みんなの新武将/倭・日本(戦国時代(西日本))

Last-modified: 2023-11-10 (金) 10:43:46

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

倭・日本(戦国時代(西日本))

倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。

応仁の乱を契機とした内乱は、日本全国に広がり、世に言う「戦国時代」の始まりとなった。
畿内では応仁の乱の結末が尾を引き、足利義材と足利義澄の両足利将軍が対立、
これに天下の政局を牛耳りながらも永正の錯乱で暗殺された細川政元の後釜を巡る両細川の乱が発生した。
畿内・地方の諸侯も巻き込まれ、朝倉宗滴ら朝倉家、後に畿内の実力者となる三好長慶を輩出した三好家、中国の大内義興ら大内家も参戦。
中国では尼子経久をはじめ尼子氏が台頭、そして後にその両家を滅ぼした毛利家が躍動、毛利元就が神算鬼謀で一国人にすぎない毛利家を押し上げた。
九州では大内が衰退したのち、大友島津龍造寺らによる三勢力のみつどもえが続き、やがて島津義久ら島津家が九州で覇権を握った。
四国では三好家や一条家を押し上げて長宗我部家が勢いを増し、四国全土をわがものとしていた。

中国、四国、九州の戦国武将、戦国大名についてはみんなの新武将/倭・日本(戦国時代(中国四国九州))を参照



【近畿地方】

朝廷

方仁親王

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
35828699

【ミチヒトシンノウ】
戦国時代の皇族、天皇。正親町天皇とも言われる。
後奈良天皇の崩御の後、毛利元就の支援を受けて即位。今川義元や織田信長など
戦国大名と積極的に交流を持ち、信長上洛後は彼と擁立する足利義昭を後押しした。
織田信長が本能寺で倒れると台頭してきた羽柴秀吉に接近し、彼に豊臣氏と関白職を授けている。
晩年は孫の和仁親王に譲位し隠棲した。織田信長、豊臣秀吉との関係や交流の程度については、多くの説がある。

誠仁親王

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
26687175

【サネヒトシンノウ】
戦国時代の皇族。正親町天皇の第五皇子。子にのちの後陽成天皇、秀吉の猶子となった智仁親王がいる。
足利義昭の上洛に伴った織田信長の援助を受けて元服し、織田信長と昵懇な関係を築く。
父の高齢化に伴い、天皇としての事実上の業務を徐々に移行され、晩年は「今上皇帝」と呼ばれるまでになっていた。
本能寺の変の際には二条御所におり、織田信忠の勧めに従い禁裏へ脱出。織田信忠と明智光秀の交渉の結果無事に脱出することに成功する。
その後は天下統一の道をひた走る豊臣秀吉に接近するが、1586年に天皇に譲位されることなく病没。
本能寺の変の朝廷黒幕説には、彼が信長と親しい関係であったことを実父の正親町天皇が警戒したため、という説がもとになっている。

周仁親王

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
57806984

【カタヒトシンノウ】
戦国時代の皇族。誠仁親王の第一皇子。のちの後陽成天皇。
父の誠仁親王の早逝により、同年の1586年に皇祖父の正親町天皇から譲位される形で即位。
関白、太政大臣に就任して天下人となった豊臣秀吉との協調路線を歩み、豊臣政権と朝廷の関係維持、威信存続に貢献した。
秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、古今伝授に通暁する細川幽斎(藤孝)の才を惜しみ、勅命で和議を斡旋して彼を助けた。
だが、関ヶ原の合戦後に徳川家康が天下を取ると、徐々に協調路線が崩れていき、幕府権力の介入を許す。
猪熊事件の措置が幕府主導で行われたことから譲位を決意し、第三皇子の政仁親王に譲位。のち1617年に崩御。
跡を継いだ政仁親王は、のちに即位して後水尾天皇となるが、幕府権力の介入を食い止められず、娘の明正天皇の即位によって将軍家の外戚化を許す。

山科言継

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
13758994本草学

【ヤマシナトキツグ】
戦国時代の公家。藤原北家四条家の分家と言われる。
後奈良・正親町両天皇に仕え、朝廷財政の再建にあたるべく奔走。
足利将軍家や織田家、今川家、結城家など数多くの大名と交流を持ち、朝廷の支持を取り付けることに成功。
晩年は時の権力者であった織田信長と朝廷の仲を取り持ち、朝廷復権や武家との融和に大きく貢献した。
医療に精通していたことで知られ、気さくな人柄で、庶民からも人気があったと言われている。

近衛前久

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
845959459詩想疾走名声文化論客

【コノエサキヒサ】
戦国時代の公家。平安時代に権勢を誇った藤原氏の子孫。
藤原氏の氏長者として足利家、上杉家などと昵懇の関係を保つが、
一方で権威拡大のために謀略や外交術を駆使し、足利将軍を弑逆した三好家と関係を結んだり、
敵対する足利義昭と、それを支持する織田信長を追い落とすために本願寺を反信長方針に導くなど
時に戦国大名を仲介し、時に戦国大名を翻弄した。そのため京から離れることも多かった。
本能寺の変後は織田信孝などの追及もあって京を離れ、年齢からこの前後に隠棲した。
本能寺の変を唆したのは彼だと言う説もあるが、徳川の天下になった後も信長の早すぎる死を惜しんでいたという記録もある。

※その他候補となった特技:論客

二条昭実

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
39827772

【ニジョウアキザネ】
戦国時代の公家。平安時代に権勢を誇った藤原氏の子孫。父は二条晴良。織田信長の娘婿にもあたる。
足利義昭の偏諱を賜って1568年に元服。若年でありながら要職を歴任し、28歳で左大臣、29歳で関白となった。
しかし、対立していた近衛信輔から関白職を譲るよう強要され、関白相論を引き起こす。結果的に
信輔の父である前久や朝廷貴族の意向もあり、関白職を辞任。かわって関白となったのが近衛家に猶子となった羽柴秀吉であった。
ただ、二条家自身はあくまで武家と親しい関係にあり、昭実自身も秀吉と昵懇であった。秀吉の死後は
天下を取った徳川家康と昵懇になり、猪熊事件後の江戸幕府による朝廷統制にも貢献。禁中並公家諸法度の制定にも関わった。
若年の頃から晩年にいたるまで朝廷と武家の協調関係に貢献し、1619年に死没した。

吉田兼見

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
22667468

【ヨシダカネミ】
戦国時代の公家、神道家。吉田神道の継承者。
細川幽斎の従兄弟にあたり、1570年に家督と官職を継ぐ。同年勢力を伸ばしつつある織田信長と昵懇の関係を築き、
織田信長の比叡山焼き討ちの相談を受けたと伝わる。信長の推挙により「堂上家」の地位を築いた。
のち、天下を取った豊臣秀吉と昵懇な関係を築いた。彼の自著「兼見卿記」は、戦国時代の貴重な史料のひとつと言われている。
明智光秀と仲が非常によく、そのことが朝廷黒幕説の一因に挙げられている。

※吉田神道は兼見の曽祖父である吉田兼俱が実際の創始者と考えられ、兼俱は吉田神道が古くから伝わっているように装うためにその博識を利用して多くの偽書作成に携わった疑惑がある。

足利家

室町時代を参照

波多野家

波多野秀治

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6256704053詭計堅牢動転墨守研究我道

【ハタノヒデハル】
戦国時代の武将。波多野元秀の子。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛するとこれに従い、明智光秀の丹波平定戦に従軍するが、光秀が赤井直正の黒井城を攻めている最中に突如反旗を翻して敗走させる。
これに激怒した光秀によって居城の八上城を包囲されるが、多方面への出撃にも兵を割かれた光秀の包囲戦は順調とは言えず、途中何度か包囲を打ち破っている。
しかし、長期戦によって兵糧が不足して裏切った家臣によって弟とともに光秀に引き渡されて安土城下で磔にされた。
この時代では異例な尊皇家でもあり、朝廷に手を貸した事績も多い。

赤井直正

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8584664560山戦堅牢名声長蛇強化割拠
8584664560山戦地利堅牢改修名声反骨刃奮戦急襲激励牽制長蛇強化5割拠

【アカイナオマサ】
丹波の国衆。時家の次男。子孫(弟の末裔とも)にプロボクサー・赤井英和。
「丹波の赤鬼」「悪右衛門」の渾名を持って知られ、『甲陽軍鑑』にも名を記録されるほどの豪傑。
兄の死を受けて家督を継ぎ、兄の仇である内藤宗勝(松永久秀の弟)を討つ。
その後は山名・織田を相手に抗争を繰り広げたが、最晩年に脇坂安治の誘降に応じたという。子孫は藤堂家に仕えた。

六角家

六角定頼

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8360828781機略泰然築城徴税改修城壁拡張王道

【ロッカクサダヨリ】
戦国前半の武将。宇多源氏の流れを汲む守護六角家当主。高頼の次男。
元々は僧籍に在ったが兄の早世を受けて家督を相続。
細川高国と同盟して細川澄元(晴元の父)を撃破して両細川の乱を集結させ、
足利義晴の将軍擁立にも貢献したため従四位下叙任と管領代の職を取得。
更に高国を討った細川晴元を味方に取り込んで娘婿にすることで足利将軍家と細川京兆家両方の後見人となったことで、最初の「天下人」とする評価もある。
内政面では観音寺城の城下町に家臣団を住まわせる城割と、日本史上初の楽市令を制定し2つの業績の先駆けとなる。
対外的には浅井久政を屈服させ、晴元を追放した三好長慶と対峙。
1552年に定頼が没するまでは三好長慶は優位に立てなかったという。

六角義賢

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7079623756遠矢不屈強運消沈雁行強化我道

【ロッカクヨシカタ】
戦国武将。近江守護六角家当主。定頼の子。後に剃髪して承禎と名乗る。
父同様将軍足利義晴・義輝や細川晴元を助けて三好長慶と争った。
三好実休は討ち取ったが、敗戦を重ねて三好長慶を中心とした体制の確立を止めることはできなかった。
また父の代に服従していた浅井長政の独立を許したばかりでなく、
子の義治が観音寺騒動で家老・後藤賢豊を死なせ信望を失う。
織田信長の上洛戦でも敗北したが伊賀を拠点に信長包囲網にも参加、最晩年は豊臣秀吉に帰順した。
大将としては敗北が目立つ一方、弓術の日置流と馬術の大坪流を極めた弓馬の名手であった。

浅井家

浅井長政

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7290715685掃討驍将求心胆力沈着三軍強化割拠
8290715685掃討驍将求心胆力沈着三軍強化割拠

【アザイナガマサ(アサイナガマサ)】
戦国時代の武将。近江浅井家当主。浅井久政の嫡男。信長の妹婿、浅井三姉妹の父として著名。
家臣の擁立もあって若年ながら家督を相続し、野良田の戦いの勝利をはじめ、近江六角氏との戦いを有利に進めた。
のち、足利義昭を奉ずる織田信長の軍に協力、この時に織田市を正室に迎え入れ、足利義昭を護衛し上洛を成功させている。
しかし、織田信長が父祖の代から盟友とする朝倉征伐に乗り出すとこれに反発。朝倉・三好ら各地の勢力とともに反信長連合の一角を成した。
姉川の戦いや志賀の陣をはじめ、数に勝る織田軍に対して善戦を続けるも、戦力差は如何ともしがたく、
1573年織田軍の羽柴秀吉に攻められ、家族を逃したのち自害した。

浅井亮政

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8079695670勇将果敢魚鱗強化割拠

【アザイスケマサ】
戦国時代の武将で近江浅井家当主。浅井長政の祖父。元々は庶流の出だったが本家の姫との政略結婚で本家を相続。
浅井家は京極氏の家来であったが、当主の座をめぐる御家騒動により台頭。京極高延を擁立し実権を握る。
しかし京極氏の主筋である六角氏の介入と傀儡の扱いを不服とした高延に苦しめられ、亮政派の領主を束ねつつ朝倉孝景の救援を仰いだ*1
結局久政の代に浅井家は六角氏に降伏。孫である長政の当主就任まで六角氏への服従を余儀なくされた。

浅井久政

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4227456656文化農政消沈動転直情地域振興礼教

【アザイヒサマサ】
戦国時代の武将で近江浅井家当主。浅井亮政の子で長政の父。
父の死により家督を継いだが、不服とした異母兄弟である田屋明政の謀反もあり六角氏に降伏。
息子に賢政(のちの長政)と名乗らせるなど愚直過ぎる弱腰外交は家臣団に失望され、後に竹生島に追放されている。
それでも隠居後も発言権を保持し織田家との縁組に最後まで反対、
ついには久政主導で朝倉義景と連携して信長挟撃を実施するが1573年に敗死した。
久政は対六角氏の弱腰外交や、反信長に固執して自滅した事績から暗君とされることが多いが、
能に明るく、用水の利権を独占していた井口家の切り崩しに成功している。

海北善右衛門

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7159774863

【カイホウゼンエモン】
戦国時代の武将。浅井家重臣。「海北綱親」とも言われる。
浅井亮政、久政、長政の3代に仕え、主に軍奉行を任された。主に近江国内の合戦に参加し、
多賀氏、六角氏、織田氏らとの戦いで武功をあげている。1573年に織田信長によって
浅井長政が自刃に追い込まれた際、自らも戦死。後年、一族の海北友松が秀吉に召し出された時
「我が兵法の師」と秀吉から発言したと伝わっている。

補足:斎藤道三の例に漏れず、最近では「海北善右衛門」と名乗る親子の2代説が主流。例示能力値は親子1代説で設定。

磯野員昌

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6887492741果敢胆力山越名声豪傑突撃鋒矢強化我道

【イソノカズマサ】
戦国時代の武将。近江浅井家家臣。
姉川の戦いでは織田軍に向けて突撃を敢行し敵陣を次々突破したが、朝倉軍の壊滅で惜敗。
後に本拠の佐和山城が孤立すると信長に帰順したが、信長の勘気を蒙って姿をくらましたという。

朝倉家

朝倉孝景

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5543829184詩想医術人脈文化学者先従隗始割拠

【アサクラタカカゲ】
戦国時代の武将。朝倉家10代当主。
父の死後家督を相続し、室町幕府の将軍足利義稙と昵懇な関係を築く。
その後一門の朝倉宗滴を軍奉行に任命し、幕府の要請に応じて丹波、若狭、美濃へ出兵させ
朝倉の影響力と勢力を高めた。両細川の乱の際には細川高国を支持して将軍家、管領家と並ぶ重鎮として
京を事実上支配した。一方で富国強兵にも励み、幕府や朝倉家の繁栄の礎となった。
将軍家管領家の失墜後は独自路線を歩み、朝倉家最盛期を演出した。

朝倉義景

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4625676348遠矢詩想人脈文化優柔経世済民名利

別案(史実優先採用Ver)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7655778368剛将果敢召募文化詩想(名声)経世済民名利

(文弱的傾向を見せるのは講談の「朝倉始末記」による影響が大。第一次信長包囲網を築き上げ、織田信長と3年間戦い続けた功績を評価し能力を大幅UP)

【アサクラヨシカゲ】
戦国時代の武将。越前守護代朝倉家の11代当主*2
1548年に父が死没し家督を継いだが、実権は朝倉宗滴が握っていた。
1555年に宗滴が死没してからは当主として権勢をふるい、若狭武田氏や加賀一向一揆と交戦して勢力を拡大した。
当初は足利義昭を庇護していたが、あくまでも上洛は目指さず、自らは若狭武田氏を支配下に入れた。
しかし、足利義昭を庇護した織田信長が上洛命令を出すとこれを拒否。
叛意ありとして織田信長による若狭征伐を引き起こし、若狭を事実上失陥する*3も、
浅井長政の助力により本国越前は無事であった。
以後は浅井長政と協力して織田信長と戦うが、数に勝る織田軍に対して疲弊、劣勢となり、最後は刀根坂の戦いで信長率いる馬廻衆に惨敗を喫した。
一乗谷を放棄し越前南東部に逃亡し持久戦の構えを取るが、朝倉景鏡の寝返りにより自刃。

朝倉宗滴

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8769898582神機威風胆力眼力柱石文事武備覇道

【アサクラソウテキ】
戦国時代の武将。朝倉氏一族。甥の子として朝倉義景がいる。
朝倉貞景・孝景・義景の3代に仕え、金ヶ崎城城主として大権を握った。
細川政元と対立し、彼の要請を受けた一向一揆の大軍を撃退。また六角、浅井両家に介入して朝倉家の権威向上に励んだ。
のち、足利義晴と細川高国を支持し、上洛して細川晴元や三好元長の軍を破った。しかし以後は
対立する足利・細川両家同士の戦には介入せず、もっぱら朝倉家の地盤固めに奔走。朝倉氏の最盛期を演出した。
早い段階で織田信長の将器を見出していたことでも知られる。

朝倉景鏡

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6459726532詐謀封殺悪名地勢研究名利

【アサクラアゲアキラ】
戦国時代の武将。朝倉景高の子で義景の従弟。
宗滴亡き後の一族筆頭格であったが、金ケ崎の戦いで日和見を決め込んで一族の景恒を見殺したり、
疲労を理由に出陣拒否したりするなど『朝倉始末記』では総じて計算高く狡猾な人柄が窺える。
義景が一乗谷を捨てて景鏡の本拠大野に逃げ込むと、宿舎を提供した後に包囲。義景を裏切って信長に投降した。
しかし翌年一向一揆との争いで敗死している。

山崎吉家

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8187706269柱石剛将動員山戦地利長蛇強化割拠

【ヤマザキヨシイエ】
戦国時代の武将。朝倉家の重臣。
朝倉宗滴や魚住景固らとともに一向一揆征伐で名をあげる。1567年には同じく重臣であった
堀江景忠の討伐に出陣、成功させるものの景忠を取り逃がした。足利家や斎藤家との交渉も任されつつ、
浅井長政が織田信長に背いた際は浅井長政を救援している。1570年には朝倉軍の中核をなし、
志賀の陣で森可成らを敗死させた。だが、1573年織田軍と対峙中に織田信長の急襲を受け、
殿として奮戦するも戦死。このわずか数日後に朝倉義景が自刃して朝倉氏は滅亡する。

富田長繁

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4194161110掃討功名短慮強欲粗暴侵略荒廃我道

【トダナガシゲ】
朝倉家臣。
小谷城の戦いに前後して織田家に投降。第二次伊勢長島一向一揆討伐で武功を上げる。
その後土一揆と組んでかつての同僚・前波吉継や魚住景固を攻め滅ぼし勢力を拡大するも小林吉隆の裏切りに遭い死亡した。
越州軍記によれば、その武勇は「樊噲が勇にも過たり」と評されるほどであったが、凶猛で人望はなかったという。



*1 なお「盟友」朝倉家は実際にはこのとき六角側と連携して浅井を背後から脅かしており、小谷城の『金吾丸』は朝倉宗滴に占拠され『金吾獄』と呼ばれたことによる。以後も朝倉に対しては同盟というにはかなり譲歩した関係を強いられていた様。子の久政が六角に屈服したとのイメージが強いが、実情は亮政の快進撃を朝倉に頓挫させられた結果、六角に対してほぼ降伏に近い講和を結ばざるを得なかったとされる。
*2 義景は六角氏からの養子であるとする説もあるが、六角義賢と息子の義治が対立したときに義賢が義治が斎藤氏との同盟を進めたために朝倉氏との初めての縁組の話が破綻したと非難しているのでその説を採用すると義賢の書状の内容と矛盾することになる。
*3 一説によれば、信長の一連の行動は甥の武田元明を越前に連行されたことに激怒した足利義昭の指示によるとも。