事件戦法
Last-modified: 2025-11-12 (水) 16:08:14
184年2月【黄巾の乱】

詳細
- 演:山へ薬草を取りに行った巨鹿郡の張角は、一人の老人と出会った。老人は自身を南華老仙と名乗り、『太平要術書』 という書物を授けた。書をもらった張角は符水で人の病を治せるようになり、自ら「大賢良師」と名乗るようになった。それから十余年、信者の数は数十万に及ぶ。張角は三十六の 「方」を置き、大方には一万余人、小方には六七千人を配置し、それぞれに渠帥を立ててこれを治めた。「蒼天既に死す、黄天当に立つべし。歳は甲子にありて、天下大吉ならん」と流言し、白土で都の門や州郡の官府に「甲子」の字を書いて決起を促した。 中平元年、黄巾賊の指導者・張角は魏郡で蜂起した。これに参加した者は皆、黄色い頭巾を目印にしていたことから、人々から「黄巾賊」と呼ばれた。その年の二月、張角は自らを天公将軍と称し、弟の張宝と張梁はそれぞれ地公将軍、人公将軍と名乗り、官府を焼き払い村々を略奪した。州郡は力を失い、役人の多くが逃げ出したため、瞬く間に反乱が各地に広がった。
- 史:南華老仙が張角に『太平要術書』を授けたという記述はない。
「太平道法」
184年8月【黄巾平定】

詳細
- 演黄巾の反乱の勢いはすさまじく、何進は速やかに賊を討つ詔を下すよう帝に奏上した。中郎将の盧植、皇甫嵩、朱儁が派遣され、各自精兵を三路に分けて討伐に向かった。大勝利を収めた皇甫嵩に、朝廷は黄巾軍に対し成果を上げられてい ない董卓の代わりに討伐に向かうよう命じた。皇甫嵩が着いたときにはすでに黄巾軍の張角は死んでおり、張梁は軍を率いて討伐軍を拒んだが、皇甫嵩に七連敗し曲陽にて討たれた。朱儁が陽城を攻め、危機的状況になった賊軍では厳政が張宝を殺害し、首を差し出し投降した。
- 史:光和七年三月、河南尹の何進は大将軍となり、慎侯に封じられて兵器を修理し都を守った。函谷、太谷、広成、伊關、轘轅、旋門、孟津、小平津の八つの関所に都尉を置き、天下に精兵を派遣した。また将帥を選んで北中郎将の盧植に張角 を、左中郎将の皇甫嵩と右中郎将の朱儁に穎川の黄巾を討たせた。 その冬、皇甫嵩は黄巾賊と広宗で戦い、張角の弟・張梁を捕らえた。既に死亡していた張角はその死体が晒された。皇甫嵩は左車騎将軍となり、十一月には再度黄巾を曲陽で破り、張角の弟・張宝を殺害した。
「整装雌伏」
185年【錦帆集結】

詳細
- 演甘寧、字は興覇、巴郡の臨江人。書に通じ、気概に富み、義侠心に篤い。亡命の徒を集め、各地を自由奔放に渡り歩いた。腰に銅鈴を懸けており、その鈴の音を聞いた者は皆これを避けた。西川錦で帆を作ろうとしたため、当時の人は「錦 帆賊」と呼んでいた。
- 史:甘寧は気概があり、義侠心に篤く、野放図な若者を集めて 彼らの首領となり、皆が彼の後に付き従った。弓弩を携え、羽飾りと鈴を身に着けていたため、民衆は鈴の音を聞くとすぐそれが甘寧であることが分かった。甘寧と会った者は、城の役人であろうがこれを手厚くもてなした。でないと金錢財物を奪われてしまうからだ。このような生活が二十余歳まで続いた。
「錦帆軍」
188年10月【丹陽の精兵】

詳細
- 演丹陽は地形が険しく、住民には力士が多い。武勇に優れた偉丈夫が輩出していることから、丹陽は精兵の地とも呼ばれている。
- 史:『三国志·孫策伝』:「余は以前、丹陽からお主の叔父と 従兄をそれぞれ丹陽の太守、都尉に抜擢した。丹陽は精兵の地である。お主も丹陽から徴兵するとよい」
「丹陽兵」
189年9月【漢帝廃立】

詳細
- 演:洛陽に入った董卓は何も畏れるものがなかった。気の弱い少帝を廃して陳留王を擁立しようとした。董卓は三公九卿と集まった百官に対し、「新皇帝を擁立する。従わない者は斬る」と伝えた。中平六年九月、董卓は文官武官を集め、少帝を廃して弘農王とし、陳留王を帝とすると宣言した。少帝から璽綬を取り上げ、陳留王を奉じて昇殿し、元号を初平と改めた。董卓は相国となり、権勢を欲しいままにした。
- 史:新皇帝擁立後、董卓は郿侯に封じられた。皇帝に拝謁する際は、官職名のみで呼ばれ、帯剣し靴を履いたままの昇殿を許された。また董卓の母も池陽君に封じられ、家令と丞を置くことを許された。そこで董卓は精兵を率いて帝室を乱し、新たな帝を擁立した。武器庫と兵士、国家の珍宝を占有し、天下を震え上がらせた。その性格は残虐非道であり、厳刑を以て民を脅かした。どんな恨みも必ず晴らす董卓に、人々はされるがままだった。
「挟勢弄権」
189年9月【群雄鳴動】

詳細
- 演:中平六年、董卓は天と地を欺き、朝廷を我が物にしていた。曹操は董卓を刺殺しようとしたが失敗し、名を変えて密かに東方の故郷へ帰った。曹操は董卓を誅するため、陳留に至ると偽の勅書をしたためて各地に発した。また家財を投げうって義勇兵を集めた。「忠義」の二文字が記された招兵の白旗を掲げると、数日も経たない内に士が続々と集まった。その後曹操は檄文を書いて諸侯に送った。檄文にはこう書かれていた。「我ら、謹んで大義を以て天下に布告する。董卓は天地を欺き、国を減ぼし君主を弑逆し、宮廷の禁を犯し、民を虐げる者なり。貪婪、残忍にして、その罪許し難し! 今、天子の密勅を奉じて義勇兵を集め、逆賊どもを滅し、華夏を清めんと誓うものなり。共に正義の軍を組織し、敵を排し王室を支え、民を救わんと欲す。この檄文の到着を以て、速やかに励行すべし!」檄文を見た各地の諸侯は挙兵してこれに応じ、共に董賊を排することにした。
- 史:曹操が董卓討伐の檄文を書いたという記述はない。
「伝檄宣威」
190年【反董卓軍】

詳細
- 演:曹操は、朝廷を我が物にしている董卓を討つべく諸郡に檄文を送った。天下の諸侯はこれに応じ、多くの路が軍馬で埋まった。ある者は三万、ある者は十二万を動員し、大勢の文官や武将が馳せ参じた。 曹操は牛馬を屠って諸侯をもてなし、進兵の策を協議して袁紹を盟主に推した。三層の壇を築いて諸侯の旗で埋め尽くし、羽飾りのついた銭が立てられた。また兵符と将印が発行された。袁紹が壇上に姿を現すと香を焚いて拝礼し、血をすすって結盟した。その後、各地の諸侯は汜水関へと兵を進め、董卓討伐のため洛陽に向かった。
- 史:朝廷では董卓が専横を極めており、多くの豪傑が董卓を討たんと欲していた。初平元年春、関東州郡の諸侯は董卓を討つべく挙兵し、渤海太守・袁紹を盟主とした。袁紹は自ら車騎将軍と名乗り、諸将に官職を与えた。袁紹は河内太守・ 王匡を河内に駐屯させ、冀州牧・韓馥を鄴に留めて兵糧を与えた。また豫州刺史・孔伷を潁川に駐屯させ、兗州刺史・劉岱、陳留太守・張邈、邈の弟の広陵太守・張超、東郡太守・ 橋瑁、山陽太守・袁遺、済北相・鮑信、曹操らを共に酸棗に駐屯させ、後将軍・袁術を魯陽に駐屯させた。その数数万に及ぶ。
「三勢陣」
190年【汜水関の戦い】

詳細
- 演:各地の諸侯が汜水関へ出兵したことを聞いた董卓は、温侯・呂布を戦に向かわせようとした。ちょうどその時、華雄が自ら敵を迎えたいと進み出たため、驍騎校尉に任命して歩騎兵五万を与えて関に向かわせた。済北の諸侯・鮑信は鮑忠を遣わし、歩騎兵三千を与え、近道をさせてこれを迎え撃つことにした。だが華雄により斬られ、数多の将校が生け捕りにされた。華雄はこれにより都督に任ぜられた。その後夜の闇に乗じて関を抜け、孫堅の幕舎を奇襲した。孫堅は大敗を喫し、祖茂は斬られた。汜水関では袁術の猛将・兪渉、韓馥の上将・潘鳳を討ち取り、諸侯は皆色を失った。
- 史:記述なし。孫堅と董卓の合戦は陽人で行われたことのみが記されている。
「気凌三軍」
190年【虎牢関の戦い】

詳細
- 演:董卓の兵が虎牢に駐屯していることを知った諸侯は、敵を討つため虎牢関に進軍した。呂布は頭には三つ叉の束髪に紫金の冠を戴き、体には西川紅錦の百花袍を掛け獣面吞頭の連環鎧を着、腰には勒甲玲瓏獅蛮帯を帯びていた。弓を身に随え、手には画戟を持ち、赤兎馬を操り、三千の鉄騎を率いて戦に応じた。戟を一振りしただけで河内の名将・方悦がその餌食となり、王匡軍は大敗した。喬瑁、袁遺の両軍が援軍に駆け付け、多くの将兵を失ってようやく呂布を撃退した。 その後、各地の諸侯らは一堂に集まって協議したが、まさにその最中呂布が再び兵を率いて来た。多くの軍馬兵士は呂布の敵ではなく、諸侯は共に対策を協議したが、呂布の英勇無敵さは天下に類を見ないと皆が口を揃えて言った。
- 史:虎牢関で戦が起きたという記述はない
「鬼神霆威」
190年【洛陽大火】

詳細
- 演:董卓は都を強奪し、新しい帝を立てて意のままに操った。当時、市街にはこのような童謡が流行っていた。「西の都・長安には高祖帝がおわし、東の都・洛陽には光武帝がおわす。鹿が長安に入らば、きっと安泰に違いない」。二百余年続いた漢の東の都・洛陽は既に荒廃していたため、 董卓は長安に遷都する命令を下した。しかし、金銭と糧食が不足していたため、鉄騎五千を洛陽に住む富豪数千戸に差し向けて捕らえ、「奸臣逆賊」の汚名を着せて城外で斬り、その金品を奪った。李傕、郭汜は洛陽の民百万人を追い立てて長安へと向かわせたが、兵と一隊の中に入れられ押し合いへし合いの状態だった。溝や谷に落ちて死んだ者は数知れず。 また兵士は女を凌辱し、糧食を奪った。泣き叫ぶ声は、天地を揺るがすほどであった。行軍に遅れる者あらば背後の三千の兵が先を急がせ、兵士は白刃を手に容赦なく路上で人を斬った。 董卓は出発間際に洛陽城内に火を放ち、宮殿や廟、官府、住居をことごとく焼き払った。二百里内の家屋は姿を消し、鶏や犬の鳴き声すら聞こえなかった。長楽の宮廷は、ことごとく焦土と化した。
- 史:初平元年二月、天子を都・長安に移した。洛陽の宮室を焼き、陵墓を暴いて宝物を奪った。
「火熾原燎」
191年【界橋の戦い】

詳細
- 演:袁紹は董卓の家将であると偽って、公孫越の命を奪った。公孫瓚はこれを聞いて大いに怒り、本拠の兵をことごとく率いて、冀州へ攻め入った。二軍は磐河で対峙した。 袁紹は磐河の橋の東に布陣し、公孫瓚は橋の西に布陣した。 公孫瓚と袁紹は橋の上で罵り合い、その後、文醜が馬にまたがり槍を掲げて、橋の上へ斬り込んだ。公孫瓚は橋のそばで文醜と戦い、十余合も打ち合わないうちに、公孫瓚は防ぎきれなくなり、陣の中へ逃げ込んだ。文醜は勢いに乗って追撃し、また公孫瓚を陣の中から追い出した。公孫瓚は山谷に向かって逃げ、弓矢はすべて落ち、兜も落ち、馬は方向感覚を失って、公孫瓚は坂の下に転がり落ちた。文醜は急いで槍で突き刺そうとしたが、その瞬間、趙雲の助けが入り、公孫瓚は大いに喜んだ。こうして共に砦に帰り、兵装を整えた。翌日、公孫瓚の大将・厳綱が先鋒となり、麹義を討ち取ろうとしたが、麹義の待ち伏せに遭い、麹義の馬の下で斬られた。その後、袁紹軍は前進し、界橋のそばまで攻め入った。 麹義は公孫瓚軍の旗を斬り倒した。公孫瓚はこの状況を見て、馬を返して橋から下りて逃げた。麹義が軍を率いて突撃すると、ちょうど趙雲に出くわした。数合打ち合って、趙雲の槍に刺された。趙雲は一騎で袁紹軍に飛び込み、左へ右へと突撃し、阻める者は誰もいなかった。袁紹は先に麹義が敵の旗を斬ったと聞いていたため、何の準備もせず、田豊と親衛隊を率いて騎馬で現れ、「無能な公孫瓚め!」と笑っていたところ、突然趙雲が目の前に表れ、数人を一度に串刺しにした。公孫瓚も軍を率いて帰ってきた。 袁紹軍は力を合わせて抵抗し、顔良が軍を率いて到着するまで、両軍は激しく争った。趙雲は公孫瓚を守りながら厳重な包囲を突破し、界橋まで戻った。袁紹は兵に追わせ、橋まで駆けつけた際、河に落ちて死んだ者は数え切れなかった。両軍は長い間対峙し、後に董卓が偽の天子の詔勅を借りて和解させた。
- 史:史実で、公孫越は周昂の手によって戦死しており、袁紹が殺害を企んだわけではなかった。趙雲も界橋の戦いには参戦していない。
「形一陣」
191年【猛虎墜つ】

詳細
- 演:各地の諸侯が董卓討伐に名乗りを上げ、董卓は長安への遷都を決意した。出発に際し、董卓は諸門に火を放ち、民家や家屋を焼き払った。宗廟や宮府、高楼や宮殿にまで火を放ったため、ことごとく焦土と化した。兵と共に洛陽に駆け付けた孫堅は、井戸の中から伝国の玉璽を見つけたことで野心を抱き、病を口実に江東へ帰ろうとした。だが劉表の配下により帰還を阻まれ、黄蓋、韓当ら三将が死に物狂いで活路を開き、兵の大半を失った末ようやく江東に帰還することができた。これを機に孫堅は劉表に怨みを抱くようになった。初平三年、孫堅は荊州に出陣し、劉表を討つべく漢水を渡って兵を四方に分け、襄陽を包囲攻撃した。一日にして軍中に強風が吹き荒れ、中軍の帥字旗が折れたのを見た韓当は孫堅に一時撤退を進言したが、孫堅はこれを聞き入れなかった。天象から将星が正に落ちようとしているのに気付いた蒯良は、劉表に袁紹へ書状を送り救援を求めるよう進言した。劉表は蒯良の進言通り山林に兵を潜ませ、健将の呂公を派遣して孫堅を山林に誘い込むことにした。孫堅は単騎呂公を追いかけた。呂公はたった一合交戦しただけで山道へと入っていった。孫堅もそれを追ったが呂公の姿は見えない。 山の上へ上がろうとしたその時、突如銅鑼の音が鳴り響き山の上から石が転がり落ちてきて、矢が雨あられのように降ってきた。孫堅の体は石で押しつぶされ矢で射られ、馬もろとも峴山で死亡した。享年三十七歳だった。
- 史:孫堅は単騎峴山に向かい、黄祖軍の兵士の矢に当たり死亡した。
「独行赴闘」
191年【鳳儀亭】

詳細
- 演:貂蝉を巡り董卓を疑っていた呂布は、戟を手に鳳儀亭へと向かった。呂布を見つけた貂蝉は悲しげな表情を浮かべ、池に身を投げようとした。しかし、呂布はすばやく彼女を抱き留め、緊張と悲しみの表情を露わにした。董卓は呂布の姿が見えなくなってから不安になり、すぐに裏庭へ向かった。そして呂布と貂蝉が鳳儀亭の下で何事か語り合っているところを目撃し、怒りを露わにしながらその場へ急いだ。しかし呂布はその場は董卓から逃れることに成功した。次の日、董卓は塢への帰還を決意した。馬車に乗った貂蝉は、人混みの中から呂布の姿を見つけると、顔を覆いながら泣き崩れた。呂布は馬車が巻き上げる塵を見つめ、深く嘆息した。そのとき、「呂将軍は太師と一緒に戻らず、なぜこのような場所で溜息をもらしているのか」と尋ねる声がした。疑いながら振り返ると、声の主は王允だった。呂布は王允と戻り、鳳儀亭での出来事を語った。王允は、董卓の行動に強い怒りを示し、行動を起こさなければ、自身と呂布が世間の笑い者になるだろうと述べた。呂布は激昂し、机を叩いた。王允は失言と認め、謝罪した。翌朝、董卓が朝廷へと向かう道中、王允が大声で逆賊を捕らえろと叫んだ。これに応じ、百人以上の武将が董卓に襲い掛かり、戟を向けた。董卓は馬車から転げ落ち、混乱しながら呂布の名を叫んだ。呂布は突然車の後方に現れ、右手に詔書を掲げると、王命を奉じ、賊臣董卓を討つと宣言した。そしてそのまま董卓を討ち取ると、周囲からは歓声が上がった。
- 史:初平三年4月、司徒の王允、尚書僕射の士孫瑞、将軍の呂布、この3人は董卓討伐を計画した。天子が病から回復したため、全員未央殿に集まった。呂布は李粛ら郡騎都尉と親衛隊十数人を率い、門に控え、詔書を準備した。董卓が到着すると、李粛らは彼に攻撃を仕掛け、吕布が詔書を掲げながら董卓を討ち、その一族を滅ぼした。
「投擲画戟」
192年5月【長安混迷】

詳細
- 演:董卓の死後、赦免を求めたが得られなかった李傕と郭汜は、賈詡の策を聞き入れた。兵を集め、長安に攻め入り董卓の仇を討ち、朝廷を奉じて天下を正そうというものだ。李傕は兵士十余万を集め、四路に分けて長安を急襲した。長安城内では董卓の残党である李蒙、王方が呼応し、城門を密かに開けて李傕、郭汜の軍を招き入れたため、城内は兵士たちの略奪に遭った。李傕、郭汜らは長安城内の武器で献帝を強請り、官位を要求した。二人は大権を掌握し、民に対して残虐な行為をしたほか、腹心を帝の側近とし、密かにその動静を探らせた。多くの諸侯がこれを聞き、挙兵して賊を討たんとした。
- 史:李傕、郭汜らは賈詡の策で長安に十余万の兵を進め、董卓の部曲であった樊稠、李蒙、王方らと合流して長安城を包囲した。李傕らは兵を長安に放ち略奪した。
「斂衆而撃」
192年【魏武強兵】

詳細
- 演:青州の黄巾軍数十万が領民に略奪行為を行っていた。曹操は命を受けて鮑信と共に挙兵し、賊を討つため寿陽に入った。曹操は済北まで賊兵を追い詰め、数万が投降した。曹操は投降した賊兵を先鋒部隊とした。兵馬の至る所、帰順しない者はいなかった。百日も経たずに、懐柔され投降した兵の数は三十余万に及び、男女百余万人が帰順した。曹操はその中から精鋭兵を組織して「青州兵」と名乗らせ、残りは再び農業に従事するよう命じた。これにより曹操の名声は高まった。
- 史:初平年間、青州の百万の黄巾軍が兗州に入り、任城相の鄭遂を殺して東平へと進んだ。曹軍はこれを済北に追い詰め、黄巾の衆らは投降を申し出た。初平三年の冬、三十余万の兵、男女百余万人が投降した。このうち精鋭兵のみが集められ、青州兵を組織した。
「青州兵」
192年【長安奪還】

詳細
- 演:李傕は、郭汜・張済・樊稠を招いて軍議を開き、「呂布は武勇すぐれたりとはいえ、頭のない奴だ、恐れるに足らん。私は軍を率いて谷口を守り、毎日出陣して呂布を誘い出す。郭将軍、貴公は一隊を率いて彼の背後を襲い、彭越が楚を悩ませた方法を真似て銅鑼を合図に兵を出し、太鼓を合図に退いてくれ。張将軍と樊将軍は、その間に手勢を率いて一気に長安へ向かってほしい。さすれば彼は対処できず敗れるに違いない」と言えば、一同これに同意した。さて呂布が兵を率いて山麓に攻めてくると、李傕が手勢を率いて迎え撃った。呂布の怒りも凄まじく、一気に攻めかかると李傕は山へと逃げ登った。矢や石が雨の如く降り注ぎ、先に進めず悩んでいると、郭汜が背後から攻めてきたとの知らせに、呂布は急いで戻っていった。すると太鼓の音とともに、郭汜の軍は潮の如く退いてしまった。呂布が軍勢をまとめようとすると、銅鑼の音が鳴り、李傕の軍勢が討って出る。呂布が駆けつければ、太鼓の音とともに退き去る。呂布は胸も張りさけんばかりに怒り狂った。かくして数日、戦おうにも戦えず、止めようにも止められぬありさまだった。呂布が怒りをあらわにしているところへ早馬が到着した。長安が張済・樊稠の軍勢に襲われ落城寸前とのことだった。呂布が軍を戻して急げば、背後から李傕・郭汜が迫る。呂布は戦う意志もなくなり、ひたすらに逃走をはかったので、多くの兵馬を失った。
- 史:兵法計略の一種。兵力を複数に分け、一部の兵力で敵をかき乱して牽制し、もう一部の兵力で他の目標に攻撃を仕掛ける。192年、董卓は王允、呂布に殺された。李傕らは「長安奪還」の計略を真似て呂布を撃破し、再び長安を占領すると、献帝を人質に後漢の政権を握った。
「飛熊軍」
193年【三度、徐州を譲る】

詳細
- 演:曹軍は徐州を包囲した。劉備は軍を率いてその包囲を突破し徐州城下に入った。城には赤地に白の字で「平原劉玄徳」と大きく書かれた旗が見えた。徐州の陶謙は劉備を城に招き入れると宴を催して接待し、兵の労をねぎらった。また徐州の牌印を取り出し、劉備に譲ろうとした。劉備はあくまで敵を退けるのが先決であり、徐州は受け取れないと辞退した。曹操軍が撤退した後、陶謙は再び宴を催し、諸将の前で劉備に徐州を譲るとしたが、劉備はやはりこれを固辞した。その後病にかかり危篤状態となった陶謙は、再び劉備に徐州を託したいと申し出た。劉備はやはり断ったが、陶謙は胸に手を当て、この申し出が自分の嘘偽りない真心であることを示し、劉備は遂にその願いを聞き入れた。
- 史:病で危篤となった陶謙は麋竺に「劉備でなければ、この地を安んじることはできない」と伝えた。陶謙の死後、麋竺は徐州人を連れて劉備を迎えに行き、劉備は陳登、孔融に説得されて徐州を引き受けることにした。三度徐州を譲った記述はない。
「慰撫軍民」
194年【詐計脱厄】

詳細
- 演:まだ月が昇っていない初更の頃、田氏の内通によって曹操は濮陽へ入ることになっていた。城外で待っていると西門から号角の音が響き、続いて鬨の声が聞こえた。城門ではたいまつが燃え盛り、大きく開かれた城門から吊橋が下ろされた。合図だと判断した曹操は馬を駆り、城内に突入した。しかし州府に到着すると、道に誰もいないことに気づき、これが罠だと悟った。急いで馬を引き返し、大声で「撤退だ!」と叫んだ。その時、州府から砲声が響き渡ると、四方八方で火が燃え上がり、火光が天に昇った。そして東の通りから張遼が、西の通りから臧覇が現れ、曹操の部隊を挟み撃ちにした。曹操は北門から逃げようとしたが、道中で郝萌と曹性に阻まれ、激しい攻撃を受けた。南門に向かって逃げようとすると、今度は高順と侯成に阻まれた。曹操の窮地を救うため、典章は怒りに満ち、歯を食いしばって突進した。典韋の勢いに高順と侯成は退却し、典章は一気に吊橋まで到達した。しかし振り返っても曹操の姿が見えなかったため、城門の下で李典に「殿はどこだ?」と尋ねた。李典は「私も見つけられていない」と答えた。典韋は「お主は城外で援軍を呼べ。わしが中に戻って探してくる」と言った。それを聞いた李典は救援を迎えに急いだ。典韋は再び城中に突入したが、 曹操はまだ見つからなかった。城の壕の辺りで楽進に出会い、二人で捜索した。城門に来たが、城上から火砲が転がり落ち、楽進の馬は入れなかった。典韋は煙と炎をものともせず、再び城内を探した。典韋の突撃を見て、曹操は南門から脱出しようとしたが、敵に阻まれたためやむを得ず北門へと向かった。しかし、そこで待ち受けているのは呂布だった。曹操は顔を覆い隠し、馬を促した。すると呂布は馬に乗って近づき、戟で曹操の兜を叩くと、「曹操はどこだ」と尋ねた。曹操は前を指さして 「前の黄色い馬に乗っている者が曹操だ」と答えた。それを聞くと、呂布は急いで前方へと追いかけて行ったため、曹操は無事に逃げることができた。
- 史:この内容は、『三国志演義』の記述とほぼ一致している。
「霊機一動」
194年【拔矢啖睛】

詳細
- 演:呂布がまたしても離反して民衆の心が離れた。この機に乗じて、曹操は呂布を討とうと考え、夏侯惇、夏侯淵、呂虔、李典に兵五万を与えて出陣させた。行軍中、高順軍と遭遇した夏侯惇は、槍を手に高順に挑んだ。高順もこれを迎え撃ち、両者相戦うこと四五十合、高順は敵を抑えきれず、陣を迂回して逃走した。夏侯惇は馬を駆ってこれを追った。陣から様子を見ていた曹性はこれは好機と思い、密かに弓を用意し矢を放つと、その一本が夏侯惇の左目に命中した。夏侯惇は叫び声を上げると手で矢を眼球もろとも引き抜き、「父母から授かった肉体を、捨てることなどできようか!」と叫ぶと眼球を呑み込んだ。そして、そのまま馬で曹性の所まで行き、曹性を討ち取った。両軍の兵士は、これを見て驚愕した。
- 史:曹操は徐州から戻り、夏侯惇は曹操に従って呂布討伐のため出兵した。その後流れ矢に当たって左目を負傷した。矢を引き抜き眼球を呑み込んだという記述はない。
「剛勇無比」
195年【神亭激戦】

詳細
- 演:北海の包囲を解いた太史慈は、劉繇の元に残った。孫策の軍が迫っていると聞き、先鋒を願い出たが劉繇に拒まれ、劉繇の傍でその命令に従うこととなった。両軍戦闘の最中、路に潜んでいた偵察隊が孫策の行動を報告したが、劉繇はこれは誘敵の計だと判断した。これを聞いた太史慈は「この時をおいて孫策を捕らえないとは、何たることだ!」と驚き、劉繇の命に背いて鎧を身に着け槍を手にすると、自ら馬を駆って陣営を出た。孫策がまさに峠を越えようとしていた時だった。峠の上の方から「逃がさんぞ、孫策!」との声が聞こえ、振り返ると太史慈が小将を一人連れて峠を駆け下りて来るのが見えた。孫策麾下の十三の騎将が一斉に身構え、峠から降りてくる太史慈を待った。太史慈は大声で言った。「貴様が孫策か?」孫策は答えた。「何者だ?」 「我こそは東莱郡の太史慈なり。 孫策を捕らえに来た!」孫策は笑って答えた。「我こそがまさに孫策である。二人掛かりでかかってきても恐れはせぬぞ! 恐れるようであれば、孫伯符にはあらず!」太史慈は 「例え貴様が何人でかかってこようとも、我も恐れはせぬ!」と言うと、堂々と孫策に向かって行った。孫策は槍を手にこれを迎え撃った。両馬相交わり、槍を交わすこと百余合。だが、勝負はつかなかった。孫策が槍を突き出すと、太史慈がそれを脇で挟みこむ。太史慈が槍を突き出すと、孫策もまたこれを躱して脇に挟み込んだ。二人は互いを力づくで馬から引きずり下ろすと槍を捨て、戦袍が破れるほど殴り合った。孫策が太史慈の背にある短戟を奪うと、太史慈もまた孫策の頭の兜を奪った。孫策が戟で太史慈を刺そうとすると、太史慈は兜でそれを防ぐ。そこへ突如喊声が沸き起こった。劉繇の援軍が到着したのだ。その数、千余人。孫策は慌てた。孫策の援軍に来たのは程普ら十二騎のみであった。劉繇軍に押される孫策軍であったが、今度は周瑜の援軍が到着した。孫策と太史慈はようやく戦いから手を引いた。
- 史:演義とほぼ同じ。
「血刃争奪」
196年【天子を挟みて諸侯に令す】

詳細
- 演:山東にいる曹操は皇帝が洛陽に帰還したと聞いて、策士たちを集めて今後のことを論議した。荀彧は「昔、晋の文公は周の襄王を奉戴することで諸侯たちを従わせ、漢の高祖は義帝の葬儀をして人心を籠絡しました。天子が受難する今、 将軍は真っ先に義軍を興し、天子に忠誠を誓って人々の要望に応じることこそ戦略の要であり、もし遅くなれば他人に先を越される恐れがあります。」と進言した。それを聞いた曹操は感心し、準備を始めた。そこにちょうど朝廷の使者が訪ねてきて勅命を下したため、曹操はすぐ軍を興した。もはや廃墟と同然の洛陽にいた天子は街を整備する前に、李傕と郭汜が兵を率いて近づいて来ると報告された。帝が不安になると、楊奉と韓暹が「死ぬ覚悟をして逆賊と戦うゆえ、どうかご安心を!」と決意を明かしたが、董承は「城壁が壊滅寸前で兵も少ない中、戦って敗れては大変です。まずは山東に避難したほうが賢明です」と奏上した。帝はそれに従ってすぐ山東へと出発した。百官は乗れる馬もなく、歩いてついて行くしかなかった。洛陽を出てまもなく、陣太鼓が轟く中で無数の兵馬が近づいてきた。帝や后は戦々恐々とし、言葉も出なかった。そこへ山東へと先行させていた使者が戻ると、「曹将軍は勅命を受け、山東の兵を率いて洛陽へと向かっております。洛陽が李傕と郭汜に侵攻されたと聞いて、夏侯惇を先鋒として将十人、精兵五万を率いて救援しに参りました。」と報告して帝を安心させた。しばらくして夏侯惇は許褚と典韋らを引いて帝に拝謁し、さらに東から曹洪と李典と楽進が歩兵を率いてやってきた。「逆賊が近づいてきたと聞いて、従兄の曹操の命令で加勢しに参りました。」と曹洪が奏上すると、「曹将軍は本物の忠臣である!」と帝は感嘆し、曹操軍に守られながら前へ進んだ。
- 史:演義とほぼ一致している。
「勠力同心」
196年【江東平定】

詳細
- 演:孫策は父の死後、江南に退き人材を重んじた。だが、陶謙と叔父の丹陽太守・呉景が不仲となったことで、母と一族を曲阿に住まわせ、自身は袁術の元に身を投じた。数万の衆を集めて江東に下り民の心を安んじた孫策には、無数の者がつき従った。江東の民は皆孫策のことを「孫郎(孫家の若君)」と呼んだ。孫郎が挙兵したと聞き肝をつぶして逃げ出した民も、いざ孫策の軍が到着してみると略奪行為をせず騒ぎも起こさない兵士を見て、皆喜び牛や酒を贈り軍を労った。孫策が金品でこれに応えるや、歓声が辺り一面に響き渡った。
- 史:孫堅の死後、孫策は父の跡を継いだ。袁術軍にいる孫堅の残兵を指揮し、呉景と丹楊で合流して呉郡と会稽郡を支配し、父の仇を討たんと欲した。孫策は長江を渡って転戦し、 その先々で勝利を収めたため、誰もこれに迎え撃とうと思う者は現れなかった。軍令は厳しかったが民は皆これを支持した。興平二年、長江を渡って劉繇を攻撃した。厳白虎の撃破を呉景らが望んでいたため、孫策は兵を率いて浙江を渡り、 会稽を占領し東冶を落とした。会稽の太守となった孫策は、 建安四年に廬江を征伐した。同五年には黄祖と戦い、豫章を手に入れて江東を平定し東呉の礎を築いた。
「虎踞鷹揚」
196年【屯田設置】

詳細
- 演:興平元年、曹操と呂布は兗州で睨み合っていた。曹操は濮陽を発ってから、呂布と対峙すること百余日が経過していた。突如イナゴが大量発生し、籾米が食べつくされたため、民は餓えに苦しんだ。関東のある所では、米一升五十貫と大いに値上がりし、民はさらに困窮した。また、曹操、呂布両軍も糧食が尽きたため、それぞれ引き上げざるを得なかった。
- 史:建安元年、棗祇は凶作が何年も続いていることを受けて屯田制の導入を進言した。曹操はこれに従い、民を集めて屯田を行わせた。百万升の穀物を得て、穀物倉が米で満たされた。
「倉廩豊実」
197年【宛城の戦い】

詳細
- 演:賈詡は張繍に、典章を陣に招き入れて酒を飲ませ、胡車児を幕舎に密かに入れて典章の双戟を盗ませるという策を献じた。深夜近く、草車に火の手が上がり、一瞬の内に辺りは火の海になった。曹操は急いで典章を呼んだ。酒に酔って寝ていた典章は起き上がり、双戟を探すも見つからない。この時、敵兵は既に轅門に迫って来ていた。典韋が歩兵から腰刀を奪うも、門からは無数の兵が現れ、槍を手にした兵士たちが陣へと雪崩れ込んできた。典章は奮戦し二十余人を斬り殺したが、刀が使い物にならなくなったため刀を捨て、兵士二人を両の手に持ち、敵八九人を撃破した。賊らは近づけず、ただ遠くから矢を射かけるのみ。矢が雨のように降り注ぐ中、典章は死に物狂いで陣門を守った。だが、やがて後続の賊軍が侵入し、典章は槍で背中を一突きされ、大声を上げながら血まみれになって死んだ。それから半日近く、一人も前門から侵入した者はいなかった。曹操は陣門の守りを典章に託し、陣の後方から馬に乗って逃げたが、張繍軍により馬が傷つけられてしまった。曹操の長男の曹昂は自分が乗っていた馬を曹操に差し出したが、矢に当たり死亡した。曹操は逃げ延びた。
- 史:張繍が謀反を起こし、曹操の軍営を急襲した。曹操は戦況が不利と見るや軽騎を連れて逃走した。典章は陣営に残って戦い、張繍軍の侵入を拒んだ。典章が連れていた十余人は勇敢に戦ったが、皆ことごとく討ち死にした。典章は数十もの傷を負いながら、白兵戦を続けた。賊軍二人を両脇に挟み込んで殺すのを目にした他の賊軍は、恐怖のあまり近づくことができなかった。だが既に受けていた傷が悪化し、典韋は目を大きく見開くと大声をあげながら死んでしまった。この戦いでは、曹操の長男の昂と甥の安民も殺された。
「虎衛軍」
197年2月【自称天子】

詳細
- 演:孫策は伝国璽をかたに、袁術から兵を借り江東を平定した。玉璽を得た袁術は皇帝を僭称し、一同の前でこのように宣言した。「我が袁姓は陳が発祥であり、陳の大舜の末裔である。今戦火が広がり、まさに機は熟した。また『漢に代わる者は、当塗高 (路上の高いもの)なり』という予言もある。我が字が公路であるのは、まさにこれを示すものである。ましてや伝国の玉璽がここにある以上、皇位につかぬは天に背くこと。我が意は決した。意見する者は斬る!」 こうして国号を仲と定め、中央の官制を整えて、龍輦、鳳輦に乗り南北の郊外で祭祀を行った。袁術は呂布の娘を皇太子妃とするため使節を送るも、その使節が曹操によって斬られたことを知る。激怒した袁術は張勲を大将軍に任じ、二十万の大軍を七軍に分けて徐州制圧へと向かった。
- 史:演義とほぼ同じ。
「衆妙奇計」
199年【下邳水没】

詳細
- 演:徐州を得た曹操は下邳を攻めたが、包囲したものの中々攻略することができずにいた。郭嘉、荀彧は沂水、泗水を決壊させる策を献じた。その策とは、曹軍は高台に陣を敷いているため下邳が水没するのを座して見るだけでよい、というものであった。下邳では東門を除く他の門が全て水没したが、呂布はこれを聞いても動かなかった。曹軍が城を包囲し、水が辺りを飲み込むのを見た宋憲、魏続、侯成の三人は赤兎馬を盗んで曹操に献上し、白旗を合図に門を曹軍に向けて開け放つことにした。軍が城に押し寄せると、宋憲は真っ先に退き、呂布の方天画戟を盗むと魏続と共に呂布を縄で縛り上げ、白旗を挙げた。既に城下に至っていた曹軍に、宋憲は呂布の方天画戟を城の上から吊るして見せた。城門を開け放つと、曹軍が一気に押し寄せてきた。高順、張遼は西門で水に阻まれていたところを曹軍により捕らえられた。陳宮は南門まで逃げたが、徐晃により捕われた。 曹操は入城すると全ての水を引かせるよう命じ、今後は民心を安んじると布告した。
- 史:下邳水没は郭嘉、荀攸が献じた策であり、荀彧が参加したという記述はない。
「決水潰城」
199年【煮酒論英雄】

詳細
- 演:董承は献帝の密命を受けて、劉備と共に曹操を誅することを約束した。劉備は計画に同意したが曹操に疑われることを恐れ、毎日畑仕事に精を出すふりをしていた。しかし曹操がこの計画を知り、劉備を酒宴に招いた。酒も進んだ頃、曹操は英雄を龍にたとえ、「龍は天に昇る時を得るまではじっと身を潜めているという。英雄も同じだろう」 と言った。そして共に天下の英雄を論じ、劉備が英雄として袁術、袁紹、孫策の名を挙げると、曹操は「淮南の袁術はすでに死に体だ。河北の袁紹は決断力に欠ける。江東の孫策は父の七光りだ。皆英雄にあらず」と答えた。劉備が「では英雄と言えるのは?」と問うと、曹操は指で劉備を、続けて自分を指して「今、天下の英雄は、そなたと余だけだ!」と言った。劉備はそれを聞いて、驚きのあまり箸を落としてしまった。ちょうど外は雷雨だったため、劉備は雷を恐れたふりをしてその場を取り繕い、曹操も疑わなかった。
- 史:この煮酒論英雄のくだりは正史には見あたらず、『三国志・先主伝』を改編したものである。先主伝の記述は以下の通り:先主(劉備)の雌伏の時代、献帝が舅である車騎将軍・ 董承に衣の中に隠した密命を授け、曹公を誅しようとした。先主が実行する前、曹公が先主に「今天下の英雄は、ただ君と操のみ。先に挙げた者たちは数に入らぬ」と言い、先主は箸を取り落とした。
「潜龍陣」
200年【于吉乞雨】

詳細
- 演:孫策が宴で袁紹の使者をもてなしていると、仙人が通り過ぎたとの報告が入った。孫策は立ち上がって手すり越しに下を見やると、仙気を纏った一人の道人が、人々に囲まれながら拝礼を受けていた。道人は名を于吉とし、東から民を治療しにやってきたらしい。彼は今まで数多くの病を全治させ、世間では仙人と呼ばれている。孫策は激怒して于吉を捕まえらせ、言い放った。「人を惑わす狂人めが!」于吉は言った。「わしは琅琊宮の道士である。陽曲泉で万病を治す神書『太平青領道」を得て以来、私は天に代わって民草を救いながら世間を歩き回ってきた。それに何の見返りも求めていない。人を惑わすようなことは、何もしておらん」孫策は臣下に彼を斬るよう命じた。それを聞いて、張昭ら数十人は慌てて孫策を説得する。呂範は于吉が雨乞いの術に通じると知っていたため、彼に目前の干ばつ問題を解決して罪を償わせるよう献言した。孫策はその意見を採用した。当日、雨乞いの台壇周辺は観客で埋められた。孫策は薪を用意させ、午前までに雨が振らねば于吉を火刑に処すよう命令した。太陽が頭上に登りはじめた頃、突如強風が巻き起こり、陰雲が空で現れるが、雨が降る兆しは見えなかった。そして于吉が柴山に運ばれ、火を薪に触れようとした瞬間、一筋の黒煙が空に登り上がった。次いで雷音が響いたかと思うと、間髪を入れずに豪雨が降り注ぎはじめ、街は瞬く間に水に埋もれてしまった。于吉は柴山の上で一喝すると、雨が止み、雲の隙間から再び日光が注いだ。官人と民間人たちは于吉を柴山から降ろし、揃って礼を述べる。孫策は水の中で拝礼する人々を目の当たりにし、宝剣を引き抜いて臣下に于吉を斬殺するよう命じた。
- 史:「三国志」が引用した『捜神記』の段落では、于吉が孫策とともに川を渡って許昌を襲撃する物語が描かれている。孫策は諸将が于吉の元に集まることに不満を抱え、于吉を束縛して雨を乞わせるが、孫策は于吉が見事に大雨を降らせて川を氾濫させたことでさらに激怒し、于吉を処刑した。
「衆望所帰」
200年2月【白馬の戦い】

詳細
- 演:袁紹は沮授の反対を押し切り、大将・顔良を先鋒として派遺し白馬を攻めた。曹軍はこれを知ると兵十五万を率い、三隊に分けて進攻した。まず五万の軍が白馬に入り、土山の近くに駐屯した。その地は遠くに山を臨み、目の前は開けた平地が広がる。顔良の先鋒部隊の精兵十万はこの地に陣を敷いた。顔良は宋憲、魏続を相次いで撃退し、徐晃とは二十合刃を交えた。徐晃が敗退し帰陣すると曹軍の諸将は慄然として撤収した。顔良も軍を率いて撤退した。その後顔良への挑戦に関羽が応じることとなり、関羽は奮起して馬に乗り彼の陣に赴いた。河北軍は雲の子を散らすようにサッと道を開けたので、関羽は顔良の元へと真っすぐ進んだ。顔良は反撃する間もなく、関羽により殺害された。河北の兵は驚き、大混乱に陥った。
- 史:袁紹は大将軍・顔良を東郡太守・劉延討伐のため白馬に派遣した。荀攸は延津に兵を派遣し、その後白馬を奇襲する策を講じた。曹操はこの策を受け入れ、袁紹が兵を西に分けている隙に、張遼、関羽を先鋒とした軍を派遣し白馬を攻めた。関羽は馬を鞭打って万衆の中に分け入り顔良を刺し、その首を持ち帰った。袁紹軍の諸将の中にこれに対抗できる者はなく、遂に白馬は陥落した。
「剣鋒破砕」
200年5月【延津の戦い】

詳細
- 演:白馬の戦いで関羽は顔良を斬ったが、その褒美は受け取らず封をした。突如袁紹の大将・文醜が黄河を渡り、延津に派遣されたという報がもたらされた。曹操は糧食の輜重を堀に沿って延津まで配置し、敵を誘い込んだ。文醜軍が兵糧の馬車を奪おうと隊を崩した隙に曹軍が一気に出撃し、文醜軍は大混乱に陥った。曹軍の厚い包囲を前に文醜は独り懸命に戦おうとするも、軍は依然として大混乱に陥っていた。文醜はどうすることもできず、馬首を返して戻るしかなかった。 小山でそれを見ていた曹操は文醜を指して言った。「河北の名将である文醜を生け捕りにできる者はいないか?」張遼、 徐晃が馬を駆って出撃し、「文醜よ、待て!」と叫んだ。文醜は振り返って二将が迫ってきているのを見ると、鉄槍を動かないよう押さえ、弓矢をつがえて放ち、その内の一本が張遼の兜に当たった。続けて馬が文醜に射られた。徐晃は大斧を振りかざして文醜を攻撃しようとしたが、文醜の部隊が既に集まって来ていた。徐晃はこれでは勝てないと悟り、馬首を返して陣へと引き返した。その時、関羽が十余りの兵馬を率いて奇襲をかけた。「賊将、逃げるな!」と叫び、文醜と刃を交えた。戦うこと三合にもならない内に文醜は怯み、馬首を返して黄河を迂回して逃走した。しかし、関公の馬は速くすぐに文醜に追いつき、 文醜は斬られて馬から落ちた。袁紹軍の大半は水に落ち、兵糧と馬は曹操により奪回された。
- 史:袁紹軍は黄河を渡り、曹軍と戦うべく延津の南までやってきた。曹操は輜重を餌にして袁紹軍が輜重を略奪している間に出撃し文醜を斬り、袁紹軍は大敗を喫した。しかし関羽が文醜を斬ったという記述はない。
「引弦力戦」
200年10月【官渡の戦い】

詳細
- 演:袁紹は曹操との決着をつけるため冀、青、幽、并四州の兵士計七十万人余りを率いて、許昌を攻めるべく官渡へと向かった。この時、官渡に駐屯していた曹操は、荀攸の進言を受けて、袁紹軍に速戦を仕掛ける。袁紹軍が応戦し、両軍が対峙する。審配は一万の石弓射手を城の両側、五千の弓兵を門内に待機させ、号砲を一斉攻撃の合図とした。陣太鼓が鳴り、袁紹が金色の甲冑を身に纏い、陣の前に姿を現した。左右には張郃、高覧、韓猛、淳于瓊などの諸侯が並び、陣旗と符節が厳かに並べられていた。一方曹操の周りを固めるのは許褚、張遼、徐晃、李典らだった。曹軍は最初に張遼が出陣し、張郃が応戦した。五十合交戦したものの、勝敗がつかず、許褚が助戦に出たところを高覧が槍を持って出迎えた。四名が熾烈な戦いを繰り広げている間、痺れを切らした曹操は夏侯惇、曹洪にそれぞれ三千の兵を引き連れ、敵陣に強襲をかけた。この瞬間を狙っていた審配は、合図を出し一斉に弓矢が放たれた。急襲を受けた曹軍は大敗し、官渡へと撤退する。その後、官渡に立てこもった曹軍は徐々に疲弊し、兵糧不足に悩まされる。しかし曹操は徐晃、許褚らに袁紹の兵糧庫がある鳥巣を襲撃させることで、袁紹軍に勝利した。
- 史:演義と基本的に一致する。
「武鋒陣」
200年【単騎千里】

詳細
- 演:顔良と文醜の二将を斬り捨てた関羽は、主君劉備が袁紹のもとにいることを知るや、曹操から賜った金銀をすべて蔵に残したまま漢寿亭侯の印を役宅の門に吊るし、劉備の二人の夫人を連れて洛陽へと出発した。東嶺関に至ると孔秀、韓福らが兵を率いて邪魔をしてきたため、関羽はこれを斬り捨て、道中では五関を突破し六将を討った。黄河を渡り河北の地に着いた関羽は、孫乾から劉備がすでに汝南に向かったことを聞き、進路を変える。道中で投降した周倉が関羽に従うこととなり、さらに汝南へと進んだ。数日後、古城で張飛と合流し、ともに汝南にいる劉備のもとへ向かうも、劉備が援軍要請のため河北の袁紹のもとへ戻ったことを知る。関羽と孫乾は、わずか二十騎ほどを引き連れて界首に至る。孫乾は先に劉備と面会し、関羽は関定の屋敷に泊った。界首に向かった劉備と孫乾が関定の屋敷に着くと、関羽は門前で劉備を出迎え、涙を流し再会を喜んだ。屋敷の主である関定は息子関平を差し出し、関羽を父に劉備を伯父として、関将軍の部下に迎えて欲しいと申し出た。
- 史:関羽が五関を突破し六将を斬り捨てたという記載はない。
「単騎千里」
200年10月【烏巣燃ゆ】

詳細
- 演:建安五年、曹操・袁紹の両軍が官渡で睨み合っていた。 袁紹麾下の許攸は曹操に投降し、焚糧の計を曹操に献じた。 袁紹軍の兵糧輜重は皆鳥巣にあり、それを守る淳于瓊は酒を飲み無防備であった。曹操は許攸の策を受け、自ら歩騎兵五千を選び、鳥巣の兵糧を奪うことにした。未明に到着した曹操が兵士に藁束で放火させると、瞬く間に四方で火の手が上がり、煙が空を覆いつくした。酒を飲み幕舎で寝ていた淳于瓊は、他の将と共に曹操に捕らえられた。陣中の兵糧はことごとく焼き尽くされた。
- 史:曹操が率いた五千人の歩騎は皆、袁紹軍の軍旗を掲げていた。馬には轡で口をふさぎ、夜中に出発した。兵士らは薪の束を抱え、袁紹軍だと偽った。聞いた者は皆これを信じ、普段と変わらない日常を送っていた。陣営内で淳于瓊らが殺され、兵糧は全て焼かれたため、士兵千余人が焼け死んだ。
「焚輜営塁」
調整履歴
- 2022年11月30日 メンテナンス調整
発動確率を35%から40%に調整。
204年8月【鄴城の戦い】

詳細
- 演:曹操は冀州を奪うべく、兵を挙げて鄴を攻めることにした。曹洪に兵を進めて鄴を攻略するよう命じ、自らは一軍を率いて毛城の攻略に向かった。鄴城では審配が堅い守りを築いていた。曹操は大軍を率いて冀州に到着すると、三軍に土山を作って城を囲い、密かに地下道を掘って攻め込むよう命じた。審配は李孚と図り、弱き民を投降させ、その後ろに兵をつけて曹軍を攻撃することにした。城の中で突如兵が姿を現し、路では兵馬が一斉にこれを攻撃するという策であった。だが曹操はこれを見破り、張遼、徐晃にそれぞれ三千の兵を与えて路の両側に潜ませ、迎撃した。その後、許攸は水攻めの計を献じ、曹操はこれを了承した。土山と地下道を潰し、軍を城外に差し向けて四十里に及ぶ塹壕を掘らせ、漳河の水を引き入れて鄴城を水没させた。水の高さは数尺にも及んだ。審配の甥・審栄は辛毘の一族が審配に殺害されたことに怒り、西門を開け放って曹軍を招き入れた。審配は曹操の軍が城に入るのを見るや、わずかな手勢を引き連れ迎撃に向かい徐晃と戦うも捕らえられ処刑された。
- 史:曹操が土山、地下道を潰して包囲陣を形成し、漳河の水で城を水攻めにした件は、演義とほぼ一致。
「籠城自守」
208年【当陽橋】

詳細
- 演:文聘は兵を率いて趙雲を長坂橋まで追いかけたが、見れば張飛が蛇矛を手にただ一人橋に立ち、髭を逆立たせて鬼の形相で睨みをきかせている。東の林からは烽火と砂埃が立ち、背後に伏兵がいると疑がった文聘は敢えて進まなかった。その後、曹仁、李典、夏侯惇、夏侯淵、楽進、張遼、張郃、許褚ら勇将が駆けつけるも、目を怒らした張飛を前に進む者はなく、橋の西側で横に一列に並んだまま一歩たりとも動けなかった。このことを知った曹操が様子を伺いに来たが、張飛に気付かれる。張飛は「我こそは燕人、張翼徳なるぞ! 誰か私と戦うものはおらぬか!」と大喝し、その声は雷声の如く曹軍中に響き渡った。動揺する曹軍を見た張飛は、続けざまに「戦いもせず、撤退もせず、何ゆえだ!」と威嚇するが、その圧に耐え切れなかった曹軍の夏侯傑は失神し、落馬して命を落としてしまう。曹操軍は慌ててその場を引き退いた。
- 史:劉備が当陽の長坂にいた頃、曹操が軍を率いて追ってきたことを知り、張飛に二十騎を率いて後ろを守らせた。張飛は水に拠り橋を断ち、曹軍は皆敢えて近づく者無かったが、 夏侯傑が失神した記述はない。
「据水断橋」
208年11月【草船借箭】

詳細
- 演:孫劉両軍は曹軍と交戦した。水路で兵が衝突し、武器は主に弓矢であった。周瑜は自軍の矢が足りないことを理由に、諸葛亮に十日以内に十万本の矢を作るよう要請した。諸葛亮は周瑜に三日で矢十万本を調達する、もしできなければ厳罰を受けると約束した。その後魯粛は命を受けて諸葛亮と面会しその虚実を確かめ、諸葛亮の頼みを受けて船二十隻を借り受けた。船には一隻につき三十余人が乗り込み、藁束が並べられた。それから二日間、諸葛亮は忽然と姿を消した。三日目の未明、濃霧が発生すると読んだ諸葛亮は密かに魯粛を船に呼び、二十隻を長縄で縛り、北岸に向けて出発した。 深い霧が辺りを覆いつくし、長江の中程に来ると、霧は益々深まり互いの顔も見えないほどであった。船が曹軍の砦に近づくと、諸葛亮は船首を西に、船尾を東に向けて隊列を広げ、船の上で太鼓を鳴らし、兵士に大声を上げさせた。訝しがる魯粛に、諸葛亮は笑って答えた。「深い霧の中、曹操が出陣してくることはないでしょう。私達はここで酒を飲み、霧が晴れてから帰ることに致しましょう」。 陣営の中で、敵軍から放たれる太鼓の音と叫び声を聞いた曹操は、このように深い霧だからきっと伏兵がいるに違いないと考え、水軍の弩兵に矢を放つよう命じた。瞬時にして矢が雨のように放たれた。諸葛亮は船首を東、船尾を西に向きを変えさせ、兵士に太鼓の音と大声を上げさせながら陣営に近づき船で矢を受けた。日が昇り霧が晴れると、諸葛亮は船を撤収し急いで帰還した。二十隻の船の両側に並べられた薬束には矢が一面に突き刺さっていた。こうして諸葛亮は十万余本の矢を得たのだった。
- 史:諸葛亮の草船借箭の記述はない。
「草船借箭」
209年【刑場突入】

詳細
- 演:黄忠は叫んだ。「無罪なり!」 韓玄は激怒して曰く、「我は3日間見ていたのに、汝は我を欺こうとするか!3日前、汝が本気で戦わなかったのは、私心があったからに違いない。 昨日は馬がつまづいたのに奴に殺されなかったのは、通じ合っていたからに違いない。今日は2度も矢を射損ない、3本目は奴の兜の緒を射ただけだ。これで内通していないなどと言えようか?汝を斬らなければ、後々災いの種となろう!」 そして死刑執行人に、黄忠を城外へ引っ立てて斬るようにと命じた。諸将は止めようとしたが、韓玄は「黄忠を許せという者は、同類と見なすぞ!」と言った。城門の外へ連れ出された黄忠がまさに斬られようという時、不意に誰かが刀を振り上げて割り込み、執行人を倒して黄忠を助け起こし、大喝した。「黄漢升は長沙の守り神だ。今漢升を殺せば、長沙の民を殺すことになるぞ! 残虐で高慢な韓玄を、皆で誅すべし。我に従う者は集まれ!」 民衆は、黒ずんだ顔に目をらんらんと光らせるその者を見た。それは義陽の人、魏延であった。
- 史:魏延が刑場に突入して黄忠を救ったという記述はない。
「掣刀斫敵」
211年【報讐雪恨】

詳細
- 演:馬超は、西涼にいたある日の夜に夢を見た。雪原に横たわり、虎に襲われるというものだ。驚いて目を覚ましたが、不思議な夢だと思った。そこで配下の将佐を集めて夢の内容を伝えたところ、龐徳が答えた。「その夢は不吉の前兆でございます」と。皆がこの件について議論していた時、弱り切った馬岱が入ってきて、馬騰、黄奎が曹操により殺されたと報告した。突如、荊州にいる劉備からの使者がやってきて、書状を差し出した。曰く、「漢室の不幸を思う。賊が大権を握り帝を欺き、民は困窮している。私はかつて先帝から密勅を受け、この賊を討つと誓った。今や先帝は曹操により害され、曹操は私にとって不倶戴天の敵である。もし西涼の兵を動かせるのならば曹操を右から攻撃して欲しい。私は荊襄の衆を率いて曹操の前方を抑えよう。逆賊曹操を捕らえ、奸賊を滅ぼして恥辱をすすぎ、漢室を再興するのだ。書面では意を十分に伝えることができない。返事を待つ」。馬超は読み終えると軍を率いて西涼を発ち、韓遂と合流した。計二十万の大軍が、長安に向けて出発した。
- 史:曹操が馬騰を処刑したのは馬超挙兵後で、馬超が仇を討つため兵を起こしたという記述はない。
「鉄騎駆馳」
211年【割鬚棄袍】

詳細
- 演:西暦211年、曹操が大軍を率いて潼関に向かう途中、西涼の軍勢と遭遇し、一触即発となった。馬超は槍を手に曹操軍に突き込み、于禁、張郃などの武将を次々と破った。そして、馬超、龐徳、馬岱は百数人の騎兵を率いて曹操に向かった。西涼軍の兵士は「赤い袍を着ているのが曹操だ!」と叫んだ。曹操は急いで赤い袍を脱ぎ捨てた。そしてまた大声で「長い髯をした者が曹操だ!」と叫ばれた。曹操は驚き、自分の髯を小刀で切り落した。すると兵士は曹操が髯を切ったことを馬超に伝えた。それを知った馬超は兵士に「短い髯をした者が曹操だ!」と叫ぶよう命じた。それを聞いた曹操は、慌てて旗を破って顎を包んで逃げた。その時、馬超が猛然と迫り、一撃の直前、山坂から曹洪が現れた。「この曹洪がいる限り、主君には指一本触れさせぬ!」と高らかに叫び、曹洪は刀を振りかざして馬超の攻撃を阻んだ。曹操はこれで危機を免れ、逃走に成功した。
- 史:記載なし
「志操堅固」
211年【裸衣決闘】

詳細
- 演:馬超と曹操の二軍は戦の最中にあった。馬超は曹軍が土城を築いていると聞き、大軍を集めて陣太鼓を鳴らしながら、槍を手に馬に乗って出陣した。曹操の背後には、目つき鋭くこちらを睨み、鋼刀を携え、手綱を引き締め立つ者がいた。この者こそ虎候・許褚であった。許褚は配下に戦書をしたためさせ、後日馬超との一騎打ちを望むと伝えた。 翌日、両軍は戦場に出て陣を構えた。馬超は龐徳を左翼、馬岱を右翼に配し、韓遂に中軍を任せると、自ら槍を手にして馬を駆り、陣の前に出て高らかに叫んだ。「虎痴よ、早く出て参れ!」曹操は、馬超を「呂布にも劣らぬ勇猛の士である!」と密かに褒め称えていた。許褚も刀を手に、馬に拍車をかけると出陣した。馬超は槍で応戦し、相戦うこと百余合、勝負はつかなかった。馬を換え、再度刃を交えること百余合に及んだが、やはり勝負はつかない。腹を立てた許褚は陣に戻ると鎧兜を脱ぎ捨て、筋骨隆々とした裸体のまま刀を手に馬にまたがり、再び馬超との決戦に挑んだ。許褚のその姿に、両軍大いに驚嘆した。両者再度戦うこと三十余合、許褚が振り上げた刀が馬超に迫った。馬超は間一髪でそれを避けると、槍で許褚の心臓を貫こうとしたが、許褚は刀を捨て槍を脇に挟み込んだ。二人は馬上で槍の奪い合いとなった。 やがて許褚の力が勝り、気合と共に槍の柄が折られた。各々折れた槍を手に馬上で激しく殴り合った。曹操は許褚を失うのを恐れ、夏侯淵、曹洪の両将に命じて加勢に向かわせた。 これを見た龐徳、馬岱も両翼の鉄騎を引き連れて出陣した。戦は混戦となった。混戦の最中、許褚が腕に二本の矢を受け、曹軍の諸将は大慌てで陣へと撤退した。馬超は塹壕の手前まで追い詰め曹軍の大半を負傷させた。曹操は全軍に陣門を固く閉め、出撃しないよう命じた。
- 史:馬超が裸の許褚と戦った記述はない
「裸衣血戦」
219年2月【定軍山の戦い】

詳細
- 演:漢中の定軍山は南鄭の要衝、兵糧調達の地であり、黄忠と法正は共に兵を率いて定軍山を手に入れようと欲した。黄忠軍が定軍山の入口を守っている時、山を下りてきた曹兵と交戦となった。副将の陳式が布陣し応戦したが、夏侯淵の伏兵の計に嵌り曹軍に生け捕りにされてしまう。その後夏侯淵から数千の兵を連れて出陣するよう命じられた夏侯尚は、黄忠の陣営まで行くとたったの一合で黄忠に捕らえられてしまった。夏侯淵は急ぎ使者を黄忠の元に遣わし、陳式と夏侯尚を交換したいと提案した。黄忠は日取りを決め、陣の前で捕虜を交換することにした。翌日、両軍揃って谷の開けた所に集まり陣を敷いた。夏侯尚が曹軍の陣門まで来ると、黄忠が背後から矢を放った。夏侯淵は激怒し、馬を駆って黄忠へと突進した。両将刃を交えること二十余合、曹軍の陣営から突如撤退の銅鑼が鳴った。夏侯淵は急ぎ馬首を返して撤退しようとしたが、勢いに乗った黄忠はこれを追撃した。定軍山まで追い詰めた黄忠は法正と策を練り、深夜、天蕩山を占領することにした。黄忠は山の中腹、法正は山頂を守り、夏侯淵が兵を率いて来るのを待った。法正が挙げた合図の白旗を見た黄忠は、兵を動かさず静観した。夏侯淵が疲れてきた頃、法正が赤旗を示すと一斉に陣太鼓と角笛が鳴り響き喊声が沸き起こり、黄忠は天地が崩れるほどの勢いで山を駆け下りた。夏侯淵は応戦の準備が間に合わず、黄忠に追い詰められてしまった。黄忠が夏侯淵を斬り殺すと曹兵は総崩れとなり敗走した。この勢いに乗じ、黄忠は定軍山を奪った。
- 史:劉備軍は定軍山に兵を連れて陣を敷き、兵を引き連れてきた夏侯淵とこの地を巡り争った。劉備は黄忠に喧騒に乗じてこれを討つよう命じ、夏侯淵の軍を破った。
「撃其惰帰」
219年2月【樊城水攻】

詳細
- 演:時は秋、大雨が数日続いていた。夜になって風雨が強まり、にわかに洪水が押し寄せた。七軍は逃げ惑い、波に呑まれた者は数え切れなかった。平地での水深は一丈余りに達し、于禁、龐徳と諸将は小高い場所に避難した。そこへ関公と諸将が旗を振り太鼓を叩いて、大船で攻めてきた。于禁の周囲の手勢は5、60人、逃げ道もない。于禁は逃げ切れぬと思い、投降を申し出た。龐徳は片手に刀を、もう一方の手に櫂を持ち、樊城に向かおうとしていた。そこへ上流から武将が操る大いかだが近づいてきて、小舟に体当たりしてひっくり返し、龐徳は水に落ちた。船上の周倉は水に飛び込み、龐徳を生け捕りにした。于禁が率いていた七軍は、水中で滅んだ。泳げる者も逃げようがないことを悟り、皆投降した。
- 史:『三国志·于禁伝』:秋、霖雨大にして漢水溢れ、平地の水数丈、禁ら七軍皆没す。禁と諸将、高きに登り水を望むも、回避する所無し。羽、大船に乗りて禁らを攻め、禁遂に降る
「非攻制勝」
221年【解煩兵】

詳細
- 演:西暦221年、蜀の先主劉備は白帝から南下して呉に進軍した。呉の君主孫権は兵力が劣るのを見て、部下の胡総に各県で徴兵するよう命じた。かくして千人の兵力を補充した孫権は、「解煩」の二部を設立して徐詳と胡総を左部と右部の督都に任命した。「解煩兵」の創設は劉備の東征による焦眉の急の解決を目的としており、初任の元帥は左右両部を引き受けた徐詳と胡総である。
- 史:『三国志・呉書・胡総伝』:劉備は白帝から南へ進軍した。孫権は兵力を補充するため、胡総を諸県に徴兵に派遣し、得た千人で解煩両部を立て、徐詳を左部、胡総を右部の督都に任命した。
「解煩兵」
222年【八陣図】

詳細
- 演:章武二年、劉備は夷陵で大敗し、白帯城に逃げ込んだ。陸遜は勝ち誇る軍を率いて追い詰め、虁関に近づいたが、前方に立ちはだかる殺気を感じ、伏兵がいるのではないかと疑った。即座に偵察を差し向けると、報告によれば人馬はおらず、ハ、九十ほどの石の山積みがあるだけだった。陸遜は現地の住民に尋ねると、住民は言った。「ここは魚腹浦という場所です。諸葛丞相が四川に入る際、ここに兵を進め、石を並べて陣を築きました。以来、常に雲のような気が湧き上がります」陸遜はこれを聞いて馬に乗り、数十騎を引き連れて八陣を見に行った。彼は坂の上に立つと、四方八方に出入口があるのが見えた。陸遜は笑って言った。「これは人を惑わすためのが見えた。陸遜は笑って言った。「これは人を惑わすための術だ。何の役にも立つまい」そして、数騎を引き連れて坂を下り、直接八陣に入って観察し始めた。部下が言った。「もう日が暮れています。早く帰還しましょう、都督」陸遜は陣から出ようとしたが、突然強風が吹き起こると瞬く間に砂塵が舞い上がり、天を覆い隠した。怪しい岩がそびえ、砂が土となり、山のように積み重なった。川の音が激しく襲い、まるで鼓のような音がした。陸遜は驚き、「これは諸葛亮の計略だ!」と叫んだ。急いで引き返そうとするが、抜け道がない。驚いていると、老人が馬の前に立ち、「将軍はこの陣を抜け出したいのか?」と微笑んで言った。陸遜は言った。「お願いします。案内してもらいたい」老人は杖を突いてゆっくりと歩くと、石陣をすんなりと抜け、陸遜たちを坂の上まで送り届けた。陸遜は尋ねた。「貴方は何者か?」老人は答えた。「わしは諸葛亮の舅、黄承彦である。昔、婿殿が川に入る際、ここに八陣図を築いた。八つの門は反復し、遁甲の休・生・傷・杜・景・死・驚・開に通ずる。陣の内部は日ごと時ごとに変化し、十万の精兵に匹敵するものである。そして彼はわしに言ったのだ。「後に孫呉の大将が陣に迷い込むことがあれば、決して彼を出すな」と。わしは山の上にいて、将軍が死門から入ってきたのを見た。そして、この陣を知らないと予想し、必ず迷うだろうと考えた。しかし婿殿の言う通りこのまま将軍を見殺しにすることはわしにはできなかった。だから、こうして生門から導いたのだ」それを聞き、陸遜は訊ねた。「貴方はこの陣法を学ばれたことはありますか?」黄承彦は言った。「この八陣の変化は無限であるため、学ぶことはできないだろう」陸遜は急いで馬を降りて礼を言い、急いで引き返した。陸遜は兵営に戻ると、「孔明は真の臥龍だ。私では彼に及ばないだろう」とため息をついた。後世、この出来事について杜甫が詩を詠んでいる。「功は蓋う三分の国、名は成る八陣の図。江流るるも石転ぜず、遺になり呉を呑むを失す」
- 史:『三国志・諸葛亮伝」によると、諸葛亮は巧妙な発想が得意で、連弩の改良や木牛流馬、そして兵法を作成し、八陣図を作り出すなど、後世はそれらを根拠に戦いの要領を数多く会得したという。
「衆志成城」
228年【街亭の戦い】

詳細
- 演:諸葛亮が長安を目指して進軍した際、司馬懿と張郃が共に出陣し、蜀軍に対抗する。諸葛亮は、司馬懿が蜀にとって要である街亭を取りにくることを想定していた。馬謖が自ら街亭の守りに名乗り出たため、諸葛亮は馬謖、王平と二万五千の精兵を街亭に派遣し、さらに高翔、魏延を街亭の後方に待機させた。馬謖と王平が街亭に到着した際、地勢を見た王平は五叉路に陣を敷くよう進言したが、軍略家と自負する馬謖は聞き入れなかった。王平はわずか五千兵を連れ五叉路で守りを固め、馬謖は山上に陣を敷いた。街亭の様子を探りにきた司馬昭が、蜀軍の状況を司馬懿に伝えた。討ち取るのは確実だと判断した司馬懿は、張郃に王平の軍隊を攻めさせ、申耽と申儀に山を包囲させた。食料や水の補足ができない蜀陣が動揺し、士気が下がって来た頃に一気に攻め込む算段であった。山の至るところに魏兵と軍旗を確認した馬謖は畏縮して下山すらできずにいた。王平は張郃と出くわし、十合余り交戦した後、兵力差を考慮してやむを得ず撤退した。司馬懿は山上に向かって放火し、蜀軍はさらなる混乱に陥った。 馬謖は混乱に乗じて下山した。その後魏延と高翔が街亭の奪回を試みるが、魏軍に打ち勝つことはなかった。
- 史:演義と基本的に一致する。
「水路断截」
229年【天下三分】

詳細
- 演:献帝が魏王・曹丕に禅譲を行う儀式が行われた。壇下には文武官僚四百余名、御林軍・虎賁衛士を含む三十万余の兵が整列していた。献帝は玉璽を捧げ持って曹丕に献上した。曹丕は盛大な即位の礼を受け、帝位に即く。賈詡の指揮で百官が再び整列する中、元号を延康から黄初へ改め、国号を 「魏」と定めた。この報せが成都に届くと、使者は曹丕の皇帝即位と洛陽宮殿造営を知らせ、さらに献帝が殺されたという誤った噂も伝えた。漢中王・劉備はこれを聞いて終日慟哭し、百官に喪に服すよう命じると共に、北方に向かって追悼の礼を行い、「孝愍皇帝」と追尊した。諸葛亮らは博士・許慈、諫議郎・孟光らを遣わして、成都武担の南に、劉備を皇帝に即位させるための壇を築かせた。準備が整うと、百官が車駕を整えて劉備を壇上に迎えた。祭文朗読の後、諸葛亮が官僚らと共に玉璽を恭しく捧げる。劉備は再三辞退し、「私には才能がない。もっと徳のある人を選ぶべきだ」と述べたが、諸葛亮が「王は四海を平定しており、その徳は明らかです。まして漢室の正統なのですから、どうして遠慮することがあるでしょう」と奏上した。そのため劉備は即位を決意し、文武百官が「万歳」を唱える中、元号を章武元年と改めた。その後黄武八年、呉王・孫権の下に、諸葛亮が曹真を破ったという急報が届いた。群臣はこぞって魏征討を進言する中、 張昭が武昌東山に吉兆が見えたので、今こそ即位するべきであると奏上した。そこで丙寅の日を選び武昌南郊に壇を築き、孫権は皇帝に即位して元号を黄龍元年と改めた。
- 史:演義とほぼ同じ。
「戦況見極」
264年【一計害三賢】

詳細
- 演:鍾会と姜維が反乱を起こした時、司馬昭は兵を携え、鄧艾との一戦で鍾会に加勢した。司馬昭の疑心を察していた鍾会は姜維と策を講じ、元宵の宴にて、捏造した郭太后の遺勅を以て司馬昭に弑逆の罪を被らせた。宴に参加していた面々はみな驚きを隠せなかったが、命令違反者は斬り伏せると公言する鍾会に従わざるを得なかった。諸将を宮殿に監禁した後、鍾会は姜維の意見に従って、魏将の殲滅に移行するが、 四方八方から押し寄せる轟音が胡烈軍の到来を知らせた。鍾会は部下に大門を閉じて屋上から瓦礫を投じるよう命じ、互いに数十人が死傷した。そのとき、周囲に上がる火を合図に、敵が門を突き破って侵入してきた。鍾会は剣で応戦し、数人を斬り伏せるが、乱れ矢に命中して膝を地面に付かせ、諸将に隙をつかれて首を落とす。傷心した姜維もそれに次いで自剄した。
- 史:演義と概ね同じである。
「臨鋒決闘」
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