術にも長けていた。
英仏百年戦争のさなか、フランスはアルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦となっていた。
アルマニャック伯ベルナール7世元帥に従い、シャルル王太子(のちのシャルル7世)の軍に加わり、ブルゴーニュ派の
クシー城を一時陥落させる戦功を挙げた。バル枢機卿ルイ1世に雇われ、各地を転戦。
1428年、イングランドに包囲されたオルレアン救援で、ジャンヌ・ダルクと共に大功を挙げ、オルレアンを守り切った。
それからはジャンヌの最も忠実な戦友の一人となり、シャルル7世の戴冠に貢献した。
1430年、ジャンヌがイングランド側のブルゴーニュ公国の捕虜となると、ジャンヌ奪還のためにルーアンに侵攻したが、
かえって自身が捕虜となった。しかし、シャルル7世が身代金の一部を肩代わりして解放された。
その後はアルテュール・ド・リッシュモン大元帥の麾下で活躍し、1435年のジェルブロワの戦いに勝利した。
戦功によりノルマンディー総司令官と呼ばれたが、1443年、モントーバンで戦傷が元で死去した。
傭兵の常として、戦場での掠奪をしばしば行い、焼き討ちや虐殺も記録されている。
元は信仰に無頓着だったが、ジャンヌに告解を厳しく迫られてついに応じたという。
※「ラ・イル」は「憤怒」を意味する古仏語由来が有力だが、地名由来説もある。今日のフランスでは、癇癪持ちを意味する他、姓としても使われている。
親愛武将:ジャンヌ・ダルク
ルイ11世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
50 | 45 | 96 | 79 | 50 | 奸雄 | 策士 | 上兵伐謀 | 名利 |
ヴァロワ朝フランス第6代。用意周到な謀略を得意とし、「蜘蛛」とも「慎重王」とも渾名された。
不仲な父シャルル7世に対してたびたび謀反を企て、即位後は父王の息のかかった廷臣を悉く追放するなど暴君として君臨。
政治家としての力量は極めて高く、反旗を翻したフランス最大の貴族・ブルゴーニュ公シャルル・ル・テレメールの挑戦によく対処。
戦場ではしばしば圧倒されるも、権謀術数をふるって難敵シャルルを破滅に追い込み、フランス王権を盤石なものとした。
シャルル・ル・テメレール
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
99 | 100 | 86 | 63 | 68 | 神将 | 掃討 | 驍将 | 果敢 | 粗暴 | 豪気衝天 | 奮戦 | 突撃 | 強襲 | 激励 | 撹乱 | 三軍強化 | 我道 |
シャルルは歴代のブルゴーニュ公が追求した「反フランス」と「マース川、モーゼル川の間にある全領域を手に入れる」という目的を継承し、フランスと敵対していた。
そのためフランスと3度戦いその都度フランス王軍を圧倒し、1473年には周囲のロレーヌ・ピカルディを攻略。要塞を引き渡させて自由通行を認めさせる。
1476年にフランス王が雇ったスイス傭兵との戦いで戦死。その死によりヴァロワ朝フランス王国とも互角以上に渡り合うほどの栄華を誇ったブルゴーニュ公国は崩壊した。
※補足
シャルルの構想した軍隊は150年後のテルシオや、マウリッツ・ファン・ナッサウ、スウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍制に先駆けるものであったが、
複雑な諸兵科連合と野戦砲の組み合わせは軍の完全な協調が求められることなど、この時代の通信・兵站などの限界もあり、実際の運用には障害となる問題が多かった。
ガストン・ドゥ・フォア
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1489 | 1503 | 1512 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 90 | 74 | 52 | 85 | 掃討 | 疾走 |
ヴァロワ朝フランスの貴族。「イタリアの雷」と称された猛将で、カンブレー同盟戦争では司令官として活躍。
教皇ユリウス2世率いる神聖同盟軍に対して数々の勝利をもたらしフランス軍の英雄となる。
ラヴェンナの戦いでは電撃的用兵と砲兵を駆使した戦術によってスペイン軍を全滅に追い込む大勝を挙げた。
しかし自身は追撃戦の最中に落馬、銃弾を受けて戦死した。22歳であった。
フランソワ1世
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1494 | 1498 | 1547 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 91 | 82 | 89 | 95 | 文化 | 豪傑 |
ヴァロワ朝フランス第9代。アングレーム伯シャルル・ドルレアンの子。母はルイーズ・ド・サヴォワ。
傍流のアングレーム伯爵家から王位を継承。
シャルル8世以来の政策を引き継ぎイタリアへの積極的な軍事介入を繰り返すとともに、皇帝位を争ったカール5世
率いるハプスブルク帝国との全面対決に踏みきり、在位期間を通じて激闘を繰り広げた。
身長2m超の体躯と武勇の主、みずらからをヘラクレスに擬した勇者であり、前線で奮闘するも、
パヴィアでは皇帝軍に敗北して捕虜となるなど軍事上の成果は思わしくはなかった。
一方、レオナルド・ダ・ヴィンチの招聘をはじめとして文化史上の業績は巨大であり、フランス・ルネサンスの推進者として特筆される。
ノートルダム(ノストラダムス)の予言集にある「1999年7月」に復活する「アンゴルモアの大王」の語句の解釈は諸説あるが、
こんにちではアングレーム伯出身のフランソワ1世を指すという説が有力。
1999年当時のフランスはシラク政権であったが、シラクがフランソワ1世のような支配者であったかどうかは、ハズレに近いといえそうだ。
ミシェル・ド・ノートルダム
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1503 | 1520 | 1566 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
21 | 5 | 84 | 52 | 63 | 詩想 | 解毒 | 文化 | 占術 | 医術 | 本草学 | 礼教 |
16世紀フランスの医師・詩人・占星術師。ペンネームとしてラテン語風に「ミシェル・ノストラダムス」と称したため、
日本では「ノストラダムス」と呼ばれるのが一般的。父はジョーム、母はレニエール。先妻はアンリエット・ダンコス、後妻はアンヌ・ポンサルド。
アンリエットとの子は早世しており、名も不明。アンヌとの子は女子はマドレーヌら3人、男子はセザールら3人。
プロヴァンスの出身で、アビニョン大学やモンペリエ大学で学んで医師となり、南フランスで大流行したペストの予防・治療に努めた。
後に医業の傍ら、暦学や占い・予言に関する書物を著す。有名な『ミシェル・ノートルダム師の予言集』の他、『化粧品とジャム論』などが現存する。
アンリ2世・フランソワ2世・シャルル9世に仕えたとされているが、実際に官職を与えたのはシャルル9世のみであった。
彼の予言書は当時の詩の形式に基づいて書かれたものでその解釈が難しく、
彼の存命中に「当たった」とされる予言も、実際に事件が起きた後に第三者によって「当たった」と解釈されたものが多い。
また、今日では散逸している著作や反対に彼の著作とされた偽書が多い。
※補足
ユダヤ人として紹介する書籍もあるが、祖父の代にユダヤ教からキリスト教に改宗しているので、「ユダヤ人」の定義から外れる。
日本では1970年代に彼の予言書が『諸世紀』というタイトルで紹介されて一大ブームを呼んだが、
そこで紹介された予言の解釈の多くは根拠がなく、同じ詩でも人によって異なった解釈がされている事例もある。
なお、『諸世紀』というタイトル自体も誤訳に由来している。
「1999年7月に世界は滅ぶのだから」と勉強もしないで光栄の『三國志』シリーズを遊びまくって、実際には何も起こらずに後悔した苦い思い出を持つプレイヤーもいる筈である。
ブルボン朝期
ルネ・デカルト
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
52 | 41 | 92 | 60 | 81 | 法律 | 文化 | 占術 | 医術 | 学者 | 先従隗始3 | 名利 |
17世紀のフランス王国の思想家・哲学者。
フランス王国の役人の家に生まれ、幼少から神学・哲学・数学・占術などを学び、大学では法学・医学を学ぶが、
書物だけの学問では我慢できなくなり、大学を出るとオランダや神聖ローマ帝国の軍隊に入った。
23歳の時に夢で啓示を得ると、諸国を遊学してフランスに帰国、『方法序説』・『省察』・『哲学原理』を著して合理主義哲学を打ち出す。
デカルト自身は神の存在の立証を目指していたが、教会からは反キリスト教的との批判を受ける。
スウェーデン女王・クリスティーナの招聘を受けると、「冬の長旅は危険」という彼女の忠告にも関わらず旅路を急いで体調を崩し、1650年にストックホルムにて53歳で死去した。
ブレーズ・パスカル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
11 | 4 | 91 | 62 | 80 | 洞察 | 発明 | 運搬 | 学者 | 虚弱 | 運搬開発3 | 名利 |
17世紀のフランス王国の数学者・科学者・神学者。
役人の子として生まれ、幼少の頃から天才ぶりを発揮して三角形の内角の和が180度であることに気づいた。
成長後も「パスカルの定理」や「パスカルの三角形」を発見し、「確率論」を提唱するなど活躍。
また庶民のために乗合馬車の仕組を考え出して今日の公共交通思想の先駆者となった。
その一方で、宗教家の堕落でキリスト教に対する信頼が薄れていることに危機感を抱き、「確率論」の発展から神の存在は証明できなくとも、
神を信仰することが神を信仰しないことより優位であることを説こうとしたが、病のために1662年に39歳で亡くなった(未完の草稿は後に『パンセ』として刊行される)。
テュレンヌ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
100 | 88 | 65 | 47 | 99 | 矍鑠 | 洞察 | 求心 | 潜在 | 虚弱 | 三軍強化3 | 王道 |
フランス王国の将軍、元帥。フランス史上6人しかいない大元帥の1人。「蒂雷纳」。
貴族の子として生まれたが、生来虚弱体質であった。父の死後奮起して根治し、以後は軍隊で活躍する。
はじめオランダ軍に入り、マウリッツの指揮下で戦争を学んだが、母の懇願によりフランス軍に入隊。ルイ13世、ルイ14世に仕える。
三十年戦争に従軍してネーデルランド、イタリアで功績を立て、様々な司令官から戦争を学んだ。
後にアンギャン公の指揮下に入り、彼が病によって離脱した後は司令官としてバイエルンを駆逐、勝利を収める。
フロンドの乱の後、スペイン戦役では王家と対立したそのアンギャン公と戦い戦局を優位に進め、フランスのヨーロッパにおける覇権を確立した。
オランダ侵略戦争でもオーストリア、スペイン、ローマ帝国相手に優勢であったが、ザスバッハの戦いで流れ弾にあたり戦死。
※補足
全名「テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ」。その死はフランス全土を嘆き悲しませたと言われる。
ナポレオンをはじめ後世多くの人間の理想とされ、フランス革命の際も彼の墓にだけは敬意を払った。
ルイ2世・ド・ブルボン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 99 | 62 | 57 | 98 | 勇将 | 機略 | 英名 | 果敢 | 功名 | 三軍強化3 | 王道 | |||||
99 | 89 | 62 | 57 | 98 | 勇将 | 機略 | 英名 | 果敢 | 功名 | 三軍強化3 | 王道 |
フランス王国の王族、将軍。コンデ公、アンギャン公、モンモランシー公。「路易ニ」
19歳で軍隊に身を投じ、天才的な軍略と破天荒な勇猛さでフランス中の尊崇を集める。
22歳の時にロクロワの戦いで劣勢の中スペイン軍を跳ね返し、その後もドイツ、バイエルン方面の司令官として連戦連勝を飾り、三十年戦争におけるフランス勝利を決定づける。
しかし、その類稀な名声を危険視され、ルイ13世死後に即位したルイ14世の側近と対立。フロンドの乱を起こしてフランスを内乱に陥れるが、かつての部下テュレンヌに阻まれた。
後に客将としてスペインに入り、フランス・スペイン戦争で再びテュレンヌと戦う。
獅子奮迅の活躍を見せるが、友軍のスペイン軍が劣勢となり、最終的に自身もテュレンヌ率いるフランス・イングランド連合軍に敗れる。
ピレネー条約で許されフランス軍に帰参し、オランダ侵略戦争にも従軍。テュレンヌ戦死後の軍をまとめ犠牲を最小限に抑えたが、同年隠棲した。
※補足
ロクロワの戦いでは右翼の指揮を取って敵を敗走させた後、中央突貫して反対側の敵に挑みかかり、これも敗走させ中央の軍も降伏させたと言われている。
その出自や軍歴から、フランス屈指の人気を誇った。同僚でもありライバルでもあるテュレンヌ子爵とは、その対照的な人物像でしばしば話題となる。
嫌悪武将:ジュール・マザラン
シャルル・ダルタニャン
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
1615年頃 | 1673年 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
77 | 86 | 68 | 59 | 75 | 護衛 | 捕縛 | 規律 | 慰撫 | 奮戦 | 連弩 | 牽制 | 地域巡回 | 王道 |
17世紀フランスブルボン王朝の軍人。
ガスコーニュの出身で銃士隊に入り銃士隊の解散後は宰相マザランの側近を経て近衛連隊隊長となり、ルイ14世の命で権臣ニコラ・フーケを逮捕している。
ルイ14世が銃士隊を復活させた後は銃士隊隊長代理を経て最終的にリール総督にまで出世するが、仏蘭戦争のマーストリヒト包囲戦で銃弾にあたり死亡した。
※アレクサンドル・デュマの小説「三銃士」の主人公であるダルタニャンのモデルとなった人物。
親愛武将:ルイ14世 ジュール・マザラン
ルイ13世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 72 | 78 | 71 | 78 | 崩壁 | 規律 | 水戦 | 教化 | 癇癪 | 三軍強化3 | 覇道 |
フランス王国ブルボン朝の王。「路易十三」。1610年、父・アンリ4世が暗殺されて8歳で即位。
母のマリー・ド・メディシスが摂政を務めたが、成人後も母が国政に関与しようと図り、また国内ではプロテスタントの一派のユグノーが台頭するなど不安定な状況が続いた。
初めのうちは母が宰相に起用した枢機卿のリシュリューに強い嫌悪感を抱いていたが、徐々に関係を深めていき、1631年にその協力を得て母の追放に成功した。
リシュリューの補佐を受けてユグノーの本拠地であるラ・ロシェルを陥落させ、三十年戦争ではカトリックでありながらプロテスタント側で参戦した。
また海軍を強化して北アメリカなどにおける植民地拡大を推進した。
1642年、リシュリューが病死すると、彼の推挙でマザランを後任にすることにしたが、翌年に後を追うように43歳で死去した。
リシュリュー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 57 | 98 | 96 | 65 | 虚実 | 文化 | 論客 | 策士 | 悪名 | 魏武の強 | 王佐の才 | 大喝 | 挑発 | 罵声 | 投石 | 文事武備3 | 覇道 |
フランス王国の政治家、枢機卿。
フランスの小貴族の家に生まれ、幼い頃に聖職者となるが、兄がアンリ4世の側近に取り立てられたことから21歳の若さで司教に抜擢される。
1614年の三部会で第一身分(聖職者)代表となると、巧みな弁舌で議論を優位に運び注目を集めた。
国王ルイ13世の母であるマリー・ド・メディシスによって登用されるが、ルイ13世とマリーの関係が悪化すると国王から疎まれてアビニョンに追放されるなど冷遇される。
しかし、1622年に枢機卿に、1624年に宰相に任じられると、次第に国王側の立場に立つようになり、1631年にルイ13世と共にマリーを国外追放にした。
ルイ13世の信任を得るようになると王権の強化に努め、国内ではプロテスタントを弾圧しながら、三十年戦争ではプロテスタントへの弾圧を理由にカトリックの神聖ローマ帝国に宣戦するなど国家と王権の利益のためには矛盾した行動を平気で行った。
また、戦争継続のために重税を課し、三部会を閉鎖し、「信賞必罰など必要無い。必罰だけが重要だ」と公言して抵抗する貴族や農民を徹底的に弾圧した。
その一方で学問や芸術の保護者としても知られ、ソルボンヌ大学の学長を務め、アカデミー・フランセーズを創設している。1642年に57歳で没したが、最期の聴罪の場でも「私には国家の敵より他に敵はなかった」と言い切ったという。
※補足
全名「リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー」。『三銃士』では悪役とされるが、原作では最終的に三銃士と和解している。聖職者であるため子供がいなかったが、国家に対する功労のため、姉の孫に「リシュシュー公爵」を継ぐことが許された。
ジュール・マザラン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 38 | 90 | 88 | 77 | 鳳雛 | 振興 | 人脈 | 論客 | 柱石 | 経世済民3 | 覇道 |
フランス王国の政治家、枢機卿。シチリア貴族の庶子として中部イタリアに生まれる。
初めは聖職者としてローマ教皇に仕え、マントヴァ継承戦争ではフランス軍を率いるリシュシューと外交戦を繰り広げた。
後にフランス駐在の教皇特使となった際にリシュシューに引き抜かれ、1639年に正式に移住。フランス風に「マザラン」と改称する。
リシュリューの死の直前に後継者に指名されて枢機卿に任じられ、ルイ13世の下で宰相に就く予定であったが、直後にルイ13世が急死したために5歳で即位したルイ14世の宰相となる。
三十年戦争や仏西戦争を勝利に導いてフランスの勢力を広げるが、国内では軍事費のための増税に不満を持ったコンデ公(ルイ2世・ド・ブルボン)ら大貴族たちがフロンドの乱を起こす。
だが、乱を鎮圧して大貴族の権力抑制に成功する一方、イタリアから引き取った姪たちを貴族に嫁がせてフランス国内に基盤を築いた。
また、国内ではコルベールを登用して重商主義を推進した。
1661年に58歳で死去した翌日、ルイ14世は親政を宣言するが、これは生前のマザランとの取り決めであったともいう。
※補足
イタリア名「ジュリオ・マッツァリーノ」。一説にはルイ13世に先立たれた王太后アンヌ・ドートリッシュと秘密結婚していたとも言われる。
フルーリー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
10 | 18 | 71 | 95 | 87 | 徴税 | 眼力 | 王佐 | 寡欲 | 慈悲 | 歳出改善4 | 王道 |
フランス王国の政治家、枢機卿。
パリで聖職者となり、初めはルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュに仕えていたが、
彼女の死後に夫のルイ14世の命で曾孫のアンジュー公ルイ(後のルイ15世)の教育係に任じられる。
幼くして孤児同然となったルイ15世はフルーリーを信頼し、1726年に宰相であるブルボン公ルイ・アンリがフルーリーの排除を企てたとき、ルイ15世はルイ・アンリの追放を選んだ。
73歳のフルーリーは宰相就任を辞退したが、ルイ15世は彼を枢機卿に就けることに成功してリシュシューやマザランの先例に従って宰相の職務を行わせた。
フルーリーは財務官僚を一新して官職の整理や軍事の削減、増税などを行って財政再建に努める。
また、道路や港湾の整備を行って産業の振興を図った。
国力の立て直しを優先する観点から平和外交を重視したが、マリア・テレジアのオーストリア継承には反対した。
しかし、この問題がオーストリア継承戦争に発展すると、開戦に反対してきたフルーリーは開戦に積極的な国王や大臣、貴族たちを押さえることが出来なかった。
フルーリーは密かにオーストリアとの和睦を工作したが、その経緯がオーストリア側に暴露されたためにフルーリーの解任を求める声は高まった。
しかし、フルーリーを親代わりと慕ってきたルイ15世は最後まで彼を擁護し続け、1743年に89歳で亡くなるまで国政を補佐させた。
※補足
全名「アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー」。ルイ15世が30歳を過ぎても高齢のフルーリーに依存していたため、
フルーリーが国王を意気地無しに育てて操っていると非難されたが、彼自身は常に謙虚で控えめな振舞をしていた。
ルイ14世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 42 | 69 | 81 | 75 | 規律 | 築城 | 文化 | 高慢 | 浪費 | 政令徹底5 | 王道 |
フランス王国ブルボン朝の王。「路易十四」。「太陽王」の異名を取る。
父王の死後5歳で国王となる。宰相マゼラン、ティレンヌ子爵、コンデ公ルイ2世ら優秀な人材に支えられ、マゼランの死後1661年に親政を実施。
「盟主政策」と呼ばれるフランス中心のヨーロッパ体制構築を掲げ、ネーデルランドやスペインなど他国への侵略戦争を実行。これに勝利して国際的威信を高め、同時にストラスブールを占領した。
1680年には多額の資金を投入してヴェルサイユ宮殿を造営し、王権神授説を標榜して絶対主義を推し進めるなど、国王専制体制を極め王朝最盛期を謳歌した。
しかし晩年はスペイン継承戦争や大同盟戦争の泥沼化による莫大な戦費投入で財政破綻寸前まで落ち込み、重税を課してフランス国民を苦しめたという。
※補足
その治世における負の遺産はフランス革命の遠因となった。葬儀の際、国民はこぞって罵声を投げかけたと伝わっている。
革命後にルイ14世は暴君の象徴とされたが、一方その治世を「大世紀」と讃える思想家もいるなど、毀誉褒貶が激しい。
72年間の在位を誇り多くの子や孫に恵まれたが、1711年に宮廷で広がった天然痘で多くの王族が死亡。
既に王位継承権を放棄した孫のスペイン王フェリペ5世と生まれたばかりの曾孫のアンジュ―公ルイ(フェリペの甥)しか男子が残らなかった。
このため、ルイを後継者に指名したが、その4年後に病に倒れ、奇しくも自分と同じ年で国王になる曾孫の将来を危惧しながら死去したという。
シャルル・ド・モンテスキュー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
42 | 18 | 81 | 50 | 78 | 法律 | 文化 | 論客 | 学者 | 特使 | 太学3 | 名利 |
18世紀のフランス王国の思想家・哲学者。
フランス王国の小貴族の家に生まれ、母からラ・ブレード男爵を、伯父からラ・モンテスキュー男爵を継承するが、本人は実務よりも学問を好み、39歳でアカデミー・フランセーズの会員に選出される。
保守主義者ではあったが、イギリスの政治状況を見て国家の安定のためには王権の制約が必要と考えて、権力分立論を唱えた。
代表作に『ローマ人盛衰原因論』・『法の精神』がある。
1755年に66歳で死去。
ルイ15世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 41 | 50 | 58 | 61 | 浪費 | 惰弱 | 侵略荒廃 | 我道 |
フランス王国ブルボン朝の王。「路易十五」。
ルイ王太子(ルイ14世の孫)の3男として生まれ、生まれた直後に宮廷を襲った天然痘で両親や兄弟を含めた王族のほとんどが死去したために2歳で曾祖父の王太子となり、曾祖父と同じく5歳で国王となる。
宰相オルレアン公フィリップ、ブルボン公ルイ・アンリ、フルーリー枢機卿ら優秀な人材に支えられ、フルーリーの死後1743年に親政を実施。
オーストリア継承戦争・七年戦争など他国への侵略戦争を実行。しかし、十分な勝利を得られず、却ってアメリカ大陸での利権を喪失した。そのため、次第に趣味の狩猟に没頭するようになり、国政を顧みなくなった。
更にシャトールー侯爵夫人、ポンパドゥール侯爵夫人、デュ・バリー夫人など多くの愛人を作って人々の顰蹙を買い、「最愛王」と揶揄された。
晩年は高等法院の権力を奪って国王の権威を高め、国政改革に乗り出すものの、1774年に天然痘に倒れて59年の治世に幕を閉じた。
息子や孫の早世によって残された息子の3男であるルイ・オーギュスト(後のルイ16世)を王太子とした。
※補足
曾祖父の遺産で国は維持できたものの、親政開始後は軍事的には敗戦を重ね、何度も債務不履行に陥るなど、フランス革命の原因の多くがルイ15世の治世には出揃っていた。
ジャンヌ=アントワネット・ポワソン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
41 | 11 | 72 | 71 | 86 | 傾国 | 才媛 | 論客 | 人脈 | 浪費 | 太学3 | 王道 |
フランス王国のルイ15世の公妾・ポンパドゥール侯爵夫人。
銀行家の娘に生まれ、徴税請負人のシャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールの妻となる。
貴族とも取引の深い上層市民の娘として一流の教育を受けた彼女は貴族のサロンにも出入りを許され、
23歳の時にルイ15世の目に止まって翌年に正式に公妾とされた。
彼女はエリゼ宮の造営などで浪費を行う一方、有能な政治家や思想家、学者、芸術家などをサロンに招き入れて国王に推挙した。
また、国王に代わって外交を仕切り、宿敵だったオーストリアとの歴史的な和解に踏み切らせた。
30歳を過ぎると国王の寵愛は薄くなるものの、彼女の意に沿う国王好みの女性を紹介し続けたため、1764年に42歳で亡くなるまで宮廷に大きな影響を保持していた。
※補足
国王の公妾となったことで妻に捨てられたと笑いものにされた夫のデティオールは生涯彼女を許さなかったが、
結果的に政治から距離を置くことになり、晩年にフランス革命で逮捕されたものの死刑を免れて平穏な余生を送った。
フランソワ・ケネー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
21 | 17 | 78 | 56 | 75 | 解毒 | 農政 | 論客 | 医術 | 学者 | 地域振興3 | 王道 |
18世紀のフランス王国の医師・経済学者。
ルイ15世の愛人であるポンパドゥール侯爵夫人付の医師となり、その死後はルイ15世の侍医となって功績によって貴族に任じられた。
血液循環と瀉血の位置に関する論争に加わった経験から、経済も血液のように循環するのでは?という考えに立ち、
『経済表』を著してリシュリュー以来の重商主義を批判して、食料生産の充実こそ国富の基本であるとする重農主義を唱えた。
ケネーの考え方はミラボーやジャック・テュルゴー、アダム・スミスからも評価され、近代経済学の先駆となった。
1774年に80歳で病死。
※補足
彼の存命中から農業を重視する考えが孔丘?と共通すると指摘する者がいたという。
ヴォルテール
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
31 | 15 | 88 | 78 | 85 | 詩想 | 振興 | 人脈 | 史官 | 学者 | 先従隗始3 | 名利 |
18世紀のフランス王国の哲学者・詩人・歴史家。
パリの商人の家に生まれる。
18歳の時にアカデミー・フランセーズの賞を受けるが、文学の道に進むことに反対する父親と対立、更に政府批判と取られる詩によってバスティーユ監獄に投獄されたこともある。
22歳の時に書いた劇『エディップ』で人気を得るが、彼を妬む者によって再び投獄され、当局の黙認の下イギリスに亡命する。
イギリスでロックやニュートンに触れて自然科学や哲学に関心を抱き、帰国後に書いた『哲学書簡』は大きな反響を呼ぶが、
文中にフランスの後進性を批判する内容を含んでいたことから再び逮捕状が出されて今度はオランダに亡命するが、
女性科学者でもあるシャトレ侯爵夫人に匿われ、恋愛関係に発展している。
また、プロイセン国王フリードリヒ2世からも交友を求められ、親密な関係を築く。
次第に高まる名声にフランス政府も無視できなくなり、史料編纂官に任じてアカデミー・フランセーズの会員とするが、
ルイ15世の器量を見て宮廷を去り、プロイセンのフリードリヒ2世の招きに応じるが意見対立からここも去り(後に和解)、
更にジュネーブに移住するも、現地当局から思想を危険視されてここも離れて、フランス・スイス国境のフェルネに落ち着く。
フェルネで著作活動をしながら、町の地域振興にも助言を行って人々の信望を得た。
1778年、戯曲『イレーヌ』の上演記念で28年ぶりにパリを訪れるが、そこで病に倒れ、83歳で死去。
※補足
全名「フランソワ=マリー・アルエ」。「ヴォルテール」は姓をラテン語風の表記にしてアナグラムにしたペンネームと言われている。
彼の原稿や蔵書はロシアのエカテリーナ2世が、版権は『フィガロの結婚』のカロン・ド・ボーマルシェが買い取って散逸を防いだ。
ジャン=ジャック・ルソー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
18 | 26 | 93 | 37 | 88 | 楽奏 | 言毒 | 論客 | 学者 | 強奪 | 施設開発4 | 我道 |
※施設開発4は軍楽台が建てられるという意味で。
スイス・ジュネーブ出身のフランス王国の音楽家、哲学者。
時計職人の子として生まれるが、10歳の時に父が貴族と喧嘩したことを理由に出奔して一家離散し、彼も各地を転々とすることになる。
やがて、音楽家として身を立てようとしてパリに出るがここでも恵まれず、その後も各地を転々とした。
38歳の時に著した論文『学問芸術論』が評判となり、音楽家としても思想家としても評価を受けるようになるが、
3年後に発表した『人間不平等起源論』は賛否両論を巻き起こし、ヴォルテールなどの啓蒙主義的な進歩派知識人と敵対関係に陥る。
その後、『社会契約論』、『エミール』を著す一方、『新エロイーズ』で小説家としても評価を得た。
ところが、『エミール』の内容を巡ってカトリック・プロテスタント双方から非難を受け、
フランスでは高等法院から逮捕状が出てジュネーブからも追放されたため、イギリスに亡命するが、そこでも人間関係に悩んで心の病を患ってフランスに帰国する。
しかし、フランス国内では既得権益への不満と共にルソーを擁護する人々が増えて、政府も世間の反発を恐れて見て見ぬふりをした。
1778年、後援者のジラルダン侯爵の邸宅で突如、倒れ66歳で死去した。
※補足
読書をこよなく愛していたが、幼少時代の病弱とその後の流浪生活の影響で正式な教育機関に生涯通うことはなかった。
※ 強奪は放浪時代に生きるために窃盗や詐欺紛いを行ったことによる。反面、過去の自分を顧みたことが『エミール』を生み出す原点ともなった。