注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(戦国時代(中国四国九州))
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
応仁の乱を契機とした内乱は、日本全国に広がり、世に言う「戦国時代」の始まりとなった。
畿内では応仁の乱の結末が尾を引き、足利義材と足利義澄の両足利将軍が対立、
これに天下の政局を牛耳りながらも永正の錯乱で暗殺された細川政元の後釜を巡る両細川の乱が発生した。
畿内・地方の諸侯も巻き込まれ、朝倉宗滴ら朝倉家、後に畿内の実力者となる三好長慶を輩出した三好家、中国の大内義興ら大内家も参戦。
中国では尼子経久をはじめ尼子氏が台頭、そして後にその両家を滅ぼした毛利家が躍動、毛利元就が神算鬼謀で一国人にすぎない毛利家を押し上げた。
九州では大内が衰退したのち、大友島津龍造寺らによる三勢力のみつどもえが続き、やがて島津義久ら島津家が九州で覇権を握った。
四国では三好家や一条家を押し上げて長宗我部家が勢いを増し、四国全土をわがものとしていた。
【中国地方】
大内家
大内義興
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 91 | 81 | 89 | 84 | 奸雄 | 掃討 | 詩想 | 泰然 | 文化 | 気炎万丈 | 倒山傾海 | 奮戦 | 斉射 | 罵声 | 三軍強化 | 割拠 |
【オオウチヨシオキ】
室町時代の武将。大内政弘の子供として生まれ、
周防国をはじめ7か国の守護に任命される。中国地方から北九州にまで
またがる大勢力を確保しながら、10代将軍足利義尹を保護し、畿内に上洛して細川澄元らと争う。
自ら管領代となり室町幕府の実権を握っていたが、尼子経久の台頭や細川氏、足利氏との対立もあり
領国に帰還。以後尼子氏との戦いを展開する。毛利元就の帰参もあり戦いを有利に進めるが、まもなく病死。
大内義隆
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 26 | 74 | 85 | 81 | 振興 | 徴税 | 文化 | 名声 | 消沈 | 地域振興 | 礼教 |
別案(義隆のステを晴持死去前と後に分けたもの。上が晴持死去前、下が死去後)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 76 | 84 | 88 | 84 | 振興 | 徴税 | 文化 | 名声 | 督将 | 文事武備 | 割拠 | |||||
54 | 26 | 64 | 85 | 51 | 振興 | 徴税 | 文化 | 名声 | 消沈 | 地域振興 | 礼教 |
【オオウチヨシタカ】
室町時代の武将。義興の子。彼の時代に大内家は領土的に全盛期を迎えることになる。
しかし、月山富田城での敗戦により寵愛していた養嗣子の晴持を失ったことを契機に、
領土的野心や政治的関心を失い遊興に現を抜かすことになる。
さらにこのことによって、文治派の相良武任らを重用するようになってから、
武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになり1551年、武断派によって殺されてしまう。
実は月山富田城での敗戦で、文弱になってなかった!?
この説を採用する場合の能力
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 76 | 80 | 88 | 84 | 振興 | 文化 | 名声 | 督将 | 動転 | 文事武備 | 割拠 |
一般的には
『月山富田城での敗戦により文弱化し、遊興に現を抜かすことになる
そして、そうなった大内家を憂いた陶隆房に討たれた』
というのが定説だが、最近の意見は今までと比べて
- 文弱になってないどころか、むしろこの頃に大内家の領土が最大になった
- また、落ち込んで茫然自失になるどころかちゃんと反撃に備えていた
- 実は村上水軍をこの頃に掌握していた
といった全く違った意見が出ている。
では、特に文弱になったわけではない義隆がどうして討たれたのかというと
陶隆房と義隆の意見*1が食い違ったのと陶が何度もクーデター*2を起こす予兆があったにも関わらず無視してきたというのがある。
大内輝弘
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
37 | 44 | 51 | 45 | 72 | 動員 | 名声 | 功名 | 動転 | 消沈 |
【オオウチテルヒロ】
戦国時代の武将。大内家最後の当主。大内義興の甥。
実父が本家に謀叛を起こして亡命したため、豊後国で生まれた。
その後、大内義興の母方の孫であった大友宗麟の庇護を受ける。
1568年に大友毛利の戦いの際、大友宗麟の提案を受け入れ密かに周防へ上陸。
尼子勝久と連携し大内再興を掲げて挙兵、旧大内家臣が多く集まり毛利元就を悩ませたが、
吉川元春・小早川隆景らに敗れ、自害した。
大内家の家督は幕命により大友宗麟のものとなったが、輝弘の死によって事実上大内家は滅亡している。
陶興房
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
85 | 79 | 87 | 82 | 77 | 文化 | 柱石 | 慎重 | 教唆 | 補佐 | 深謀遠慮 | 鎮静 | 急襲 | 牽制 | 井欄 | 文事軍備 | 割拠 |
【スエオキフサ】
戦国時代の武将。大内家臣。
陶氏は代々周防守護代を担った大内家の支流で兄達が相続争いの末に死亡した為に家督を継いだ。
大内家の重鎮として義興・義隆の2代に渡り政戦両面で活躍し教養人としても秀でた。
冷泉隆豊
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
73 | 78 | 69 | 62 | 67 | 水戦 | 一心 | 詩想 | 鼓舞 | 業火 | 矢嵐 | 強襲 | 水軍育成 | 割拠 |
【レイゼイタカトヨ】
戦国時代の武将。大内家臣。
大内義隆の腹心で大内水軍を統率した。
大寧寺の変では陶隆房に同心する大内家臣が続出する中で最期まで義隆に付き従い、義隆の介錯をした後に壮絶な討死を遂げた。
陶隆房/晴賢
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 86 | 58 | 53 | 67 | 掃討 | 不屈 | 果敢 | 名声 | 直情 | 突撃 | 魚鱗強化 | 覇道 | ||||
84 | 90 | 78 | 63 | 77 | 掃討 | 不屈 | 果敢 | 勇将 | 直情 | 突撃 | 魚鱗強化 | 覇道 |
【スエタカフサ/ハルカタ】
戦国時代の武将。大内家家臣。
陶家は父祖代々大内家重臣を務める家柄であり、隆房は兄が若くして戦死したため父興房の死を受けて家督を相続した。
ただし、最近の研究では興房の姉妹を妻にした大内家臣問田興之の次男で興房の養子となった説も出ている。
1540年の郡山城攻防戦で毛利元就?を救援したことを皮切りに各地を転戦した。「西国無双の侍大将」の誉れ高かった一方独断専行が多く、相良武任などの文治派や主君である大内義隆との対立を深める。
1551年に大寧寺の変で義隆、武任を討ち、義隆の姉の子・義長を擁立して事実上の権力者としてふるまうが、元就に反発され1555年に厳島の戦いで元就の奇襲に遭い敗死している。
容姿端麗であり、一説によると義隆とは衆道、武任とは恋敵の関係であったと伝わる。
相良武任
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
40 | 8 | 79 | 63 | 27 | 言毒 | 能吏 | 諫止 | 察知 | 高慢 | 名利 |
【サガラタケトウ】
戦国時代の武将。大内家家臣。肥後大名相良家の庶流。
父の代から大内家に仕えており、武任も祐筆として出仕。
義隆の覚えめでたく文治派のリーダーとして陶隆房ら武断派との主導権争いに明け暮れる。
1551年に大寧寺の変が起こると反乱を見越し主君を捨てて逃亡したが、*3
隆房の厳しい追捕から逃げられず首を討たれている。
隆房の政敵として名高いが、美女の誉れ高い自身の娘を隆房の子に娶わせようとする融和策も模索していた。
尼子家
尼子経久
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 76 | 98 | 79 | 93 | 梟雄 | 詐謀 | 節約 | 寡欲 | 策士 | 上兵伐謀 | 名利 |
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 76 | 98 | 82 | 93 | 梟雄 | 詐謀 | 節約 | 寡欲 | 策士 | 上兵伐謀 | 名利 |
大志では統率(士気)・武勇(部隊攻撃)・智謀(部隊防御)に分割されているため、各能力値を平均した数値を統率とした。
また政治も内政と外政で分割されているため、双方を平均した数値を政治としている。
【アマゴツネヒサ】
戦国時代の大名。「謀聖」と称され、11ヶ国を支配する尼子氏の全盛期を築いた。
当初は京極氏、ついで大内氏を盟主としたが、面従腹背で幕府からの追討軍派遣など
苦難を乗り越えて独自の勢力圏を築く。その後は山名氏、大内氏、三村氏、赤松氏などと
対立して勢力を伸ばしながら、毛利氏の内乱や支配圏にも介入して毛利元就を従えている。
晩年は孫の晴久に家督を譲って隠居した。尼子氏を中国地方有数の勢力にのし上げたが、
嫡男政久の戦死や三男興久の反乱、毛利元就の離反など尼子氏の衰退も始まっており、孫晴久への移譲が不十分なまま死去。
尼子晴久
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 67 | 68 | 76 | 75 | 崩壁 | 召募 | 徴税 | 妙算 | 功名 | 軍制改革 | 覇道 |
【アマゴハルヒサ】
戦国時代の大名。経久の孫。初名詮久。
父政久の戦死と兄の早世により、祖父である経久から家督を譲られた。
幕府の要請もあって東は播磨まで進出し、西は大内氏、後に毛利氏と鎬を削り最盛期で11か国も領有。
特に西の戦線では1540年に元就の本拠である郡山城を攻囲したが敗北し、
大内軍の逆襲により尼子家本拠の月山富田城まで追いつめられ、辛くも撃退するという壮絶な戦いを繰り広げた。
一方で中央集権化を進め、尼子氏の武力を担った国久率いる新宮党を滅ぼすなどしている。
血気に逸る大将と評価されたり、元就に翻弄されたりするイメージが先行するものの、
実際は石見銀山や出雲の砂鉄を産出して軍資金を確保するなど経済面に明るかった。
尼子国久
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 83 | 36 | 34 | 48 | 掃討 | 山戦 | 調練 | 名声 | 粗忽 | 鋒矢強化 | 我道 |
【アマゴクニヒサ】
戦国時代の武将。経久の次男。
尼子家の武断勢力である新宮党当主で尼子家の主要合戦では先鋒を担うのが常であり、
父・経久や兄の子である晴久に従って各地を転戦した。
しかし功績を鼻にかけた振る舞いが多く、特に嫡子である誠久の行いは同僚から批判の的だったという。
1554年に粛清の憂き目に遭った。ただし後年山中鹿之助に擁立される尼子勝久は国久の孫にあたる。
新宮党粛清は元就の調略によるものとされてきたが、実際は新宮党の横暴と中央集権化を目指す晴久主導の結果であり、現在は否定されている。
山中幸盛
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
70 | 91 | 72 | 51 | 87 | 神機 | 一騎 | 再起 | 一心 | 不屈 | 忠勇義烈 | 三軍強化 | 王道 | ||||
85 | 97 | 82 | 51 | 87 | 神機 | 一騎 | 再起 | 一心 | 不屈 | 忠勇義烈 | 三軍強化 | 王道 |
【ヤマナカユキモリ】
戦国時代の武将。尼子氏家臣。鹿之助の通称で著名。
尼子晴久、義久に仕え、毛利元就らの侵攻軍相手に抗戦して活躍したが、既に往時の勢いを失っていた尼子氏は滅亡。
尼子勝久を擁立し、尼子再興を掲げて挙兵した。
始め山名氏を頼るもすんでのところで毛利氏とその同盟者であった織田氏に阻止され、
ついで大友氏を頼り奮戦したが、これもあと一歩のところで阻止された。
その後柴田勝家や明智光秀を通じて織田信長の傘下となり、織田家の軍事活動に貢献する傍らで尼子氏再興を推進、
羽柴秀吉の支援を受けて再興に成功した。
しかし、激化する毛利氏の攻勢や別所氏の謀反などで織田家の支援を受けられなくなり、上月城に籠城するも敗れ、護送中に謀殺された。
※ 三日月の誓いなど天下の義将として名高く、知勇に優れた。その力量を多くの大名に頼られ、また恐れられた。謀殺は存在を危険視した吉川元春、小早川隆景が主導したと言われている。
※ 一騎は菊池音八、高野監物、品川大膳、河合将監といった猛将を一騎討ちで討ち取った逸話から。特に鹿之助打倒のため「狼ノ助/猪ノ助」と自称した品川大膳との一騎討ちは著名。
亀井茲矩
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 81 | 78 | 86 | 70 | 操舵 | 猛者 | 特使 | 嚮導 | 振興 | 地域振興 | 名利 |
【カメイコレノリ】
戦国時代の武将。琉球守。
尼子氏の家臣の子に生まれ尼子氏が滅ぼされると流浪の身となる。その後尼子勝久の挙兵に従い各地を転戦する。
勝久が自刃すると羽柴秀吉の家臣となり、鳥取城攻め等で武功を挙げる。中国大返しの際は鹿野城主として毛利氏を牽制する。
豊臣政権下では1万3500石を領し銀山開発など内政に功を立てる。文禄・慶長の役では船手衆の一員として参戦した。
関ヶ原合戦では東軍に参戦し鳥取城を激戦の末に落城させ、その功で2万4200石の加増を受けた。
領内では新田開発等を行う一方、世界に視野を広げシャムとの貿易を行った。1612年病没。
槍の名手としても知られ、「槍の新十郎」の名で知られた。子孫に政治家の亀井静香がいる。
宇喜多/浮田家
宇喜多直家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 70 | 95 | 72 | 89 | 梟雄 | 詐謀 | 振興 | 工面 | 策士 | 上兵伐謀 | 我道 |
【ウキタナオイエ】
戦国時代の武将。備前の大名。没落した宇喜多家を下克上で大名とした。
はじめ浦上宗景に仕え、明善寺合戦で寡兵ながら三村氏を破って勢力を伸ばした。
のち主君である宗景にも反旗を翻し、一度目は味方とした赤松氏が黒田孝高に敗れたため失敗するも、
二度目は毛利氏の力を借りて主家を追放し、毛利氏の後ろ盾を得て勢力を伸ばす。織田信長の勢力が
伸びてくると、当初は毛利氏と提携して織田軍の羽柴秀吉らに対抗するが、やがて毛利氏を見限り
織田氏へとついた。以降織田氏の中国征伐先鋒として活躍するも、1581年死去。その死は秘匿され、1582年に死去とされた。
かつては祖父の復讐のために下剋上を成した梟雄というイメージが強かったが、今では虚構とされているものも多い。
補足:毛利氏の後ろ盾を得た時、吉川元春からは警戒された。しかし山陽方面の小早川隆景の後押しで事なきを得た。
宇喜多忠家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 72 | 81 | 65 | 76 | 機略 | 補佐 | 柱石 | 名声 | 規律 | 鶴翼強化 | 割拠 |
【ウキタタダイエ】
戦国時代の武将。宇喜多直家の弟。直家・秀家2代を支えた。
兄で当主の直家の出世を助け、明善寺合戦でも一翼を担った。毛利氏とともに織田氏と戦った際は
兄の代役で総大将となり、織田氏に味方した尼子氏を滅ぼすことに貢献する。宇喜多直家が毛利氏を見限った後は
山陽方面で小早川隆景と戦い、しばしばこの侵略を撃退した。直家が1581年に没すると、若干10歳の秀家を補佐、
備中高松城攻めでも軍を率いて秀吉のもとへ駆けつけた。その後も若年の秀家を補佐し続け、唐入りにも帯同するが
このあたりから大坂で隠居し、家督を息子に譲った。宇喜多騒動や関ヶ原合戦には関与せず、隠居先の大坂で死去した。
補足:直家亡き後の宇喜多家について。ゲームではなんら抵抗なく宇喜多秀家が家督相続しているが、実態として実権の殆どは直家の弟である忠家にあった。備中高松でも彼が指揮を取っているし、というより朝鮮の役まで彼が大将を務めることも多かった。
一方、宇喜多秀家はその名前にもある通り、秀吉の猶子となり、秀吉の養女(前田利家の娘)を娶ったことから、羽柴家一門としての気質が強く、事実宇喜多の本領岡山は、亡くなるまで秀吉が直接統治している。秀家自身は終生「羽柴秀家」と名乗っており
宇喜多騒動とは、羽柴家一門で秀吉の死をきっかけに宇喜多家に出戻りに近い形で戻ってきた秀家と、それまで宇喜多家を率いてきた宇喜多忠家の係累(息子の宇喜多詮家)との対立という面が大きい。
宇喜多秀家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 75 | 67 | 34 | 78 | 脱兎 | 動員 | 地利 | 築城 | 浪費 | 軍制改革 | 王道 | |||||
61 | 75 | 57 | 34 | 78 | 脱兎 | 動員 | 地利 | 猪突 | 浪費 | 軍制改革 | 王道 |
【ウキタヒデイエ】
戦国時代の武将。備前の大名、宇喜多直家の嫡男。宇喜多直家の死後わずか10歳で家督を継承した。織田信長から家督継承を認められたが、
実権は叔父忠家が持つ。本能寺の変後は変わらず秀吉に味方し、中国地方の毛利氏を監視する役目を担った。
元服後、母が秀吉に再婚したことと当時実子のいなかった秀吉の養子となり、「羽柴秀家」と名乗る。以後紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐と
秀吉の天下統一事業における主要な合戦に全て参加、1592年からの唐入りでは事実上の司令官として朝鮮で奮闘、
碧蹄館の戦いでは小早川隆景、立花宗茂らとともに明・朝鮮連合軍を破った。豊臣政権で五大老に任命され、秀吉から
秀頼の補佐を任されている。秀吉の死後、宇喜多騒動を起こし戦力の大半を喪失、直後の豊臣家臣団対立では石田三成を支持、
徳川家康が上杉景勝の征伐に向かうと、石田三成や毛利輝元を担ぎ上げ、関ヶ原の合戦を起こし、主力軍として奮闘した。
しかし小早川秀秋らの裏切りによって敗れ、のち捕縛された。八丈島へ配流され、以後50年近く隠棲したのち死去。
※信長の野望では近年やたら能力が高いが、正直過大評価以外の何物でもない。妻の病気から日蓮宗と対立して禁教令を出したり、宇喜多騒動を起こして宇喜多家を弱体化させた。
※なお家督相続時は幼少のため叔父の宇喜多忠家が後見(というよりほぼ代理で全権掌握)、その後秀吉が死亡するまでは秀吉が岡山を統治しており、本人の事績は乏しいのが実情である。
※秀吉の猶子、秀頼の義兄という立場から豪勢なふるまいも多かった。
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
96 | 84 | 82 | 34 | 78 | 洞察 | 水戦 | 操舵 | 長躯 | 血路 | 長駆直入 | 水軍育成6 | 王道 |
宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!
元ネタは2ch(現5ch)戦国時代板の書き込みで、大阪の陣に秀家が八丈島から泳いで参陣するというもの。
コーエーテクモもこのネタを把握しているらしく、宇喜多秀家を元ネタにしたキャラに泳いでいるイラストが使用されたことがある。
戸川達安
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 83 | 77 | 74 | 58 | 猛者 | 長駆 | 血路 | 直情 | 功名 | 我道 |
【トガワミチヤス】
戦国時代の武将。宇喜多直家の重臣であった秀安の嫡男。宇喜多二代に仕える。
13歳で初陣を飾り、宇喜多家の数々の戦に主力として出陣し武勇や知略を用いて数々の武功を挙げる。
根白坂の戦いでは窮地の味方の救援に向かい、勇猛で知られる島津軍と戦い多数の兵を討ち取った。
直家時代の重臣が不在となると、国政を秀家に任される事になったが、秀家の寵愛を受けていた長船綱直にその座を奪われ、彼や秀家に不満を持つようになる。
1600年に宇喜多騒動が起こると主家を出奔し、徳川家康に仕える。同年の関ヶ原の戦いで武功を挙げ備中庭瀬に3万石を与えられた。
大坂の陣でも武功を立て、家康の御伽衆に加えられる。
明石全登
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 84 | 54 | 47 | 62 | 一心 | 不屈 | 動員 | 補佐 | 強運 | 方円強化 | 礼教 |
【アカシテルズミ】
宇喜多家臣。景親の子。明石家は赤松家の庶流。
宇喜多家で発生した御家騒動で多くの同僚が出奔すると繰り上がりで家宰となり、
関ケ原の戦いにも参加。小早川秀秋の裏切りに逆上した秀家を諫める。
終戦後はキリシタンの誼で黒田如水を頼るが如水の死によってキリスト教禁止令が敷かれ、
信教の自由を求めて大坂の陣に参戦。道明寺、天王寺ともに善戦したが衆寡敵せず離脱。
キリスト教では自殺が教義で禁じられており、
幕府は幾度も全国的な捜索を行ったものの、最後まで全登を発見できなかった。
その他
出雲阿国
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
33 | 22 | 58 | 61 | 80 | 楽奏 | 応援 | 文化 | 幻術 | 傾国 | 傾国の舞 | 鼓舞 | 地域振興Lv.3 | 名利 |
【イズモノオクニ】
安土桃山時代の女性芸能者。彼女の「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係するとされ、ともに歌舞伎の創始者とされている。
出雲大社の巫女として諸国を巡ったと言われている。
北野天満宮で興行した際、男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じて成功を収めたものが「かぶき踊り」と呼ばれて人気となり、多くの模倣者を生んだ。これが変遷を経て歌舞伎ができ上がったと言われる。
その後、宮廷や四条河原などで勧進興行を打ったが、江戸上での興行を最後に消息不明となっている。
伝説的な部分が多く、その生涯についてはよくわかっていないことが多い。