注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
前漢(B.C.206~A.D.8)
西漢とも。
滅秦後に漢中?王とされた劉邦?が、B.C.202年に楚王項羽?を滅ぼして全土を統一し、長安?を都として樹立した。
劉邦が漢中王とされたB.C.206年を元年とする。秦に比して簡便な法治と郡国制の採用が強調されるが、
国制はあくまでも秦律を基幹としたもので、呉楚の乱の後に諸侯王の勢力は大きく削減され、
法治主義と中央集権は一応の完成に至った。
秦との最大の相違は法治に偏重しなかった点にあり、武帝によって公認された儒教が次第に尊重された事は、
以後の中国社会の方向性を決定的にしたという点で、中国の境域を定めた事とともに重視される。
初期には呂后の専横があったが、その後の文帝・景帝の治世で劉氏の権威が確立し、
呉楚七国の乱の戦後処理では諸侯王の細分化による集権体制の強化にも成功した。
また呂后以降は軍事の抑制などの休民策で国内が安定し、文景の治にて前漢は隆盛した。
劉盈
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 38 | 61 | 69 | 78 | 法律 | 慈悲 | 消沈 | 虚弱 |
【リュウエイ】
劉邦?と呂后の間に生まれた嫡子。前漢の二代目皇帝・恵帝。
温厚な性格であったが、父からは覇気がないとして疎んじられ異母弟・如意に太子の座を奪われかける。
しかし張良?の入れ知恵で重臣の支持を取り付けたこともあり皇太子の地位を保つことができた。
父の死後に帝位を継ぐも実権は母に握られていたが、母が憎んでいた如意が暗殺されないよう自ら寝食をともにして守ったりもしている。
しかし狩りに出かけて留守の隙に如意を殺されてしまい、さらに如意の母・戚夫人が人豚の刑に処された姿を見るとショックを受ける。
そのまま政務を放り出し酒浸りの生活となり、23歳で崩御した。
また、『漢書』恵帝紀によれば、始皇帝の時代から続いていた焚書を中断させたのは、秦を打ち倒した高祖ではなく、恵帝であるとされている。
劉章
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 76 | 76 | 67 | 85 |
【リュウショウ】
前漢の皇族。高祖劉邦?の孫。城陽王。
呂太后の治世で朱虚侯に封じられ、呂氏から妻を娶るも靡かなかった。
酒吏に任じられた際に、酒宴において呂氏の専横を皮肉り、
酔った呂氏の一人を軍法に従って斬ったことで諸臣から頼られるようになる。
呂太后が死亡すると兄の劉襄に挙兵を促し、自らも周勃・陳平と立って呂氏を滅ぼす。
劉襄を帝位に望んでいたが、外戚の専横を危惧されて劉恒(文帝)が擁立され叶わなかった。
功績で城陽王に封じられたが、二年後に夭逝した。
漢代には忠臣の例として挙げられ、民衆からの信仰も篤かった。
補足:民衆信仰は曹操?により全ての祠が壊されて禁じられた。
張蒼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 79 | 67 | 83 | 86 | 文化 | 振興 | 徴税 | 能吏 |
【チョウソウ】
秦末漢初の前漢の将・丞相。
秦の御史だったが罪を得て逃亡し、沛?公劉邦?の客となって南陽?攻めに参加。
軍礼を犯し斬刑にされかけるが、王陵に助命嘆願され許されたので、この恩義を終生忘れなかったという。
その後も劉邦に従い、韓信?に従い陳余を捕らえた。
劉邦の皇帝即位後は趙王張耳の丞相・代の丞相となり、燕王臧荼の反乱討伐にも従軍。
その後、相国蕭何?の下で英布?を討伐し、淮南王劉長の丞相となった。
後、周勃らと共に代王を皇帝に擁立し、灌嬰の死後丞相を務めるが、
汚職に連座して辞職し、百余歳にして没した。
申屠嘉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
66 | 78 | 65 | 72 | 70 | 遠矢 | 規律 | 法律 | 能吏 | 寡欲 |
【シントカ】
秦末漢初の前漢の将・丞相。高祖から景帝まで三代に仕えた。
弩手として高祖劉邦?に従い、項羽?・英布?を討ち、淮陽太守となり、
文帝の即位後は、御史大夫・丞相となる。
清廉で正直であり、私的な訪問を峻拒し、
文帝の寵臣の鄧通が君臣の礼に怠慢だったため、処刑しようともした。
景帝の即位後は晁錯が専権を振るい始めたため晁錯を憎むようになり、
晁錯が宗廟の外垣を穿ったことを理由に晁錯の誅殺を奏請したが容れられず、
憤怒の余り吐血し急逝した。
※申屠の二字姓
賈誼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
25 | 7 | 82 | 86 | 80 |
【カギ】
前漢の政治家。文帝に仕えた。
詩経・書経を論じ、呉公にその才能を愛された。
文帝が即位し、呉公が廷尉に任命されると、諸家の書に通じていることを上申したため、
博士として抜擢され、後に長沙?王と梁の懐王の太傳となる。
商業抑制と農業奨励、匈奴への「治安策」を献策し、
諸侯の力を抑制し、蛮夷を侮らず警戒すべきと説いた。
その後、梁の懐王の落馬死を悼み、その翌年自身も憂死した。
彼の文章は議論と叙事が錯綜し、雄渾流麗。
「鵬鳥賦」や「過秦論」が著名で、古来名文として名高い。
劉恒
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 50 | 77 | 96 | 96 | 名声 | 仁政 | 王佐 | 慰撫 | 柱石 | 経世済民 | 王道 |
【リュウコウ】
前漢の第5皇帝。文帝。
呂氏が誅滅されたことによって、このとき活躍した一族である劉襄・劉章が政権を握るものと思われたが、
強い権力欲を有する外戚を持つ斉王を皇帝に擁立すれば、再び外戚の専横が発生するという危惧が挙がった。
そこで、生母が没落貴族の末裔で、権力欲が少なく人格者との評判の高い劉恒が選ばれることになった。
また、劉恒は生存する高祖の遺児の最年長者であり、長幼の順という理由も説得力も有していた。
文帝の基本的な政治姿勢は、高祖以来の政策を継承するもので、民力の休養と農村の活性化にあった。
そのため、大規模工事は急を要するものを除き停止している。
文帝の政策は、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。
文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「文景の治」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、
銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。
劉啓
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 44 | 75 | 93 | 89 | 農政 | 仁政 | 慰撫 | 柱石 | 寡欲 | 経世済民 | 王道 |
【リュウケイ】
前漢の第6皇帝。景帝。
紀元前157年に皇帝に即位した。景帝の政治は基本的に文帝の政策を継承し、消極的な外交政策と倹約に努めるというものであった。
重農政策も打ち出して減税に取り組み、社会の安定を実現し、人口の9割が農業に従事していた。後世には文帝の時代と合わせ「文景の治」と称えられた。
基本的には文帝の方針を継承した景帝であるが、分国問題に関しては袁盎と犬猿の仲である御史大夫の鼂錯の献言に従って、
諸侯王の権力削減に着手し、諸侯王の些細な過失を理由に封土を没収し、中央集権体制を構築して行った。
これに反発した諸侯王は密かに連携し、紀元前154年に呉王劉濞を中心とした反乱が発生した(呉楚七国の乱)。
この乱の鎮圧以降、封土は官僚である相(諸侯相)を派遣して統治させ、諸侯王は徴税される税を受け取るのみになった。
また、呉楚七国の乱鎮圧の功労者周亜夫の失脚以降、かつての元勲の一族ではなく、前漢では初めて自身の側近を丞相に任じた。
これらによって、一族及び元勲一族の権力が大きく落ち、皇帝権力が飛躍的に強化されるようになった。
晁錯
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
11 | 6 | 76 | 83 | 35 | 法律 | 能吏 | 名利 |
【チョウソ】
前漢の政治家。文帝・景帝に仕えた。
文帝の治世の時代に信任を得て政治に参加し始め、匈奴対策などを立案。
納粟受爵制度を制定し、商業を抑えて農業を活発化させることに成功した。
文帝が没し、景帝が即位すると更に深く信任され、
政敵の丞相申屠嘉が没すると、副丞相となり政務を一手に引き受けた。
諸侯王の力を削ぐ政策を実施するが、反対した諸国は呉楚七国の乱を引き起こす。
敵政であり排除しようとしていた袁盎により、反乱軍が君側の奸と称している晁錯を殺せば名目が無くなると献策したため
景帝は渋々誅殺を認めたという
袁盎(絲)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
62 | 34 | 82 | 85 | 89 | 諌止 | 王道 |
【エンオウ(シ)】
前漢の政治家。文帝・景帝に仕えた。
文帝が即位すると郎中として丞相の周勃を批判し、以後周勃と不仲になるが、
周勃が謀反の罪で投獄されると唯一人弁護した。
その後、度々直諫したので敬遠されて呉の丞相に左遷されたが、
甥の袁種に直諫を控えよとの進言を容れたため、呉の人々に厚遇された。
景帝の即位後に呉楚七国の乱が勃発すると、元々仲が悪かった晁錯は反乱の責任を押し付けて誅殺しようとしたが
いち早くそれを察し、景帝に諸侯領削減政策が反乱の原因で晁錯を除ければ丸く収まるとあべこべに景帝に晁錯を誅殺させた
反乱終結後、楚王劉礼の丞相となるが、梁王劉武の皇太子抜擢に異を唱えたため梁王の刺客に殺された。
周亜夫
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 82 | 88 | 74 | 80 | 洞察 | 剛将 | 堅守 | 柱石 | 名声 | 深謀遠慮 | 急襲 | 鉄壁 | 撹乱 | 混乱 | 三軍強化 | 王道 |
【シュウアフ】
前漢の将・丞相。周勃の次子。
匈奴の侵入に対し、文帝の命で将軍として劉礼・徐悍と共に駐屯し長安?を守り、匈奴を撃退した。
文帝は各陣営を巡って兵を労った際、周亜夫の陣の令だけが整然としていたため、
その陣姿は文帝に感嘆され、寵愛を受けた。
呉楚七国の乱の鎮圧でも大功を挙げ、漢王室の強化に努めた。
景帝の時代には周亜夫は丞相として政権の中枢を担うが、感情的対立から不遇となり、
実子の不祥事から過酷な査問を受ける。
その査問の最中に、吐血して餓死したと伝えられる。
董仲舒
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
18 | 13 | 84 | 66 | 80 |
【トウチュウジョ】
前漢の儒学者、官吏。
若くして『春秋公羊伝』を修め、景帝の代に博士となった。
帳の下で講義し、師の顔を知らない弟子もいるほど弟子が多く、
三年間篭って精力的に研鑽し、非礼を行わなかったため尊敬された。
武帝が即位すると賢良対策として、儒教を官学とし、
五経博士を設置するよう上奏し、儒教の国教化の基礎を築いた。
「三綱五常」など儒学の主要な理論を考案し、
儒学に陰陽説を融合させた天人感応説(災異説)を唱えた。
この災異思想は盗まれた草稿が武帝の前で弟子の呂歩舒に「大愚」と批判され、論じるのを止めている。
劉濞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 70 | 69 | 68 | 50 | 昂揚 | 地利 | 動転 | 癇癪 | 歳出改善 | 我道 |
【リュウビ】
前漢の皇族。劉邦の兄・劉喜の子。
黥布?の反乱討伐の功績で呉王に封じられる。
文帝期に自身の子・劉賢が皇太子・劉啓と宴会の余興に行った六博のことで口論の末撲殺されると病と称して出仕しなくなるが、文帝の計らいで特別に許されている。
劉啓が帝位を継ぎ晁錯の諸侯王削減策が進むとついに楚王劉戊・趙王劉遂と組んで反乱を起こす。
反乱軍は当初優勢であったが、周亜夫の策で兵站線を分断されるとたちまち劣勢となり、東甌王の元へ逃げるも裏切りに遭い殺されてしまう。
郅都
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
38 | 33 | 93 | 94 | 56 | 諌止 | 能吏 | 寡欲 | 地域巡回 | 王道 |
【シツト】
景帝期の官吏。
酷吏と呼ばれる法に厳格で人々に厳しい処罰を執行する官吏の一人として知られる。
剛直な人柄で大臣を朝廷で面罵したり景帝相手にも直言を放った逸話が残っている。
酷吏とはいえあくまで清廉な人物であり、私欲による処罰はしていなかったことで景帝の信頼は厚かった。
しかし臨江王・劉栄を厳しく取り調べた末に自害させたことで竇太后の怒りを買い、冤罪で処刑されてしまう。
王温舒
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
61 | 57 | 69 | 76 | 13 | 法律 | 能吏 | 悪名 | 強欲 | 地域巡回 | 我道 |
【オウオンジョ】
武帝期の官吏。酷吏として知られる官吏の一人。
賊徒の討伐で名を上げると広平郡の都尉に任じられる。
この頃から部下の弱みを握ることで操り、数多くの賊徒を捕殺して治安を向上させる。
河内太守でも同様の手法で部下を操り盗賊を捕縛、処刑したのだが処刑は冬期に限られていたため
「冬があと1ヶ月ながければよかったのに」とぼやいたという逸話も残る。
この通りの辣腕を発揮したものの権力者に媚びて権勢のない者には貴人でも容赦しないという面ももち、汚職で私腹を肥やしてもいた。
報復を恐れて王温舒の悪事を告発するものが居なかったがついに告発するものが現れ武帝はその時役人の汚職撲滅政策を取っており自分を馬鹿にしてるのかと激怒し捕縛される前に自害するが、
数々の悪事が看過できなかったことから本人のみならず弟の姻族まで処刑する五族皆殺しに処せられた。
劉勝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
13 | 29 | 16 | 2 | 46 | 浪費 | 酒乱 | 我道 |
【リュウショウ】
前漢の皇族。景帝の子。中山靖王。
父から中山王に封ぜられるも酒色に耽るばかりで、死没時点で120人を超える子孫を残した。
劉備?がその末裔を称したともされる。
匈奴
攣鞮冒頓
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
99 | 98 | 85 | 47 | 94 | 梟雄 | 神威 | 疾走 | 匈奴 | 粗暴 |
【レンテイボクトツ】
秦末漢初の匈奴の単于(王)。頭曼単于の子。
「冒頓」は名前ではなく、勇者を意味する称号"baγatur(バガトル)"の音訳説もある。
当初は、父の後継者に立てられていたが、異母弟との骨肉の争いに巻き込まれる。
後、決起して一族及びその側近を抹殺し、単于に即位。
東胡を滅ぼし、月氏を西方に追いやる。
さらに、秦末漢初の中国全土の混乱に乗じ、秦の蒙恬?に奪われた旧領を回復した。
本格的に漢への進攻を開始すると、代を攻めて韓王信を帰順させ、
白登山では劉邦?の大親征軍を破り、有利な条件で講和し、多くの貢物を獲得。
その後も勢力を拡大し、北方に一大遊牧国家を築き上げ、成立直後の漢王朝を終始圧倒した。