注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
新撰組
幕末の京都において、尊皇攘夷運動や倒幕運動が激化する中、京都の治安維持を目的として設置された組織の一つ。
元は清河八郎の献策によって結成された浪士組に、江戸で剣術に励んでいた近藤勇らいわゆる「試衛館」の剣客達などが多数合流したことで誕生、
その後、幾度かの政変を経て、局長となった近藤勇ら「試衛館」の剣客達が組織の中心となり、会津藩主松平容保の庇護のもと今日有名な「新撰組」像が定まった。
池田屋事件をはじめ華々しい活躍とは引き換えに、「士道不覚悟」など厳しすぎる局中法度によって内部では粛清や政変が絶えず、
やがて主義方針の違いから伊東甲子太郎をはじめとする一部の新選組隊士達が離脱して御陵衛士を立ち上げると、にわかに内部分裂の様相を呈する。
油小路事件の前後で伊東甲子太郎を殺害した新撰組であったが、のちに近藤勇は御陵衛士に報復として狙撃され右肩に重傷を負っている。
戊辰戦争が始まると新政府軍の近代戦術にまるで刃が立たず、劣勢から隊士の離脱が続出。近藤勇は甲陽鎮撫隊を率いて再起をはかるが敗退。
江戸に隠棲していたところを新政府軍に所属していた元御陵衛士に看破され、捕縛斬首された。新撰組副長となっていた土方歳三はその後も
旧幕府軍に付き従い、最後の箱館戦争まで戦い抜いて戦死した。その他の隊士もあるものは幕府に殉じ、あるものは新政府に降伏し、あるものは新政府に味方し続けるなど様々であった。
明治の世において、勝者である維新志士を苦しめた存在として新撰組の人気はすこぶる悪かったという。しかし戦後になり再評価され、
やがて司馬遼太郎の「新選組血風録」「燃えよ剣」などによって新撰組ブームとなり、様々なメディアでその活躍が描かれている。
るろうに剣心の作者、和月伸宏は新撰組を「最大にして最強、最後の剣客集団」と評している。
壬生浪士組や、御陵衛士については幕末その他を参照。
新撰組
近藤昌宜(近藤勇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 88 | 37 | 29 | 66 | 一騎 | 頑健 | 調練 | 柱石 | 直情 |
【コンドウイサミ】
幕末の武士。新撰組局長(初代は芹沢鴨)。一般には近藤勇の名で知られる。「大久保剛」とも。
武蔵の国に生まれ、幼いころから剣術を志し、天然理心流を学んだ。
のち多くの同志らとともに浪士組に参加。京にのぼり、松平容保のもと壬生浪士組を結成。
その後新撰組としてその局長に居座るが、芹沢鴨や伊藤甲子太郎らの離反を招く。
池田屋事件などで市中に噂される華々しい活躍を見せるも、幕府衰退とともに凋落。
最後は甲陽鎮撫隊となるが、新政府軍に敗れ潰走。江戸市中で新政府軍に捕えられ、刑死した。
親愛武将:関羽
※近藤勇は三国志を愛読しており、関羽を敬愛していたとされる
土方義豊(土方歳三)
※PKにて特典として追加→土方歳三?
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 89 | 78 | 44 | 73 | 一騎 | 規律 | 不屈 | 怒髪 | 直情 |
【ヒジカタトシゾウ】
幕末の武士。新撰組隊士。鬼の副長の異名で恐れられた。一般には土方歳三の名で知られる。
鳥羽伏見の敗戦の後、各地を勇戦するがその都度敗戦を繰り返し、
会津戦争で新撰組が解体されると旧幕府政府勢力が集まる蝦夷共和国に渡る。
宮古湾海戦では新政府軍の旗戦を強襲し奪取を目論むが失敗。
函館戦争の最中に銃撃され戦死した。
鳥羽伏見後は時代の変化を体感し近代戦術を貪欲に学び取る。
函館のフランス人将校から能力を称賛されたという。
沖田春政(沖田総司)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
48 | 93 | 36 | 18 | 84 | 一騎 | 捕縛 | 猛者 | 果敢 | 虚弱 |
【オキタソウジ】
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組一番隊組長。一般には沖田総司の名で知られる。
近藤勇、土方歳三らと同門であった。のち近藤に従い新撰組を結成し、
一番隊組長となる。近藤の信任篤く、芹沢鴨暗殺など多くの重要任務をこなした。
池田屋事件でも第一陣として踏み込んだ。のちに離反した山南敬助を捕縛している。
戊辰戦争にも参加し甲陽鎮撫隊に加わるが、数年悩まされた病に勝てず早逝。
山南敬助
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
66 | 76 | 76 | 78 | 79 | 仁政 | 名声 | 人脈 | 文化 | 優柔 |
【ヤマナミケイスケ/サンナンケイスケ】
幕末の武士。新撰組隊士。新選組総長。
小野派一刀流の免許皆伝となり、後に北辰一刀流の千葉周作門人となった。
近藤勇に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れたこともあり、以後は試衛館の門人と行動を共にするようになる。
その後は近藤に従い新撰組を結成し、一番隊組長となる。芹沢鴨暗殺など多くの重要任務をこなした。
脱退の理由に関しては、新参の伊東甲子太郎が新選組に入隊したうえに、彼が山南以上の地位につけられたことや
屯所移転問題で近藤らと揉めた事が原因とされている。
なお、沖田と仲が良かった話が史実であるのは土方ではなく、彼のほうである。
永倉新八
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 94 | 50 | 48 | 71 | 一騎 | 猛者 | 眼力 | 泰然 | 沈着 |
【ナガクラシンパチ】
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組二番隊組長。
剣術好きが高じて脱藩し、剣術修行ののち、近藤勇の食客となる。
その後、浪士組、新撰組など近藤と共にしてその中核を担い、二番隊組長を務めた。
池田屋事件でも中心的役割を果たしたが、近藤とは徐々に対立。鳥羽伏見の戦いでは
決死隊を率いて奮戦。その後江戸にもどって近藤と袂をわかち、戊辰戦争の継戦を実行するが、
関東戦線が終結すると松前藩士として帰参。以後は北海道で暮らした。
「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と言われ、新撰組最強隊士と言われている。
斎藤一
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 92 | 68 | 57 | 65 | 一騎 | 猛者 | 調練 | 規律 | 果敢 |
【サイトウハジメ】
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組三番隊組長。
江戸の生まれながら、紆余曲折を経て壬生浪士組に参加し、近藤勇の同志となる。
池田屋事件では別働隊となる土方歳三の指揮下にあった。
20歳で副長助勤となるなど近藤勇から大いに重用され、新撰組における
内部粛清をも受け持ち、間諜業務なども務めている。
戊辰戦争ではいずれも最前線で戦うが、会津戦役で松平容保の説得を受け入れ投降。
晩年は政府抜刀隊を指揮して西南戦争に従軍するかたわら、北海道開拓や警視庁勤務なども行った。
松原忠司
生年 | 登場 | 没年 |
1815年頃 | 1865年(不自然死?) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 80 | 46 | 43 | 55 | 調練 | 直情 | 我道 |
【マツバラチュウジ】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。
恰幅がよく坊主頭で鉢巻を巻いた風貌により「今弁慶」とも云われる。
播磨国小野藩の出身で浪人となった後は大坂で柔術の道場を経営したが、新選組の前身である壬生浪士組に入り四番組組長・柔術師範となった。
池田屋事件等で功績を挙げたが慶応元年に死去。病死とされるがその死の直前には平隊士に降格されている事など、その最期は諸説有り謎も多い。
武田観柳斎 (武田徳裕)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
47 | 68 | 82 | 81 | 57 | 策士 | 捕縛 | 悪名 | 高慢 | 強欲 |
【タケダカンリュウサイ(タケダノリヒロ)】
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組五番隊組長
「武田徳裕」「福田廣」とも。出雲国に生まれ、江戸に上り
甲州流軍学を学び、甲斐武田氏にちなんで武田観柳斎と名乗る。
その後軍学者及び副長助勤をつとめ、新撰組ブレーンとして活躍。
武芸もこなし、池田屋事件では維新志士を捕縛した。
軍才を背景に新撰組でも影響力を高めるが、新撰組が西洋式調練を採用すると徐々に孤立。
伊東甲子太郎に接近して地位を挽回しようとするも、京都鴨川で暗殺された。
※近藤勇と他の隊士の対立の影には観柳斎が暗躍していたといわれ、近藤迷走の元凶とも言われる。暗殺における実行犯は斎藤一だとされている。
井上一武(井上源三郎)
生年 | 登場 | 没年 |
1829年 | 1868年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
60 | 74 | 69 | 66 | 78 | 召募 | 仁政 | 補佐 | 地域巡回 | 王道 |
【イノウエカズタケ】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。一般的には井上源三郎の名で知られる。
八王子千人同心世話役の家に生まれ天然理心流の近藤周助に入門し、周助の養子である近藤勇の
知遇を得る事になり共に浪士組に参加した。
六番隊組長を務めて用心の接待や対外交渉等を担い、温厚な人柄で近藤や土方の信頼は厚く
下の隊士達にも人望のあった人物であったが鳥羽伏見の戦いで戦死した。
谷供国(谷三十郎)
生年 | 登場 | 没年 |
1832年 | 1866年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
57 | 84 | 58 | 55 | 53 | 豪傑 | 調練 | 酒乱 | 三令五申 | 名利 |
【タニトモクニ】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。一般的には谷三十郎の名で知られる。
備中松山藩の出身で剣術師範である父から剣術と槍術を学び達人となり、藩主である板倉勝静の近習となるが、
不祥事により谷家は断絶となり浪人した末に新選組に加入した。
七番隊組長及び槍術師範を務め、土佐勤王党残党による大坂での焼き討ち計画を阻止する等の活躍を見せたが祇園にて謎の死を遂げた。
原田忠一(原田左之助)
生年 | 登場 | 没年 |
1840年 | 1868年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
59 | 90 | 27 | 15 | 65 | 一騎 | 猛者 | 殿軍 | 癇癪 | 奮戦 | 大喝 | 鋒矢強化 | 我道 |
【ハラダタダカズ】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。一般的には原田左之助の名で知られる。
伊予松山藩の中間の出で出奔した後は谷万太郎より槍を学び名手となり、
新選組においては新選組十番隊組長を務め、新選組の主要な戦いには多く参加して活躍した。
戊辰戦争においては途中で近藤勇らと袂を分かち永倉新八と共に靖兵隊を結成したが、その靖兵隊も離れて彰義隊に加わり戦死した。
生き延びて大陸に渡り満州馬賊の頭領となった伝説も存在する。
河合義輝
生年 | 登場 | 没年 |
1838年 | 1866年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
41 | 56 | 64 | 71 | 55 | 能吏 | 運搬 | 歳出改善 | 王道 |
【カワイヨシテル】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。通称は耆三郎。
播磨高砂の裕福な米問屋の出身で新撰組においては勘定方として組の経理や戦闘の残務処理を担い、池田屋事件にも参戦している。
しかし会計の不正を咎められ、慶応二年二月にて切腹となった(斬首されたとも。また切腹の理由も諸説有り)。
大石守親
生年 | 登場 | 没年 |
1838年 | 1870年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
45 | 86 | 23 | 17 | 36 | 豪傑 | 猛者 | 護衛 | 短慮 | 直情 | 我道 |
【オオイシモリチカ】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。通称は鍬次郎。
一橋家の近習であった大石捨次郎の子で女性問題で出奔し大工となっていたが、新撰組と繋がりのある佐藤彦五郎の元で剣術を学び新選組に入隊した。
剣の腕に秀でて「人斬り鍬次郎」の異名を持ち油小路事件では伊東甲子太郎を斬った。
戊辰戦争の途中で離脱した後に捕らえられ、伊東甲子太郎殺害の罪にて処刑された。
山崎丞
生年 | 登場 | 没年 |
1868年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
51 | 72 | 79 | 57 | 68 | 医術 | 調達 | 察知 | 治療 | 本草学 | 王道 |
【ヤマザキススム】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。
大坂の医者の子とされ、京で針医者をしていたが新撰組に入隊し諸士調役兼監察として、
情報収集や資金調達に務め、また幕府典医の医学を学んでいる。
鳥羽・伏見の戦いで負った傷が元で撤退中の戦場で亡くなり、紀州沖に水葬となった。
島田魁
生年 | 登場 | 没年 |
1828年 | 1900年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
52 | 89 | 44 | 27 | 61 | 豪傑 | 護衛 | 血路 | 浪費 | 地域巡回 | 我道 |
【シマダカイ】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。
身長六尺体重四十貫の巨漢で酒は飲まず甘党であった事で知られる。
美濃国の庄屋の出身で心形刀流の坪内主馬道場に学び、名古屋城の御前試合で優勝し大垣藩士の養子となる。
江戸の坪内主馬道場で修業した際に師範代であった永倉新八と出会い、その縁にて新撰組隊士となった。
土方歳三の元で諸士調役兼監察となり古高俊太郎の捕縛に貢献し、その後に伍長となる。
また御陵衛士の残党が近藤勇を襲撃した際は護衛を務めて勇の危機を救った。
戊辰戦争では箱館まで戦い抜き、明治以後は新政府には仕えず道場経営や商売を行い近藤勇らの菩提を弔っていた。
谷正武(谷周平)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
51 | 69 | 35 | 33 | 41 | 潜在 | 粗忽 | 酒乱 | 政令徹底 |
【タニマサタケ】
江戸時代末期の武士。新撰組隊士。谷三十郎の末弟。
兄とともに新選組に入り近藤勇の養子にもなったが、長兄・三十郎の死後に養子縁組は解消されている。
鳥羽・伏見の戦いで敗走した後に江戸で脱走し、以後は警官や鉄道会社の職員を務めた。