みんなの新武将/後漢末~三国/後漢末群雄(南方)

Last-modified: 2023-09-21 (木) 16:10:28

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

後漢末(184~220)

後漢第12代の霊帝は中常侍の張譲を阿父と尊称して宦官に政治を一任し、
自身は蓄財を好んでしばしば売官を行い、宮殿造営などの大造作を行った。
184年に起こった道教的農民叛乱“黄巾の乱”は河北全域に拡大し、
黄巾軍鎮圧の過程で各地に軍閥が割拠した事から、後漢は事実上滅亡した。
朝廷は兗州軍閥の曹操?に支配され、曹操の子の曹丕?によって220年に簒奪される。



五斗米道(張修・張魯)軍

※巴氐には五斗米道の信者が多くいたと伝わる。みんなの新武将/異民族・賊徒(羌・氐)#x64ef80dを参照。

張修

生年登場没年死因
191?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【チョウシュウ】
五斗米道の指導者。一説には張魯?の父とも。
黄巾の乱に呼応して、馬相と共に反乱を起こした。
反乱が鎮圧された後は劉焉?の配下となり、張魯?と共に漢中太守を殺害して朝廷との連絡を遮断した。
しかし張魯に殺害され、軍勢を奪われた。

張富(元微)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4842676378農政米道地域振興割拠

【チョウフ(ゲンビ)】
張魯の長男。父の死後食邑を継ぎ、魏に仕えた。道教の『歷世真仙體道通鑑』では「張滋」。
『三国志』の記述はほとんど無いが、『歷世真仙體道通鑑』によると、
丞相掾給事、黄門侍郎、漢中太守を歴任した。漢中は蜀漢の手にある状況で、名目上ではあるが、
父と同じ都市の太守に任命されたことになる。

張盛(元宗)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5526745182節約慈悲米道頑健地域振興割拠

【チョウセイ(ゲンソウ)】
張魯の三男。また、張衛?の四男説もある。道教の『歷世真仙體道通鑑』によると、五斗米道教団は彼が継ぎ、第4代天師とされる。
魏では奉車都尉、散騎侍郎を歴任し、西晋にも仕えた。西晋の永嘉年間(307-313)、辞職して江南に渡り、龍虎山を新たな教団の本拠にしたという。
また、魏の官職を受けずに、三国時代に龍虎山に渡ったという説もあるが、どうやって呉の支配下だった同地に渡ったのかは定かではない。
真偽は不明だが、道教の正一教の教祖である張天師の地位は、張盛の子孫が世襲して現代に至るという。

※系図を信じるなら百歳前後の長寿だが、粉飾が疑われている。張天師の系図は、ある程度信憑性が出てくるのは北宋に入ってからという批判があり(「道教・民間信仰における元帥神の変容」)、
張盛の記述も、複数人の事績が混じっているのかも知れない。

姜合

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1811706177占術明鏡政令徹底礼教

【キョウゴウ】
武都の人。漢中の張魯に身を寄せていた。
内学(予言術)に長け、関右で名を知られていた。
曹操が魏国を建立したという報が届いたとき、辺境の人々は彼が王位に就いたのだろうと思ったが、
姜合は孔子の玉版を根拠に
「公になったのであって、まだ王位に就いていない。いずれ天下を定めるのは魏公の子桓(曹丕)様です」と予言した。
このことから張魯は曹操に帰服したいと考えるようになった。
曹操が漢中平定の軍勢を催すと、姜合は一足早く帰順したが、しばらくして鄴で病没した。

李伏

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6155636653慎重小心地域巡回割拠

【リフク】
張魯の配下。
曹操が魏国を建立したとき、姜合は「いずれ天下を定めるのは魏公の子桓(曹丕)様です」と李伏に予言した。
李伏がその言葉を張魯に言上し、密かに議論した結果、張魯は曹操に帰服したいと考えるようになった。
魏朝に出仕したのち、たびたび姜合の言葉を奏上したいと考えていたが、自分が新参者であったため咎を恐れて発言できなかった。
しかし、曹丕が魏王に即位したのち、瑞兆が相次いで報告されたことから、ついに姜合の言葉を奏上することになった。
李伏の奏上を曹丕は却下したが、これを皮切りに重臣たちが相次いで曹丕の即位を勧め、ついに曹丕の皇帝即位(漢魏革命)が実現することになる。

李休(子朗)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6660715567詐謀智嚢墨守研究覇道

【リキュウ(シロウ)】
張魯の配下。李勝の父。
智略の持ち主で、漢中で甘露が降り注いだことがあり、張魯が精鋭数万人を抱え四方も堅固であったことから、
「赤気は長いあいだ衰えておりますので、黄家が勃興するはずです」と言上し、張魯に王号を称えさせようとした。
しかし張魯は閻圃の諫言をいれて、賛成しなかった。
張魯が曹操に敗れたとき、李休は帰順を勧めた功により関内侯の爵位を賜り、散官騎従に任命され鄴へ参詣した。

益州・劉焉・劉璋軍

劉雋

生年登場没年死因
185?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4325532633学者強欲

【リュウショウ】
後漢末期の益州刺史。185年に死去した劉寛の碑陰では「劉僬」。
184年の黄巾の乱時点での刺史か。霊帝が劉焉?に命じたところによると、
後任の郤倹ともども貪婪で狼藉を働き、民衆の怨嗟で地に満ちていたという。

郤倹

生年登場没年死因
188?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2730461829強欲

【ゲキケン】
恐らく劉雋の後任の益州刺史。郤揖の父。郤正?の祖父。
租税の取立が過酷で、人民は苦しんだ。
朝廷では逮捕して劉焉?に更迭することが決めたが、その前に反乱を起こした馬相らに殺された。
没年は『華陽国志』に従うなら185年、『後漢書』に従うなら188年。

李升

生年登場没年死因
188?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4340324841

【リショウ】
後漢末期の緜竹県令。反乱を起こした馬相らに、最初に攻められて死亡した。

趙部

生年登場没年死因
188?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3726474147

【チョウブ】
後漢末期の巴太守。反乱を起こした馬相らに討たれた一人。

燕邠(元侯)

生年登場没年死因
188?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2055434962

【エンヒン(ゲンコウ)】
郤倹配下。益州従事。董馥・張胤と葭萌に向かう途中、郤倹が殺されたと聞き、
郤倹の元に行き仇討ちしようと主張した。しかし二人に断られ、
「使君(刺史)が既に死んだのに、私が生きていて何になろうか」と言い残して自害した。
のちに劉焉が入蜀すると、燕邠の節義を讃える一方、董馥・張胤を誅殺した。

王咸

生年登場没年死因
190?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4136405357

【オウカン】
恐らく趙部の後任の巴太守。
入蜀した劉焉は、王咸・李権ら益州の有力者10人余りを、他事にかこつけて殺し見せしめとした。

李権(伯豫)

生年登場没年死因
190?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3146556329

【リケン(ハクヨ)】
益州梓潼郡の人。臨邛県長。
益州有力者の一人で、劉焉に粛清された。
子の李福?は蜀漢に仕えた。

賈龍

生年登場没年死因
191不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7762767283堅守地利輿望召募胆力

【カリュウ】
益州蜀郡の豪族。益州従事。馬相が犍為郡に侵攻した際、官民合わせて千人の軍勢で、
10倍以上の馬相軍を返り討ちにし、反乱鎮圧に導いた。
鎮圧後、劉焉?が益州牧として赴任すると、賈龍は緜竹で出迎えた。
しかし劉焉が後漢からの独立を企て、王咸ら有力者10人余りを殺して豪族弾圧を強めると、
犍為太守の任岐と共に反乱を起こすが、劉焉?擁する青羌兵によって討たれた。

任岐

生年登場没年死因
191不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5265375256

【ジンキ】
蜀郡の人。犍為太守。賈龍に呼応して劉焉に反乱を起こし、将軍を自称した。
劉焉を攻めるが返り討ちにされた。

陳超

生年登場没年死因
191不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5047254345

【チンチョウ】
益州従事。任岐に従って劉焉に反乱を起こすが、返り討ちにされた。

趙韙

生年登場没年死因
201不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6452367063

【チョウイ】
巴西郡安漢県の人。始め中央に出仕していたが、劉焉の入蜀に従い益州に戻り、益州帳下司馬となる。
劉焉の死後、劉璋?が温和で操りやすいと判断し、王商らと共に、劉璋を益州刺史に任命するよう朝廷(李傕?政権)に推薦した。
朝廷は、劉璋を益州牧(州刺史より上位)に任命した。
のち、劉璋と感情的に隙ができ、劉璋に兵を向けようとしたが、誅殺された。
『英雄記』によると、劉璋の私兵である東州兵が好き勝手に振る舞い、住民の恨みを買っていた。
趙韙は住民の支持を得て謀反を企て、劉表?に和議を乞い、州内の有力者を抱き込んで謀反を起こしたが、
東州兵は必死に防戦し、最期は龐楽・李異に裏切られ殺された。

※陳寿の記述では、積極的に謀反を起こそうとしたのでは無く、名前のいえない誰か
(西晋まで残った有力者の家? 張魯??)に填められて暴発した結果に見える。あるいは、陳寿と同郷なのでかばった可能性もある。
なお、西晋の時代に益州で独立を企てた趙廞(本籍が同じ)は、祖父が張魯に仕えていたとあるので、趙韙の遺族が張魯を頼ったのかも知れない。

荊州・劉表軍

陳生

生年登場没年死因
191?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5765483148

【チンセイ】
江夏郡の賊。張虎(張遼の子とは別人)と共に一時は襄陽にまで攻め入って新しく荊州に入った劉表を脅かしたが、蒯越の説得に応じて帰順した。
『演義』ではその後江夏に入った黄祖の配下に組み入れられて孫堅軍と戦い、孫堅に射殺された。

※『三国志Ⅲ』では158年生
※何故か『横山三国志』では、上記説明よりも10年以上も後に劉表の客将になっていた劉備に討伐されて張飛に討たれており、これでは正史や演義とは別人である。

劉脩(季緒)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1916605852詩想短慮罵声太学割拠

【リュウシュウ(キショ)】
魏の政治家。劉表の三男。
父の死と劉表勢力の降伏後は兄の劉琮と同じく魏に仕えて東安太守となる。
父と同じく文人でもあったが楊脩に対してその文章を批判した事があり、
これに対し曹植は劉脩を楊脩以下の文才の人物が楊脩を批判していると否定し、
楊脩も劉脩の事は気にしていないと返答している。

張羨軍

張懌

生年登場没年死因
202?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6372444052不屈地勢研究割拠

【チョウエキ】
張羨?の子。
父の死後、長沙?の有力者に擁立され、劉表?と戦い続けた。
しかしついに劉表軍に平定された。その後の生死は不明。

士燮・交州軍

桓治

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5160524849怒髪三令五申割拠

【カンチ】
士燮の臣。桓鄰の兄。
弟が孫権への反乱を企てた士徽を諫めて殺されたため激怒し、甥桓発と共に蜂起した。
士徽は交趾の城門を固めて防戦に徹したため数ヶ月かけても攻め落とすことができず、ついに和睦した。
しかしこれは孫権に対して軍備を整える時間を与える結果となり、士徽は孫権の派遣した呂岱に敗れ降伏したが許されず誅殺された。
この後桓治は甘醴と共に呂岱に対しても反乱を起こしたが大敗した。

桓発

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4763454147怒髪魚鱗強化割拠

【カンハツ】
士燮の臣。桓鄰の子。
父が孫権への反乱を企てた士徽を諫めて殺されたため激怒し、叔父桓治と共に蜂起した。
士徽は交趾の城門を固めて防戦に徹したため数ヶ月かけても攻め落とすことができず、ついに和睦した。
しかしこれは孫権に対して軍備を整える時間を与える結果となり、士徽は孫権の派遣した呂岱に敗れ降伏したが許されず誅殺された。

甘醴

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6058383455召募地域巡回割拠

【カンレイ】
士徽の臣。
孫権に対し反乱を起こした士徽が降伏の後呂岱に騙し討ちにされると再び蜂起。桓治と共に九真郡の官吏や庶民を率いて呂岱に攻めかかったが大敗した。
呂岱の軍は九真を平定し、これをもって士徽の乱は決着した。

士幹

生年登場没年死因
227不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5548394445惰弱雁行強化割拠

【シカン】
交趾太守士燮の四男。
父の死後に兄の士徽と共に孫権に対して反乱を起こし、降伏したが呂岱に殺された。

士頌

生年登場没年死因
227不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5146424146惰弱方円強化割拠

【シジュン】
交趾太守士燮の末子。
父の死後、兄の士徽と共に孫権に対して反乱を起こし、降伏したが呂岱に殺された。

士陏

生年登場没年死因
229不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4636616458教化戸籍整備礼教

【シカイ】
交趾太守士燮?の弟。
徐聞県令を務めていたが、交趾太守となった兄の推挙により九真太守に任命された。
甥の士徽?が反乱を起こしたために庶民に落とされ、数年後に兄の士壱?と共に罪をかけられ殺された。

張旻

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2317656971運搬嚮導運搬開発礼教

【チョウビン】
士燮の臣。
士燮が曹操から綏南中郎将を授けられ、交州の支配を一任されると、返礼の使者として派遣された。
世が乱れて道路は断絶していたが許都へとたどり着き、その後も士燮の使者として朝廷への貢納を欠かさなかった。

牟子

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
106686372学者太学礼教

【ボウシ】
後漢の学者。交州蒼悟郡の出身。
「牟子博」とも「牟融」ともいう。経伝諸子・兵法・神仙の書などを広く学び、霊帝の末年に戦乱を避けて交趾へ移った。
その後帰国したが母の死に遭ったためそれを機に仏教を極め、さらに老子も学び、仏教・儒教・道教の三教を比較し37条にわたって問答体をとって論述した『牟子理惑論』を記した。

劉煕(成国)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2617707175学者文化太学礼教

【リュウキ(セイコク)】
後漢の学者。北海国出身。
発音から漢字を解釈する『釈名』という辞典を記したほか、『謚法』や『孟子』注を記した。
南安太守を務めていたが建安年間に戦乱を避けて交州へ避難し、同じく交州に疎開していた許慈?程秉?薛綜?らが劉煕に師事したという。

袁徽

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1411746879学者名声人脈太学礼教

【エンキ】
後漢の隠者。陳国扶楽県出身。
魏の袁渙?の従弟。儒学者として知られ、中央が戦乱に巻き込まれて乱れると交趾に避難し三公からの招聘があっても固辞した。
避難して後も荀彧?と交友があり、たびたび士燮?許靖?ら交州の名士を称える手紙を送っている。

親愛武将:士燮、許靖、袁渙

劉繇軍

于茲

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6076331518遠矢軽率斉射雁行強化我道

【ウジ】
笮融?配下の武将。
劉繇?の麾下にいた笮融に従い、孫策?と戦った。
孫策に矢傷を負わせたものの「孫策は戦死した」という偽報にかかり、孫策の陣営を攻撃。
攻撃を予測し準備していた孫策によって大敗を喫した。

王朗軍

商升

生年登場没年死因
196不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7068374244

【ショウショウ】
王朗?配下。候官県長。
王朗が孫策の攻撃を受け、東冶に逃れると、商升は王朗のために挙兵した。
孫策の派兵した韓晏を撃退するが、続いて賀斉?が攻め込んでくると、その威名を恐れ、賀斉の説得に従い印綬を差し出した。
ところが、降伏を不服とした張雅・詹彊らによって殺された。

梅成軍

梅成

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5162392436賊徒

【バイセイ】
後漢末の将・群雄。揚州廬江?郡の人。陳蘭?らの盟友梅乾と同一人物の説も。
常に廬江を根拠地としており、陳蘭・雷緒?らと共に廬江郡の有力者と見られる。
曹操?の荊州平定後、梅成は陳蘭と共に氐族の居住地六県を中心に反逆した。
直後に于禁?臧覇?の討伐を受けるが、表向き降伏したため于禁らは撤退し、
梅成は灊山(せんざん)に籠る陳蘭と合流する。
しかし、援軍の韓当?が臧覇に敗れ、于禁の救援で陳蘭と対峙中の、
張遼?張郃?朱蓋?らが息を吹き返したため敗北し処刑された。