型録 | ||||
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File not found: "真剣少女/" at page "村雲ごう(魁)"[添付] | 村雲ごう(むらくも-) | 希少度 ★★ | ||
分類 | ||||
属性 | 木 | 間合い | ||
種類 | 打刀 | |||
奥義 | ||||
奥義名 | 白雲屏風(しらくもびょうぶ) | |||
効果 | エリア内味方:ダメージ半減 | |||
公式説明 | ||||
寡黙でマイペースな真剣少女。帰属意識が高い割に空気の読めなさと独特な感性が災いして周囲から若干浮き気味だが、本人は満足している模様。 確かな拠り所を作ろうとする心に惹かれた「村雲江」と縁を結ぶ。 | ||||
加入時コメント | ||||
わたし……気分転換にこっちにきた…………村雲ごう……よろしく |
読み込み完了 | |
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ログイン | あ……来た |
ログインボーナス | |
お知らせ | 何か……来てる…… |
詳細 | わたしの秘密 |
戦績(リーダー) | これが……戦績 |
屋敷 | いつもシカトしてるわけじゃない、考え事をしていただけ |
ふわふわしているものは好き、もふもふも好き | |
べたべたするのは嫌い | |
屋敷(好感度高) | (反転)&color(foreground[,background]){text}; |
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(反転)&color(foreground[,background]){text}; | |
屋敷(好感度低) | (反転)&color(foreground[,background]){text}; |
(反転)&color(foreground[,background]){text}; | |
任務開始 | |
任務完了 | |
討伐開始(易) | |
討伐開始(普) | |
討伐開始(難) | |
エリア移動 | |
攻撃 | |
攻撃(ミス) | |
攻撃(クリティカル) | |
負傷 | |
回避・無敵 | |
敗北寸前 | |
敗北 | |
気合い1 | |
気合い2 | |
気合い3 | |
気合い4 | |
気合い5 | |
休憩 | |
奥義 | |
勝利 | |
離脱 | |
首級 | |
屋敷へ(勝利後) | |
屋敷へ(離脱後) | |
研磨(斬れ味良) | |
研磨(斬れ味普) | |
研磨(斬れ味悪) | |
布陣配置 | りょーかい |
リーダー任命 | 役に立つ……約束 |
試斬・学舎開始 | |
試斬・学舎成功 | |
学舎失敗 | |
奥義習得 | |
奉納 | |
奉納成功 | |
ボイス音量調整 | 羊が一匹……羊が二匹……羊が三匹……羊が四匹……羊が五匹……羊が六匹……羊が七匹……羊が八匹……羊が九匹……羊が十匹…… |
放置1 | |
放置2 | |
放置3 | |
装備 | 満足、感謝する |
真剣少女について
- 2020年3月12日のメンテナンスで転入。
刀談
この刀は南北朝時代に活躍した「郷義弘」の作品、村雲江。郷義弘は正宗十哲の一人とされ、村正、吉光とともに名物三作として有名。
でも、郷義弘と銘があるものは存在しないので、「郷とお化けは見たことがない」なんて言われた。
豊臣秀吉がこの刀を見て「叢雲のようだ」といったことから村雲江と名付けられたそう。叢雲というのは「ひつじ雲」や「まだら雲」とも呼ばれる高積雲や層積雲のこと。雲の一種。どのような雲なのかは天気に詳しい人に聞いて。
江戸幕府の記録「徳川実紀」によれば、元禄15年、西暦1702年4月26日に将軍、徳川綱吉が加賀の前田綱紀の江戸屋敷に出かけた際、綱紀が村雲江と会津新藤五を献上したと伝えている。
村雲江は現在残る「享保名物帖」には記載されていない。「享保名物帖」というのは徳川吉宗が木阿弥一族に作らせた名刀一覧のこと。
でも、載ってなくても名物はたくさんある。村雲江は帖外の名物として木阿弥家の元帳にあったけど、それも昭和二十年の戦災で焼失した。
残念…。
刀の正式名称
刀
無銘 伝義弘
名物 村雲江(むらくもごう)
逸話
正宗十哲の一人、郷義弘は相州正宗、粟田口吉光とともに名物三作として有名な刀工ですが、義弘と銘を打った刀は皆無であるため「郷とお化けは見たことがない」と言われるほど。
この刀を見た秀吉が、刀文と地の境目に浮かぶ白い筋(沸)を評して「まるで湧き出る雲(群雲・叢雲)のようだ」と言ったことから、そう名づけられたとされている。
作風
越中松倉の刀工・郷義弘の作とされる。
刃の長さは諸説あるが約二尺二寸二~五分(約67~8cm)。
歴史
秀吉から前田家に伝わるが、元禄十五年(1702年)四月二十六日、将軍徳川綱吉が江戸の前田家屋敷を訪れた際、綱吉に献上される。
その後柳沢家に伝わったが、明治4年に売りに出され諸氏の手を渡り、昭和9年に重要美術品指定。現在も個人所蔵。