戦艦/金剛代艦型(1945)

Last-modified: 2024-02-27 (火) 10:13:19
[添付]
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排水量46093.56t兵装試製52.5口径41cm三連装砲改×2基
全長232m試製52.5口径41cm連装砲×2基
全幅32m50口径四一式15.2cm単装砲×8基
最高速度31.14kt65口径九八式10cm連装高角砲×4基
耐久値4712540口径八九式12.7cm連装高角砲B1型×4基
甲板装甲装甲板Ⅳ 213mm九六式25mm三連装機銃×10基
舷側装甲装甲板Ⅶ 381mm九六式25mm単装機銃×10基
火災耐性26%目視範囲11205m
浸水耐性35%通信範囲11981m
出力264000射撃精度15%
加速度0.51kt/s射撃管制7
旋回半径213m消費燃料7
艦載機零式水上偵察機一一型×4機
購入ダイヤ18,600(パック限定)購入ゴールド-

解説

史実

 ワシントン海軍軍縮条約において、列強の戦艦の保有数と新造は厳しく制限された。しかしながら、艦齢20年以上に達した戦艦は、条約の範囲内(基準排水量35000t、主砲口径16インチ以下)で代艦の建造が可能という規定があった。条約下における兵器を研究する軍備制限研究委員会が1928年(昭和3年)に岡田啓介海軍大臣に提出した報告書によると、排水量35,000t、41サンチ砲12門の主力艦を整備すべしとあった。金剛は1933年(昭和8年)においてちょうど艦齢が20年に達し、代艦の建造が可能になるため、これにあわせて軍令部は艦政本部に報告書と同様の要求をしたと思われ、藤本喜久雄造船少将と平賀譲造船中将がそれぞれ設計案を提出した。
 しかしロンドン海軍軍縮条約の締結により、戦艦の建造禁止措置の5年延長(10年から15年に延長)が決定したため、結果として建造は行われなかったが、両者の設計案は後の大和型戦艦に影響を与えたと言われている。平賀案は集中防御を徹底させている保守的なものではあったが、土佐実験など結果などが反映されたと思われ、その船体重量は10,000t、防御重量は13,000tとなっていた。また両者の設計案における船体重量、防御重量の比率はそれぞれ独英の主力艦の重量配分に近い物となっていた。
 当時平賀は内部対立により艦船設計の担当部署である艦政本部第四部から海軍技術研究所の造船研究部長という閑職に左遷されており、平賀案は藤本案を良しとしない平賀が勝手に作成した私案であったと言われている。藤本案という艦政本部の公案と、多大な功績を残しているとはいえ左遷された一軍人の個人案が中央で比較検討されたということからも(中央を混乱させたとする批判的な指摘もあるが)、平賀譲という人物の影響力が窺い知れる。

コメント欄

  • 全てはここから始まった…(サ終) -- 2021-06-20 (日) 23:12:22
  • おてぃんぽ戦艦 -- ふぁんねる? 2021-07-18 (日) 11:22:25
  • 誰か画像貼って… -- 2023-10-14 (土) 06:30:08
  • 画像ほしい -- 2024-02-26 (月) 14:13:34
  • バーニングラブ...... -- 2024-02-27 (火) 10:13:19