みんなの新武将/曹魏(政治家・吏僚)

Last-modified: 2023-12-07 (木) 20:42:19

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

曹魏(220~265)

開祖の曹操は東漢末の群雄の1人で、自らの拠る許(許昌市)に献帝を迎え、
袁紹を滅ぼし河北を制して丞相として全権を掌握し、
赤壁で孫権に敗れ、天下統一は頓挫したものの、後には関中も平定して魏王とされた。
嗣子の曹丕に至って献帝から禅譲され、洛陽を都として魏王朝を樹立し、
明帝の代には遼東の公孫淵を滅ぼし、高句麗を大破して朝鮮北部にも威令を及ぼした。
曹操は法治を重んじ、国力回復の為に大規模な屯田制を実施したが、
同時にこの時代は貴族制への移行期でもあり、曹操幕下にも多くの名流子弟が加わっており、
文帝の時代に始められた九品官人制は後に貴族制の定着に大きく寄与した。
朝臣の貴族化は明帝・斉王代に進行し、貴族文化の先鞭として清談が流行したが、実権は宗族の曹爽
ついで河内豪族の司馬懿に遷り、以後は司馬氏が天子の廃立を行ない、265年に元帝が司馬懿の孫の司馬炎?に簒奪された。
文帝が曹操の継嗣となる経緯から魏は一族を冷遇した為に藩屏と呼べる存在が事実上存在せず、これが司馬氏の簒奪を容易にしたとされる。



一般臣下(政治家・吏僚)

郗慮(鴻豫)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2625787231言毒人脈功名太学礼教

【チリョ(コウヨ)】
後漢末の政治家。兗州山陽郡金郷県の人。曾孫に西晋の郗隆、玄孫に東晋の郗鑒がいる。
鄭玄門下で儒学を学んだ。荀彧の招聘で献帝に仕え、荀彧・鍾繇とともに禁裏へ入り、講義を行った。
始め孔融と仲がよかったが、やがて互いに張り合って仲違いした。曹操は両者に手紙を送り、和解を促したが孔融は拒否した。
208年、曹操が丞相になると、光禄大夫に昇進した。同年、郗慮は孔融の罪をでっち上げ、曹操はこれを利用して孔融を殺した。
213年、献帝は郗慮を使者として曹操を魏公に封じた。
214年、伏皇后の曹操暗殺計画が明らかになると、郗慮は持節として伏皇后の印綬を奪い、廃位した。
さらに、郗慮の副官の華歆が伏皇后を逮捕し、献帝の前に引きずり出したので、献帝は「郗公よ、こんなことがあってよいものか」と嘆いた。
郗慮は劉劭を取り立てようとしたが、まもなく罷免された。

親愛武将:荀彧、曹操、華歆
嫌悪武将:孔融

※孔融を嫌悪するのは203年頃からか。

和洽(陽士)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4144828671寡欲看破政令徹底王道

【カコウ(ヨウシ)】
後漢末から魏の政治家。汝南郡西平の人。
荊州の劉表の元に疎開し、礼遇されたが、暗愚と判断して武陵に居住した。
曹操が荊州を平定後、招聘された。
人事担当の崔琰毛玠を批判したが、後に毛玠が讒言にあった際、
曹操に事実関係の調査を強く依頼し、毛玠は免職で済まされた。
魏の建国後、王粲、杜襲と共に侍中となった。
漢中征伐時は漢中放棄策を提言したが、結局は進言通りとなった。
曹操没後も文帝明帝の下で高官に上ったが、生活は質素だったという。

楊俊(季才)

生年登場没年死因
222不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4841787073眼力寡欲地勢研究王道
4841817383眼力寡欲地勢研究王道

【ヨウシュン(キサイ)】
魏の政治家。
戦乱の世になると、郷里の河内が交通の要衝であることから戦場となることを予測し、
郷里の人々を避難させた。
司馬一族では司馬朗の名声が高かったが、司馬懿や司馬芝の才能を早くから認めた。
また、孤児で奴隷だった王象を見出した。
安陵令、南陽太守を務めるが、魏諷の反乱を察知できず責任を取って辞職した。
後継者争いで曹植についたため曹丕に恨まれた。
曹丕が帝位に就くと自殺を命じられ、賜死した。
曹丕に司馬懿と王象が顔から血を流すほど叩頭して助命を嘆願したが聞き入れられず、人々には冤罪として痛惜された。

王象(羲伯)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3947747370史官消沈太学王道

【オウショウ(ギハク)】
魏の政治家。
孤児で奴隷の身分にあったが、楊俊に才能を見出され、楊俊は主家から彼の身を買い取った。
曹丕に重用され、王粲・陳琳らの亡き後は一番の才能とされた。
散騎侍郎、常侍、秘書監を歴任し、曹丕撰の類書「皇覧」の編纂を行った。
曹丕の巡行に随行するが、宛の県令が曹丕の詔を誤解し城門を閉ざしていた。
これに怒った曹丕が南陽太守の楊俊の責任として捕縛したため、顔から流血するまで叩頭し助命を嘆願した。
しかし楊俊は死を賜り、救えなかった自責の念から王象も後を追うように病死した。

邴原(根矩)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
149806478学者太学王道

【ヘイゲン(コンク)】
後漢末の学者。魏の政治家。北海出身。
若い頃に州府から招聘されるが拒み、黄巾の乱が起きると遼東へ避難した。
遼東では同郷の劉政と勇略雄気を有する人物として名を上げる。
劉政が公孫度に殺されそうになると匿い、青州へ帰還する太史慈に劉政を託した。
管寧の勧めにより帰郷すると、教えを請う遊学の士が絶えなかったという。
その後、曹操に召し出され仕える。
曹沖の死と同時期に娘を亡くしており、曹操は合葬を望んだが断っている。
曹操の出征時には張範とともに留守を預かり、曹丕を補佐した。
曹操の呉征伐に従軍し、陣没した。

※「邴」の字は認識されないので、登録する場合は「丙」を代わりに用いる。
曹操が濡須方面に出陣した時に亡くなったとあるが、いつの出陣は不明。曹操存命中なので、217年までの死去

孔羨(子余)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1810625659学者名声太学2礼教

【コウセン(シヨ)】
後漢末・魏の政治家。宗聖侯。孔子21世の孫。孔讚の子で孔完の甥。
伯父・孔完に子が無く、孔子の本家を継いだ。
魏が成立すると、議郎となった。220年、曹丕が皇帝に即位すると、孔羨を宗聖侯に封じ、
孔子廟を再建して祀るよう命じた。この時の石碑が「孔羨碑」と呼ばれて現存する。

曹叡の代に司隷校尉となった。杜恕が廉昭の登用に反対した上奏文では、
「司隷校尉の孔羨が、大将軍の狂悖(非常識で不道徳)な弟(司馬通)を招聘した時に、
所轄の役人は沈黙していました。このような現実に即していない選挙(選抜)は、人事の大問題です」と非難されている。

※孔子の子孫としては孔融が有名だが向こうは分家で、本家なのは孔羨。
14世の孫である、前漢の孔福から枝分かれしていったという。
孔融とはかなりの遠縁になるが、後継者として登録するのもあり。

孔乂(元儁)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2317604049学者太学1礼教

【コウガイ(ゲンシュン)】
魏の政治家。魯国の人。孔子の子孫で、孔融とは別の分家。子は孔恂。
代々二千石(郡太守など)の職に就いた。
散騎常侍・諫議大夫となった。248年、曹芳に上奏して「『礼』によりますと、天子の宮殿を朱塗りにする規定はありません。
『礼』に従って復古すべきです。また、騎乗の練習を止めて、(天子の)車に乗られませ」と述べた。
のち大鴻臚にまでなった。

管寧(幼安)

生年登場没年死因
158173241自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
107825184学者沈着太学礼教

【カンネイ(ヨウアン)】
後漢末の学者。北海出身。管仲の末裔とされる。
容姿は八尺の長身で、髭と眉が美しかったという。
友人の華歆、邴原と共に遊学し、3人で「一龍」と称された。
公孫度が治める遼東に避難する。
曹操が招聘しようとしたが、公孫康はその命令を握り潰した。
曹丕が即位すると華歆の推挙により招聘される。
遼東から帰還すると、太中大夫に任じられたが受けなかった。
曹叡の代には、華歆が自らの官位(太尉)を譲ろうとしたがこれも固辞した。
陳寿には「高尚で落ち着きがあり、確固として動かなかった」と評されている。

※嫌悪武将に華歆を設定するのも有り(演義では華歆と絶交している)。

衛覬(伯儒)

生年登場没年死因
230自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3029768168法律振興地域振興覇道

【エイキ(ハクジュ)】
魏の政治家。衛瓘?の父。
曹操?により、袁紹?と結んだ劉表?を掣肘するため、劉璋?への出兵要請に派遣される。
しかし、益州への道が不通だったため長安?に留まり、長安の復興に尽力した。
関中の荒廃状況を荀彧?に上奏したが、曹操?鍾繇?の建議で張魯?征伐を優先したため
馬超?韓遂?の関中侵攻を招き、衛覬の上奏に従わなかったことを後悔した。
尚書、侍中を歴任し、王粲?と魏国の制度を定める。
後漢の侍郎となって曹丕?への禅譲に協力し、後に魏の尚書に復位した。
曹叡?の代には法の整備や、宮殿造営を減らして民の苦役を軽くするよう忠言を行った。

※演義では「衛凱(エイガイ)」の名で登場する。

何夔(叔龍)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7258767870論客策士慰撫地域巡回覇道

【カキ(シュクリュウ)】
後漢末から魏の政治家。何曾の父。
戦乱を避け揚州へ避難していたが、袁術?が揚州へ進出すると曹操?の下へ逃れて登用された。
属官の小さな罪に杖罰を加える曹操に対して、毒薬でもって牽制した。
その後、群太守をいくつか経験し、海賊の管承を説得し降伏させ、郭祖、従銭ら賊軍を平定した。
東牟の王営が反乱を起こした時、計略を用いて10ヶ月の内に鎮圧した。
曹丕?が立太子されると太子少傅となり、涼茂と共に仕えた。

親愛武将:毛玠
嫌悪武将:丁儀

顔斐(文林)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3924728684文化振興農政慰撫地域振興王道

【ガンピ(ブンリン)】
後漢末から魏の政治家。済北の人。顔回の末裔で顔良?は同族。
才能・学識があり、曹操?に登用されて太子洗馬となった。その後、黄門侍郎となり、転じて京兆太守となった。
京兆では根気よく農業殖産・学問の奨励につとめ、京兆の豊かさは常に雍州一であったという。
諸葛亮?の北伐に備えて長安付近に滞陣していた司馬懿?の兵が略奪を行っていることを司馬懿に直言し、厳しく兵を統率させた。
平原太守へ転任する時、顔斐を慕う民衆が彼の車を遮って進めないほどであった。
顔斐が病没すると京兆の民は皆涙を流し、彼を讃える碑を建てた。

楊沛 (孔渠)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6864708277運搬調達農政法律寡欲運搬開発王道

【ヨウハイ(コウキョ)】
後漢末から魏の政治家。
新鄭県長の頃、曹操?が献帝を奉戴する途中で食糧が尽きたが、新鄭の備蓄の食糧を献上して窮地を救った。
長社県令に昇進して法律を無視した曹洪?の食客の脚を叩き折って殺してしまうが、
曹操に一目置かれて九江・東平・楽安の太守を歴任し、のちに鄴県令に任命された。
馬超?の反乱に対し、征伐軍に従軍して孟津の渡河を指揮した。
その後張既?の後任として京兆尹を任じられるが、曹丕?の代から儒学重視の起用になり、冷遇された。
引退後、家には余財は無く、死後は同郷者や友人、以前の部下や民が葬儀を執り行ったという。

※親愛武将…曹操

杜恕(務伯)

生年登場没年死因
197211252自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
138627170

【トジョ(ムハク)】
中国三国時代の政治家。魏に仕えた。父は杜畿。弟は杜理・杜寛。子は杜預。
曹叡(明帝)の時代である太和年間に散騎黄門侍郎となった。趙の国相に転任した後、病気で官を離れた。
後に河東太守に採り立てられ、1年ほどで淮北都督護軍となったが再び病気となり官を離れた後、
御史中丞に任命されたが、その後は何回か地方の任務に就いた。
その際に幽州刺史となり、建威将軍・使持節護烏桓校尉に任命された。
尚書になっていた袁侃は、薊に駐屯している程喜は讒言で陥れるような人物だと忠告したが、杜恕は気に留めなかった。
嘉平元年(249年)、鮮卑族の子息が法令に違反したため、杜恕はそれを斬ったが、報告書を提出しなかった。
これを理由に程喜は、弾劾しないことを条件として、自分に迎合するよう促してきたが、杜恕はそれを聞かなかった結果、
廷尉の元に送られ一時死罪となったが、父の功績に免じて死一等を減じられ平民となり、章武郡に移された。
その後、杜恕は配所で8節の『体論』と1篇の『興性論』という書を残し、嘉平4年(252年)にそこで亡くなった。
※コーエーに嫌われているのか、1~14通して毎回未登場。そのため、杜畿と杜預の間がすっぽ抜けていることに。

親愛武将:劉毅、袁侃、李豊(魏)
嫌悪武将:司馬通、孔羨

程喜(申伯)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
534377615言毒悪名

【テイキ(シンハク)】
中国三国時代の政治家。魏に仕えた。
曹叡の時代に青州刺史、曹芳の時代に征北将軍となった。
後漢時代から続く印章鑑定法の会得者ではあったが、当時から袁侃にも讒言で陥れるような人物と評されていたほど。
なお、彼の讒言によって田豫は功績を認められず、杜恕は一度は死刑になりかけたが、結局庶人に落とされ流刑の身となっている。
『杜氏新書』によると、程喜は杜恕を屈服させようと、司馬の宋権にそれとなく意向を伝えさせた。
杜恕が返書でこれを拒絶すると、程喜は逆恨みして杜恕を弾劾したという。

一方で、隠者の管寧が曹叡の招聘を拒んだ時は、管寧のために弁護している。
また、朱建平に将来を占ってもらった一人でもあるが、彼については予言は外れたという。

親愛武将:管寧
嫌悪武将:田豫、杜恕

董遇(季直)

生年登場没年死因
194自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1321805669学者

【トウグウ(キチョク)】
後漢・魏の儒学者・政治家。
朴訥で口数が少なく、学問を好んだ。後漢の興平年間(194年-195年)、兄とともに戦乱を避けて段煨?の元に身を寄せた。
196年頃、孝廉に推挙され、黄門侍郎となった。献帝の侍講となり、親愛された。
218年、金禕?・吉穆らの反乱への関与を疑われ、連座して左遷された。
ある時、曹操?が西へ出陣し、弘農王(少帝)の墓所を通りがかった際、皇帝廟としての拝礼が必要か判断に迷い、
周囲の者に問うたが応えられなかった。そこで董遇は進み出て、1年持たずに董卓?に廃位された弘農王は即位したとはいえず、
拝礼の必要は無いと述べた。曹操は結局、拝礼せずに済ませた。
曹丕?が魏皇帝となると、外地に出され山陽郡太守(魏で山陽公となった献帝・劉協の領地)となった。鍾繇?の「薦季直表」によると、
董遇は程なく太守を辞職しており、許昌で困窮していた。その上で、上表では董遇の登用を進言した。曹叡?の代に中央に呼び戻され、侍中、大司農を歴任した。
学問では『老子』『春秋左氏伝』の注釈を著した。弟子の教育は、積極的な講義は行わず「読書百遍義自ずから見る」
(どのような難しい書物でも繰り返し読めば、自ずと意味が理解出来るようになる)が方針だった。また、学問をする為の余暇を指す
「三余(冬は一年の余り、夜は一日の余り、長雨は時の余り。この3つを三余という)」も董遇の言葉である。
しかし董遇の方針に従う弟子は少なく、彼の学問は後世に伝わらず、ただ故事成語が残った。

※曹叡の時代の死去か。
親愛武将:献帝(劉協)、鍾繇

孟康(公休)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2615657474農政寡欲学者

【モウコウ(コウキュウ)】
魏の政治家・儒学者。安平郡の人。
妻が文徳郭皇后?の姉妹であったことから、散騎侍郎となった。
散騎侍郎は才能か儒学の学識を評価された者ばかりで、九親のコネで取り立てられた孟康は軽蔑されていた。
しかし、閑職であることを幸いに勉学に励んだ。ある事柄を批判した時、彼の文章が雅やかで要点を押さえていた事から、改めて評価された。
正始年間(240-249)、杜恕の後任の弘農太守となり、典農校尉を兼任した。その統治は寛容で、役人にも適度に休暇を与え、
私腹を肥やすことも、決裁が遅れることも無かったので、住民は歌に詠んで讃えた。嘉平年間(249-254)に渤海太守となり、
その後司馬師?によって中央に戻って中書令、中書監を歴任したが、病により辞職した。
著書『漢書音義』。

※『晋書』に、呉平定後の王濬?への待遇が軽すぎると批判した論者の中に、太子洗馬の孟康が見える。
同一人物なら、少なくとも280年までは生きていたことになるが、年齢的に百歳近い計算になるので別人だろうか。
しかし、明の余寅、清の銭大昕などは同一人物説を支持している。

王弼(輔嗣)

生年登場没年死因
226249自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
126844564学者論客占術高慢虚弱太学礼教

【オウヒツ(ホシ)】
魏の政治家・学者。山陽郡の人。祖母は劉表の娘。
幼い頃から頭脳明晰で、十数歳で『老子』を好んで雄弁であったために何晏らに高く評価されて鍾会に匹敵するとされた。
また、鍾会とは仲が良く、王弼の論の高邁さを評価された。
後に曹爽に推挙されて尚書郎に任じられるが、道家のことしか語らなかったために評価されなかった。
司馬懿のクーデターで曹爽・何晏が処刑されると、王弼もその一派と見なされて免官され、間もなく24歳の若さで亡くなった。
何晏と並ぶ玄学の祖とされ、『老子』や『周易』の注釈は今日まで伝えられる。

親愛武将:何晏・鍾会

※24歳の若さで亡くなっている上に、逸話からすると最高レベルの才能は持っていたかも知れないが、実務的には微妙で、長生きしたとしても(西晋末期の)王衍と似たような評価にしかならなさそうなので、その小型版みたいな評価に。魅力が低く「高慢」が付いているのは道家の説については自信家で他人を見下して恨みを買っていたという逸話があるそうなので。

許允(士宗)

生年登場没年死因
254不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4844236462動転

【キョイン(シソウ)】
魏の政治家・将軍。冀州高陽郡の人。許據の子。妻は阮共の娘。
若い頃、職務上の罪で逮捕され、死刑は免れない罪状だった。許允は、名門の袁侃に頼んで主犯の罪を被ってもらい、二人とも死刑は免れた。
高平陵の変では司馬懿?の使者として、陳泰?と共に曹爽?に降伏を勧めた。
許允は夏侯玄?李豊?と親しかった。司馬懿が死ぬと、夏侯玄に「もう心配要りませんね」といった。
すると夏侯玄は、「卿はなんて見通しが利かないんだ。あの人はそれでも先代以来の付き合いのある家の後輩として扱ってくれたが、
子元?子上?は私に容赦しないだろう」。李豊らが夏侯玄・曹芳?を担いで司馬師の排斥を企てると、許允も誘われた。
李豊らが逮捕されたと聞くと、許允は司馬師に通報しようとしたが、決心が付かなかったので、司馬師に態度を怪しまれた。
司馬師は李豊・夏侯玄らを殺し、曹芳を廃立した。許允は鎮北将軍に任命されたが、赴任する前に横領の罪で逮捕され、楽浪郡に流される途中で司馬師に殺された。

親愛武将:夏侯玄、李豊(魏)、桓範?、阮氏

劉陶(季冶)

生年登場没年死因
255不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1211763647論客軽率

【リュウトウ(キヤ)】
魏の政治家。劉曄?の末っ子。
才能はあるが軽薄だった。縦横の策を好んで議論し、王弼を言い負かした。
傅玄『傅子』によると、曹爽?の元で選部郎となり、曹爽側近の鄧颺は「伊尹や呂尚のようだ」と称賛した。
司馬家に近い傅玄とは不仲で、曹爽が羽振りを利かせていた時は威張っていたが、曹爽が失脚すると謝って来たという。
干宝『晋紀』によると、毌丘倹?が反乱を起こすと、司馬師?に方策を問われたが、
劉陶はあいまいな態度を取った。司馬師は劉陶を叱責して平原太守に左遷し、追って彼を殺した。

孫宏

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3834526044

【ソンコウ】
魏の官僚。
孫資?の子。孫楚の父。
父の没後、爵位を継ぐ。魏の南陽太守となった。

劉廙(恭嗣)

生年登場没年死因
180221自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3624687375諫止能吏文化法律

【リュウヨク(キョウシ)】
魏の政治家。
兄の劉望之が劉表?の従事で身を寄せていたが、
劉望之の直言が劉表に疎まれ殺害されたため、揚州に逃げ、その後曹操?に投じた。
丞相掾となり、後に曹丕?のもとに転任して曹丕の信任を得る。
曹操が漢中へ親征しようとすると、「周の文王のような徳を積むべき」と諌めたが聞き入られなかった。
魏諷?の反乱に弟の劉偉が加わったため連座の罪に問われたが、陳羣?が減刑を願い出て不問に付された。
曹丕が即位すると侍中となり関内侯を賜ったが、間もなく没した。
数十篇の著書があり、丁儀?と刑や礼について論じ合ったと記録されている。

皇甫隆

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6433658180屯田農政節約慈悲治療歳出改善王道

【コウホリュウ】
魏の官僚。安定郡の人。恐らく皇甫嵩?と同族。
曹芳?の代、嘉平年間(249-254)に敦煌太守となる。
当地では田作りの知識が少なく、灌漑は不効率で種まき器も無かった。
皇甫隆は最新鋭の農具や灌漑技術を持ち込み、労力を半分に抑え収穫を5倍に増やした。
また習俗で婦人の袴の裾が非常に長く一着で綿布一匹を使用していたため、
それを禁止させたところ節約された費用は計り知れなかった。
人々は、剛毅で決断力に富む点では倉慈?に及ばないが、
勤勉で愛情と恩恵があり、下民のために利益をもたらしたことでは倉慈に次ぐと皇甫隆を評価した。

道教の『歴世真仙體道通鑑』によると、曹操?の時代、道士の劉京に長生きの薬を教わり、300年の寿命を得た。
また『養生論言』によると、皇甫隆が百歳を超えても若々しいので、曹操に養生法を質問されたという。

時苗(徳冑)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3558696667名声輿望癇癪斉射火矢雁行強化礼教

【ジビョウ(トクチュウ)】
魏の官僚。
若い頃から清廉で悪を許さない性格で、建安年間に丞相府の官吏となる。
九品官人法が制定されると故郷である冀州鉅鹿郡の人物鑑定を担当するが寛大ではなく、過去の欠点も容赦なく取り上げたとされる。
寿春?の県令を務めていた頃、蒋済?が泥酔しているときに彼の家を訪問したところ門前払いされるとこれを怨み、
「酒徒蒋済(酔いどれ蒋済の意)」と書いた人形を射抜くのを日課とするようになった。州郡ではあまりに不謹慎だと
批判が上がったが、日頃の行いが人一倍評価されていたため、咎められることは無かった。
蒋済は彼の振るまいを嫌うことは無かったが、時苗もまた蒋済に屈しなかった。
のち典農中郎将に昇進した。正始年間(240-249)、70余歳で死去した。

嫌悪武将:蒋済

王儀(朱表)

生年登場没年死因
252不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4619753738看破直情

【オウギ(シュヒョウ)】
魏の武将。城陽郡營陵県の人。王脩?の子。子に中国「二十四孝」で知られる王裒。
252年、呉の諸葛恪?との戦い(東興の戦い)に従軍した。
司馬昭が早く進軍するように命じると、司馬の王儀は「呉賊は必ず伏兵を仕掛けて来ます。進んではなりません」
と諫めたが、司馬昭は聞き入れず、果たして魏軍は敗北した。
戦後、王儀は「今日の敗戦は、誰が咎を受けるべきでしょうか」と責任追及しようとしたので、
司馬昭は「司馬は私に罪があるというのか!」と怒り、王儀を殺してしまった。

鄭小同(子真)

生年登場没年死因
194?259?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
522667379学者

【テイショウドウ(シシン)】
魏の政治家。鄭益の遺腹の子。鄭玄の孫。
父を黄巾残党の管亥?によって失い、丁卯の日に生まれた。祖父は丁卯の年(127年)生まれで、
手相がよく似ていたので、小同と名付けられた。
曹丕が魏皇帝に即位すると、華歆?は鄭小同を取り立てるよう上奏した。
「祖父の鄭玄は儒宗であり、先賢を顕彰するため子孫の鄭小同を郎中に取り立てるべきです。
鄭小同は30歳ですが、六経を学び、郷里で名声があります。誠実な気性で、家族を大切にし、目先の名声に拘りません」。
こうして魏に仕えた。司馬師が曹芳を廃立した際の上奏文に、侍中の鄭小同も名を連ねている。
曹髦が即位すると、鄭沖と共に『尚書(書経)』の講義を行った。258年、周の三老・五更の故事に従い、
王祥?が三老、鄭小同が五更に任じられた。その後まもなく急死した。
『魏氏春秋』によると、司馬昭の家を訪問した時、司馬昭は密書を書いていた。
司馬昭は封緘せずに厠に行き、鄭小同に聞いた、「卿は私の手紙を見たか?」「いいえ」。
司馬昭はなおも疑い、鄭小同を毒殺した。

親愛武将:鄭玄、曹髦

満偉(公衡)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4646616058

【マンイ(コウコウ)】
魏の政治家。山陽郡昌邑県の人。満寵?の子。子に満長武。弟に満炳、妹に司馬榦夫人がいる。
父同様、身長八尺あった。昌邑侯の爵位を継ぎ、衛尉に昇進した。
257年、諸葛誕?の反乱が起きると、司馬昭に従って許昌まで従軍したが、病を理由に許昌に留まり、参戦しなかった。
260年、子の満長武が司馬昭に殺されると、連座して庶人に落とされた。

満長武

生年登場没年死因
260不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5160484663

【マンチョウブ】
魏の政治家。満偉の子、満寵の孫。
『世語』によると、やはり身長八尺あり、祖父の風格があった。24歳の時、司馬昭に仕えた。
諸葛誕の反乱に際しては、父の看病を理由に従軍しなかった。
260年、曹髦が司馬昭を討とうとした時(高貴郷公の変)、満長武は掾として閶闔の掖門を守っていた。
司馬昭の弟の司馬榦が通ろうとしたが、「この門は公(司馬昭)の住まいに近く、入る者もおりません。東掖門にお回り下さい」といって通さなかった。
参軍の王羨もまた、満長武に通行を阻まれた。曹髦の死後、王羨は司馬昭の周囲に、満長武を処罰するよう主張した。
司馬昭は、満長武を杖打ちの刑で殺した。

武周(伯南)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4031637376法律慰撫地域巡回3王道

【ブシュウ(ハクナン)】
魏の政治家・武将。豫州沛国竹邑県の人。子に武陔・武韶・武茂と女子一人。
下邳県令の時、徐州刺史・臧覇は武周に敬意を払い、自ら訪問したことがあった。
徐州の部従事に不法行為があり、武周は直ちに逮捕して取り調べた。臧覇はますます武周を評価した。
のち張遼将軍の護軍となった。ある時、張遼と仲違いしたので、
張遼は揚州刺史・温恢に、護軍を胡質と差し替えて欲しいと申請した。
胡質が病気を理由に断ると、張遼は自ら胡質の元に出かけて護軍になってくれるよう頼んだ。
胡質、「武伯南は上品な人物で、以前は将軍は包み隠さず讃えていたのに、今はガンを飛ばされた程度の些細なことで
仲違いしています。まして私のような才能の無い者が、どうして好誼を全うできましょう」。張遼は胡質の言に感じ入り、武周と和解した。
武周は光禄大夫にまで昇進した。

杜虁(公良)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3317743651楽奏文化直情本草学2王道

【トキ(コウリョウ)】
後漢・魏の雅楽家。河南郡の人。
後漢で雅楽郎となるが、188年、病のため辞職した。戦乱を避け荊州に移住し、劉表に仕えた。
劉表は、杜虁と孟曜の腕前を聞き、漢の雅楽演奏を所望したが、「天子が宮中で聴くための曲です」と反対し、劉表は諦めた。
劉琮が曹操に降伏するとこれに仕えた。
杜虁は音階やリズムに優れ、どのような曲でも演奏できた。しかし歌と踊りは不得手だった。
また、鐘職人の柴玉に音律(音階)を示す銅鐘を作らせた。しかし、音律に狂いがあるとして作り直しを命じたので、
柴玉は曹操に、杜虁の音感のほうがデタラメだと訴えた。曹操が銅鐘を用意して二人を試したところ、
杜虁が正しいことが分かったので、柴玉は解任され、馬飼いの職に左遷された。
曹丕が皇帝に即位すると太楽令となった。曹丕は賓客を演奏でもてなすことを好んだ。
ある宴席で、曹丕はお気に入りの左𩥄と共に、杜虁に演奏を命じた。しかし杜虁は、朝廷の雅楽家として誇りを持っていたので、
非公式の宴席での合奏に難色を示した。曹丕は不快に思い、別件にかこつけて杜虁を免職とし、まもなく死去した。

※『三國志』杜虁伝が、「難色」の語の出典。柴玉は曹丕のお気に入りでもあり、その点でも杜虁は恨まれていた。

邢顒(子昂)

生年登場没年死因
223自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5638707874振興文化虚弱地域振興4王道

【ケイギョウ(シコウ)】
魏の官僚。
孝廉に推挙され、三公から招聘を受けたが応じなかった。
戦乱が起きると姓名を変えて田疇の元に身を寄せた。
曹操が冀州を支配するようになると、曹操が天下を平和に導くことを確信し身を寄せた。
徳の高い振る舞いと優れた政治手腕で知られ、民からも曹操からも信頼を得た。
曹操が太子を決める時、長子である曹丕を立てるべきと暗に促した。

在野

胡昭(孔明)

生年登場没年死因
162250自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2920756481文化輿望

【コショウ(コウメイ)】
後漢・魏の隠者、書家。潁川郡の人。
鍾繇?と共に書家の劉徳升の弟子となり、胡昭は隷書に優れ、豪放と評価された。
後漢末の戦乱を避けて冀州に避難した。袁紹に招聘されると、応じずに郷里に戻った。
胡昭は仕官前の司馬懿?と親交があった。ある時、同郷の周生らが司馬懿の殺害を企てた。
胡昭はこれを知ると泣いて周生を説得し、思いとどまらせた。胡昭は自分からは口外しなかったが、しかしこの話は有名だった。
曹操が後漢の司空・丞相となると招聘されるが、これも断った。曹操は「人にはそれぞれの志がある」と胡昭を許した。
胡昭は弘農郡陸渾県に移住し、晴耕雨読の日々を送り、郷里の人びとに敬愛された。
218年、陸渾で漢中?への徴兵に反発した孫狼らが反乱を起こした。荊州にいた関羽?は孫狼に印綬と武器を送り、
周囲を荒らし回させたが、孫狼は胡昭の住む長楽亭には手を付けなかった。
関羽が敗死すると宜陽に移住した。魏の正始年間(240-249)、趙儼?荀顗?鍾毓?らが次々に胡昭を推薦した。
250年、公車(皇帝の公用車)で招聘されたが、まもなく死去した。

親愛武将:鍾繇、司馬懿

※史料は無いが、司馬昭?の名は胡昭にあやかったのでは? という考察がある。

焦先(孝然)

生年登場没年死因
170?258?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
23467973頑健
23464973頑健

【ショウセン(コウゼン)】
後漢・魏の隠者。河東郡の人。
『魏略』によると、中平の末年(189年頃)、白波賊を避けて侯武陽とともに揚州に避難し、現地で結婚した。
建安の始め(196年頃)、西の大陽郡に戻ったが、再び戦乱に巻き込まれ、家族を失った。
焦先は河川敷で素っ裸の生活を始めた。県長は逃亡兵と判断して逮捕したが、侯武陽が
「この人は狂ってしまったのです」と弁護したため釈放され、食料を支給されるようになった。
疫病で死者が多数出ると、県では焦先に遺体を埋葬させた。焦先は子供にも軽侮されていたが、常に大通りの真ん中を歩いた。
カタツムリのような庵に住み、腹を空かせると日雇い仕事をして、食事だけして賃金は受け取らなかった。
252年、魏の呉征討を質問され、意味のよく分からない歌を歌った。魏が東興の戦いで敗れると、敗戦を予言した歌と取り沙汰された。
89歳で死去した。
皇甫謐『高士伝』によると、漢室が衰微すると口数が少なくなり、魏が受禅すると一言もしゃべらなくなった。
司馬師が彼の噂を聞き、安定太守・董経に他事にかこつけて訪問させたが、やはり話をしなかった。董経は、焦先を大賢者と讃えた。
こちらでは100歳まで生きたとしている。

孫炎(叔然)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1416736068学者太学3礼教
1113787173学者太学3礼教

【ソンエン(シュクゼン)】
魏の在野の儒学者。楽安郡の人。
鄭玄の弟子となり、東州の大儒と評判だった。魏で秘書監に誘われたが、任官しなかった。
王粛が『聖証論』で鄭玄説を批判すると、孫炎は反論した。
著書は発音辞典の『爾雅音義』を始め、『周易』『春秋例』『毛詩』『礼記』
『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『国語』『爾雅』などの注釈書がある。
『爾雅音義』は、漢字の字音を示す「反切」の初期の採用例であるという。

親愛武将:鄭玄

※正史『三國志』では司馬炎の名を避けて「孫叔然」表記。
反切の起源は、後漢末の服虔あるいは応劭であるという。