注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
劉邦軍
夏侯嬰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 88 | 80 | 77 | 90 | 沈着 | 護衛 | 血路 | 眼力 | 柱石 | 明察秋毫 | 先従隗始3 | 王道 | ||||
80 | 83 | 70 | 77 | 90 | 沈着 | 護衛 | 血路 | 眼力 | 柱石 | 明察秋毫 | 先従隗始3 | 王道 |
【カコウエイ】
秦末漢初の前漢の将。
劉邦?の同郷人で、早くから劉邦に従う。
劉邦が反秦連合に参加して沛?公となると、太僕に任命された。
また、韓信?を国士無双として推挙した一人である。
彭城の戦いで敗北し逃亡する際、恐慌状態の劉邦は二人の子を馬車から突き落とすが、
夏侯嬰は二人を拾い上げ、首の皮一枚で味方陣営へ逃げ帰った。
これで劉一門からの信任が篤くなり、天下統一後は汝陰侯に累進した。
晩年は、呂氏討伐に功績を挙げ、陳平・周勃・灌嬰らと共に文帝を擁立した。
魏の曹操?の重臣の夏侯惇?・夏侯淵?らは夏侯嬰の末裔という。
また曹操?も、父・曹嵩が夏侯氏からの養子であるため、血縁上は彼の子孫にあたる。
灌嬰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 90 | 70 | 72 | 81 | 驍将 | 疾走 | 法律 | 能吏 | 智嚢 | 鉄騎突 | 三軍強化2 | 王道 |
【カンエイ】
秦末漢初の前漢の将。
元は睢陽の絹商人だったが、劉邦?が碭に戻った頃に劉邦に従い、秦との戦いで功績を挙げる。
彭城の敗戦後、騎馬隊を率いて滎陽で楚の騎兵を撃退し、別働隊として動いた後は韓信?に従い、
斉征服と龍且迎撃に活躍した。
項羽?が垓下の戦いに敗れると、劉邦の命を受けて追撃し、彼の遺体を回収している。
天下統一後は、臧荼・韓信・陳豨・英布?らの反乱鎮圧に活躍し、漢の土台を固めた。
呂氏誅殺の際には周勃と謀り、決起した斉王との和議を行っている。
周勃らの呂氏誅殺後は太尉、丞相を歴任した。
李必
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 82 | 58 | 16 | 67 | 掃討 | 長駆 | 疾走 | 功名 | 鉄騎突 | 長蛇強化3 | 覇道 |
【リヒツ】
秦末漢初の前漢の将。灌嬰の校尉。
楚の軍には騎兵が多かったので、漢王?はこれに対抗するため精鋭を選抜して騎兵隊を組織した。
その指揮官にはもと秦の降将・李必と駱甲が推されたが、
二人は「我らはもと秦の臣であり、軍民はわれらを恐れ信頼しないでしょう。
願わくば大王の左右の騎兵指揮に長じた人材を使われますよう。
我らはその副将となりたく存じます」と言って任を辞した。
以後、灌嬰の左校尉として楚軍の騎兵と戦い、大いに敵を破った。
駱甲
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 73 | 62 | 17 | 63 | 掃討 | 一心 | 疾走 | 功名 | 鉄騎突 | 錐行強化3 | 覇道 |
【ラクコウ】
秦末漢初の前漢の将。灌嬰の校尉。
楚の軍には騎兵が多かったので、漢王?はこれに対抗するため精鋭を選抜して騎兵隊を組織した。
その指揮官にはもと秦の降将・李必と駱甲が推されたが、
二人は「我らはもと秦の臣であり、軍民はわれらを恐れ信頼しないでしょう。
願わくば大王の左右の騎兵指揮に長じた人材を使われますよう。
我らはその副将となりたく存じます」と言って任を辞した。
以後、灌嬰の右校尉として楚軍の騎兵と戦い、大いに敵を破った。
樊噲
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 98 | 34 | 7 | 69 | 豪傑 | 猛者 | 護衛 | 殿軍 | 短慮 | 怪力無比 | 奮戦 | 突撃 | 激励 | 大喝 | 方円強化5 | 王道 |
80 | 98 | 34 | 7 | 69 | 豪傑 | 猛者 | 護衛 | 殿軍 | 短慮 | 怪力無比 | 奮戦 | 突撃 | 激励 | 大喝 | 方円強化5 | 王道 |
85 | 98 | 64 | 57 | 69 | 豪傑 | 猛者 | 護衛 | 殿軍 | 短慮 | 怪力無比 | 奮戦 | 突撃 | 激励 | 大喝 | 方円強化5 | 王道 |
86 | 98 | 61 | 51 | 70 | 豪傑 | 猛者 | 護衛 | 殿軍 | 短慮 | 怪力無比 | 奮戦 | 突撃 | 激励 | 大喝 | 方円強化5 | 王道 |
【ハンカイ】
秦末漢初の前漢の将。
劉邦?の同郷人で義理の弟であり、その縁で出仕し、武勲を挙げる。
鴻門の会では参乗として劉邦に付き従い、剣舞の最中の陣幕に割り込み、
鯨飲馬食の後、項羽?に釈明する。
このため、項羽は劉邦を討つ機会を失い、劉邦と樊噲は虎口を脱した。
その後は対楚戦でも武勲を挙げ、統一後は舞陽侯となり韓王信?討伐などにも功績を挙げる。
樊噲の妻は呂后の妹の呂須であり、王室ことに呂后の信頼が深かった。
盧綰討伐の総大将を務めた際に、劉邦の愛妾である戚夫人の一派に讒言され逮捕される。
劉邦の死によってどうにか死罪を免れ釈放されたが、失意の中劉邦の後を追うように死去。
曹参(敬伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 81 | 80 | 89 | 87 | 闘将 | 英名 | 求心 | 能吏 | 柱石 | 勇往邁進 | 三軍強化3 | 王道 | ||||
94 | 88 | 80 | 89 | 87 | 闘将 | 英名 | 求心 | 能吏 | 柱石 | 勇往邁進 | 三軍強化3 | 王道 |
【ソウシン(ケイハク)】
秦末漢初の前漢の将。
劉邦?の同郷人で、その誼で蕭何?と共に劉邦擁立を進め、一族を挙げて劉邦に従う。
劉邦が漢王になると建成侯に封じられ、関中平定後は右丞相として韓信?に従って功を重ね、
満身創痍になるほどの軍功を挙げ、一時は功臣第一の席次と目された。
統一後は平陽侯に封じられ、斉王劉肥の丞相になった。
相国の蕭何の没後、遺言で後任とされ、在任三年で没した。
晩年は蕭何と不和だったが、自身の非才を認め、就任後は祖法を遵守して内治安定に努めた。
「出将入相(出ては将入れては相、朝廷に入ったら宰相として活躍し、朝廷の外に出ては将軍として活躍する)」の模範となる人物である。
なお、後漢末の曹操?の祖父である宦官の曹騰は曹参の末裔とされる。
陳平
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 52 | 98 | 94 | 80 | 洞察 | 虚実 | 妙算 | 策士 | 智嚢 | 神機妙算 | 上兵伐謀3 | 名利 |
【チンペイ】
秦末漢初の政治家・軍師。前漢の丞相。
長身で容姿に恵まれるも、品行に欠ける面があったという。
魏咎・項羽?などに仕官するが続かず、最終的には劉邦?に仕える。
項羽との戦いで危機に陥る劉邦を多くの献策で救い、
特に離間の計で項羽軍を内部崩壊させたことで知られる。
後、劉邦の遺言により右丞相となる。呂太后の没後、専横を極めた呂産ら呂氏一族を誅殺。
その際、周勃と共に、多くの将士を「左袒」させたことで知られる。
後世、張良?と双璧をなす策士と評された。
彭越
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 88 | 72 | 40 | 75 | 脱兎 | 機略 | 強奪 | 功名 | 賊徒 | 倒山傾海 | 急襲 | 牽制 | 撹乱 | 足止 | 侵略荒廃5 | 割拠 |
【ホウエツ】
秦末漢初の群雄。後に、漢の梁王。
鉅野の沼沢で漁師をしながら、裏では盗賊の首領として衆を率いていた。
陳勝・呉広の乱が起こると、周囲に推されて挙兵し、楚軍に協力して秦討伐に活躍。
だが、功を認められなかったことから不満を持ち、斉の田栄と組んで項羽?への反抗を始める。
その後、東進してきた劉邦?と結託すると、神出鬼没の遊撃戦を繰り返して楚軍の補給線を寸断。
劉邦?に再起の時を与えて、項羽?を悩ませ続けた。
漢の統一後は梁王に封じられていたが、謀反を疑われ、呂后の言を容れた劉邦?に粛清されている。
酈食其
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
38 | 20 | 84 | 92 | 80 | 論客 | 眼力 | 名声 | 智嚢 | 功名 | 縦横術5 | 礼教 |
【レキイキ】
秦末漢初の説客。高祖劉邦?に仕えた。
劉邦に陳留を襲って秦の貯蔵の粟を取ることを進言し、陣営に迎え入れられる。
武関攻めの際には、劉邦は張良?の計を用いて酈食其と陸賈を秦将へ派遣し説得させ、
利益で釣って降し武関を急襲し破った。
のち、韓信?が趙を降すと、斉に赴き田広に論じ、斉は楚に背いて漢と同盟するが、
直後に韓信が蒯通の計を用いて歴城を急襲したので、田広に煮殺された。
酈商
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
77 | 74 | 73 | 64 | 68 | 地利 | 泰然 | 寡欲 | 功名 | 鶴翼強化3 | 礼教 |
【レキショウ】
秦末漢初の前漢の将。酈食其の弟。
陳勝・呉広の乱に際し挙兵したが、劉邦?に出会ってからは兄と共に帰順した。
楚漢戦争の際には劉邦に従い、統一後の反乱にも討伐軍として参加し、
韓信?と共謀して造反した陳豨を討伐した。
劉邦の没後、喪を発しなかった呂后に対し喪を発するように告げた。
呂后の時代は病のため一線を退くが、呂后の死後、陳平の命により息子の酈寄に、
酈寄と仲の良い呂后の甥・趙王呂禄の兵権を返上させ、呂氏一族を滅ぼした。
周勃
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 84 | 67 | 64 | 77 | 機略 | 泰然 | 沈着 | 遠矢 | 法律 | 瞞天過海 | 文事武備2 | 王道 | ||||
82 | 85 | 67 | 69 | 77 | 機略 | 泰然 | 沈着 | 遠矢 | 法律 | 瞞天過海 | 文事武備2 | 王道 |
【シュウボツ】
秦末漢初の前漢の将。機織や葬儀を生業としていた。
後、劉邦?の挙兵に従い、沛?の材官として強弓を引き、多くの武功を挙げた。
三秦を平定し、項羽?と戦うのに功績を挙げ、絳侯に封じられた。
統一後は、臧荼・韓王信・陳豨・盧綰らの叛乱を平定し、功臣粛清にも活躍。
呂太后の没後、陳平と図って呂氏一族を誅滅し、文帝を擁立。
自身は右丞相に任ぜられたが、辞職した。
左丞相の陳平の没後、丞相に返り咲くが、再び免職されて領国に戻る。
晩年、叛乱の嫌疑を讒言されて逮捕されたが、袁盎の擁護により釈放されまもなく死去した。
その時「100万の軍隊を率いた自分も人の言葉1つで囚われたり釈放されるのか」と嘆いていた
盧綰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 73 | 65 | 63 | 80 | 強奪 | 長駆 | 地利 | 疾走 | 彊壮進軍 | 兵站改革3 | 王道 |
【ロワン】
秦末漢初の前漢の将。燕王。
劉邦?と同年同日に生まれた幼馴染で、彼と寝食を共にし、
劉邦の皇帝即位後も唯一寝室に自由な出入りが許されたという。
楚漢戦争では各地を転戦、劉賈と楚軍の補給基地の襲撃にも成功しており、
結果、項羽?軍は食料難に最後まで悩むことになる。
燕王臧荼の反乱後、後任の燕王に封建されたが、謀反の讒言を受け、討伐軍を差し向けられる。
直後に劉邦が未央宮で没すると、失意のまま匈奴へ亡命した。
匈奴の冒頓単于は歓迎し、彼を「東胡の盧王」に封建したが、一年余で病死した。
張耳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 76 | 64 | 35 | 72 | 一心 | 泰然 | 地利 | 再起 | 胆力 | 政令徹底5 | 割拠 |
【チョウジ】
秦末漢初の前漢の将。趙王。
魏の信陵君の食客で劉邦とも旧知だったという。
信陵君の死後、故国魏が始皇帝?に滅ぼされ、お尋ね者になっていた。
陳勝・呉広の乱の勃発後、刎頚の友の陳余と共に陳勝に仕える。
趙歇を趙王に擁立するが、秦の章邯の大軍に圧倒され、張耳と趙歇は陳余に半ば見殺しにされてしまう。
項羽?の援軍に救われるも、両者の仲は決裂し、陳余は逐電した。
項羽による論功行賞で常山王になるが、趙再興を目論む陳余に攻撃され敗走。
その後、項羽を頼ろうとしたが、劉邦?を頼るよう助言があり、劉邦に迎えられて漢に仕官。
楚漢戦争で韓信?の副将として魏・代・趙を滅ぼし、趙王となった。
劉賈
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 68 | 62 | 65 | 57 | 論客 | 策士 | 疾走 | 功名 | 太学3 | 王道 |
【リュウカ】
秦末漢初の前漢の将。劉邦?の従兄弟。
楚漢戦争期に盧綰と共に昌邑で彭越?に合流し、
彭越の指示で楚軍の補給基地を襲撃し成功した。
また、項羽?配下の大司馬・周殷を説得し、帰順させて漢軍に加えた。
楚王韓信?が謀反の罪で失脚し淮陰侯に降格された後、劉邦はその領土を南北に分割し、
南部を荊国、北部を楚国と定めて劉賈を荊王に封じられたが、
淮南王・英布?の反乱時に、軍勢を率いて交戦し敗死した。
王陵
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 84 | 75 | 45 | 91 | 妙算 | 泰然 | 沈着 | 怒髪 | 法律 | 豪気衝天 | 文事武備2 | 割拠 |
【オウリョウ】
秦末漢初の前漢の将。
沛?県の豪族で、劉邦?も若い頃は兄として仕えていた。
劉邦が決起し咸陽?を攻略した頃は南陽?に割拠していたが、漢楚戦争が始まると漢に服属する。
項羽?は王陵の母を人質にして服従を要求するが、王陵の母は人質になることを拒んで自害し、
項羽は怒ってこの母を煮たため、王陵は高祖に従属し続けた。
相国曹参の死後、王陵が右丞相、陳平が左丞相となるが、実権を握る呂后と不仲になる。
太傅に祭り上げられると、病気を理由に辞職して屋敷の門を閉じ、
朝廷に出仕しなくなり、やがて病死した。
韓信
韓王信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
61 | 79 | 47 | 42 | 58 | 山戦 | 地利 | 疾走 | 功名 | 地勢研究3 | 割拠 | ||||||
63 | 79 | 48 | 36 | 58 | 山戦 | 地利 | 疾走 | 功名 | 地勢研究3 | 割拠 |
【カンシン】
秦末漢初の前漢の将。韓王。
淮陰侯韓信と同姓同名のため、韓王信または本姓から姫信と呼称される。
韓の襄王の妾腹の孫だが、年少の時に韓が滅亡し、その地位を失う。
張良?の推薦で劉邦?に韓王に封建され、以後は劉邦の配下として楚漢戦争に参加。
劉邦の即位後は対匈奴防衛のため、太原郡を韓と改名し、そこに遷される。
間もなく匈奴が領内に侵攻したので冒頓単于と休戦交渉を企図するが、
これが造反行為と看做されたため匈奴に投降した。
以降、匈奴の将軍として漢軍と度々交戦するが、柴武と交戦し敗死した。
柴武
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 73 | 66 | 62 | 74 | 猛者 | 地利 | 胆力 | 功名 | 三令五申3 | 王道 |
【サイブ】
秦末漢初の前漢の将。陳武とも。棘浦侯。
陳勝・呉広の乱に際し、薛において二千五百人を率いる将軍となり、
東阿を救いその後覇上に至り漢に帰参する。
斉との戦いでは歴下の斉軍である田既を撃ち、功績を挙げた。
漢の高祖劉邦?および斉王韓信?が垓下で項羽?と戦った際、柴武は周勃と共に劉邦の後方に陣を構えた。
劉邦の即位後、列侯に封じられ、棘浦侯となる。
匈奴に亡命した韓王信が攻め込んで来ると、撃破して斬った。
呂后の死後、呂氏が誅殺されると、大将軍の地位にあって文帝を迎えている。
のち世子の柴奇が文帝の弟である淮南王劉長の反乱計画に加担し死罪になったこともあり柴武の死後、柴家は断絶した。
紀信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 76 | 61 | 34 | 82 | 護衛 | 血路 | 功名 | 軍制改革3 | 王道 |
【キシン】
秦末漢初の前漢の将。
劉邦?の同郷人で、彼の旗揚げに参加。
鴻門の会では劉邦が項羽?から逃れた際、夏侯嬰らと共に劉邦を覇上の陣営まで護衛した。
劉邦が睢水で楚に大敗し、項羽率いる軍勢が滎陽城を包囲し、食糧が尽き落城寸前に陥った時、
紀信は劉邦を逃がすため、自分が劉邦の影武者となって楚に降伏するふりをして、
その隙に逃亡する策を進言した。
献策通り劉邦は陳平ら数十騎と共に脱出に成功し、成皐城まで逃げ延びた。
囮となった紀信は項羽に捕らえられ、帰順を説かれたが断ったため、火刑に処された。
後に劉邦は紀信の一族を保護し厚く優遇した。
樅公
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
61 | 57 | 55 | 32 | 46 | 堅牢 | 使役 | 扇動 | 功名 | 墨守研究3 | 王道 |
【ショウコウ】
秦末漢初の前漢の将。
周苛と魏豹とともに劉邦?が脱した後の滎陽を守ることになるが、
「反国の王と一緒に城を守ることはできぬ」と周苛と語って魏豹を殺害した。
後、項羽?の猛攻の前に滎陽は落城し、捕らえられ斬首された。
周苛
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 73 | 62 | 58 | 70 | 堅牢 | 再起 | 言毒 | 功名 | 城壁拡張3 | 王道 |
【シュウカ】
秦末漢初の前漢の将。周昌の従兄弟。
泗水郡の卒史だったが、劉邦?の挙兵後は食客として劉邦に従った。
劉邦が漢王になると最初の御史大夫となる。
滎陽の包囲戦では、劉邦は紀信を囮として脱出に成功し、
周苛は魏豹、樅公、韓王信らと滎陽を守備した。
紀信が刑死し、窮地の周苛は樅公と共謀して嫌疑のある魏王豹を殺害した。
滎陽陥落後、周苛らも虜囚となったが、項羽?の説得を罵倒したため、煮殺された。
劉邦は従兄弟の周昌を後任の御史大夫とし、
天下統一後、劉邦は周苛の功に報い、子の周成を高景侯に封じた。
周昌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
57 | 75 | 56 | 74 | 87 | 規律 | 沈着 | 諌止 | 智嚢 | 歳出改善4 | 王道 |
【シュウショウ】
秦末漢初の前漢の将。周苛の従兄弟。
周苛と同じく泗水郡の卒史であったが、劉邦?の蜂起後、共に劉邦に従う。
劉邦が漢王となると中尉となるが、周苛が項羽?に処刑された後、後任の御史大夫となる。
天下統一後は、蕭何?や曹参らと共に列侯に封じられ、汾陰侯となった。
直言も辞さない人柄で、劉邦に対しても強く諫言し信頼され家臣で唯一劉邦の寝室に入る事が許された。
劉邦には後事として趙王劉如意を託され、趙の丞相となるが、
恵帝の代、呂太后の専横により如意は実母の戚夫人共々殺され、自身も失意の中病死した。
司馬遷は彼を木石のように実直と評している。
雍歯
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 77 | 68 | 62 | 57 | 堅牢 | 使役 | 改修 | 悪名 | 強欲 | 墨守研究4 | 我道 |
【ヨウシ】
秦末漢初の前漢の将。劉邦?の同郷の沛?の豪族。
劉邦の蜂起後は臣従し豊を任されるが、魏の周市が勢力を伸ばすと、即座に魏に降伏した。
このため劉邦に攻められるが、堅守して劉邦を苦しませた。
後、劉邦に再び帰順して功績を挙げ、論功行賞では張良?の献策により什方侯に封じられた。
この時、恩賞への不安や不満に駆られて反乱を企てた諸将がいたが、
「劉邦の怨敵雍歯でさえ列侯に封じられた以上、心配ない。」と安心したという。
これが、「雍歯封侯」の故事である。
三国時代、益州南部で反乱を起こした雍闓?は雍歯の末裔という。
張蒼
「みんなの新武将/前漢」のページを参照。
申屠嘉
「みんなの新武将/前漢」のページを参照。
叔孫通
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
48 | 27 | 87 | 93 | 78 | 眼力 | 人脈 | 名声 | 学者 | 智嚢 | 経世済民2 | 礼教 |
【シュクソンツウ】
秦末漢初の儒者。
陳勝・呉広の乱の勃発後、二世皇帝は儒者に意見を尋ねたが、
儒者が鎮圧を説く中、叔孫通は彼らを盗賊であると言った。
叔孫通は褒美を受けたが、急ぎ薛へ逃亡した。
項梁が薛へ来ると楚に従い、項羽?が懐王を義帝として擁立した後は項羽に仕え、
彭城陥落後、劉邦に降伏した。
漢に下って後は、戦争に役立つ元群盗ばかりを推挙したが、
天下統一後は、諸侯が劉邦?を皇帝に奉ると、儀礼や制度を整え、多くの弟子を推挙した。
時勢に適った礼を整え、皇太子の廃嫡に異を唱え、益々重用された。
陸賈
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
44 | 17 | 82 | 87 | 53 | 論客 | 人脈 | 策士 | 智嚢 | 功名 | 縦横術5 | 礼教 | |||||
44 | 17 | 82 | 87 | 82 | 論客 | 人脈 | 策士 | 智嚢 | 功名 | 縦横術5 | 礼教 |
【リクカ】
秦末漢初の説客。高祖劉邦?に仕えた。
劉邦が項羽?を破って天下統一すると、緑林の英雄であり儒家嫌いで知られた劉邦に対して、
儒教の教典を褒め讃えて儒学を劉邦に認めさせた。
呂后による専横が始まると病と称し引退、五人の息子に財を分け与えて自身は遊説の旅に出る。
呂后没後、専横の呂氏を討つために陳平の家へ突如として現れ、陳平に周勃を引き合わせ、
自らも陳平から資金を貰い呂氏討伐の策を練り、呂氏一族を滅ぼした。
劉邦に馬上では天下を治められないことを説いたことで名高い。
随何
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
17 | 31 | 81 | 80 | 62 | 論客 | 扇動 | 言毒 | 策士 | 功名 | 縦横術5 | 礼教 |
【ズイカ】
秦末漢初の説客。高祖劉邦?に仕えた。
彭城の戦いで項羽?に大敗した劉邦の劣勢を覆すべく、
項羽の片腕である九江王英布?を寝返らせる説得役に自ら名乗り出て赴いた。
項羽の臣下を自負する英布に対し「楚は危うく、漢は万全」と説得して、漢へ帰順させた。
その後、九江は龍且と項荘の軍に滅ぼされ、英布を伴って漢に帰還した。
垓下の戦いで項羽が敗死し、劉邦が帝位に即くと祝宴の席で劉邦から腐れ儒者だと侮辱されたが、
彭城の敗戦の後の功績で反論され、劉邦から護軍中尉の職を与えられたという。
呂雉(娥姁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
4 | 5 | 79 | 96 | 88 | 梟雄 | 才媛 | 策士 | 悪名 | 強欲 | 酖毒 | 上兵伐謀2 | 我道 | ||||
32 | 5 | 86 | 71 | 4 | 梟雄 | 才媛 | 策士 | 悪名 | 強欲 | 酖毒 | 上兵伐謀2 | 我道 |
【リョチ(ガク)】
高祖劉邦の皇后。呂后。
劉邦の吏員時代からの伴侶で、恵帝と魯元公主の母。
父親が地元の名主で人相見が出来、劉邦がやがて大人物になるという結果が出て呂雉を劉邦に妹を樊噲に嫁がせた。
史記によれば呂雉姉妹はその当時は慎ましく穏やかで誰にでも愛想が良く貧乏暮らしも苦にしなかったという。
楚漢戦争では一時項羽?の捕虜とされ、統一後は側室の戚夫人母子の抬頭に苦しんだ。
韓信?・彭越?らの功臣粛清など謀略に長け、漢王朝初期の安定に貢献した。
恵帝の代は垂簾政治を行い、戚夫人母子を惨殺して恵帝の政務放棄を招き、呂氏の専制が進んだが、民心は安定していたという。
恵帝没後も、少帝恭・少帝弘を擁立し垂簾政治を続けた。
没後、丞相陳平・太尉周勃らは禁軍の指揮権を奪取し、呂氏一族を誅殺。
後、代王恒が迎立され、少帝弘は廃弑された。
薄姫
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
30 | 14 | 85 | 70 | 89 | 名声 | 才媛 | 応援 | 太学 | 王道 |
【ハクキ】
高祖劉邦の側室。文帝の生母で薄太后。
薄姫の母の魏氏は、魏の王族の生まれで魏の滅亡後に薄某と関係を持ち、娘の薄姫が生まれた。