ソビエト RankVII 重戦車 T-10A
概要
IS-4の後継車としてされた最後の重戦車シリーズの2番目。性能や見た目はIS-3を踏襲し、ソ連初の垂直スタビライザーを装備している。
機体情報(v1.21.3.27)
必要経費
| 必要研究値(RP) | *** |
|---|---|
| 車輌購入費(SL) | **** |
| レベルMAX(GE) | *** |
| プレミアム化(GE) | *** |
報酬・修理
| SL/RP倍率 | 2.1 |
|---|---|
| 修理費用 | 7 |
車両性能
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 砲塔旋回速度(°/s) | 14.0⇒20.0 |
| 俯角/仰角(°) | -3/17 |
| リロード速度(秒) (初期⇒スキルMAX) | 19.5⇒15.0 |
| スタビライザー/維持速度(km/h) | 一軸 / 24 |
| 車体装甲厚 (前/側/後)(mm) | 120 / 80 / 60 |
| 砲塔装甲厚 (前/側/後)(mm) | 250 / 157 / 90 |
| 重量(t) | 50.0 |
| エンジン出力(hp) | 700 |
| 2,100rpm | |
| 最高速度(km/h) | 46/-9 |
| 視界(%) | 92 |
| 乗員数(人) | 4 |
武装
| 名称 | 搭載数 | 弾薬数 | |
|---|---|---|---|
| 主砲 | 122 mm D-25TS cannon | 1 | 30 |
| 機銃 | 12.7 mm DShK machine gun | 2 | 750 |
弾薬*1
| 名称 | 砲弾名 | 弾種 | 弾頭 重量 (kg) | 爆薬量 (g) | 初速 (m/s) | 貫徹力(mm) | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 10m | 100m | 500m | 1000m | 1500m | 2000m | ||||||
| 122 mm D-25TS | BR-471 | APHE | 25.0 | 246.4 | 795 | 205 | 201 | 182 | 161 | 143 | 127 |
| BR-471B | APHEBC | 25.0 | 246.4 | 795 | 205 | 203 | 191 | 178 | 166 | 155 | |
| BR-471D | APCBC | 25.0 | 192.5 | 800 | 230 | 227 | 215 | 200 | 186 | 173 | |
| OF-471 | HE | 25.0 | 3,600 | 795 | 37 | ||||||
装甲*2
| 分類 | 場所 | 位置 | 材料 | 装甲厚 |
|---|---|---|---|---|
| 外部装甲 | 車体 | 側面 | 構造用鋼 | 4mm |
所有能力
| 分類 | 場所 | 説明 |
|---|---|---|
| 発煙弾発射機 | 車体 | 発煙装置を利用して煙幕を展開 所持数2個 消費1個 |
車輌改良
兵器改修?
| Level | 名称 | 購入費(SL) |
|---|---|---|
| 15 | 迫撃砲 | *** |
| 曳光弾ベルト | ||
| リロードシステム | ||
| 20 | 大口径 | *** |
| 装甲貫通ベルト | ||
| 濃煙 | ||
| 25 | 発煙弾 | *** |
| ステルスベルト | ||
| 発煙弾 |
迷彩
研究ツリー
| 前車両 | IS-2 (1944) |
|---|---|
| 次車両 | T-55A |
解説
特徴
--加筆求む--
【火力】
安定の格下狩りに特化した砲と言える。
主砲はお馴染みD-25Tを改良したD-25TS砲で、装填速度は手動の15.0秒で俯角は-3°、装填速度は比較的速いが、俯角はソ連戦車の例に漏れず劣悪。
- 【弾薬性能】
変わらずのBR-471B/Dで、同格以上は貫徹350mm超えが普通なため性能不足が顕著になってくる。軽装甲MBTなら問題無いがパットンやT-55/62は正面から相手取るのは難しい。
機銃は12.7mm DShK重機関銃を同軸と天板に2挺装備している。 - 【砲駆動機構】
俯仰角は-3°/17°の砲旋回速度は20.0°/sで、ソ連初となる垂直スタビライザーは24km/hまで維持される。行進間射撃は難しいが飛び出し撃ちや後退時には非常に重宝する。 - 【装填速度】
装填補助装置によって従来より速い15.0秒で装填可能だが、周囲は1桁台が普通なため初撃で撃破出来なければこちらが撃破される可能性が高い。
【防御】
こちらも格下狩りに特化している。
ソ連戦車らしい傾斜装甲をふんだんに使用し重戦車としてそこそこの実装甲厚を有している。車体上部と砲塔正面はAPDSや科学弾以外には抜かれにくいが、車体下部は120mm以上の徹甲弾に貫徹されてしまう。そのため格下でも高貫徹車両には注意が必要で、その他にも操縦手ハッチなどの弱点も引き継いでしまっている。
車内レイアウトも変わらず劣悪で、貫徹されれば撃破か甚大な被害は避けられない。そのため貫徹されない立ち回りをしよう。
- 【携行弾数】
一時弾薬庫は砲塔後部に6発、装填済みの1発の計7発となっている。7発撃ち切った場合、次弾装填速度が本車の装填速度の15.0秒+一時弾薬庫の再補充の7.0秒で合計22.0秒となる。[添付]配置弾薬 満載 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 弾薬 30発 27発(-3) 24発(-6) 20発(-10) 17発(-13) 14発(-16) 11発(-19) 10発(-20) 9発(-21) 7発(-23) 5発(-25) 3発(-27) 1発(-29) 装薬 30発 27発(-3) 24発(-6) 20発(-10) 17発(-13) 14発(-16) 11発(-19) 10発(-20) 9発(-21) 7発(-23) 5発(-25) 3発(-27) 1発(-29) - 【防護装置】
このRnak帯のソ連戦車によくあるドラム缶型の発煙弾を車体後方に2発搭載している。車体後部にあるため後退時や後方に展開する際に使おう。
【機動性】
IS-2 (1944)と比べると後退こそ半分にまで落ち込んだものの、その分加速では他の重戦車に劣らない性能を得た。しかし旋回性能は重戦車らしく悪く、超新地旋回もできないため旋回半径は広い。
史実
1948年末、ソ連軍機甲総局(GBTU)はIS-3、IS-4の後継となる新型重戦車についての指針を発令した。
その第一の要請は、戦闘重量が50tを超過しないことであった。
この要請を受けたチェリャビンスク・キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)は1949年2月からZh.Ya.コーチン技師の主導の下、新たな重戦車プラン「IS-5」(開発番号オブイェークト730)の企画の進行を開始した。
しかし今回のプランの具現化にあたってはコーチンは大胆な新機軸の採用を試みることは無く、登場時に「理想の重戦車」と将星たちから称賛されたIS-3重戦車をベースに、その間の試作戦車などで採用を図った新機構のエッセンスを少しずつ採り入れるような設計を行った。
まず機動性能面の改善についてはIS-4重戦車の経験を活かし、V-12 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力700hp)の改良型を搭載することとし、そのために車体長を同様に延長して片側7個の転輪が配置された。
一方、ラジエイターへの冷却送風機構としてエンジン排気のエネルギーを駆動させるブースターを新機軸として採用し、エンジン出力の費消と重量の増大を防いだ。
これが機構面で意外な成功を収め、良好な機動性能(最初の試作車で路上最大速度43km/h)を得ることができた。
車体の基本デザインは避弾経始の極致として世界を驚かせたIS-3重戦車のものをほぼそのまま踏襲し、足周りは履帯、転輪や起動輪などを含め全体をIS-4重戦車から継承した。
また武装も122mm戦車砲と12.7mm重機関銃の組み合わせで、これもIS-4重戦車のスタイルを踏襲したものであったが122mm戦車砲はやや改良したタイプ(D-25TA)で、装甲貫徹力が従来のBR-471B APCBC(風帽付被帽徹甲弾)よりも高いBR-472 APCBCを採用していた。
チェリャビンスク・キーロフ工場では1949年中にIS-5重戦車の増加試作車を10両製作し、1950年5月にはクビンカの装甲・戦車技術開発研究所(NIIBT)の試験場において国家試験が実施され、これを経てIS-5重戦車の量産入りが決定された。
しかし、実際の量産開始はそれからさらにずれ込むこととなった。
というのは本車に搭載される予定のV-12-5 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジンについて、実用上も生産設備の整備上も問題があると指摘され(本エンジンの生産と供給は他の戦車生産との兼ね合いからトルクメン共和国のマールィ市に建設された工場が担当することになっていたが、技術基盤の面で困難に直面したようである)、エンジンの安定供給の目処がなかなか立たなかったのである。
この状況は1952年12月まで続き、その間コーチン技師らは作業停滞の責任を被らされるのを避けるためIS-9、IS-10などの新たな重戦車プランの策定を行っていたようである。
また「IS-5」という名称を与えられた戦車がすでに2種類存在したことから、これらとの混同を避けるために番号の整理が行われ、オブイェークト730には新たに「IS-8」という名称が与えられることになった。
そうした間に、全ての事情を激変させる状況の変化が生じた。
1953年3月5日、ロシアの歴史上稀代の独裁者であったI.V.スターリン共産党書記長が死去したのである。
スターリンの死後、ソ連共産党・政府指導部内では急速に非スターリン化の流れが広まり、スターリンの寵児であったG.M.マレンコフからわずか9日で共産党書記長の座を奪取した改革者N.S.フルシチョフが、1956年のソ連共産党第20回党大会で歴史的なスターリン批判報告を行うに至った。
このような非スターリン化の流れを受けて、スターリン重戦車の最新型「IS-8重戦車」として制式化される予定であったオブイェークト730は、1953年11月28日に「T-10重戦車」としてソ連軍に制式採用されることが決まった。
T-10重戦車の生産は、チェリャビンスク・キーロフ工場で1953年末には開始された。
T-10重戦車シリーズの最初の生産型であるT-10重戦車は、1953~56年にかけて生産が行われた。
本車は基本的にはIS-3重戦車の近代化型というべきものだったが、西側の主力MBTになりつつあったアメリカのM46、M47パットン中戦車(50口径90mm戦車砲装備)や、イギリスのセンチュリオン中戦車(66.7口径20ポンド(83.4mm)戦車砲装備)に対して火力でも装甲防御力でも凌駕し得るもので、機動性能も遜色の無いものであった。
一方、当時ソ連では56口径100mm戦車砲を装備するT-54中戦車が、戦後第1世代の主力MBTとして大量生産に入っていた。
T-54中戦車は火力、防御力、機動力のバランスが取れた優秀な戦車であり、それに比べると重くて機動力に劣るT-10重戦車はやや時代遅れの存在にも思えたが、ソ連軍首脳部はT-10重戦車の優れた火力と装甲防御力を活かして、機甲部隊の先陣を切って戦線に突破口を開く役目を担わせることを構想し、その量産を続行した。
1955年になると、新たに主砲の垂直方向安定化装置PUOT-1「ウラガーン」(烈風)や排煙機を追加したT-10A重戦車(試作段階の呼称はオブイェークト267Sp1、生産型はオブイェークト731)、および主砲用垂直・水平方向安定化装置PUST-2「グロム」(雷鳴)を搭載したT-10B重戦車(試作段階の呼称はオブイェークト267Sp2、生産型はオブイェークト733)が登場し、それぞれ少数が生産されている。
具体的な生産数についてはT-10A重戦車が1956年に30両、1957年に20両、T-10B重戦車が1957年に110両で、両型の生産数が少なかったのは直後にさらなる改良型であるT-10M重戦車が登場したためである。
この内T-10A重戦車は、1957年11月7日の革命40周年記念パレードでT-10重戦車シリーズとして初めて一般公開され、西側に「スーパー・スターリン重戦車の登場」と警戒された。
そして1957年には、シリーズ最終型でソ連軍重戦車の真の決定版であるT-10M重戦車が登場した。
小ネタ
IS-3以降もISシリーズはObject 701(IS-4)、Object 730(IS-5)、object 252(IS-6)、object 260(IS-7)と開発が続けられていたが……
IS-4→V型12気筒液冷ディーゼルエンジンにスーパーチャージャーと重装甲化、更に独自の回転機構と増幅器を搭載した結果重量が60tを超え製造費用がIS-3の約2.86倍になったため219両で生産中止。
IS-5→ディーゼルエレクトリック式ハイブリッドエンジンが最初の試験走行で過熱大爆発を引き起こし、それを冷却するだけの機構を積もうとすると重量オーバーのため計画破棄。
ちなみにIS-5という名前の戦車が既にObject 248と開発番号不詳の2両のIS-5がいたので、混乱を防ぐために後にIS-8に改名される。
Zh.Ya.コーチン技師を長とする、チェリャビンスク・キーロフ工場の第2特別設計局(SKB-2)によって開発された新型重戦車IS-85(オブイェークト237)は、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)の第9砲兵工場(1942年にウラル重機械工場(UZTM)から分離独立)のF.F.ペトロフ技師が、55.2口径85mm高射砲52K(M1939)を基に設計した51.6口径85mm戦車砲D-5Tを主砲に採用しており、1943年10月より量産が開始された。
しかし、直後に同じ85mm戦車砲を装備するT-34-85中戦車が完成したため、より大柄なIS重戦車の主砲には85mm戦車砲D-5Tでは小さ過ぎると判断され、より強力な砲に換装されることになった。
新しい主砲には、ソ連海軍の100mm艦艇砲B-34をベースに開発された56口径100mm戦車砲S-34と、46.3口径122mm野戦加農砲A-19を戦車砲に改造したものが候補に上がり、S-34を装備する試作車「IS-100」(オブイェークト248)と、A-19を装備する試作車「IS-122」(オブイェークト240)が製作されて試験に供された。
その結果、装甲貫徹力については100mm戦車砲S-34の方が優れていたものの、この砲は開発されたばかりで早期の生産開始が困難であり、一方122mm加農砲A-19の方は、ほとんど改造を加えること無く85mm戦車砲D-5Tの砲架に搭載することができるという利点もあったため、結局122mm加農砲A-19を装備するIS-122重戦車がソ連軍に制式採用されることになった。
その後、機密保持の目的から呼称の単純化が決定され、IS-85重戦車は「IS-1」に、IS-122重戦車は「IS-2」に、そしてIS-100重戦車は「IS-5」へとそれぞれ改称されている。
このオブイェークト248が、3種類存在するIS-5重戦車で最初に「IS-5」の呼称が与えられた車両である。
1944年初め、SKB-2の主任技師コーチンはIS-2重戦車の量産が軌道に乗ったことを踏まえ、引き続く後継重戦車の開発を配下のSKB-2の技師たちに命じた。
当初Object 701(IS-3)と命名された新型重戦車プランは、複数のチームが別々の企画で進めることになった。
一方、配下の技師たちが新型重戦車の設計にあたっている裏で、SKB-2の親玉であるコーチン技師自身も新機軸を盛り込んだ重戦車開発の模索を開始していた。
1944年前半に彼自身がデザインし、第100試作工場(チェリャビンスク・キーロフ工場の試作車製作部門)にモックアップを作らせたものに「IS-5」(開発番号不詳)というプランがある。
これがいわゆる、2番目のIS-5重戦車である。
このIS-5重戦車は端的にいうなら、IS-2重戦車にドイツ軍のパンター戦車のデザインを採り入れてリファインしたような姿をしており、大直径転輪を採用して上部支持輪を省いていた点も同じだった。
また機関室上面のグリルの形状がパンター戦車に酷似しており、コーチン技師が1943年7~8月のクールスク戦以来、鹵獲されたドイツ軍の新型戦車を熱心に研究していたことが分かる。
結局IS-5重戦車自体はモックアップの製作のみに終わったが、後にこの車両にハイブリッド方式の機関系を組み込んだものがObject 253(IS-6) として製作されることになった。
IS-6→1944年10月に試作され、エンジンで発電機を駆動することで発生させた電力を電気式モーターに伝えることで左右の起動輪をそれぞれ独立して駆動するハイブリッド式機関系を採用していた。しかし試験初日に発電機が走行時の過熱に耐えられずに爆発事故を起こし、その後も機関系のトラブルが絶えなかったため結局制式化されずに終わった。
IS-7→4両による試験の末、火力・防御試験は優秀だったが、68tの重量に対しては高機動力だったのが災いし、足回りに甚大な負荷が掛かりゴム車輪の摩耗が激しく車輪が数個破損しただけで重量限界を超え、車内居住環境も劣悪だったため計画破棄
この様にIS-4以外試作止まりという結果を重ねてようやくまともに配備できる戦車がT-10となったわけだが……次に続く
史実解説や先述のIS-5の*2の所にも書いてあるが、IS-5として1950年に正式採用され、そこからエンジンの製造に手間取り1952年にIS-8としてようやく量産出来る新型ソ連重戦車であったが、量産した4ヶ月後にヨシフ・スターリンはポックリ逝ってしまった。
更にスターリンの後継者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行った為、スターリンを冠する兵器は全て改名される事に……
結果、ロシア語の重戦車10型(Тяжелый танк-10)の頭文字を取ってT-10というなんとも単純な名前になった。
またなぜT-8ではなくT-10なのかと言うと、エンジン製造に手間取っていた2年間でコーチン技師はIS-9、10の計画案を作成していた。そのため実物が作られる事は無かったものの計画上は存在している為、そこから飛ばしてT-10と言う名前になった。*3
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