みんなの新武将/後漢末~三国(地方官・在野・烈女)

Last-modified: 2023-06-15 (木) 20:43:05

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

後漢末(184~220)

後漢第12代の霊帝は中常侍の張譲を阿父と尊称して宦官に政治を一任し、
自身は蓄財を好んでしばしば売官を行い、宮殿造営などの大造作を行った。
184年に起こった道教的農民叛乱“黄巾の乱”は河北全域に拡大し、
黄巾軍鎮圧の過程で各地に軍閥が割拠した事から、後漢は事実上滅亡した。
朝廷は兗州軍閥の曹操?に支配され、曹操の子の曹丕?によって220年に簒奪される。



一般臣下(主に地方官)

シナリオ・赴任地によっては新君主やその配下候補になる。

郭勲

生年登場没年死因
184不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4836485650

【カククン】
後漢の幽州刺史。太原郡晋陽県の人。涼州刺史・郭閎の弟。
184年4月、黄巾軍によって広陽太守・劉衛とともに殺害された。

※黄巾の乱当時の本来の幽州刺史だが、『三國志』シリーズでは演義に従い、劉焉?が幽州刺史(演義では幽州「太守」)なので出番の無い気の毒な人。
ちなみに、郭勲の後任の幽州刺史は、時期的に陶謙?である可能性が高い。

劉衛

生年登場没年死因
184不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4247364748

【リュウエイ】
後漢の広陽太守。184年4月、広陽の黄巾軍によって戦死した。

王芬

生年登場没年死因
188?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5136455871扇動名声動転覇道

【オウフン】
後漢の冀州刺史。
霊帝を廃立し、合肥侯を擁立するクーデターを企て、許攸・周旌・陳逸・襄楷らと謀議した。
襄楷が「天文は宦官に不利で、黄門・常侍ら貴人は滅びましょう」というと陳逸は喜び、王芬は「もしそうなら、駆除したいものだ」と言った。
曹操華歆も誘ったが、いずれも断られている。
霊帝が河間王時代の旧宅への行幸をすることになった時、王芬らは好機と見て黒山賊の討伐を上書し、兵を集めた。
たまたま北方に赤光があり、太史が天文から陰謀の存在を占って霊帝を制止した。王芬らもまた募兵を止めるよう命じられ、
王芬は陰謀が発覚したと恐れて自殺した。

親愛武将:許攸
嫌悪武将:蹇碩、張譲

※合肥侯の実名は不明。

秦頡(初起)

生年登場没年死因
186不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7275263933崩壁不屈兵器強化王道

【シンキツ(ショキ)】
後漢の南陽太守。南郡鄀県の人。
184年3月、黄巾軍の張曼成に、南陽太守の褚貢が討たれた。
秦頡は後任の南陽太守となり、朱儁の協力を得て、役所のある奪還を狙った。6月、張曼成を討った。
黄巾軍は、さらに趙弘韓忠(黄巾)・孫夏を大将として抵抗を続けたが、いずれも後漢軍によって討たれ、後漢は宛の奪還に成功した。
186年2月、江夏の兵・趙慈が背き、秦頡は殺された。趙慈は荊州刺史・王敏が討った。

駱俊(孝遠)

生年登場没年死因
197不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5246687570農政調達文事軍備割拠

【ラクシュン(コウエン)】
会稽?の人。駱統?の父。
文武の才能に秀で孝廉に推挙され、尚書郎となった。
後に陳国の相として陳王の劉寵を補佐し、戦乱の中で富国強兵策を進めて陳国は物資も豊富で安全であった。
袁術?のことを憎んでおり、袁術が食料に困って援助を求めるとこれを拒絶した。
袁術はこの事で駱俊を恨み、刺客を送り込んで劉寵と駱俊を殺害した。
その妻は後に華歆?の側室となった。

陸康(季寧)

生年登場没年死因
126195不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7069556970名声振興地域振興割拠

【リクコウ(キネイ)】
後漢末の政治家。陸績?の父。
刺史の臧旻により茂才に挙げられ、渤海郡高成県令となった。
治績を評価されて武陵?郡の太守となり、続けて桂陽?、楽安の守りを評価された。
霊帝が銅銭を鋳造する財源を確保する為の耕地への課税に反対したが、
讒言を受けて免官となった。
黄穰らの反乱を鎮圧後、霊帝が崩御した為廬江?太守に留任した。
孫堅?一家が面会を求めた際に拒絶しており、孫策?に恨まれる。
徐州牧陶謙?の死に乗じて袁術?は徐州攻略を企図し、彼に援助を求めたが、
これを拒絶し、交戦状態となった。
袁術が派遣した孫策?軍に廬江郡の治所である舒を
数箇月に亘り兵糧攻めされ一族100名以上を喪う。
敗北直後に「病死」した。

劉寛(文饒)

生年登場没年死因
120185自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
218827882泰然名声振興学者占術太学王道

【リュウカン(ブンジョウ)】
後漢末の政治家。弘農郡華陰の人。
梁冀が実権を握っていた時期に召し出され、東海相・南陽太守などを歴任後、
霊帝の時代に召し出されて、侍中から宗正・光禄勲を経て2度にわたって太尉を務める。
黄巾党の不穏な動きを事前に上奏したことから、黄巾の乱後に褒賞が与えられた。
易や星官、風占いなどに通じ、何事にも動じない温厚な人物であったが、
酒を好んで酒宴で大いに酒を飲んだ後に霊帝に泰然自若な態度で経書を講義したという。

傅燮(南容)

生年登場没年死因
187不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8068726773剛将明鏡泰然屯田親羌

【フショウ(ナンヨウ)】
後漢の武将、政治家。元の字は幼起。
護軍司馬として皇甫嵩?と共に張角?討伐で活躍し、
卜巳、張伯、梁仲寧ら黄巾の将帥を斬って多大な戦功を上げる。
災禍の原因が宦官である事を上疏したため宦官に憎まれた。
辺章・韓遂?らが反乱を起こすと、涼州を切り捨てようとする朝廷の動きに反対した。
黄巾の乱の論功を巡って宦官にさらに恨まれ、朝廷を出て漢陽太守となる。
漢陽で善政を敷き、羌族も温情に懐いて屯田するが、刺史の耿鄙の失政により韓遂に漢陽を包囲される。
王国の投降勧告に不屈を貫き、息子の傅幹?を逃した後に戦死した。

蓋勲(元固)

生年登場没年死因
141168191自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7877827485詐謀諌止胆力親羌文事軍備王道

【ガイクン(ゲンコ)】
後漢の武将、政治家。
左昌の横領を諌めて怒りを買い、辺章の反乱討伐に派遣され数々の戦功を立てる。
左昌が包囲されると救援に向かい、反乱軍の罪を責めて動揺させ包囲を解かせた。
夏育の救援では傷を負いながら奮戦するも敗れ捕縛されるが、義勇に心服した羌族により解放された。
討虜校尉となると宦官を批判し、劉虞?袁紹?らと禁軍を統べて宦官排除を謀った。
京兆尹への遷任後も霊帝の信頼は厚く、軍や国政の機密を詔問された。
権力を握った董卓を討つ機会を狙い、董卓からも智略の明るさを畏れられたが、
腫物ができ失意のうちに没した。

嫌悪武将:董卓

朱皓(文明)

生年登場没年死因
197?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義性格
7173514034

【シュコウ(ブンメイ)】
朱儁?の子。195年に予章太守に任命されるが、予章には既に袁術が任命した諸葛玄が太守として派遣されていた。
そのため、朝廷では劉繇に朱晧の支援を命じ、朱晧は劉繇軍の笮融の支援を受けて諸葛玄の排除に成功する。
その後、諸葛玄は笮融が扇動した暴動で殺されて甥の諸葛亮は劉表を頼り、朱晧もまた笮融に暗殺されたという。

※正史(蜀書諸葛亮伝と呉書劉繇伝)でも記述が食い違っているため、矛盾ないように整理してみました。嫌悪武将に笮融が入り、反対にゲームに出ていれば諸葛兄弟の嫌悪武将として設定されていておかしくない人物です。

朱符

生年登場没年死因
197?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3435225334徴税強欲業火侵略荒廃名利

【シュフ】
後漢の政治家。会稽郡の人。交州刺史。朱儁?の子で朱皓の兄。
同郷の劉彦や虞褒を重用して各地を治めさせ、民衆から重税を取り立てた。
その結果反乱が起こり、海に逃れたが異民族に殺された。

※後任の交州刺史の張津は197年頃の赴任なので、それ以前の死去か。
朱符の死後、士燮?一族が交州一帯の実権を握ったようだ。

張津(子雲)

生年登場没年死因
不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6360415531教化短慮突撃軍制改革王道

【チョウシン(シウン)】
後漢の臣。荊州南陽郡の人。交州刺史。
朱符の後任として、交州に赴任した。
隣接する荊州牧の劉表と争い、寡兵にもかかわらず出兵を繰り返したため兵からの反発を受ける。
それを引き締めようとしたため、配下の区景に殺された。

嫌悪武将:劉表

陳温(元悌)

生年登場没年死因
193不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6047465250召募動員連弩戸籍整備名利

【チンオン(ゲンテイ)】
後漢末の揚州刺史。豫州汝南郡の人。『九州春秋』では「陳禕」、192年の死去とする。
190年、曹操が反董卓連合に加わると、兵士の少なさを補うため、丹楊(丹陽)で募兵した。
陳温はかねてから曹洪?と親しかったため、丹楊太守・周昕と協力して四千人ほど集めたが、
その多くは謀反し曹操の元に残ったのは五百人ほどだった。
193年、袁術に殺され揚州を奪われた。

ただし『英雄記』では病死とし、袁紹は袁遺?を、袁術は陳瑀を派遣して揚州を争った。陳瑀が勝利し、袁術が支配したという。

親愛武将:曹洪、周昕

盛憲(考章)

生年登場没年死因
155204不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4742657172名声眼力斉射鎮静三令五申礼教

【セイケン(コウショウ)】
後漢の臣。揚州会稽郡の人。
孝廉に推挙されて尚書郎となり、後に呉郡太守となるが許貢?に郡を奪われて追放されてしまう。
許貢が孫策?に殺害されると太守に復帰するが、病気を理由に辞職。
孫氏と呉越の名士の対立を知った友人の孔融?の計らいで、曹操?より騎都尉に任命されるが、任命書が届く前に孫権?により殺害された。
息子の盛匡は曹操の下に逃れた。部下の媯覽?孫翊?に従うが、後にこれを暗殺した。
※親愛武将:媯覽・孔融
※嫌悪武将:許貢・孫権

高岱(孔文)

生年登場没年死因
不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6851757781人脈論客一心血路寡欲斉射鎮静政令徹底王道

【コウタイ(コウブン)】
後漢の臣。揚州呉郡の人。
生まれつき聡明・無欲で信義を重んじ、才能ある人物を世に知られる前に見抜いては交友した。
呉郡太守の盛憲に孝廉に推挙され上計となる。
許貢が呉郡を乗っ取ると、高岱は盛憲を避難させ徐州刺史の陶謙に援軍を求めた。
その後、何者かの讒言を信じた孫策に投獄されてしまう。
高岱の赦免を訴える人々が数里先にまであふれていたため、その人望を恐れた孫策に処刑された。

嫌悪武将:許貢

唐瑁

生年登場没年死因
193?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義性格
4035586658

【トウボウ】
後漢の政治家。潁川郡の人。会稽?太守。弘農王・劉弁に嫁いだ唐姫の父。
劉弁が董卓に殺害されると、唐瑁は唐姫に再婚を勧めたが、応じることはなかった。

王朗?が会稽太守として赴任したのは193年。それ以前の死去だろうか。

龐徳公

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4444878771学者眼力名声礼教

【ホウトクコウ】
襄陽の名士であり、人物鑑定の大家。子は龐山民。孫は龐渙。従子は龐統。なお、西涼の龐徳とは、特に血縁関係はない。
荊州の襄陽に住み、親交があった司馬徽を「水鏡」、諸葛亮を「臥龍」、そして龐統を「鳳雛」と名付けたという。
正史『三国志』では、劉備が劉表の客将だった頃に司馬徽を訪ねた際、その弟子の牧童が劉備に話した言葉の中に、龐統の従父としてその名が言及されている。
また、子は諸葛亮の姉と結婚しており、諸葛亮とは縁戚関係にあたる。

※初代三國志の龐徳の武力と知力の設定がおかしかったのはこの人と混同したからという説が有力。
なので初代三國志の龐徳の武力と知力と魅力(カリスマ)をそのまま入れてみました。(統率は武力と、政治は知力と同じ数値に)

鄭玄(康成)

生年登場没年死因
127200自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
613827481学者論客輿望名声眼力礼教

【テイゲン(コウセイ)】
中国後漢末期の学者。青州北海郡高密県の出身。姓名読みはジョウゲンとも。
22歳で太学へ進んだ。京兆の第五元先から『京氏易』・『公羊春秋』・『三統歴』・『九章算術』を学んだ。
さらに東郡の張恭祖から『周官』・『礼記』・『左氏春秋』・『韓詩』・『古文尚書』の講義を受けた。
鄭玄はそれだけに飽き足らず、当時一流の儒学者だった馬融の元に盧植とともに留学した。
勉学に勤しむ事10数年、鄭玄は郷里に戻る事になった。馬融は非常にこれを惜しんだという。
霊帝の末年、党錮の禁が解除されると、何進が鄭玄を招こうとした。何進は厚遇し丁重に扱ったが、鄭玄は一泊しただけですぐに逃走したという。
それだけでなく、袁隗・董卓・袁紹らから何度か招聘されたこともあったが、学問の研鑚に生涯を捧げる心構えだったため、全く仕えなかった。
建安5年(200年)春、夢枕に孔子が現れたため、鄭玄は自分の寿命が近い事を悟った。やがて病を得て寝たきりとなった。
同年6月に死去した。74歳であった。葬儀は薄葬とするよう遺言したという。
演義でも高名な学者というのは変わりがなく、劉備が袁術を討った後、曹操から自立して袁紹と手を結ぶのに協力し、依頼を受けて袁紹への推薦状をしたためている。
袁紹は袁術を討った劉備を恨んでいたが、鄭玄の手紙を見て劉備への態度を一転させ、同盟関係を結ぶ事になっている。

王叡(通耀)

生年登場没年死因
189?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義嫌悪武将
6362434548高慢
6362434538高慢惰弱挑発地域巡回名利

【オウエイ(ツウヨウ)】
劉表?の前任者の荊州刺史。徐州琅邪郡臨沂県の人。世にいう琅邪王氏。弟の子が王祥?
187年、孫堅?と共に区星?らの反乱を鎮圧した。しかし孫堅を武官とみて見下し、失礼な言動が多かった。
董卓討伐の挙兵をするも、不仲だった武陵?太守の曹寅を先に殺そうとした。そこで曹寅は、
王叡討伐の檄文を偽造し、孫堅をけしかけた。孫堅は渡りに船と王叡を襲撃し、追い詰められた王叡は自害した。
一族は、魏に仕えるまで廬江?に疎開していたという(陸康か、あるいは已むなく孫策?に仕えた事を指すか)。

嫌悪武将:孫堅、曹寅

曹寅

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4247694931消沈混乱縦横術割拠

【ソウイン】
後漢末の武陵太守。
荊州刺史の王叡と不仲で、王叡は董卓討伐に先だって曹寅を討とうとした。
そこで曹寅は、温毅の名で王叡討伐の檄文を偽造し、孫堅をけしかけた。
結果、孫堅によって王叡は自害させられた。
その後、劉表が荊州刺史として乗り込んでくると、威名を恐れ太守を辞職して去った。その後の消息は不明。

嫌悪武将:王叡

張咨(子議)

生年登場没年死因
190不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3736575266高慢足止縦横術名利

【チョウシ(シギ)】
後漢末の南陽太守(治所は宛)。豫州潁川郡の人。
董卓が朝廷の実権を握ると、周毖・伍瓊の進言で党人の有力者を官職に任じて懐柔しようとした。
張咨もまた、南陽太守に取り立てられたが、他の有力者と同様、反董卓連合に参加しようとした。
孫堅が北上してくると、酒宴の席を設けたが、「道路を修復せず、義兵の進軍を妨害している」と糾弾され、殺された。
『英雄記』によると、兵糧の援助を拒否した為に殺されたという。
張咨の死後、宛は袁術?の支配下となった。

※伝統的に、反董卓連合シナリオでは宛は袁術支配下だが、正史準拠の場合、シナリオ開始時点ではまだ張咨が太守である。
シリーズでは『三國志Ⅱ』のみ董卓配下として登場。知力27武力36魅力52(157年生まれ)で、無能に近い。

李旻

生年登場没年死因
190不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5762465257惰弱方円強化礼教

【リビン】
潁川太守。恐らくは豫州刺史の孔伷?に従って反董卓連合に参加。
孫堅と共に梁の戦いに参加して董卓軍の徐栄?と交戦するが、敗れて捕虜となり、董卓軍の陣地で煮殺されたという。

親愛武将:孔伷

焦和

生年登場没年死因
191?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3338464730小心動転惰弱城壁拡張割拠

【ショウカ】
青州刺史。反董卓連合に参加するも、曹操?徐栄?に敗れると、早々に帰国してしまった。
政治的能力に乏しかったとされ、袁紹?公孫瓉?の対立に手を拱いているうちに病死してしまう。
焦和の後任として、袁紹は臧洪?を、公孫瓉は田楷?を送り込むが、
北海太守の孔融?が田楷についたために、公孫瓉優位の状況となった。

郭貢

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2645573724動転侵略荒廃我道

【カクコウ】
豫州刺史。恐らくは袁術?もしくは李傕?系の人物。
曹操の陶謙?攻撃中にその本拠地に攻め入るも、荀彧?の沈着振りに恐れて退却。

蘇固

生年登場没年死因
191?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2223384979小心動転方円強化割拠

【ソコ】
扶風郡の人。後漢末の漢中太守。
劉焉?は五斗米道の張脩・張魯?に命じ、蘇固を攻撃させた。
部下の陳調は守りを固めるよう進言したが、蘇固は逃げ出して趙嵩を頼り、隠れ家に逃げ込んだ。
趙嵩が出掛けて帰って来ないので、心配になって召使いを使わしたが、召使いが劉焉軍に捕まり
居場所が発覚し、攻め殺された。蘇固の一族もまた殺された。

趙嵩

生年登場没年死因
191?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4581484163疾走怒髪血路

【チョウスウ】
南鄭県の人。後漢末の漢中主簿従事。
劉焉?は五斗米道の張脩・張魯?に命じ、蘇固を攻撃させた。
趙嵩は身を寄せてきた蘇固を連れて逃走し、やがて匿う場所を探すため蘇固と別行動を取った。
ところが戻ってみると、蘇固はすでに張脩の手兵に殺されていた。
趙嵩は怒り悲しみ、剣を片手に張脩軍の本陣に飛び込んで十人余りを殺し、張脩を捕まえる寸前、戦死した。

※統率知力政治は特に事績がなく、特に悪い話も残っていないので40台。(蘇固配下は少ないので、最低限使える能力にとどめておきたい)
 太守から逃げる場所に選ばれた魅力と、切り込んで大将首を取りかけるところまでいったので武力を一騎討ち水準まで底上げ。上げすぎ…?
 怒りに怒髪、逃走から飛び込みまでずっと走ってるので疾走。失敗したものの、別行動しなければ…ということで血路。

張導(景明)

生年登場没年死因
不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6055688081地利築城論客工法改革王道

【チョウドウ(ケイメイ)】
河内郡修武の人。鉅鹿太守。
漳水が渡し場で氾濫して農作ができなくなったとき、
張導は地図を開いて水の流れる方向や屈曲を調べ、堤防を築いて流れを正した。
山東で義兵が起こると、張導が盟約を結ぶ儀式として壇上に登って血をすすった。
その後袁紹の命令を受けて奔走し、韓馥に冀州牧の印綬を袁紹に譲らせたが、
朝廷に敬意を表して爵位を賜ったことを袁紹に咎められ、一族皆殺しにされた。

楊原

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6858615576召募求心法律小心運搬開発王道

【ヨウゲン】
後漢末期の人物。中牟県令。
混乱に乗じて政権を握った董卓に対し、袁紹・袁術・曹操といった関東の諸侯が挙兵したので、
動乱を避けるために官を捨てて逃げようとしたが、
同県出身の任峻・張奮の勧めで河南尹の事務を代行し、郡を挙げて曹操に帰順した。

劉範

生年登場没年死因
194不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5137646267扇動地勢研究礼教

【リュウハン】
劉焉の長男。父が益州に着任した後も中央に仕えており、董卓によって左中郎将に任命されている。
194年に馬騰と李傕が対立した際、父の命で馬騰に協力。侍中(諌議大夫ともされる)馬宇・前涼州刺史の种劭・中郎将の杜稟ら協力者を得るが、
内応前に計画が露見。槐里に逃れて抗戦するが、長平観で馬騰・韓遂を撃破した樊稠に包囲され落城。協力者もろとも捕らわれ斬首された。
長安に留まっていた同母弟の劉誕も処刑され、長安で兄弟揃って晒し首になった。息子たちの死を聞いた劉焉は大いに悲しみ、心労からかその年のうちに死去した。

劉翊(子相)

生年登場没年死因
不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3018687089富豪慈悲名声治療本草学王道

【リュウヨク(シソウ)】
後漢末期の政治家。代々の資産家で、惜しみなく施しを好んだ。
黄巾の乱が起こると郡県では戦災被害者が多く出た際に、劉翊は私財を投じて彼等を助け、数百人が生きながらえた。
長安遷都の後に朝廷から上計掾に招聘され、陳留太守に上った。
後に劉翊は拝領した宝物を残し、自身で馬車を操り故郷へ帰ろうとした。
途上で病死した士大夫を見つけると、馬を売って棺を買い、自分の着物を着せて葬ってやった。
牛に乗りさらに進み、旧知の人が窮乏しているのを見かけると、牛を殺して振る舞った。
その結果、故郷に着く前に劉翊は餓死してしまった。

陳瑀(公瑋)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6953676460優柔混乱縦横術我道

【チンウ(コウイ)】
下邳郡の人。陳球の長男で陳登の従父。陳珪の従弟。弟に陳琮。
揚州刺史・陳温の死後、袁術によって後任として送り込まれた。
袁紹が派遣した袁遺が敗戦のため揚州を去ると、袁術の命により揚州刺史となる。
しかし袁術に攻撃されると、弟・陳琮を使者として袁術に和睦を乞うた。しかし一蹴されたため下邳に逃れた。
袁術が皇帝を僭称すると、詔勅で孫策と協力して袁術を討伐するよう命じられた。
しかし陳瑀は海西に駐屯し、厳白虎・祖郎らと手を組み孫策を襲撃しようとした。
しかし孫策軍の呂範・徐逸に大敗し、単騎で袁紹の元に逃れた。

張機(仲景)

生年登場没年
150年219年(自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4126626572医術治療本草学礼教

【チョウキ(チュウケイ)】
後漢末期の政治家・医者。
荊州南陽郡涅陽県の出身で建安年間初期に長沙太守を務めていた。
若年時に医術を学び一族の多くを疫病で失った事から官を辞して
医学の研究に没頭し、「傷寒論」、「金匱要略方論」を著した。

張猛(叔威)

生年登場没年
210年
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6870435046強奪長蛇強化覇道

【チョウモウ(シュクイ)】
張奐の三男。兄に張芝、張昶。
父の武名もあり建安年間に武威太守に任命される。
雍州刺史・邯鄲商と共に任地へ赴く道中で仲違いし殺されそうになったため逆に兵を率いて殺害。
この行為が反乱とみなされ朝廷の命を受けた韓遂に討伐され、自害に追い込まれた。

在野

張世平

生年登場没年死因
148184223自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
816627063調達富豪

【チョウセイヘイ】
馬を商う豪商。演義オリジナル……では無く、正史にもしっかり登場する。
[演]蘇双と共に、馬の売買のため行商していたところで黄巾の乱に遭う。
劉備、関羽、張飛が桃園で義兄弟の契りを結んで軍備を整えていることを知り、良馬50頭と軍資金を提供した。
劉備らはこの軍資金を元に雌雄一対の剣、青龍偃月刀、蛇矛を造り、500の兵を率いて黄巾討伐軍に加わることになる。
[史]中山国の豪商。蘇双と共に、涿郡で大規模な馬の行商をしていた。劉備と会って只者では無いと思い、金や財産を援助した。
劉備はこれで仲間を集めることができた。

※ステータスは三國志11準拠。正史では直接黄巾の乱の義勇軍を集めたわけではなく、それ以前の時期の出資であることがわかる。

沈儀(仲則)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
411584149慎重名声礼教

【シンギ(チュウソク)】
呉郡の人。在野の士人。沈直の次男。正史『宋書』を編纂した、梁の沈約の十世の祖。
沈約『宋書』の「自序」によると、9歳の時に父を亡くし、一つ年上の兄・沈瑜と共に喪中の礼を尽くし、大人以上に痩せ衰えた。
盛憲は非常に心配して、「おまえ達は将来のすぐれた人材なのに、どうして礼制を超えて自分を殺そうとするのか」
と忠告した。しかし三年の服喪をやり遂げ、兄弟はほとんど死にそうなありさまだったので郷里の賞賛を受けた。
兄はほどなく死去したが、沈儀は学問の才能があり、儒学に専念した。後漢末の戦乱の中、沈儀は士大夫道を守り、
交際相手も選んでいた。親類の字を仲山・叔山や、呉郡出身の陸公艇と親交があった。
州郡や二つの公府から仕官の誘いがあったが断り、さらには公車(朝廷の公務車)を差し向けられ招聘されたが、仕官することなく死去した。
子の沈憲は呉に仕えた。

親愛武将:陸績

※陸績は187年(または188年)生まれなので、前後数年の生まれか。

列女

唐氏

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
76533761傾国本草学王道

【トウシ】
唐瑁の娘で弘農王・劉弁の正室。ただし皇后位には就いていない。
劉弁の「庶人と再婚するな」という遺言を頑なに守り、父の持ってきた再婚話を断っている。
大義名分としての利用価値を見出したのか李傕からも求婚されたとされる。
賈詡?がこの事を献帝に報告すると、献帝は哀れに思い、劉弁の陵園に住まわせて弘農王妃とした。

伏壽

生年登場没年死因
214不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
116485565応援本草学王道

【フクジュ】
伏皇后。伏完の娘。
190年、献帝の貴人に取り立てられ、195年に皇后となった。
董承?の謀殺未遂事件の末路を受け曹操の危険性を書簡で父に伝える。
それが後に露見し曹操に誅殺された。