T-10M

Last-modified: 2024-06-17 (月) 00:30:17

ソ連 RankVII 重戦車 T-10M

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手前は改修型のT-10M。奥が改修前のT-10A。武装や装飾品等が異なる。

概要

T-54 1951年型と置き換わる形*1で追加されたソ連最後の重戦車。T-10Aの近代化改修型でありT-10シリーズの最多量産型にして世界最後の重戦車。

車両情報(v2.25.0)

車両性能

項目数値
砲塔旋回速度(°/s)27.2
俯角/仰角(°)-4/15
リロード速度(秒)
15.0
スタビライザー/維持速度(km/h)二軸 / 54
車体装甲厚
(前/側/後)(mm)
120 / 80 / 60
砲塔装甲厚
(前/側/後)(mm)
250 / 157 / 102
重量(t)50.0
エンジン出力(hp)1,431
2,100rpm
最高速度(km/h)54
実測前進~後退速度(km/h)*** ~ -***
視界(%)92
乗員数(人)4

武装

名称搭載数搭載弾薬数
主砲122mm M-62-T2S cannon130
機銃14.5 mm KPVT machine gun2750

弾薬*2

名称砲弾名弾種弾頭
重量
(kg)
爆薬量
(g)
初速
(m/s)
貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
122 mm
M-62-T2S
BR-472APCBC25.1184.8950295292275256239222
3BM-11APDS4.5-1,620408404385362341321
3BK-9HETAFS18.42120920400
OF-472HE27.2300086535

装備

設置場所装備名説明
車体発煙弾投下機車体後方に煙幕を張る
主砲二軸スタビライザー移動中の砲の垂直と水平方向への揺れを軽減

小隊ツリー

前車両IS-6
次車両Object 906

解説

ランクⅦの車両としてはかなり上位に位置する車両であり、
重戦車としての火力、装甲、機動力のバランスが取れた強車両。

特徴

 

【火力】
IS-2からT-10Aまでお世話になった122mm D-25T砲から変わり、多孔式マズルブレーキを持つ発展型の122mm M-62-T2砲になっている。この砲は55口径と非常に長砲身で、APCBCは最大貫徹力295mmと非常に高い貫通力を誇る。その他に貫徹力408mmのAPDSや、全距離貫徹力が400mmにも達する大威力のHEATFSを使用することが出来る。またHEの威力がそこそこ高い。装填速度は装填補助トレイが装備されたためか、今までの122mm砲より5.8秒速い15.0秒で装填する事が出来る。俯角は-4°とISシリーズより-1°深く取れるが、それでも不便さは残っているので、あまり無茶はしないようにしよう。
T-10Aでは中速域までしか機能しなかった一軸スタビライザーが本車では最高速度まで機能する二軸スタビライザーになった為、移動中でも安定した射撃が可能となった。

IS-2 1944年型からお世話になった12.7mm DShKから口径を大きくした14.5mm KPVTを2挺を装備している。1挺は同軸機関銃なので、浅い角度でないと2門同時に撃てないが、機関銃としては非常に強力であり、軽装甲目標や相手車両のモジュール破壊や対空戦闘等を容易にこなす事ができ、主砲装填時の隙を補う事が出来る。

 

【防御】
ソ連戦車らしい傾斜装甲をふんだんに使った車体で、非常に高い防護力を誇るがIS-4Mにはいくらか劣っている。それでもバイアスを身にまといすぎて、1部プレイヤーから嫌いな戦車や強すぎるときて長所が原因で忌み嫌われ憎しまれている戦車である。
車体上面と砲塔はHEATFSもある程度弾くほどに厚い実装甲を誇るが、下部はティーガーII(H)の車体上面とさして変わらない厚さ。ドイツの12.8cm砲やアメリカの120mm相手だと通常弾で抜かれる可能性があるので、これらの敵と相対する時は慎重に行動しよう。
車体上部の側面は80mmの64°傾斜+4mmの50°で実質装甲厚は236mmにもなり、マウスの最大貫徹力312mmの12.8/8.8 PzGr.TS(APCBC)すら弾く事がある。
下部以外に関しては同格以上にはAPFSDSやミサイル搭載車両が居るため砲塔以外は正面から悠々貫徹されてしまうだろう。
また俯角が-4°と少ないことから、稜線を介しての戦闘では斜面を登ることになるだろう。この際車体下部の傾斜が相殺されてしまうので、格下にも撃破されかねない。なのであまり稜線を介した戦闘は得意ではない。逆にハルダウンが出来るような遮蔽物がある場合は、全車両で屈指の装甲を誇る砲塔装甲を充分に生かした戦闘ができるだろう
車内のレイアウトは、例にもれず劣悪である。車体下部を抜かれると砲塔までに遮るものがなく、100mm以上の砲弾が貫徹するとまず撃破されてしまう。そうでなくても重大な損害を負うので、貫通されない立ち回りをしよう。

弾薬ラックの配置
Ammoracks_T-10M.png
配置弾薬満載123456789101112
残弾数30発27発(-3)24発(-6)20発(-10)17発(-13)14発(-16)11発(-19)10発(-20)9発(-21)7発(-23)5発(-25)3発(-27)1発(-29)

一時弾薬庫は砲塔後部に6発、装填済みの1発の計7発となっている。7発撃ち切った場合、次弾装填速度が本車の装填速度の15.0秒+一時弾薬庫の再補充の7.0秒で合計22.0秒となる。

 

【機動性】
IS-4Mと同系列エンジン*3を搭載しながら重量は10tも軽量化されたので、中戦車にも劣らぬ機動力を有する。

 

史実

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1948年末、ソ連軍機甲総局(GBTU)はIS-3、IS-4の後継となる新型重戦車についての指針を発令した。
その第一の要請は、戦闘重量が50tを超過しないことであった。
この要請を受けたチェリャビンスク・キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)は1949年2月からZh.Ya.コーチン技師の主導の下、新たな重戦車プラン「IS-5」(開発番号オブイェークト730)の企画の進行を開始した。
しかし今回のプランの具現化にあたってはコーチンは大胆な新機軸の採用を試みることは無く、登場時に「理想の重戦車」と将星たちから称賛されたIS-3重戦車をベースに、その間の試作戦車などで採用を図った新機構のエッセンスを少しずつ採り入れるような設計を行った。
まず機動性能面の改善についてはIS-4重戦車の経験を活かし、V-12 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力700hp)の改良型を搭載することとし、そのために車体長を同様に延長して片側7個の転輪が配置された。
一方、ラジエイターへの冷却送風機構としてエンジン排気のエネルギーを駆動させるブースターを新機軸として採用し、エンジン出力の費消と重量の増大を防いだ。
これが機構面で意外な成功を収め、良好な機動性能(最初の試作車で路上最大速度43km/h)を得ることができた。
車体の基本デザインは避弾経始の極致として世界を驚かせたIS-3重戦車のものをほぼそのまま踏襲し、足周りは履帯、転輪や起動輪などを含め全体をIS-4重戦車から継承した。
また武装も122mm戦車砲と12.7mm重機関銃の組み合わせで、これもIS-4重戦車のスタイルを踏襲したものであったが122mm戦車砲はやや改良したタイプ(D-25TA)で、装甲貫徹力が従来のBR-471B APCBC(風帽付被帽徹甲弾)よりも高いBR-472 APCBCを採用していた。

チェリャビンスク・キーロフ工場では1949年中にIS-5重戦車の増加試作車を10両製作し、1950年5月にはクビンカの装甲・戦車技術開発研究所(NIIBT)の試験場において国家試験が実施され、これを経てIS-5重戦車の量産入りが決定された。
しかし、実際の量産開始はそれからさらにずれ込むこととなった。

というのは本車に搭載される予定のV-12-5 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジンについて、実用上も生産設備の整備上も問題があると指摘され(本エンジンの生産と供給は他の戦車生産との兼ね合いからトルクメン共和国のマールィ市に建設された工場が担当することになっていたが、技術基盤の面で困難に直面したようである)、エンジンの安定供給の目処がなかなか立たなかったのである。
この状況は1952年12月まで続き、その間コーチン技師らは作業停滞の責任を被らされるのを避けるためIS-9、IS-10などの新たな重戦車プランの策定を行っていたようである。
また「IS-5」という名称を与えられた戦車がすでに2種類存在したことから、これらとの混同を避けるために番号の整理が行われ、オブイェークト730には新たに「IS-8」という名称が与えられることになった。
そうした間に、全ての事情を激変させる状況の変化が生じた。
1953年3月5日、ロシアの歴史上稀代の独裁者であったI.V.スターリン共産党書記長が死去したのである。
スターリンの死後、ソ連共産党・政府指導部内では急速に非スターリン化の流れが広まり、スターリンの寵児であったG.M.マレンコフからわずか9日で共産党書記長の座を奪取した改革者N.S.フルシチョフが、1956年のソ連共産党第20回党大会で歴史的なスターリン批判報告を行うに至った。
このような非スターリン化の流れを受けて、スターリン重戦車の最新型「IS-8重戦車」として制式化される予定であったオブイェークト730は、1953年11月28日に「T-10重戦車」としてソ連軍に制式採用されることが決まった。
T-10重戦車の生産は、チェリャビンスク・キーロフ工場で1953年末には開始された。
T-10重戦車シリーズの最初の生産型であるT-10重戦車は、1953~56年にかけて生産が行われた。

本車は基本的にはIS-3重戦車の近代化型というべきものだったが、西側の主力MBTになりつつあったアメリカのM46、M47パットン中戦車(50口径90mm戦車砲装備)や、イギリスのセンチュリオン中戦車(66.7口径20ポンド(83.4mm)戦車砲装備)に対して火力でも装甲防御力でも凌駕し得るもので、機動性能も遜色の無いものであった。
一方、当時ソ連では56口径100mm戦車砲を装備するT-54中戦車が、戦後第1世代の主力MBTとして大量生産に入っていた。
T-54中戦車は火力、防御力、機動力のバランスが取れた優秀な戦車であり、それに比べると重くて機動力に劣るT-10重戦車はやや時代遅れの存在にも思えたが、ソ連軍首脳部はT-10重戦車の優れた火力と装甲防御力を活かして、機甲部隊の先陣を切って戦線に突破口を開く役目を担わせることを構想し、その量産を続行した。

1955年になると、新たに主砲の垂直方向安定化装置PUOT-1「ウラガーン」(烈風)や排煙機を追加したT-10A重戦車(試作段階の呼称はオブイェークト267Sp1、生産型はオブイェークト731)、および主砲用垂直・水平方向安定化装置PUST-2「グロム」(雷鳴)を搭載したT-10B重戦車(試作段階の呼称はオブイェークト267Sp2、生産型はオブイェークト733)が登場し、それぞれ少数が生産されている。

具体的な生産数についてはT-10A重戦車が1956年に30両、1957年に20両、T-10B重戦車が1957年に110両で、両型の生産数が少なかったのは直後にさらなる改良型であるT-10M重戦車が登場したためである。
この内T-10A重戦車は、1957年11月7日の革命40周年記念パレードでT-10重戦車シリーズとして初めて一般公開され、西側に「スーパー・スターリン重戦車の登場」と警戒された。
そして1957年には、シリーズ最終型でソ連軍重戦車の真の決定版であるT-10M重戦車が登場した。

本車はペルミ市の第172火砲工場が開発した122mm戦車砲M-62T2(2A17)を新設計の砲塔に搭載したもので、副武装も2挺の14.5mm重機関銃KPVTに強化されていた(主砲同軸および対空用)。
そして搭載エンジンもV-12-6 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力750hp)に強化され、路上最大速度はソ連軍の制式重戦車として初めて50km/hを超えた。

主砲の46口径122mm戦車砲M-62T2はIS-2~IS-4重戦車に搭載された43口径122mm戦車砲D-25Tの発展型で、それまでの二重作動式砲口制退機に代えて多孔式砲口制退機を装着していたのが外観上の大きな特徴であった。
M-62T2は弾頭重量25kgのAPCBCを砲口初速950m/秒で発射し、射距離1,000mで厚さ185mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することができた(D-25Tの場合、同距離での装甲貫徹力は160mm)。

BR-460A HEAT(対戦車榴弾)を用いた場合の装甲穿孔力は、射距離に関わらず約300mmであった。
またM-62T2は操作上の改善点として砲尾部に装填補助トレイを設けており、装填手はここに弾頭と薬莢を載せラマーで砲尾に押し込むようになっていた。
これにより弾頭と薬莢のそれぞれを装填する場合に比べて少なくとも1動作は節約され、重量物を移動させる方向が一定にされたことで装填手の疲労度がやや軽減されることになった。
また主砲と同軸の14.5mm重機関銃KPVTは、軽装甲車両や土嚢や瓦礫で作られた防御陣地に対して有効な威力を持つと共に、主砲の照準・測距のための標定銃としても使用できた。
これはイギリスのセンチュリオン中戦車が12.7mm標定銃L21A1を用いて逸早く採用した照準システムであったが、弾道直進性が高く有効射程が2,000m以上に達する14.5mm重機関銃にもこうした用途が向いていた。
こうした火力性能面での改善を得たT-10M重戦車であったが、実は細部の違う2タイプが2カ所の工場(レニングラード・キーロフ工場とチェリャビンスク・トラクター工場)で生産されていた。
レニングラードで1957~66年にかけて生産されたタイプは開発番号ではオブイェークト272と呼ばれ、V-12-6Bディーゼル・エンジンを搭載して路上最大速度53km/hを発揮した他、T-54/T-55中戦車シリーズに標準装備されていた潜水渡渉キット(OPVT)を装着して5mの水深を渡渉できた。

一方、チェリャビンスクで1962年まで生産されたタイプは開発番号がオブイェークト734でV-12-6ディーゼル・エンジンを搭載し、路上最大速度はやや前者に劣る51km/hを発揮し潜水渡渉キットを持っていなかった。
なぜ2タイプの車両が生産されたのか理由ははっきりしないが、T-10M重戦車は強力な戦車である反面製造コストが非常に高かったため、後者は必要定数を満たすための低コスト型として生産されたとも考えられる。
こうして1953~66年にかけて生産されたT-10重戦車シリーズは総生産数が約8,000両を数え、史上最後に量産されかつ最も大量生産された重戦車となった。
なおT-10重戦車シリーズは同盟国への輸出はされておらず、全てソ連軍のみで使用された。
これらは1950年代から1個当たり100両で編制される独立重戦車連隊に装備されたり、3個だけ編制された重戦車師団の主力装備となった。
この3個師団の内第13および第25親衛重戦車師団は旧東ドイツに駐留し、T-10重戦車シリーズの唯一の実戦参加となった1968年のワルシャワ条約機構5カ国軍によるチェコスロヴァキア進攻に投入されている。
この時は他の中戦車に劣らぬ機動性能と稼働率を発揮し、作戦成功に貢献して西側軍事筋を驚かせた。
T-10重戦車シリーズは1970年代までは第一線装備として現役部隊に留まっていたが1980年代より退役が始まり、予備装備としても1993年までに全車両が除籍され廃棄処分に付された。

小ネタ

なんでT-10なの?

IS-3以降スターリン重戦車系列(ISシリーズ)は Object 701(IS-4)、Object 730(IS-5)、object 252(IS-6)、object 260(IS-7)と開発が続けられていたが……

IS-4_Tank.jpg

IS-4→V型12気筒液冷ディーゼル・エンジンにスーパーチャージャーを取り付け、IS-2から重装甲化し、独自の回転機構と増幅器を持つ遊星歯車式操作変速装置を搭載した結果、重量が60トンに達し製造コストがIS-3の2.86倍になったため219両で生産中止。

IS-5-2.jpg

IS-5→ディーゼルエレクトリック式ハイブリッドエンジンが最初の試験走行で過熱大爆発を引き起こし、それを冷却するだけの機構を積もうとすると重量オーバーになる為計画破棄。*4

Object 248
IS-5-1.jpg

Zh.Ya.コーチン技師を長とする、チェリャビンスク・キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)によって開発された新型重戦車IS-85(オブイェークト237)は、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)の第9砲兵工場(1942年にウラル重機械工場(UZTM)から分離独立)のF.F.ペトロフ技師が、55.2口径85mm高射砲52K(M1939)を基に設計した51.6口径85mm戦車砲D-5Tを主砲に採用しており、1943年10月より量産が開始された。
しかし、直後に同じ85mm戦車砲を装備するT-34-85中戦車が完成したため、より大柄なIS重戦車の主砲には85mm戦車砲D-5Tでは小さ過ぎると判断され、より強力な砲に換装されることになった。
新しい主砲には、ソ連海軍の100mm艦艇砲B-34をベースに開発された56口径100mm戦車砲S-34と、46.3口径122mm野戦加農砲A-19を戦車砲に改造したものが候補に上がり、S-34を装備する試作車「IS-100」(オブイェークト248)と、A-19を装備する試作車「IS-122」(オブイェークト240)が製作されて試験に供された。
その結果、装甲貫徹力については100mm戦車砲S-34の方が優れていたものの、この砲は開発されたばかりで早期の生産開始が困難であり、一方122mm加農砲A-19の方は、ほとんど改造を加えること無く85mm戦車砲D-5Tの砲架に搭載することができるという利点もあったため、結局122mm加農砲A-19を装備するIS-122重戦車がソ連軍に制式採用されることになった。
その後、機密保持の目的から呼称の単純化が決定され、IS-85重戦車は「IS-1」に、IS-122重戦車は「IS-2」に、そしてIS-100重戦車は「IS-5」へとそれぞれ改称されている。
このオブイェークト248が、3種類存在するIS-5重戦車で最初に「IS-5」の呼称が与えられた車両である。

開発番号不詳

1944年初め、SKB-2の主任技師コーチンはIS-2重戦車の量産が軌道に乗ったことを踏まえ、引き続く後継重戦車の開発を配下のSKB-2の技師たちに命じた。
当初Object 701(IS-3)と命名された新型重戦車プランは、複数のチームが別々の企画で進めることになった。
一方、配下の技師たちが新型重戦車の設計にあたっている裏で、SKB-2の親玉であるコーチン技師自身も新機軸を盛り込んだ重戦車開発の模索を開始していた。

1944年前半に彼自身がデザインし、第100試作工場(チェリャビンスク・キーロフ工場の試作車製作部門)にモックアップを作らせたものに「IS-5」(開発番号不詳)というプランがある。
これがいわゆる、2番目のIS-5重戦車である。
このIS-5重戦車は端的にいうなら、IS-2重戦車にドイツ軍のパンター戦車のデザインを採り入れてリファインしたような姿をしており、大直径転輪を採用して上部支持輪を省いていた点も同じだった。
また機関室上面のグリルの形状がパンター戦車に酷似しており、コーチン技師が1943年7~8月のクールスク戦以来、鹵獲されたドイツ軍の新型戦車を熱心に研究していたことが分かる。
結局IS-5重戦車自体はモックアップの製作のみに終わったが、後にこの車両にハイブリッド方式の機関系を組み込んだものがObject 253(IS-6) として製作されることになった。
IS-6重戦車の試作車は1944年10月に完成したが、同車に採用されたハイブリッド式機関系はエンジンで発電機を駆動することで電力を発生させ、その電力を電気式モーターに伝えることで左右の起動輪をそれぞれ独立して駆動するというものであった。
しかし、IS-6重戦車は試験初日に発電機が走行時の過熱に耐えられずに爆発事故を起こし、その後も機関系のトラブルが絶えなかったため結局制式化されずに終わった。

IS-6.jpg

IS-6→IS-4と同様の足回りに再設計したら重量オーバーになる上に、上層部から「IS-4と同じ駆動系統じゃ新型戦車開発の意味がない」と却下。

IS-7_in_Kubinka_2.jpg

IS-7→試作車両4両の火力、防御試験は優秀だったが…車体重量が68トンな上に、機動力は軽戦車並だった為、足回りに甚大な負荷が掛かり、ゴム車輪が摩耗しやすく、車輪が数個破損しただけで重量限界を超え、車内居住環境も劣悪だった為計画破棄
と…IS-4以外試作止まりという結果になり、ようやくまともに配備できる戦車がT-10となったわけだが……次に続く


なんでIS-10じゃないの?

史実解説や先述のIS-5の*2の所にも書いてあるが、IS-5として1950年に正式採用され、そこからエンジンの製造に手間取り1952年にIS-8としてようやく量産出来る新型ソ連重戦車であったが、量産した4ヶ月後にヨシフ・スターリンはポックリ逝ってしまった。
更にスターリンの後継者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行った為、スターリンを冠する兵器は全て改名される事に……
結果、ロシア語の重戦車10型(Тяжелый танк-10)の頭文字を取ってT-10というなんとも単純な名前になった。
またなぜT-8ではなくT-10なのかと言うと、エンジン製造に手間取っていた2年間でコーチン技師はIS-9、10の計画案を作成していた。そのため実物が作られる事は無かったものの計画上は存在している為、そこから飛ばしてT-10と言う名前になった。*5

外部リンク

 

WarThunder公式英語Wiki

 

公式Devログ

コメント

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  • 間違いなくランク7最強クラスの戦車。Aと違って貫徹があって格上にも対処できるし。何よりも機銃が14.5mmなのが素晴らしすぎる -- 2024-06-06 (木) 16:16:03
  • T-10MのページなんだからT-10Aとの武装の違いは解説の方にしまった方が良いんじゃないっすかね -- 2024-06-08 (土) 13:22:33

*1 プレイヤーから使い回しを批判する意見が多数寄せられ、本家からのモデルを多く追加する為にT-10Mに置き換えられた
*2 爆薬量はTNT換算
*3 IS-4MのエンジンはV-12 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼルエンジン
T-10MのエンジンはV-12-6 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼルなので別物ではある

*4 ちなみにIS-5という名前の戦車が既にObject 248と開発番号不詳の2両のIS-5がいたので、混乱を防ぐためにIS-8に改名される。
*5 IS-10があるならT-11じゃないの?と思うかもしれないが、細かい事は気にするな。