注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
隋(581~619)
北周の十二大将軍に列する楊堅が外戚として実権を掌握し、581年に北周に禅譲させて建国。
589年には南朝陳を征服して全国を統一した。
楊堅は地方統治を州県制に簡素化し、冗官を廃止して門閥制を修正し、
地方官の任免権を吏部に統一するなど北周の中央集権化をさらに強化した。
同時に九品官人制を廃して科挙制を施行し、中央官制も三省六部制を定め、府兵制も整備強化された。
楊堅の政策は門閥制度を制限して賦役・刑罰を軽減し、
社倉を設立するなど民生安定を第一とし、梁の武帝とは好対照をなした。
襲いだ煬帝の苛斂誅求と大土木工事、3次にわたる高句麗遠征の失敗は急速に民心を離叛させ、
全国規模で民衆の造叛と、楊玄感・李密・李淵ら貴族高官の挙兵を招き、618年に逃避先の江都で近衛兵に殺された。
煬帝の死の前後、長安?に入った李淵は代王侑を、洛陽?で自立した王世充は越王侗を立て、
まもなく代王は李淵に禅譲し、越王は王世充に殺された。
楊堅
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 84 | 88 | 99 | 84 | 洞察 | 妙算 | 水戦 | 農政 | 法律 | 大虎雄略 | 先従隗始 | 覇道 |
【ヨウケン】
隋の初代皇帝。文帝。大将軍楊忠の子。楊勇・楊広・楊俊・楊秀・楊諒の父。
北周の明帝、武帝に仕えて北斉平定の戦功で大将軍となる。
長女の楊麗華を北周の宣帝に立后し、自身は上柱国・大司馬として権勢を誇示し、
宣帝没後、静帝の下で左大丞相となり北周の実権を掌握。
簒奪を警戒した尉遅迥・司馬消難・王謙らの造反をも鎮圧し、禅譲を受け隋王朝を開いた。
中央官制を三省六部に整え、九品中正法を廃止し科挙制度を設け、
さらには貨幣の統一、府兵制や均田制などの新制度を打ち出し、隋の中央集権体制を確立した。
楊勇
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 72 | 67 | 72 | 76 | 詩想 | 怒髪 | 学者 | 浪費 | 短慮 | 太学 | 礼教 |
【ヨウユウ】
隋の文帝楊堅の長男。楊広・楊俊・楊秀・楊諒の兄。
楊堅が禅譲を受けて即位し隋を建国すると、楊勇は皇太子に立てられた。
学問を好み、性格は寛大で温厚であり、明克讓・姚察・陸開明らの文人達と交流するが、
奢侈で礼節を欠く面があり、多くの側妾をかかえた。
特に、雲昭訓を寵愛して正妃の元妃が不遇のまま病没した事に母の独孤皇后は不満で楊勇を責め、
楊素・楊広と共謀して讒言を繰り返し文帝に廃嫡させ、楊広の即位後に自害させられた。
文帝はこの廃嫡を後悔し、臨終に際し楊勇を呼び出そうとしたという。
楊広
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 58 | 50 | 52 | 1 | 詩想 | 徴税 | 築城 | 浪費 | 悪名 | 政令徹底 | 名利 | |||||
56 | 61 | 53 | 49 | 30 | 詩想 | 徴税 | 築城 | 浪費 | 悪名 | 政令徹底 | 名利 | |||||
70 | 66 | 83 | 69 | 5 | 詩想 | 徴税 | 築城 | 浪費 | 悪名 | 政令徹底 | 覇道 |
【ヨウコウ】
隋の二代皇帝。諡号は煬帝。文帝楊堅の次男。
父の即位と同時に晋王となり、北方の防衛を担う。
南朝征伐では総司令官を務めて中国統一を成し遂げ、兄を廃嫡に追い込んで皇太子になる。
即位後は大運河を建設して新たな流通経路を開発し、
また突厥の内紛を利用して北方国境を安定させるなどして、隋の最盛期を築いた。
しかし、三度に及ぶ高句麗遠征の失敗によって朝廷の権威が失墜し、各地で叛乱が続発。
にも関わらず、叛乱の鎮圧を図るどころか江南の離宮で酒池肉林の日々を過ごした為、
側近であった宇文化及に謀反を起こされて殺害された。
※大運河の開通がもたらした影響力を考えて政治を上げてみました。
また、一番下は煬帝の能力を大幅に見直したもので、特に知力はあの父や母を出し抜いて皇太子になっているので知力を大幅に上げています。
魅力は…兄弟を冷遇したり、最期が毒酒による自害を望んだにも関わらず家臣2人に真綿で首を絞められるといったものなので、難しいかなと。
楊俊(阿祗)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
61 | 57 | 73 | 66 | 68 | 徴税 | 楽奏 | 慈悲 | 浪費 | 高慢 | 施設開発 | 礼教 |
【ヨウシュン(アシ)】
隋の文帝楊堅の3男。楊勇・楊広の弟。楊秀・楊諒の兄。
隋の建国後、秦王に立てられ、上柱国・河南道行台尚書令・洛州刺史・右武衛大将軍を歴任し、
関東の兵を領した。
仏教を崇敬して沙門となる事を願い出たが、文帝に許されなかった。
陳征戦では山南道行軍元帥となり、水陸十数万の精兵を率い漢口に駐屯したが、
殺傷を嫌い、不戦に走った。
陳の降伏後、揚州総管、次いで并州総管となるが、贅沢奢侈にふけり法を破った罪で、
文帝に咎められて免官され、王邸で病死した。
寵愛が薄らいだ妃の崔氏に毒殺されたともいう。
楊秀
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
45 | 47 | 35 | 30 | 45 | ||||||||||||
45 | 67 | 25 | 30 | 35 | 徴税 | 浪費 | 強欲 | 粗暴 | 三令五申 | 我道 |
【ヨウシュウ】
隋の文帝楊堅の4男。楊勇・楊広・楊俊の弟。楊諒の兄。
隋の建国後、越王、次いで蜀王に徙封され、二十四州諸軍事を務めた。
奢侈を好み、車馬や衣服については、皇帝にしか許されないものを用いたという。
皇太子楊勇が廃位され、晋王楊広が皇太子となると、不満を漏らしたために、
官爵を剥奪されて庶民に落とされ禁固された。
宇文化及が楊広を殺害すると、皇帝の候補に挙がるが退けられて諸子と共に殺害された。
嫌悪武将:楊広
楊諒(徳章)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
52 | 66 | 47 | 54 | 50 | 召募 | 小心 | 優柔 | 短慮 | 兵器開発 | 我道 |
※個性の組み合わせ不可能(短慮/優柔)
【ヨウリョウ(トクショウ)】
隋の文帝楊堅の5男。楊勇・楊広・楊俊・楊秀の弟。
隋の建国後、漢王に立てられ、高句麗遠征においては行軍元帥となり、
兵を率いて遼水まで進んだが、疫病の蔓延のため撤退した。
太原で精兵を蓄え軍備を整えて、皇太子の楊勇が讒言により廃されると背いて謀反した。
関中に向かって攻め入るが配下の献策を聞かず兵を分散する愚策を犯して、
楊素率いる官軍に大敗し降伏した。隋の百官は楊諒の罪が死罪に相当すると上奏したが、
楊広は兄弟の情において忍びないとして、官爵を剥奪して庶民に落とし、幽閉の末死去。
高熲(昭玄)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 79 | 88 | 96 | 85 | 崩壁 | 督励 | 眼力 | 王佐 | 柱石 | 沈毅大略 | 火矢 | 挑発 | 鼓舞 | 衝車 | 経世済民3 | 王道 |
【コウケイ(ショウゲン)】
隋の功臣。宰相。斉国公。北周の将軍高賓の子。
随国公・楊堅が北周の実権を握ると、幕下に招聘され、尉遅迥の反乱や陳討伐で活躍し、
晋王楊広を総大将に陳平定の兵が起こると、元帥長史として全ての判断を任された。
文武に大略あり、蘇威・楊素・賀若弼・韓擒虎ら多くの英才を推挙し、彼らの才能を尽くさせた。
文帝の信任も厚く、20年近く宰相の地位にあり、朝野全てを心服させたという。
後、皇太子楊勇の廃立・高句麗遠征に反対して独孤皇后の讒言にあって失脚。
楊広の即位後は太常となるも、朝政誹謗の罪で誅殺された。
楊素(処道)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
96 | 77 | 92 | 88 | 64 | 神機 | 規律 | 勇将 | 水戦 | 功名 | 神機妙算 | 火矢 | 文事武備3 | 王道 |
【ヨウソ(ショドウ)】
隋の上柱国。司徒。楚景武公。楊玄感の父。
北周の車騎大将軍・儀同三司として反乱鎮圧などに功績を挙げた。
楊堅が北周の丞相に上ると親交を結び、隋の建国後は上柱国・御史大夫となった。
楊堅が陳征伐を考えると、数度に亘り平定策を進言し、
信州総管として「五牙」「黄龍」と称する大艦を次々と建造。
晋王楊広を補佐して水軍で長江を下り、一挙に陳を打倒し、更には、江南の反隋挙兵をも次々鎮圧した。
太子楊勇と晋王楊広の後継者争いでは楊広の立太子に協力するも、
即位後に猜疑を受け、失意の内に没した。
楊玄感
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 90 | 57 | 61 | 64 | 掃討 | 運搬 | 召募 | 高慢 | 粗忽 | 奮戦 | 急襲 | 大喝 | 罵声 | 地域巡回 | 我道 |
(別案)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 92 | 57 | 61 | 64 | 掃討 | 運搬 | 召募 | 高慢 | 奮戦 | 急襲 | 大喝 | 罵声 | 地域巡回 | 我道 |
【ヨウゲンカン】
隋の将。功臣楊素の子。
雄偉な体格と美髯を誇り、読書を好み、騎射も巧みであった。
父の軍功により柱国の位を賜るが、父の失脚に伴い辞職。
父の死後復職するが、楊広の嫌疑を被ったため、第二次高句麗遠征の際に隋に造反。
結果、この遠征は頓挫した。
だが、謀士李密の意見を聞かず、洛陽?攻略は失敗。
衛玄・陳稜・屈突通・宇文述・来護児ら討伐軍に包囲され関中へ転進するが、
追撃を受け董杜原の戦いで大敗、弟の楊積善と刺し違えた。
この反乱自体は三ヶ月余で鎮圧されたが、以降民衆反乱が続発し隋は急速に衰運へ向かう。
達奚長儒(富仁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 94 | 77 | 70 | 76 | 威風 | 水戦 | 驍将 | 捕縛 | 英名 | 万馬奔騰 | 斉射 | 強襲 | 急襲 | 井闌 |
【タツケイチョウジュ】
西魏、北周、隋の将。
15歳で父の爵位を継ぎ、宇文泰の側近として仕える。
蜀平定戦では先鋒として活躍し、攻城にも野戦にも当たるところ必ず撃破した。
南朝陳との争いでは呂梁の戦いで呉明徹を捕縛。
突厥との戦いでは自ら奮戦。敗北はしたが突厥軍の死傷者も万を数え、士気も低下して当初の目的を果たすことなく撤退。
長儒は身に5カ所の傷を負い、貫通しているところも2カ所あった。長儒の軍の死傷者も10人中8・9を数えた。
文帝(楊堅)は長儒の奮戦ぶりを賞賛して、上柱国の位を授けた。
その後は荊州総管・三十六州諸軍事に転じ、江陵の守りを委ねられ、1年あまりして在官のまま死去。
韓擒虎(子通)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 96 | 80 | 41 | 80 | 闘将 | 掃討 | 威風 | 豪傑 | 功名 | 猛虎爪牙 | 大喝 | 奮戦 | 急襲 | 強襲 | 鋒矢強化3 | 王道 |
【カンキンコ(シツウ)】
隋の将軍。勇将韓雄の子。韓世諤の父。
北周の末期に陳の侵攻を度々撃破し、楊堅が即位して隋を建国すると、陳平定を一任される。
先鋒として500人を率いて長江を渡り、採石を攻略し、姑熟を半日で抜き、新林に進軍。
楊広の派遣した杜彦の軍と合流し、二万の兵で陳の首都建康?に攻め寄せ、
陳の天子である後主を降伏させた。
後、異民族の侵入に備えるため行軍総管として金城に駐屯し、涼州総管となり、
まもなく長安?に呼び戻されるが、55歳の若さで病死した。
沈光(総持)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
95 | 96 | 73 | 40 | 88 | 闘将 | 掃討 | 求心 | 猛者 | 胆力 | 忠勇義烈 | 奮戦 | 斉射 | 急襲 | 激励 | 三軍強化 | 王道 |
【しんこう(ソウジ)】
隋の将軍。
煬帝による高句麗遠征に従軍し、この際に武功を立てた。そのため、沈光は朝請大夫となり、宝刀・良馬を賜った。その後、沈光は折衝郎将となり、煬帝から非常に厚遇された。煬帝が宇文化及に殺害されると、沈光は復讐を誓い、麦孟才・銭傑らによる宇文化及の殺害計画に加わった。しかしこの計画は実行前に漏れてしまい、麦孟才が捕まってしまう。沈光は発覚したことを知り、甲冑もつけずに宇文化及の陣営を急襲したが、宇文化及はすでに逃げ出しており、司馬徳戡の兵に包囲された。それでも沈光は敵兵数十人を斬る奮戦をするが、司馬徳戡が騎兵に命じて沈光の側面から弓弩を放たせたことで、沈光は射殺された。彼が率いた兵数百人は一人も降伏せず、沈光とともに全員戦死した。
屈突通
「みんなの新武将/唐」のページを参照。
史万歳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 99 | 60 | 18 | 85 | 飛将 | 疾走 | 一騎 | 遠矢 | 長駆 | 単騎駆 | 急襲 | 大喝 | 三軍強化3 | 我道 |
【シバンザイ】
北周・隋の将軍。柱国。
英邁で武勇と騎射に秀で、兵学や占術にも精通していた。
北周に仕え反乱討伐に功があったが、隋の初年に爾朱勣の謀反に連座し敦煌に左遷。
この地で突厥相手に勇名を轟かせ、竇榮定の突厥討伐後に車騎将軍となる。
高智慧らの挙兵を、楊素に従い兵士二千を率い百日余で転戦千里以上、七百余戦に勝利し凱旋。
更には南寧夷の反乱や突厥を破るが、楊素に讒言され不仲となり、遂には楊堅に誅殺された。
放任主義者だが軍令は迅速で、戦場では勇猛であり、無窮に変化する陣立は当世の良将と讃えられた。
史万歳が誅殺された日は天下の士から庶民まで冤罪を信じてその死を恨み悲しんだ。
来護児(崇善)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 91 | 61 | 36 | 80 | 掃討 | 長駆 | 操舵 | 直情 | 功名 | 水軍育成 | 覇道 |
【ライゴジ(スウゼン)】
隋の将軍。
後漢光武帝の配下であった中郎将・来歙の十八世の孫とされる。
陳に対する征戦で功績を挙げ、高智慧が乱を起こすと、楊素に従い浙江で高智慧を撃破。
李寛に従って汪文進を破り、柱国・黄県公の爵位を賜った。
楊広が即位すると、右驍衛大将軍に任ぜられ帝に親任され、
三次に渡る高句麗遠征で度々高句麗軍を撃破し恐れられた。
楊広が江都に移ると付き従い、のちに宇文化及らに楊広とともに殺害された。
陳稜(長威)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 86 | 78 | 60 | 64 | 水戦 | 操舵 | 機略 | 火攻 | 督励 | 聡明剛毅 | 業火 | 鯨波 | 強襲 | 矢嵐 | 水軍育成4 | 王道 |
【チンリョウ(チョウイ)】
陳の配下だった陳峴の子として生まれたが、
陳滅亡後に高智慧が起こした反乱には同調せず、隋に内応したため登用された。
煬帝の統治下では隋に従わない流求国(現在の台湾もしくは沖縄)に遠征して、
流求軍を撃破して王の歓斯渇剌兜を斬る功績を挙げた。
各地で隋に対する反乱が頻発すると戦艦を造営して江南の反乱軍を幾度も撃破した。
煬帝死後は宇文化及に従ったが李子通に敗れ、杜伏威の下に逃れるも杜伏威に嫌われて殺害された。
賀若弼(輔伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 90 | 48 | 20 | 44 | 神将 | 長駆 | 水戦 | 威風 | 高慢 | 虎弓 | 火矢 | 突撃 | 撹乱 | 投石 |
【ガジャクヒツ(ホハク)】
隋の将・上柱国。宋国公。
大志を抱き、弓馬のみならず文章にも秀で、当時の人々に高く評価された。
斉王宇文憲に仕え寿州刺史となり、楊堅が北周の実権を握ると、尉遅迥が造反したため、
自身も造反を危惧され、人事異動を拒否し逮捕された。
隋の建国後は陳攻略の任を推薦され、軍を率いて長江を渡り、
南徐州を攻略して陳の主力に大勝した。
軍紀は厳粛で一切略奪も許さず、民から酒を買っただけでも斬刑に処したという。
だが、自らの功を誇って傲慢な態度が多く、北方巡行の際に政治を誹謗して誅殺された。
宇文述(伯通)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 80 | 83 | 45 | 28 | 詭計 | 調練 | 策士 | 智嚢 | 強欲 | 深謀遠慮 | 混乱 | 挑発 | 矢嵐 | 水軍育成3 | 王道 |
【ウブンジュツ(ハクツウ)】
北周・隋の将。化及・智及・士及の父。北周の上柱国・宇文盛の子。
楊堅が隋の丞相となり、直後に尉遅迥が造反すると、
兵三千を率い韋孝寛の下で鎮圧に当たり、先鋒として敵陣を陥落し撃破した。
隋の建国後は、右衛大将軍に任じられた。
晋王楊広に接近し、子の宇文士及が南陽公主を妻に迎え、
楊広が皇太子になると太子補佐となり、楊広の即位後は許国公に改封され朝廷で勢威を振るった。
第一次高句麗遠征で大敗を喫するが、楊玄感が乱を起こすと討伐に活躍し復帰。
江都への行幸を勧め、まもなく江都で病没した。
宇文化及
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
46 | 71 | 31 | 27 | 20 | 運搬 | 強欲 | 悪名 | 火矢 | 火計研究2 | 我道 |
【ウブンカキュウ】
隋の将。宇文述の子。智及・士及の兄。許朝を創建し皇帝を称した。
幼少より楊広の寵愛を受け、父の没後は右屯衛将軍に任命された。
叛乱を避けて江都に逃れ、大興城への帰還を拒否する楊広に対し、反乱の指導者に推戴された。
弟の宇文智及とともに禁軍を伴って宮中の楊広を弑殺し、
楊広の弟の蜀王秀の子、秦王浩を擁立し大丞相として北上したが、
王世充、李淵、李密らに阻まれ、長安?入城は叶わなかった。
そのため秦王浩を毒殺し、魏県で自ら即位したが、
竇建徳に聊城で敗れ弟の宇文智及らとともに斬首刑となった。
宇文智及
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 72 | 35 | 13 | 14 | 悪名 | 浪費 | 粗暴 | 運搬開発 | 我道 |
【ウブンチキュウ】
隋の将。宇文述の子。化及の弟、士及の兄。
宇文述の遺言で兄の化及が右屯衛将軍となると、将作少監となった。
後、兄の化及を首謀者に推して武賁郎将の司馬徳戡、武勇郎将の趙行枢、
直長の薛世良、勛士の楊士覧らと謀って煬帝を弑殺。
自身と親交のあった秦王浩を擁立した兄に左僕射に任じられ北上したが、
王世充、李淵、李密らに阻まれた。
化及が秦王浩を毒殺し、魏県で許の皇帝を僭称し文武百官を任じる際、斉王となった。
宇文化及が竇建徳に聊城で敗れると一派と共に処刑され、軍門の外に梟首された。
宇文士及
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 68 | 74 | 76 | 82 |
【ウブンシキュウ】
隋・唐の将。宇文述の子。化及・智及の弟。
文帝楊堅の寵愛を受け、長女の南陽公主を妻とした。
兄の化及が煬帝を殺害すると、親交のあった李淵への帰順を勧めるが容れられず、
化及は竇建徳に敗れた。
済北の豪傑達と謀って竇建徳への対抗を考えるが、形勢不利と判断し唐に帰順した。
秦王李世民に従って宋金剛を討ち、王世充らへの征戦に従軍し、
李世民の即位後は、中書令・涼州都督となった。
右衛大将軍などの高官を歴任し、軍事は厳しく、政治は寛容簡素を旨とした。
李世民との密議は妻にさえ口外せず、深く信任された。
薛世雄(世英)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 87 | 57 | 62 | 85 |
【セツセイユウ(セイエイ)】
北周・隋の将。万述・万淑・万均・万徹の父。
北周の武帝の下で北斉を討ち、隋では右親衛車騎将軍に累進した。
楊広の即位後は番禺の鎮圧にあたり、吐谷渾、伊吾に勝利する。
清廉謹直で、戦場で勝利を収めても略奪や横領を戒め、楊広に賞賛された。
第一次高句麗遠征の敗戦の中、高句麗の重囲を突破し帰還するも、
問責され免職されたが、第二次高句麗遠征では再任され、燕郡太守を代行する。
李密が東都に迫ると、拝命し幽・薊州の兵を集め、道中の竇建徳と戦うが、
霧中の夜襲に大敗し、発病してまもなく死去した。
魚倶羅
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 95 | 48 | 7 | 55 |
【ギョグラ】
隋の将。柱国。
身長八尺、膂力並々ならぬ持ち主であった。
はじめ北周に仕えて、晋王楊広の下で南朝陳に対する征戦に参加し、
沈玄懀・高智慧らが江南で乱を起こすと、楊素に同行を求められて戦功を挙げた。
突厥軍と遭遇すると数騎とともに突撃し、敵陣を左右に蹂躙した。
その後も突厥の数度の侵入をすべて撃破するが、
楊広の時代に、弟の罪に連座して楊広に疎まれるようになり、無実の罪で斬首された。
長孫晟(季晟)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
42 | 37 | 95 | 86 | 88 | 眼力 | 策士 | 智嚢 | 特使 | 精練策数 | 挑発 | 混乱 | 斉射 | 縦横術 | 王道 |
【チョウソンセイ(キセイ)】
北周・隋の将。唐の長孫皇后や長孫無忌の父。
無名の頃、楊堅に「知勇兼備の将来名将の器」と賞賛されていた。
北周の公主の降嫁に従い突厥の陣中に入ると、突厥の可汗に寵愛され留め置かれた。
楊堅が隋を建国すると、突厥攻略に際して軍備より外交をもって弱体させるべきだと説き、
この言が容れられて隋の対突厥の基本戦略となる。
虚報・離間策などを駆使して突厥の撃退に成功し、突厥を隋に臣従させた。
楊広の代にも重用されるが58歳で死去し、その死を惜しまれた。
弓の名手で「一箭双雕」の故事を残したことでも有名。
劉方
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 83 | 75 | 47 | 68 | ||||||||||||
87 | 83 | 75 | 47 | 83 | 勇将 | 妙算 | 長駆 | 規律 | 仁政 | 奮戦 | 連弩 | 激励 | 三令五申 | 王道 |
【リュウホウ】
北周・隋の将。
楊堅が北周の丞相となると、韋孝寛の下で尉遅迥を討った。
衛王楊爽の下で突厥を白道に攻撃して大将軍となる。
交州(ベトナム北部)の平定に楊素から推薦されて、二十七営を統率して進軍した。
チャンパ王国に進軍して度々、チャンパ軍を撃破し王都を破って凱旋するが、
帰途の道中で病死した。
楊義臣
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 86 | 73 | 43 | 85 | 掃討 | 剛将 | 補佐 | 長駆 | 英名 | 豪気衝天 | 突撃 | 兵站改革3 | 王道 |
【ヨウギシン】
隋の将。本姓は尉遅。尉遅崇の子。
楊堅の側近の父が戦死すると、楊姓を与えられ皇従孫として扱われた。
突厥の達頭可汗が隋の北辺を侵すと、行軍総管として三万の兵を率い、
史万歳の軍と合流して撃破したが、史万歳が楊素に陥れられて死去したため功績を黙殺された。
楊広の即位後、并州の乱を鎮圧するが、第一次高句麗遠征では乙支文徳の計の前に大敗し免官。
第二次遠征では復職し、叛乱した楊玄感を鎮圧した。
第三次遠征でも叛乱を鎮圧して功を上げるが、楊広に威名を憎まれ召還され、まもなく死去した。
衛玄(文昇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 71 | 77 | 45 | 56 |
【エイゲン(ブンショウ)】
隋の将。
北周の武帝に召されて記室となるが、宣帝の代に免官された。
楊堅が丞相となると復帰して和州蛮の乱を鎮圧し、隋の建国後は剣南の安撫を務めた。
第一次高句麗遠征の大敗では退却手腕を賞賛され、
第二次遠征では長安?の留守を担い、楊玄感が東都?に迫ると七万の軍で救援に向かい、
宇文述や来護児ら援兵の到着まで守り抜いた。
斛斯万善や龐玉らを先鋒に追撃し、宇文述らと合流し楊玄感を破った。
後、関中に駐屯するが隋の腐敗を痛感し、李淵の前に敗北を悟り、
病と称して引退し、長安陥落後間もなく死去した。
韋洸(世穆)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 82 | 83 | 60 | 73 |
【イコウ(セイボク)】
北周・隋の将軍。
北周に仕え、征戦に度々従軍して、衛国公の爵位を受けた。
楊堅が北周の丞相となると、叔父の韋孝寛の下で尉遅迥を討った功績により柱国となる。
陳に対する征戦では行軍総管・江州総管となり二万の兵を率いて、九江を平定した。
豫章に進軍して、太守徐璒の偽投降を見破り夜襲して撃破した。
南方の24州を統轄して、広州総管に任ぜられるが、
番禺の異民族の王仲宣の戦いで流れ矢にあたって戦没した。
韋冲(世冲)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 78 | 84 | 78 | 87 |
【イチュウ(セイチュウ)】
北周・隋の将軍。
孤児だったが拾われ養われて北周の将軍となる。
大将軍・元定に従って長江を渡り陳を攻撃した際、逆に陳軍の捕虜となるが、
北周の武帝の寵愛を受け、大金と絹綿を代価に解放され再び陳と戦った。
隋の建国後は長城を修築し、北方からの胡人に備え、関内の賊を北へ逃亡させ、
楊堅に夷狄の慰撫を献策して用いられ、靺鞨、契丹諸部を懐柔し、恐れさせた。
また、高句麗の来寇時には、一鼓のもとにこれを撃ち破った。
66歳で死去。
娘は、豫章王・楊諌の妻となり一族は皇族の一員となった。
源雄(世略)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 86 | 75 | 39 | 68 |
【ゲンユウ(セイリャク)】
北周・隋の将軍。上柱国。源纂の子。
はじめ北周に仕えて武帝に従い北斉を討った。
楊堅が北周の丞相となり、乱を起こした尉遅迥に誘われると一顧にしなかった。
徐州刺史の劉仁恩を派遣して畢義緒を討ち平定した。
陳との戦いでは于顗・賀若弼・元景山らとともに陳軍を攻撃して敗走させ失地を回復。
以後、叛乱討伐や突厥とも戦い功を上げた。
陳に対する征討にも参加し、陳が平定されると、上柱国になり朔州に駐屯する。
2年後隠退して家で死去した。
于顗(元武)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 84 | 81 | 23 | 76 |
【ウギ(ゲンブ)】
北周・隋の将軍。于仲文の兄。于寔の子。
父の勲功により新野郡公の爵位を受け、軍功を重ねて大都督に任ぜられた。
水軍総管として韋孝寛に従い淮南を経略、陳の寿陽?を攻め落とした。
総管の趙文表とそりが合わず、仮病を使って趙文表が見舞いに来たところを、
「尉遅迥と通謀している」と冤罪を着せて斬り殺した。
楊堅に呉州総管に任ぜられて陳と戦い続けて度々撃破する。
隋が建国されると、趙文表の弟により告発されるが、
文帝楊堅は功績を慮って特別に罪に問わなかった。
父の燕国公の爵位を嗣ぎ、まもなく病死した。
張衡(建平)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
46 | 37 | 71 | 83 | 55 |
【チョウコウ(ケンペイ)】
隋の政治家。南陽郡公。
隋の文帝に仕え、黄門侍郎、太子右庶子を歴任し、御史大夫に任じられた。
文帝が崩御すると、楊素とともにその次男の皇太子の晋王・楊広を擁立した功績を残す。
この時、文帝は楊勇の召し出しを命じて急逝したため、毒殺したという疑惑を残した。
汾陽宮を増設した楊広に「度重なる大工事を慎むべきである」と直言を繰り返したため、
楊広に疎まれて突厥の国境である楡林太守に左遷された。
数年後に、江都宮監に任命されるが、江都郡丞の王世充と対立し、
その讒言を信じた楊広によって、庶人に落とされ、後に誅殺された。
蘇威(無畏)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
37 | 34 | 66 | 94 | 84 | 王佐 | 法律 | 先従隗始3 | 王道 |
【ソイ(ムイ)】
隋の功臣。楊堅・楊広の二代にわたり重臣として活躍した。
はじめ北周の武帝・宣帝に仕えていた。随国公・楊堅が丞相となり北周の実権を握ると、
楊堅が禅譲を目論んでいることを聞いて、謀議に荷担することを嫌い郷里に逐電。
楊堅が即位して隋を建国すると、許されて朝政を取り仕切り、
隋の律令を制定するなど、法制度の整備に大きく貢献した。
楊広が即位すると大将軍を加えられて、宇文述・裴矩・裴蘊・虞世基らと朝政に参与し、
人々から「五貴」と称された。度重なる労役や高句麗遠征の失敗により、
楊玄感をはじめ各地で反乱が相次ぎ、天下が大いに乱れると楊広を諫めたが、
聞き入れられなかった。楊広が江都へ行幸するとそれに随行、楊広亡き後は
宇文化及、李密、王世充に仕え、最後には唐に帰順して長安?に戻り家で卒した。
李徳林(公輔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
14 | 7 | 80 | 85 | 78 | 能吏 | 寡欲 | 法律 | 諌止 | 鼓舞 | 政令徹底3 | 礼教 |
【リトクリン(コウホ)】
隋の政治家。
楊堅の排除を狙って尉遅迥が兵を挙げると、
指令書や檄文は朝夕絶えることなく、一日で100を超えることもあった。
特に火急の要件では自ら口頭で述べて数人に筆記させ、
その文の内容は多岐に渡ったが、修正する必要はなかった。
楊堅が禅譲を受けた時の詔勅や上奏文は全て李徳林が書いたものだった。
于翼や高熲と律令を制定し、隋に貢献したが、
北周の宗族の抹殺に反対したことで嫌われるようになり、
後に左遷され、任地で亡くなった。
許善心(務本)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
10 | 6 | 75 | 79 | 71 | 学者 | 詩想 | 史官 | 人脈 | 鼓舞 | 本草学2 | 名利 |
【キョゼンシン(ムホン)】
隋の政治家。南朝に代々仕えた家柄の出身。
陳に仕えていたが隋への使者として出向ている最中に
祖国が滅亡したことで止む無く隋に仕えると
文帝に才を評価され、重用された。
ある時、神雀が含章闥に降りたので
文帝は百官を召して宴席を設けるとそこで『神雀頌』を作り、
文帝を大いに喜ばせた。
高句麗討伐に出向いた煬帝に従って涿郡や遼陽に随行した。
煬帝が殺害されると他の官人は宇文化及に従う中、
従おうとしなかったので殺された。
虞世基(茂世)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
42 | 36 | 55 | 77 | 47 | 能吏 | 詩想 | 小心 | 政令徹底 | 割拠 |
【グセイキ(モセイ)】
隋の功臣。「初唐の三大家」の一人、虞世南の兄。
初め陳に仕えていたが、陳が滅亡すると隋に仕えた。
楊広の時代に蘇威・宇文述・裴矩・裴蘊と政治を掌り「五貴」と称された。
勅書の作成を掌ると、1日に100枚を書き上げ、しかも書き損じがなかったという。
楊広が江都へ行幸すると諌めるが容れられず、讒言した者が相次いで誅殺されたことから、
楊広の気に入らないことは報告せず、反乱の報告は虚偽だと言上する。
やがて宇文化及が反乱を起こし楊広とともに殺された。
薛道衡(玄卿)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
13 | 24 | 68 | 50 | 77 |
【セツドウコウ(ゲンキョウ)】
隋の臣。北朝・隋を代表する文学者で「一代の文宗」と称えられた。
はじめ北斉に仕え、北斉が滅びると北周・隋に仕えた。
陳に使者として赴くと、後主ら江南の人々にその詩文を賞賛された。
文才を文帝に重んじられて、その名声は当時並ぶものなく、
太子楊勇や諸王はあらそって交際を求め、楊素ら重臣からも尊敬された。
楊広が即位すると、かつて晋王の時代に幕僚への召集を断ったことで恨まれており、
裴蘊に讒言されて縊殺された。
裴蘊
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
52 | 46 | 81 | 87 | 62 | 能吏 | 論客 | 強欲 | 衝車 | 戸籍整備 | 名利 |
【ハイウン】
隋の功臣。
一族は代々南朝の高官を勤めた家柄で、官吏として陳に仕えていた。
父が北周との戦いに敗れて捕虜となると、密かに隋の文帝に書を送り密通。
隋が陳を滅ぼすと、文帝から賞せられて洋州・直州・棣州の刺史を歴任した。
楊広の代にも召されて戸籍の掌握を上奏して親任された。
蘇威・宇文述・裴矩・虞世基らとともに朝政を掌り、人々から「五貴」と称される。
江都に移り宇文化及が反乱を起こす報を掴むと、詔勅と偽って来護児に兵を率いさせ、
宮中の門を閉ざして楊広の救出を図るが、虞世基に退けられ殺された。
裴矩(弘大)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
60 | 57 | 75 | 86 | 70 | 築城 | 慰撫 | 法律 | 嚮導 | 地勢研究 | 王道 |
【ハイク(コウダイ)】
隋の功臣。
北周朝の大司馬であった楊堅に従い、隋朝が成立してからは、南朝・陳討伐軍に加わった。
嶺南地方の攻略に遣わされ、『隋朝儀礼』の編纂や『開業平陳記』を撰した。
楊広が即位すると、東京洛陽府?の造営に尽力。
最大の功績として、河西に四度派遣されて商業貿易を活性化させ、
『西域図記』を編纂し、西域諸国を入朝させて吐谷渾の影響力を大幅に削いだ。
この間に高句麗遠征にも参加した。
宇文化及が楊広を殺すと、宇文化及に仕えるが、竇建徳に敗れると捕らえられる。
竇建徳が唐朝によって滅ぼされると、唐朝に帰順の意を表した。
独孤伽羅
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
18 | 14 | 77 | 83 | 76 |
【ドッコカラ】
隋の文帝楊堅の皇后。北周の大司馬独孤信の七女。楊勇・楊広・楊俊・楊秀・楊諒の母。
独孤皇后。
学識高く、政治に関与し、朝政に過失があると楊堅を諫めて「二聖」と称された。
従兄弟の崔長仁が斬罪となった際も、渋る楊堅を諌め、
国事を考え崔長仁を法の下処断させたという。
情愛深き反面、嫉妬深く、夫の楊勇に自分以外の女に子を生ませぬよう約束させ、
諸王や朝士にも側妾に出産させることを許さず、
そうした者がいると必ず楊堅に勧めて排斥させた。
また皇太子の楊勇を好色を理由に廃嫡し、次男の楊広を太子に立てさせた。
宇文愷(安楽)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
43 | 22 | 74 | 92 | 63 | 築城 | 発明 |
【ウブンガイ(アンラク)】
隋の政治家。西魏・北周に仕えた宇文貴の子。
隋が建国されると皇族ではなかったため誅殺を免れた。
高熲の監督の元、新都大興城?(隋唐代の長安)建設の計画から実務まで全てを取り仕切る。
渭水から黄河を繋ぐ広通渠を開削し、東都洛陽城?の建設でも計画から建造までを一手に担った。
工部尚書となり、明帝楊広(煬帝)の北巡のために数千人が座乗できる大帳や移動可能な宮殿を発明する。
西晋滅亡で失われた明堂の復元では、議論を重ねて木で模型を造り上奏を行う。
高句麗侵攻では遼河の渡河で功績を上げ、紫金光禄大夫まで官位を進めた。
裴世清
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
31 | 20 | 67 | 69 | 64 | 特使 |
【ハイセイセイ】
隋~唐の政治家。隋書では李世民の諱を避けて裴清とされる。
(忌避の影響が無い日本書紀では裴世清と記載されている)
日本が小野妹子を使者とした第二回遣隋使を派遣した際に返礼の使者となり、
筑紫~難波津と経由して当時の日本の首都であった飛鳥へ赴いている。