注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
ポルトガル
イベリア半島西部の地域及び国家。
1139年に王国が成立し大航海時代にはスペインと共に時代を主導した。
大航海時代後期にはスペインとの同君連合となるが、1640年に再び独立し1910年にまで王制は続き
現在は民主国家となっている。
エンリケ
生年 | 登場 | 没年 |
1394 | 1460年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 67 | 77 | 84 | 76 | 富豪 | 文化 | 振興 | 人脈 | 鼓舞 | 激励 | 駆逐 | 投石 | 水軍育成5 | 覇道 |
ポルトガル・アディス王朝の王族。ヴィゼウ公。
ポルトガル王ジョアン1世の子で父に従い北アフリカのセウタ攻略に参加し、
それを機にアフリカ方面の航路開拓への興味を持ち1416年頃にポルトガル南端の
サグレスにて気象台や航海術を学ぶ学校等の施設を集めた「王子の村」を建設し、
多くの探検家を育成・抜擢してアフリカ西岸への探検に派遣して大航海時代の先駆けとなった。
その為、エンリケ航海王子と呼ばれる事が多い(ただし、「王子の村」関連は後世の創作も多いと言われる)。
ちなみに王子自身は船酔いが酷く船にはあまり乗船しなかったと言われている。
スペイン
ヨーロッパ南部のイベリア半島に位置する立憲君主制国家。1469年にカスティーリャ王国イサベル女王と
アラゴン王国フェルナンド国王の結婚により両国が統合され、1492年にレコンキスタを完成させることで
現在のスペインの原型となる国家が誕生した。ハプスブルク家のカルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世として
即位し、大航海時代の主役として南米大陸の先住民国家を尽く滅ぼすなどして全世界に勢力を拡げ文字通りの
太陽の沈まない国を実現し、文化面を含めた黄金時代を演出した。17世紀以降その覇権に翳りが見えるようになるが、
ナポレオン戦争に巻き込まれ南米植民地に独立される19世紀まで強国の地位を保持し続けた。植民地の大半を失い
王政廃止、3年に及ぶ内戦、フランコによる独裁を経て王政復古、現在は民主化が進み欧州の中でも平均以上の
経済成長を実現しているが、カタルーニャやバスク地方における独立問題など国内の問題も依然多い。
イザベル1世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
45 | 36 | 77 | 74 | 83 | 求心 | 才媛 | 応援 | 眼力 | 補佐 | 地域巡回 | 覇道 |
カスティーリャ王国トラスタマラ朝の6代国王。フアン2世の娘。
3歳で父が亡くなると猜疑心の強い異母兄のエンリケ4世によって母や弟と共に宮廷から追放される。
ところが、間もなくエンリケの娘で唯一の王位継承者とされたファナの出生疑惑を巡って内乱が発生し、早世した弟に代わって反乱軍の盟主に立てられた。
当時、同じイベリア半島にあったアラゴンとポルトガルが内乱に介入しようとしたが、ファナがポルトガル王アフォンソ5世に嫁いだのに対抗して、アラゴンのフェランド王太子と婚姻する。
ファンとポルトガルの連合軍を破ると、夫と共にカスティーリャの共同統治者として戴冠した。結果的にこれが統合国家である「スペイン」の建国となる。
南部に残っていたイスラム国家グラナダ王国を制圧し、約800年にわたったレコンキスタを完成させる。
また、コロンブスを支援して新大陸発見につながったことでも有名。
その反面、夫と共にキリスト教への改宗者を含めたイスラム教徒やユダヤ教徒を徹底的に迫害し、トマス・デ・トルケマダを異端審問官に登用して大規模な異端審問を行ったことは今日まで暗い影を落としている。
1504年に53歳で死去。
※ イザベルはアラゴン王妃あったが統治者ではなく、フェランド(アラゴン王フェランド2世/カスティーリャ王フェルナンド5世)も「イザベルの夫になる」という条件でカスティーリャ王に即位したため、イザベルが亡くなると王位を失った。取り敢えずフェランドがアラゴン王のまま、子供のうち唯一健在だった娘のファナをカスティーリャ女王としたが、ファナも心の病となり、またフェランドもアラゴンとカスティーリャの統合を望んでいなかったために王位継承の問題は混迷した。すったもんだ末にファナの長男であるハプスブルク家のカルロス(後の神聖ローマ皇帝カール5世)が両国の王位を継承、1707年に正式に統合が宣言されるまで、両国の王座が分離することはなかった。
フランシスコ・ピサロ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
99 | 91 | 93 | 43 | 53 | 神機 | 掃討 | 威風 | 強奪 | 悪名 | 鉄騎突 | 奮戦 | 突撃 | 斉射 | 大喝 | 混乱 | 三軍強化 | 覇道 |
フランシスコ・ピサロは、スペインの軍人、探検家、コンキスタドール。
ペルーのインカ帝国を征服したことで有名である。
その後は支配地の分配、特にクスコの領有権をめぐって仲間であったディエゴ・デ・アルマグロと対立し始め、1537年から内戦が始まった。
1538年4月にサリナスの戦いでアルマグロを破り処刑した。
戦いに勝利したピサロではあったがスペイン本国の支持を失い、1536年にはカルロス1世にアタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告され、その後1541年6月26日にアルマグロの遺児一派にリマで暗殺された。
埋葬されなかったピサロの遺体はミイラとして現在も残されている。
エルナン・コルテス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
99 | 91 | 100 | 63 | 55 | 梟雄 | 掃討 | 威風 | 強奪 | 悪名 | 精練策数 | 奮戦 | 斉射 | 大喝 | 混乱 | 罵声 | 上兵伐謀 | 覇道 |
エルナン・コルテスは、スペインのコンキスタドール。
メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。
アステカを征服すると、コルテスは征服した土地を部下に分け与え、自らも広大な土地を手に入れた。
これにより、旧アステカにもエンコミエンダ制が大々的に成立することとなった。
1523年、コルテスはカルロス1世から総督に任命されカリフォルニア南部を探検した。
同時に、ホンジェラスやニカラグアへ遠征隊を派遣した。入植者たちは、広大な土地を与えられ、労働力としてインディオたちを金山や銀山で強制労働させ、奴隷として扱った。
アルバロ・デ・バサン
統率|武力|知力|政治|魅力
90 98 78 74 70
(Álvaro de Bazán y Guzmán, Marqués de Santa Cruz, 1526年12月12日 - 1588年2月9日)は、「スペイン海軍の父」と称されるスペインの軍人・貴族。海軍提督(スペイン語版)として知られ、サンティアゴ騎士団員でもあった。
1526年、グラナダで生まれる。一族はナバーラ出身で、祖父はカトリック両王のグラナダ戦争(英語版)に従軍した。また、彼の父親はカルロス1世に仕え海軍に籍を置いており、1535年のチュニス攻撃時にはアンドレア・ドーリアとともに戦っている。アルバロの功績に対し、フェリーペ2世は1569年10月に彼をビソ・デル・マルケス(スペイン語版)領主、サンタ・クルス・デ・ムデーラ領主とした。これにより、アルバロはサンタ・クルス・デル・ビソ侯(Marqués de la Santa Cruz del Viso)またはサンタ・クルス・デ・ムデーラ侯(Marqués de la Santa Cruz de Mudela)として知られた。
1544年、フランス海軍のガリシア攻撃に対し勝利した際に従軍していた。1571年のレパントの海戦など数々の軍功をたてる。1583年にテルセイラ島沖で起きたポンタ・デルガダの海戦(英語版)では、ポルトガル王位請求者アントニオとフランス、イングランド、ネーデルラントの冒険者・私掠船連合を撃破した。
イングランドがスペイン帝国に重大な脅威を与えることを認識していたサンタ・クルスは、戦争の熱心な主張者になった。1583年8月に彼からフェリーペ2世へ宛ててアングラ・ド・エロイズモで書かれた手紙には、アルマダについての初めての提案が含まれていた。
1587年、フランシス・ドレークがカディス停泊中のスペイン船を襲撃したとき、サンタ・クルスは自身の艦隊を装備する手段のないリスボンにいた。結局、サンタ・クルス独自の判断がフェリペ2世を立腹させることになり、カディス襲撃に対する失敗と遅れの責任を負わされた(実際は、それまでのサンタ・クルスの計画立案に対し、煮え切らない性格と当時の政治的・財政的苦境から遅延させたフェリペの責任であった)。1588年2月9日にリスボンでサンタ・クルスが急死したのは、王の不当な非難のせいであるといわれた。
フェリペ2世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
96 | 88 | 80 | 94 | 92 | 任才 | 水戦 | 徴税 | 強奪 | 粗暴 | 連環の計 | 急襲 | 鯨波 | 投石 | 駆逐 | 矢嵐 | 上兵伐謀 | 我道 |
アブスブルゴ朝(スペイン・ハプスブルク朝)第3代国王。イングランド王としてはフィリップ1世、ポルトガル王としてはフィリペ1世を名乗る。
近世ヨーロッパにおける代表的な絶対君主に数えられる。別名・「慎重王」「書類王」。
カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の長男であるが、父が神聖ローマ皇帝の地位とオーストリア本土を弟のフェルナンドに譲った際に、代わりに息子のフェリペにスペインを含めた全属領を継承させた。
マドリードに遷都して中央集権体制を確立する。また、イングランドのメアリ1世と婚姻して共同統治者となるが、メアリの早世によって王位を失った。
プロテスタントを異端として徹底的に弾圧し、叔父のフェルナンドがアウグスブルクの和議を結んだことに反発し、自らをカトリックの盟主としてカトリックによる再統一を目指す。
ポルトガルを併合し、レバント海戦でオスマン帝国海軍を倒して「無敵艦隊」の名を轟かせる。
しかし、ネーデルランド(オランダ)でプロテスタントの反乱が発生し、
イングランドではプロテスタントのエリザベス1世(メアリ1世の異母妹)が即位したことで両国の関係は悪化し、ネーデルランドを巡って衝突したアルマダの海戦で「無敵艦隊」はイングランド海軍に敗北する。
卓越した政治力と軍事力でスペインを世界帝国に発展させ、「太陽の沈まぬ帝国」と称されたが、新大陸からの収奪に依存してきた財政は急激に悪化していき、フェリペの死後、スペインは急速に衰退していくことになる。
ガスパール・デ・グスマン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
82 | 78 | 95 | 98 | 51 | 伏龍 | 名声 | 学者 | 王佐 | 高慢 | 経世済民 | 我道 |
スペインの貴族・政治家。第3代オリバーレス伯爵。彼の代に公爵に昇格したが、彼自身は由緒正しい伯爵の名に拘ったため「公伯爵」の異名を持つ。
伯爵家の3男に生まれたが、明晰な頭脳の持主で、兄の早世によって後継者になる。
フェリペ4世の即位前からの側近で、即位後は宰相の地位に就いた。
フェリペ2世が築き上げた高度で緻密な行政システムを没後に正常に運用できた唯一の政治家と言われている。
衰退するスペインを再建するために、「大建白書」と呼ばれる行政軍事財政にわたる一大改革案を作成する。
しかし、当時としては余りにも先進的な内容であったために保守的な貴族達の抵抗に遭い、更にポルトガルやオランダに独立され、カタルーニャで収穫人戦争の勃発を招き、各地を転戦した。
このため、国王によって追放同然に失脚させられて失意の内に病死した。
※恐らく諸葛亮になるだけの才能があってなりきれなくて、悪名が後世に残ってしまったイメージ(魅力の低さと高慢の赤個性はその反映)。陳寿の「蓋し応変の将略はその長じる所にあらざるか」がこの人にも当てはまるかも知れない。
フェリペ4世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
36 | 30 | 29 | 52 | 83 | 名声 | 文化 | 眼力 | 惰弱 | 混乱 | 太学3 | 名利 |
スペイン王国ハプスブルク朝5代国王。フェリペ3世の長男。15歳で即位、治世前半はオリバーレス公伯爵に
委任していたが後にオリバーレスを更迭し親政を行う。三十年戦争に巻き込まれ、併合していた
ポルトガルやオランダに独立され、カタルーニャで収穫人戦争が勃発し、領土をフランスに割譲し
娘をルイ14世に嫁がせるなどスペインの国勢は大きく衰退していく。文化面では有名な画家の
ベラスケスやルーベンスなどを重用するなど、芸術に対して優れた鑑識眼を持ちスペイン黄金時代美術の立役者となった。
※ 中国語では費利佩四世。
※ 能力値は、史実武将の文弱な色々な君主を考慮したもの。馬術や射撃の名手で教養は高かったらしいです。
ディエゴ・ベラスケス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
14 | 11 | 75 | 83 | 80 | 調達 | 文化 | 特使 | 鎮静 | 工法改革2 | 名利 |
17世紀スペインの画家。セビリア生まれで、スペイン国王フェリペ4世の肖像画を描いたことで国王に気に入られ、
側近として活躍する。二度のイタリア旅行で美術品を収集し絵画の制作に励み、宮廷画家としてだけでなく
王室の仕事や外交官としても多忙となり、その死は過労ともいわれる。
「ブレダの開城」「ラス・メニーナス」などの傑作を残し、プラド美術館に多くの作品が収蔵され、
その作風はマネなど後世の画家達に大きな影響を与えた。画家ルーベンスや名将スピノラとも親交を結んでいる。
※ 中国語では迭戈・委拉斯開茲。
※ 能力値は「みんなの新武将」顧愷之を少しいじったもの。
アンブロジオ・スピノラ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
94 | 86 | 93 | 55 | 82 |
【アンブロジオ・スピノラ】
近世スペインの軍人。「安柏吉奧·斯皮諾拉」。
銀行家の出身だが、1602年にスペインの傭兵としてフランドルへ向かう。
翌年オーステンデ包囲戦の指揮を任され、その翌年にこれを陥落させる。
その後はフェリペ三世の下フランドルを転戦し、マウリッツ・フォン・ナッサウとも互角の攻防を繰り広げる。
三十年戦争ではライン峡谷を占領する大功を挙げ、プレダ攻城戦で名を轟かす。
しかしスペイン内の政争等で次第に立場が不利になり、全ての財産を失い失意の内に没した。
ヨーロッパ中にその名を轟かせた攻城戦の名人として知られる。
フェルナンド7世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
17 | 8 | 6 | 15 | 89 | 名声 | 浪費 | 高慢 | 強欲 | 癇癪 | 混乱 | 名利 | ||||||
17 | 8 | 6 | 15 | 59 | 名声 | 浪費 | 高慢 | 強欲 | 癇癪 | 混乱 | 名利 |
【フェルナンドナナセイ】
スペインの国王。「费尔南多七世」
国王の息子として生誕するが、幼少期から国王王妃及びその側近から疎まれ続けた。
だが、自国の政情不安から民衆の期待を一身に背負い、やがて1808年に民衆暴動によって
父が退位すると、入れ替わるように即位する。しかし、ナポレオンの介入を受けて退位させられ、
以後約6年にわたってフランスで囚われた。ナポレオンの没落を機に解放され、その後
王位に復帰したが、国内派閥抗争から方針を二転三転させた。晩年はスペイン立憲革命ら
反乱軍によって捕らえられたが、解放されるとただちに報復として徹底的な弾圧を加える。
更に娘しか生まれなかったために1713年に禁止された女子への王位継承を認める法令を出したところ、
王弟のドン・カルロスの王位継承を支持する保守派が反乱を起こし、40年以上続くことになる。
だが王権権威の回復には至らず、衰弱したまま1833年死去。
※ ナポレオン戦争時には革命派の希望として祀り上げられ、半島戦争長期化の遠因となった。しかしのちの立憲革命や独立戦争による凋落などもあり、後世本人への資質評価は厳しいものがある。
エスポス・イ・ミナ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
65 | 84 | 74 | 61 | 81 |
【エスポス・イ・ミナ】
スペインのゲリラ指導者。「フランシスコ・エスポス・イ・ミナ」「李米娜」
スペイン王家がナポレオン体制に吸収された後も、民衆を指導してゲリラ活動を展開し
フランス軍に多大な損害を与えて、対仏大同盟軍を間接支援した。ゲリラ活動によってフランス軍は
大軍を駐屯せざるを得ず、徐々に苦しめられていった。その資質はフランス軍も恐れたと言われている。
スペインでは偉大なゲリラ指導者の1人と言われ、スペイン独立戦争でも大きな功績を立てた。
ゲリラ戦争の祖とも言われる。
※その他候補となった特技:待伏・乱戦
ホセ・デ・サヤス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
74 | 77 | 55 | 46 | 71 |
【ホセ・デ・サヤス】
近世スペインの軍人。「何塞」。
軍に入り歩兵を率いる。1793年のピレネー戦争では砲兵隊に加わる。この戦争で捕虜になるが釈放された。
1800年のブリオンの戦いでは奮戦し負傷する。その後は大隊の司令官となる。
半島戦争が起こると、一進一退の攻防を各地で繰り広げ、ゲリラ戦術を用いフランス軍を苦しめ、勝利に大いに貢献する。
戦後は中将に昇進し、1827年病没。
フランシスコ・ハビエル・カスタニョス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
79 | 67 | 66 | 68 | 73 |
【フランシスコ・ハビエル・カスタニョス】
近世スペインの軍人。「弗朗西斯科」。
軍に入り昇進を重ね、半島戦争前は准将の位にあった。
半島戦争が始まると、司令官として戦い、バイレンの戦いでフランス軍を破り臨時政府フンタを確立する。
イギリス軍が上陸すると司令官のウェリントンの指揮下につき勝利に貢献する。
その後王立諮問委員会の議長に選出され、行政に尽力し1852年に病没する。
アウグスティーナ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 |
34 | 58 | 55 | 22 | 86 |
【アウグスティーナ】
スペインゲリラの一員。「アグスティーナ・デ・アラゴン」「阿拉贡」
半島戦争で従事し、サラゴサ攻囲戦で活躍。
女の身でありながら戦いに参加し、当初は補給の任にあたっていたが、
味方軍苦境の際に砲を敵に向けて発射し、フランス軍潰走のきっかけを作る。
ゲリラ軍でも顕彰され、以後も祖国防衛のために従軍したと伝わっている。
※ その活躍はスペイン国内でも広く顕彰された。フランス軍の捕虜になった時も、兵を誑かして闇夜に逃れたという。