注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
唐(618~690)
隋の太原?留守李淵が創始。
実質的な創建者は次子李世民とされ、隋末の群雄を平定し、国家の基礎を確立した。
均田制・郷里臨保制を支配の基礎として租庸調を財政の根本とし、自立農民による自然経済が主体で、
商工業は官許の市に局限され、登記人口は最盛期には5000万人に達した。
貞観の治と呼ばれる太宗期に突厥・薛延陀などの北方異民族を征服し、
羈縻支配を介して北アジア・西トルキスタンにも威令を及ぼす未曾有の版図を有し、ビザンツ・イラン・インドととも交渉を持った。
高宗期には隋朝からの懸案だった高句麗を征服したが、トルコ系諸族の離叛が絶えず、玄宗期のタラス会戦と安史の乱は唐の内向化を顕著にした。
武后期は向上する生産力を背景に富商・地主の社会的・政治的発言力を増し、
その反動でもある玄宗のクーデターで始まった開元の治は史上稀な盛時となったが、
土地兼併・商業資本の発展で無産人民が増大し、国家の柱礎である均田制と府兵制を崩壊させた。
さらに玄宗後半の政治的無気力は羈縻体制の破綻と節度使の抬頭を招来し、律令制の全般的解体が決定的になった。
中国史の1つの分水嶺とされる安史の乱は玄宗朝で表面化した社会矛盾の結果でもあり、
反貴族・反朝廷の気運は節度使の自立化を促したが、宮中では宦官の跳梁を背景に貴族官僚と科挙官僚の党争が絶えなかった。
朝廷は両税法の実施と対節度使戦争の強行などで再建を図ったが、
財源確保の為に行なわれた塩の専売は民衆からの搾取に転じ、黄巣に代表される民衆叛乱が頻発するようになった。
安史の乱後も一定の権威を保っていた朝廷は、黄巣の乱後は関中の一部のみを支配する存在となり、黄巣から帰順した朱全忠に簒奪された。
武周以降の唐に関しては武周・唐後半~を参照
太原起兵~長安攻略
李淵(叔徳)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
77 | 72 | 74 | 65 | 88 | 求心 | 運搬 | 使役 | 親鮮 | 優柔 | 斉射 | 牽制 | 罵声 | 運搬開発 | 王道 |
【リエン(シュクトク)】
唐の初代皇帝。高宗。李昞の子。李建成・李世民・李元吉の父。
隋の文帝の独孤皇后の甥で、文帝に親愛された。
続いて楊広に仕え、高句麗遠征では糧食の運搬を監督し、楊玄感の乱では進軍を防ぎ、突厥軍を迎撃した。
後、李世民らの使嗾で隋への反乱を決意し、一気に軍を南下させ長安?を陥れて、
楊広弑殺を知ると禅譲を受けて自ら皇帝に即位。
李世民らの活躍で各地の群雄を破り覇を唱えるが、李建成と李世民の兄弟宥和は果たせず、
李世民が起こした玄武門の変で幽閉されて譲位させられ、そのまま軟禁状態で死去。
李建成
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 76 | 55 | 62 | 85 | 封殺 | 言毒 | 召募 | 動転 | 優柔 | 奮戦 | 牽制 | 挑発 | 投石 | 地勢研究 | 名利 | |
82 | 76 | 75 | 64 | 85 | 封殺 | 言毒 | 召募 | 動転 | 優柔 | 奮戦 | 牽制 | 挑発 | 投石 | 地勢研究 | 名利 |
【リケンセイ】
唐の初代皇帝李淵の長男・皇太子。
李淵が太原?で反隋の決起後、左領軍大都督に任じられ、左軍を統轄した。
その後は、父の命により各地の軍閥を掃討。
しかし、隋末唐初の戦乱で、弟の李世民の戦功と名声が高く、李建成は太子位を奪われることを恐れ、
王珪や魏徴らを任用して謀士とし、李世民を誣告した。
幾度か兵乱を起こし、李世民を除くことを考えるが、玄武門の変で逆に射殺された。
史書からも半ば抹殺され評価も低いが、簒奪正当化のための曲筆も指摘されている。
李世民
「李世民?」を参照。
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
98 | 90 | 94 | 100 | 96 | 奸雄 | 任才 | 疾走 | 医術 | 仁政 | 軍神 | 神弓 | 虚誘掩殺 | 激励 | 罵声 | 治療 | 経世済民 | 覇道 |
敢えて赤個性を付けるなら「仁政」を削って、「癇癪」か「虚弱」を付けるのが彼らしいか。
(数多くの癇癪を起しては、その度に魏徴に直諫された。また自身の発言でも認めているように生来病弱で自ら薬を調合する程であった。)
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
98 | 81 | 90 | 100 | 94 | 奸雄 | 任才 | 疾走 | 英名 | 仁政 | 神機妙算 | 鯨波 | 大喝 | 鎮静 | 井闌 | 経世済民 | 覇道 |
唐の第2代皇帝・太宗。李淵の次男。母は竇氏。兄に李建成、弟に李元吉。
長孫皇后との間の子が高宗・李治。隋末期、父に隋打倒を決断させ、自ら長安を攻め落とす。
618年、隋に替わって唐が建国されると、転戦して各地の群雄を次々に攻め滅ぼし、天下統一を成し遂げた。
その絶大な功績と人気を兄と弟に疎まれると、「玄武門の変」を起こして兄弟を謀殺し、父に譲位させて皇帝となった。
即位後、内政では「貞観の治」と称えられる統治で国力を充実させた。
外征では突厥と高昌国を滅ぼして勢力圏を拡大し、世界皇帝たる唐の繁栄の礎を築き上げた。
李元吉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 88 | 57 | 14 | 26 | 驍将 | 豪傑 | 短慮 | 直情 | 高慢 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 鋒矢強化 | 名利 |
【リゲンキツ】
唐の初代皇帝李淵の四男。斉王。李建成・李世民の弟。
李淵が反隋の挙兵をすると、太原?の留守を担うが劉武周の侵攻を受けて失陥した。
後、李世民の救援で竇建徳を迎撃し、王世充に対しては伏兵を置いて襲撃し、
王世充を捕らえ功績を挙げた。
皇太子李建成と次子李世民の内訌では李建成と結託して李世民の失脚を図り、
讒言や謀殺の企みを繰り返し、北伐の兵で兵変を企図するが、
参内途中の玄武門で李世民の兵に攻撃され、尉遅敬徳?に殺された。
特に槍術に優れ、槍術の達人の尉遅恭と勝負したという逸話が残る。
劉文静(肇仁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 74 | 82 | 36 | 34 | 捕縛 | 召募 | 特使 | 高慢 | 奮戦 | 斉射 | 足止 | 混乱 | 投石 | 縦横術 | 覇道 |
【リュウブンセイ(チョウジン)】
隋唐の将軍。唐草創期の功臣の一人。
隋末に晋陽の県令となる。天下が乱れると李淵、李世民の器量を見込んで接近し、李世民と挙兵の謀議を重ねた。
裴寂を巻き込み李淵に挙兵させると、突厥への使者となり協力を取り付けた。
さらに司馬として別働隊を率い、潼関で屈突通を苦戦の末に捕縛して新安以西の地を制圧した。
元勲として唐建国後に魯国公とされるが、隴西に割拠する薛舉の討伐に失敗し失脚。
さらに裴寂への怨言を告発され、李世民らの弁護も叶わず李淵に処刑された。
処刑に際して韓信の故事を引用して不運を嘆いたという。
親愛:李世民?
裴寂(玄真)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
51 | 37 | 71 | 83 | 62 | 督励 | 調達 | 小心 | 動転 | 斉射 | 挑発 | 鼓舞 | 運搬開発 | 名利 |
【ハイセキ(ゲンシン)】
隋唐の政治家。唐草創期の功臣の一人。
初め隋に仕えて晋陽宮の監守を務め、そのとき李淵と親交を深めた。
天下が乱れると李世民、劉文静と結託して李淵に挙兵を決意させ、晋陽宮の物資を提供した。
長史として李淵に従い、長安を攻略すると魏国公へ昇った。
李淵に皇帝即位を勧め、唐建国後は宰相を務めた。
元勲として李淵の信頼は厚く、一時その権勢は隆盛を極めた。
李世民の皇帝即位後は名誉職の司空とされたが、程なく沙門の妖言に連座して静州へ流された。
しかし、静州で異民族の乱を鎮圧したため許されて帰朝し、間もなく没した。
唐倹(茂約)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
66 | 65 | 71 | 59 | 62 | 罠破 | 特使 | 小心 | 酒乱 | 斉射 | 激励 | 罵声 | 三令五申 | 覇道 |
【トウケン(モヤク)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。莒国公。唐鑑の子。
親子二代で李淵親子に親しく、李父子に王業を説いた。
呂崇茂と劉武周の造反に対し、永安王李孝基・独孤懐恩・于筠らと討伐にあたるが、尉遅恭?に敗れ虜囚となる。
独孤懐恩の唐への造反を察知し、劉世讓を内密に李淵のもとに派遣しその謀略を告発させる。
李淵は彼が敵中でも忠義を尽くしたのを賞賛し、并州道安撫大使とする。
李世民の下では幽州の劉黒闥や馬邑の高満政を鎮圧し莒国公に進封された。
在官時は、酒宴に耽ったため光禄大夫に左遷されるが、国老として特進を加えられた。
長孫順徳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 83 | 55 | 80 | 74 | 捕縛 | 召募 | 仁政 | 強奪 | 消沈 | 奮戦 | 鯨波 | 足止 | 井闌 | 地域振興 | 王道 |
【チョウソンジュントク】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。邳襄公。長孫無忌や長孫皇后の族叔。
隋に仕え右勲衛となるが、高句麗遠征への従軍を忌避して太原?に逃れ、李淵や李世民と親交を持つ。
李淵起兵後は、統軍に任ぜられ群雄平定に活躍。
劉文静とともに屈突通を潼関で捕らえ長安に連行する功を立て、
左驍衛大将軍に任ぜられ、薛国公に封ぜられた。
放縦で法律を守らなかったが、その統治は簡潔明瞭で、明肅と号され、
百姓を搾取する官吏を糾弾して許さなかったので、良牧と称された。
娘を亡くして意気消沈し、病死した。
劉弘基
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 87 | 56 | 15 | 64 | 崩壁 | 召募 | 改修 | 寡欲 | 強奪 | 奮戦 | 斉射 | 大喝 | 衝車 | 鋒矢強化 | 王道 |
【リュウコウキ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。輔国大将軍。隋の河州刺史劉昇の子。
若い頃は素行不良で、侠客と交友し博奕に興じた。
高句麗遠征を忌避して部隊の者と牛を屠殺し官吏を批判したため捕縛され、釈放後は馬泥棒として自活する。
後に唐公李淵に仕え、李世民に見出されて、挙兵時に二千人を集めた。
王威らを捕らえ西河を攻め下し、宋老生を撃破し、先陣を切って黄河を渡り、隋軍に大勝。
長安?平定後は功績第一として、右驍衛大将軍に任ぜられた。
以後は割拠する群雄の討伐に活躍し、突厥への防備を固めた。
殷嶠(開山)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 64 | 67 | 76 | 58 | 論客 | 補佐 | 功名 | 軽率 | 奮戦 | 斉射 | 激励 | 縦横術 | 王道 |
【インキョウ(カイサン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄖節公。隋の秘書丞殷僧首の子。
李淵が太原?で起兵すると、召されて大将軍掾に補任され軍機に参預。
李建成に従って西河を攻撃した。
のち、元帥府司馬として李世民に従い戦うが、李世民の戒めを破って大敗を喫し、
死罪相当を一命を許されて庶民に落とされた。
薛仁杲に対する征戦に従軍し、功績によって爵位を戻され、
王世充を討つのに従い、功により鄖国公に任ぜられた。
「西遊記」では三蔵法師(陳玄奘)の母方の祖父として登場する。
劉政会
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
60 | 64 | 76 | 52 | 58 |
【リュウセイカイ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。渝襄公。北斉の中書侍郎・劉環雋の孫。
隋の太原?鷹揚府司馬で唐公李淵の麾下に属していた。
李淵が太原で挙兵するのに先立ち、王威・高君雅らを捕らえるのに功績を挙げた。
唐の建国後、衛尉少卿に任ぜられ、太原の留守を務める。
群雄の一人である劉武周が并州を攻撃すると虜囚となるが、
敵中にあって劉武周の動静を李淵のもとに書き送る。
劉武周が敗れると官爵を戻され刑部尚書・光禄卿を歴任し、邢国公に封じられた。
柴紹(嗣昇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 87 | 82 | 30 | 75 | 掃討 | 機略 | 泰然 | 沈着 | 奮戦 | 牽制 | 混乱 | 井闌 | 鋒矢強化 | 王道 |
【サイショウ(シショウ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。譙襄公。妻は唐の高祖李淵の三女平陽公主。
幼少より剽悍な侠客として知られていた。
李淵の太原?の挙兵後、間道を通って参陣し、長安?進軍では先頭で敵陣を陥れる功を上げた。
天下統一戦では李世民に従い薛仁杲・宋金剛・王世充・竇建徳らを討伐。
吐谷渾と党項の侵入では、高所から射かける敵軍に対し、
胡琵琶を弾かせ、二女子に舞いを舞わせる奇策で敵軍を疑心に陥らせ、
精鋭の騎兵を率い後方からの奇襲で大勝。
この功で鎮軍大将軍を加えられ、右驍衛大将軍を代行し、譙国公に改封された。
李氏(平陽公主)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 70 | 74 | 58 | 72 | 規律 | 応援 | 召募 | 慰撫 | 動員 | 奮戦 | 斉射 | 足止 | 鼓舞 | 政令徹底 | 王道 |
【リシ】
李淵の三女。柴紹の妻。平陽昭公主。
父の李淵が太原?で起兵すると、一計を案じて父の起兵に呼応した。
総管を称していた何潘仁を降して、周辺の李仲文・向善志・丘師利らを降した。
法の順守と略奪を厳禁させ、関中近隣の人士を懐柔し、
唐軍が黄河を渡ると、渭北で李世民の軍と合流した。
柴紹と公主は幕府を対置して、長安?の平定にあたり、公主の部衆を娘子軍と号した。
唐建国後、平陽公主に封ぜられる。
葬儀に際し、父の李淵は太常(葬儀の礼の官)の批判を押し切り、
常に軍中にいた彼女の死を軍楽で悼んだという。
天下平定戦~玄武門の変
李孝恭
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 82 | 86 | 67 | 85 | 督将 | 妙算 | 屯田 | 慰撫 | 慈悲 | 急襲 | 牽制 | 足止 | 混乱 | 駆逐 | 水軍育成 | 名利 |
【リコウキョウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。河間元王。唐の高祖李淵の族甥。
李淵の長安?平定後、山南道招尉大使となった。
金州から巴蜀に進出して三十余州を下し、朱粲を破り降伏させる功を立てる。
江陵?に拠る蕭銑を撃破して、輔公祏が江南で背くと大勝。この功で揚州大都督となる。
後、邸に石頭城を築いたことで、謀反を誣告され召還されて詰問されるが、
冤罪と判明して許され、涼州都督・晋州刺史を歴任した。
趣味は豪奢で歌舞や美人を好んだが、寛仁謙譲な人格で李世民にも重用された。
屈突通(坦豆抜)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 86 | 82 | 57 | 90 | 堅守 | 不屈 | 規律 | 地利 | 法律 | 奮戦 | 斉射 | 鉄壁 | 牽制 | 混乱 | 雁行強化 | 王道 |
【クツトツツウ(タントウハツ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。蒋国忠公。北周の邛州刺史の屈突長卿の子。
武略を好み、騎射を得意とした。
隋の建国後は、左衛府司馬となり、楊広の命で長安?を守備する。
士気揚がらぬ官軍を指揮して長安を死守したが唐軍の勢いの前に敗北、
号泣しつつ東南に再拝して降伏する。
この言動ゆえ李淵に忠臣と認められて抜擢され、唐の国内統一に貢献した。
「玄武門の変」の後は洛陽?を守備し、まもなく没した。
官職に剛直で、法を犯す者が居れば親族でも容赦しなかったという。
蕭瑀(時文)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 66 | 83 | 77 | 25 | 能吏 | 智嚢 | 教唆 | 癇癪 | 高慢 | 斉射 | 挑発 | 罵声 | 地域巡回 | 礼教 |
【ショウウ(ジブン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。宋国公。梁の昭明太子の曾孫。
隋の楊広(煬帝)の外戚として重用されたが、進言が煬帝の勘気に触れ、河池郡守に左遷された。
唐の高祖李淵が長安?に入ると、蕭瑀を招き、宋国公に封じ、
秦王李世民が洛陽?を攻めると蕭瑀はその下で元帥府司馬を務めた。
李淵の側近として内外の政務の裁決に関与し、蕭郎と呼ばれた。
李淵の過失にも憚らずに発言して信頼され、李世民が雍州牧となると蕭瑀は雍州都督となるが、
貴族の出で、狭量で不平不満が多かったため、房玄齢や魏徴と度々対立し、幾度も朝政権を剥奪された。
尉遅恭(敬徳)
「尉遅恭?」を参照。
秦瓊(叔宝)
「秦瓊?」を参照。
程知節(義貞)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 92 | 65 | 30 | 62 | 果敢 | 豪傑 | 護衛 | 胆力 | 粗暴 | 怪力無比 | 奮戦 | 大喝 | 罵声 | 方円強化 | 王道 |
【テイチセツ(ギテイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。宿国公。盧国公。程婁の子。
李密に従い四驃騎の一つを領して活躍し、王世充討伐では単雄信と両騎営を担い、
王世充が単雄信を狙うと、裴行儼と共に苦戦しつつも救援した。
李密が敗れると、王世充を嫌い、秦叔宝と唐に帰順し、
宋金剛・竇建徳・王世充との戦いに従軍して、先陣を幾度も切る功績をあげる。
その後、李建成の讒言を受けて左遷されても無視し、
「玄武門の変」ののち、右武衛大将軍に任ぜられ叛乱平定などに活躍。
左領軍大将軍・原州都督を歴任し、普州刺史・盧国公に改封された。
段志玄
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 93 | 36 | 23 | 76 | 勇将 | 規律 | 胆力 | 召募 | 頑健 | 急襲 | 大喝 | 撹乱 | 衝車 | 地域巡回 | 覇道 |
【ダンシゲン】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。樊国公。褒国公。
李淵の挙兵後、千人の兵と共に従い、右領大都督府軍頭となる。
霍邑・絳郡を下し、永豊倉を攻撃する際は常に先鋒を務めた。
劉文静が桑顕和に襲撃され唐軍が潰乱すると、二十騎を率いて敵陣に突入し、
流れ矢を足に受けつつも再三討ち入り敵を混乱させ勝利した。
さらに、王世充の征討に従い、竇建徳を破った。
皇太子・李建成に金や絹で誘われたが拒絶し、李世民の即位後、左驍衛大将軍・樊国公となる。
警備は厳重で、周亜夫に比すべき真の将軍と李世民に感嘆された。
張公謹(弘慎)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 75 | 82 | 84 | 80 | 堅守 | 屯田 | 督励 | 工面 | 補佐 | 奮戦 | 斉射 | 鉄壁 | 足止 | 混乱 | 運搬開発 | 王道 |
【チョウコウキン(コウシン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄒国公。郯襄公。
隋に仕え王世充の下で洧州長史となったが、刺史の崔枢とともに唐に帰順。
李勣と尉遅恭?から李世民に紹介され秦王府に入る。
「玄武門の変」では李建成亡き後、部下の馮立・薛万徹らが玄武門を攻めるが奮戦しこれを阻む。
のち、代州都督となり、食糧運送の手間を省くために屯田を置いた。
ときの政治の得失を言上し、その言の多くが採用された。
突厥攻撃では李靖の副将として定襄を落とし、頡利可汗を破る功績で鄒国公に進封された。
襄州都督に転出し、寛容な統治で知られた。
羅士信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 89 | 42 | 40 | 80 | 驍将 | 果敢 | 猛者 | 胆力 | 功名 | 勇往邁進 | 急襲 | 大喝 | 罵声 | 鋒矢強化 | 王道 |
【ラシシン】
隋末・唐初の武将。
張須陀の義勇軍に参加し14歳で初陣を飾る。
この際、若年扱いされたことで鎧を二枚重ねて着用し奮戦した。
盧明月が張須陀を襲撃した際には、秦瓊?と共に寡兵を率いて盧明月の本陣を逆襲している。
張須陀の敗死後は、秦瓊・程知節らと行動を共にし、最終的に唐の李淵に帰順する。
李世民による洛陽?包囲戦で活躍し、王世充の太子の王玄応を突き落とし、硤石堡と千金堡を陥落させた。
翌年、漢東王劉黒闥と洺水で戦い捕縛され、帰順に応じず殺害された。
※享年20歳説(旧唐書)と28歳説(新唐書)がある。
しかし、どちらも張須陀軍で初陣を飾った613年とは辻褄が合わない(初陣年と没年から計算すると享年23歳)。
侯君集
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 83 | 88 | 57 | 35 | 崩壁 | 長駆 | 潜在 | 高慢 | 強欲 | 奮戦 | 斉射 | 鯨波 | 衝車 | 投石 | 兵器強化 | 覇道 |
【コウクンシュウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。陳国公。
秦王李世民の幕府に召され、征戦に従い謀議に参与した。
「玄武門の変」では、李建成・李元吉の排除計画に大功があり、
李世民の即位後は潞国公・右衛大将軍に任ぜられた。
吐谷渾討伐戦では李靖の下で献策し、西域でも攻城兵器を駆使し功を上げる。
だが、高昌攻略後、無罪の人を奴隷に落として分配し、私的に宝物や婦人を略取したため、
その罪を奏上されると、詔で投獄される。
太宗は李広利や陳湯の例を引いた上疏を受け釈放するが、
のち、皇太子李承乾と共に兵変を計画した罪で処刑された。
張亮
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 76 | 73 | 62 | 54 | 召募 | 操舵 | 補佐 | 小心 | 惰弱 | 斉射 | 激励 | 衝車 | 駆逐 | 地域巡回 | 覇道 |
【チョウリョウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。長平郡公。鄖国公。
群雄の李密の元で李勣を補佐して頭角を現した。
李勣と共に唐に帰順すると鄭州刺史に抜擢されるが、王世充に攻撃を受け城を棄て遁走。
続いて李勣の指示で相州を守ったが劉黒闥の強勢を見て城を棄てて逃亡した。
その後、房玄齢の推挙で李世民に招聘されると、知遇を得て車騎将軍に任じられた。
玄武門の変では決起に先立ち洛陽?へ赴き山東の豪傑を集めて有事に備えた。
李世民即位後は朝政に参与し、弱気を助け強気を挫く統治ぶりで評価された。
高句麗遠征では東莱から海路を進み遼東半島に上陸して高句麗の沙卑城を陥れた。
その遠征帰還中に謀反を企てた罪が発覚して処刑された。
丘行恭
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
586 | 665 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 96 | 55 | 16 | 49 | 遠矢 | 果敢 | 豪傑 | 護衛 | 血路 | 妙才連箭 | 奮戦 | 牽制 | 大喝 | 雁行強化 | 覇道 |
【キュウコウキョウ】
唐の将軍。
勇敢絶倫で騎射を得意とした。隋末に郿城に拠って周辺の群盗を帰服させたが、
やがて李淵に帰順。長安攻略、王世充、竇建徳らとの戦いではいずれも殊勲を挙げた。
特に王世充との戦いでは、李世民が敵中に孤立し、愛馬に矢が命中する窮地に陥った。
一人付き従う行恭は矢を放ち敵兵を牽制すると李世民に自身の馬を差し出し、
自身は長刀を振るって徒歩で敵の包囲を突破した。この出来事は石刻となり、
昭陵に飾られ顕彰された。厳酷な性格を周囲に恐れられ度々失脚したが、
その都度李世民から先の功績を思慕され復職した。
貞観の治~高句麗討伐
李治(為善)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
628 | 633 | 683 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
70 | 15 | 37 | 68 | 92 | 仁政 | 小心 | 虚弱 |
【リチ(イゼン)】
唐の3代皇帝。廟号は高宗、諡号は天皇大聖大弘孝皇帝。太宗(李世民)の9男。母は長孫無忌の妹の長孫皇后。
温和で親孝行だった。始め長兄の李承乾が皇太子に立てられ、李治は晋王に封じられた。
しかし、李承乾は父の寵愛を受けた四兄の李泰を討とうとして失敗。長孫無忌・房玄齢らの進言で、
李承乾を廃嫡し、李泰も左遷して李治が皇太子になった。
即位すると、長孫無忌の進言で三兄の李恪を謀反のかどで自害させ、地位の安定を図った。
当初は長孫無忌が実権を握り、太原王氏出身の王氏を皇后に立てたが、高宗は蕭淑妃を寵愛するようになった。
王氏は武照?を取り立てて高宗の目をそらそうとしたが、今度は武照が寵愛され、皇后の地位を奪われた。
武照は王氏を殺し、長孫無忌を自害させ、政治の実権を握った。高宗は武照の廃立を考えるようになったが失敗し、国政を完全に武照に掌握され、まもなく死去した。
一方で対外的には、朝鮮半島で660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。中央アジアでは657年に西突厥を下し、
イスラム勢力に滅ぼされたサーサーン朝イラン(ペルシア)の王子・ペーローズ3世の亡命を受け入れた。
こうして唐の領土は最大となり、ウマイヤ朝イスラム帝国とアジアを二分する空前の世界帝国となった。
また、650年に制定された永徽律令は、日本の大宝律令の参考にされた。
高宗の葬儀には、属国を始めとした61人の外国の王侯が参列し、「六十一蕃臣像」が作られた。像は現存するが、理由は不明だが首が落とされている。
長孫無忌(輔機)
「長孫無忌?」を参照。
高倹(士廉)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 78 | 86 | 85 | 84 | 文化 | 農政 | 眼力 | 占術 | 補佐 | 奮戦 | 斉射 | 足止 | 鼓舞 | 地域振興 | 王道 |
【コウケン(シレン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。義興郡公。申国公。高履行・高審行・高真行の父。
李淵が嶺南に遣使すると、交趾太守の丘和と共に投降し、秦王李世民の下で治中となった。
李世民が皇太子の李建成と争うと、長孫無忌と共に李建成を討つ計画を定め、
「玄武門の変」決行時は李世民の援軍として戦い、
李世民が皇太子となると義興郡公になるが、王珪を匿ったため安州都督に左遷された。
だが、蜀の地で学校を復興し、灌漑開発を進め、現地の風俗を一変させ、
長安に召還され許国公・司空に進み特進・上柱国となった。
房喬(玄齢)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
7 | 5 | 92 | 98 | 78 | 人脈 | 眼力 | 王佐 | 柱石 | 智嚢 | 王佐の才 | 鼓舞 | 先従隗始 | 覇道 |
【ボウキョウ(ゲンレイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。梁国公。隋末の混乱時に唐に投じ、
李世民から知遇を得て秦王府十八学士の筆頭とされた。
優秀な人材の確保に努め、彼らが李世民のために死力を尽くすよう働きかけた。
李建成にその才略を恐れられ、讒言によって一時秦王府を逐われたが、
道士に変装して謀議を続け「玄武門の変」を成功させた。
論功行賞では蕭何を例に功績第一とされ、李世民の皇帝即位後は尚書左僕射に昇った。
宰相として建国間もない唐朝の諸制度、人事を定め、杜如晦と共に「貞観の治」の立役者とされた。
杜如晦(克明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
54 | 17 | 98 | 92 | 75 | 督励 | 眼力 | 策士 | 王佐 | 智嚢 | 王佐の才 | 斉射 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 文事武備 | 覇道 |
【トジョカイ(コクメイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。莱国成公。若い頃から書に親しみ決断力に富んだ。
李淵が長安を占拠すると、李世民の腹心である房玄齢に推挙され、その幕下に加わる。
王世充、竇建徳らとの戦いに従軍し、帷幄で謀議を巡らせ天下平定に貢献した。
李建成らの讒言で李世民の元を逐われたが、道士に変装して謀議を続け「玄武門の変」を成功させた。
李世民の皇帝即位後は尚書右僕射となり、宰相として建国間もない唐朝の諸制度、人事を策定した。
尚書左僕射の房玄齢とともに「貞観の治」を現出させ、後世に良相を語る際は必ず名が挙がったという。
李靖(薬師)
「李靖?」を参照。
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
100 | 78 | 97 | 86 | 89 | 神機 | 飛将 | 洞察 | 疾走 | 水戦 | 神算鬼謀 | 兵貴神速 | 急襲 | 鎮静 | 強襲 | 矢嵐 | 文事武備 | 覇道 |
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
100 | 85 | 96 | 81 | 90 | 神機 | 飛将 | 洞察 | 求心 | 寡欲 | 軍神 | 兵貴神速 | 撹乱 | 混乱 | 鼓舞 | 文事武備 | 王道 |
唐の武将。凌煙閣二十四功臣の序列第八位。衛国公。
李詮の子。母の兄弟に韓擒虎。「薬師」はもとの名とも。はじめ隋に仕える。
李淵の挙兵を察知して朝廷に急報しようとするも捕縛され、李淵に斬られるところであったが、李世民に一命を助けられて配下に加わった。
以後、李世民に従って各地を転戦し、蕭銑を打倒して江南を平定するなど、唐の天下統一に大きく貢献。
李世民の即位後も大官を歴任して軍を任され、突厥や吐谷渾を征伐して唐の国境を安定させた。
その兵法は常勝を誇り、武経七書の一つ「李衛公問対」は李世民と李靖の対話で語られる。
李勣(懋功)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
99 | 75 | 96 | 88 | 92 | 神将 | 洞察 | 疾走 | 堅守 | 富豪 | 神機妙算 | 破竹之勢 | 奮戦 | 鼓舞 | 鎮静 | 投石 | 文事武備 | 覇道 |
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
98 | 74 | 97 | 82 | 87 | 伏龍 | 妙算 | 長駆 | 求心 | 寡欲 | 神算鬼謀 | 急襲 | 斉射 | 罵声 | 鼓舞 | 投石 | 三軍強化 | 王道 |
【リセキ(ボウコウ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。英国公。
もとの名は徐世勣。隋末の混乱期、17歳で反乱軍に身を投じて李密の元で頭角を現す。
李密が唐に帰順すると、関東で保持していた李密の広大な領土を唐に献上したため、
その功績として唐から国姓の李姓を賜った。
その後は太宗(李世民)の元で天下平定戦で活躍し、天下平定後は李靖と共に突厥討伐に活躍。
晩年にも高句麗討伐の総司令官を任され、高宗(李世民の子)の代に高句麗を滅亡させた。
武照が武則天として政権を奪うと、多くの臣下が失脚する中、李勣はそのまま重用された。
親愛:李世民?
魏徴(玄成)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
47 | 56 | 87 | 95 | 58 | 詩想 | 明鏡 | 諌止 | 論客 | 史官 | 斉射 | 罵声 | 鎮静 | 縦横術 | 覇道 |
【ギチョウ(ゲンセイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄭国文貞公。
幼少時貧困で、隋末に群雄の一人の李密の下へ身を寄せ、敗戦後は唐へ帰するが、
竇建徳の捕虜となり、才能を見出された。
竇建徳が敗れると唐へ帰り、皇太子・李建成の側近となるが、玄武門の変で李建成が死ぬと、
李世民は率直さを評価して諫議大夫へ昇進させ、後に秘書監、侍中等の職を転任。
癇癪を起こした太宗を二百回余りも直諌したことで有名で、『貞観政要』にも残る。
その死は李世民にも哀惜され、彼の存在は「鏡」に譬えられた。
虞世南(伯施)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
1 | 1 | 72 | 66 | 80 | 詩想 | 文化 | 学者 | 鎮静 | 太学 | 礼教 |
【グセイナン(ハクシ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。渝襄公。永興文懿公。初唐三大家の一人。
初め隋に仕えるが、のちに李世民の秦王府に招かれ書記を務めた。
李世民の皇帝即位後は秘書監となり、その博学さを買われ顧問として生涯信任された。
文学は顧野王、徐陵から学び、書は智永に学んで王羲之の正統を継承したされ、
李世民が開設した弘文館では貴族の子弟に書を教えた。
同時代の欧陽詢と共に楷書の大成者とされる。
閻譲 (立徳)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 21 | 72 | 76 | 58 | 発明 | 改修 | 築城 | 浪費 | 絡繰利器 | 井闌 | 衝車 | 投石 | 工法改革 | 名利 |
【エンジョウ(リットク)】
唐の政治家。
字をもって知られる。父は隋で殿内少監を務めた閻毗で工匠として知られた。
閻立徳も弟の閻立本と共に絵画、工芸、建築に長け、唐に仕えて将作大匠、工部尚書を歴任。
宮廷内の衣服から皇帝の陵墓、宮殿、橋梁までの設計・工事を担当した。
軍事面でもその才能は活かされ、高句麗遠征では豫章で大船五百艘を建造し、
安市城攻略では土山を築く工事を担当した。遠征軍の帰還時に二百里にわたる湖沼が
行軍の支障となった際は瞬く間に橋梁を作り出して行軍を可能にしたという。
李道宗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 85 | 86 | 55 | 70 | 疾走 | 機略 | 長駆 | 果敢 | 看破 | 急襲 | 斉射 | 牽制 | 撹乱 | 井闌 | 長蛇強化 | 覇道 |
【リドウソウ】
唐の江夏王。唐の高祖李淵の族甥。17歳で天下平定戦に参加。
観察眼に優れ、城壁の上から敵軍を眺めただけで食料が尽き自ずと退却するため迎撃不要と看破。
その通り的中させ太宗(李世民)を感心させた。
霊州総管となると梁師都が突厥を率いて来寇したが、
籠城しながら隙を見て出戦して賊を撃退。五原郡から敵を駆逐し、
漠北へ追撃して千余里にわたる土地を唐の版図に加え、李淵から曹彰に準えられた。
その後も突厥、高昌、高句麗の征戦に参加し功績を挙げ、
李孝恭と並んで天下平定に貢献した皇族として重んじられた。
契苾何力
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
84 | 97 | 61 | 25 | 78 | 飛将 | 剛将 | 果敢 | 豪傑 | 嚮導 | 疾風迅雷 | 突撃 | 激励 | 大喝 | 魚鱗強化 | 王道 |
【ケイヒツカリキ】
鉄勒の契苾部の出身で母と部族を引き連れて唐に帰順すると
李靖の指揮下で吐谷渾を撃破して族長の伏允を敗死に追い込んだ。
太宗に重用されると高昌の討伐、高句麗の白巌城の攻撃においても
最前線で功績を挙げた。太宗の死去に際して殉死しようとしたが高宗に
制止された。高宗期の高句麗討伐では遼東を制圧、さらには
鴨緑江を守る高句麗軍を大破すると李勣軍と合流、
平壌城を陥落させて高句麗を滅ぼした。
親愛:李世民?
蘇烈(定方)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
96 | 94 | 78 | 63 | 84 | 神威 | 矍鑠 | 長駆 | 疾走 | 胆力 | 神威穿貫 | 突撃 | 激励 | 撹乱 | 井闌 | 錐行強化 | 王道 |
【ソレツ(テイホウ)】
唐の将。蘇定方。
李靖の下で二百騎を率いて突厥戦での先鋒をつとめ、霧中に牙帳を襲撃した。
高句麗攻めでは程知節に従い前軍総管となり、連戦して敵陣に討ち入って功を挙げた。
その後、西域諸国を攻略し唐の西方拡大に大いに貢献した。
その後、新羅の要請で百済征討に参戦し、主力軍に勝利し、続く高句麗戦でも平壌を包囲した。
治軍厳正にして秋毫も犯さず、強襲と力戦により、しばしば寡兵で大軍を破った。
没後、生涯三国を滅ぼした名将であると高宗に悼まれた。
薛礼(仁貴)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 97 | 76 | 65 | 80 | 遠矢 | 勇将 | 一騎 | 血路 | 胆力 | 神弓 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 井闌 | 三軍強化 | 王道 |
【セツレイ(ジンキ)】
唐の将。薛仁貴。薛軌の子。
張士貴の兵の徴募に応じて、高句麗遠征に参加。
劉君卬が高句麗軍に攻囲されている危機を救援して名を挙げ、
以後、突厥・高句麗・吐蕃・契丹といった唐王朝の遠征軍に連続して参加。
安市城の攻撃では、白衣を着て目印とし、戟を持ち、
二張りの弓を腰にかけて軍の先頭に立ち突撃し、高句麗軍を破った。
遠征軍が長安?に帰還すると、宮城の北門を守備。
突厥の骨篤禄が唐の北辺に侵入すると、阿史徳元珍の軍を雲州で撃退した。
その勇武は多くの民間伝承に伝えられる。
張士貴(武安)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 86 | 56 | 36 | 58 |
【チョウシキ(ブアン)】
唐の将軍。虢国公。
百五十斤の強弓を引き、左右自在に射て的を外すことがなかったと言われる。
隋の末年に起兵して城邑を攻掠し、李淵が起兵すると招かれ右光禄大夫に任ぜられ、
劉文静・李建成の下で征戦に従い、功績を挙げた。
唐建国後に王世充の大軍と遭遇して奮戦し、功績により開国公の爵位を受けた。
その後も国内統一戦に先頭に立って戦い、国内が定まってからは南方の異民族の制圧にあたる。
高句麗遠征において遼東道行軍総管をつとめ、まもなく死去した。
劉仁軌(正則)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 76 | 80 | 74 | 67 | 火神 | 一心 | 屯田 | 水戦 | 特使 | 神火計 | 火矢 | 鼓舞 | 駆逐 | 強襲 | 火計研究 | 王道 |
【リュウジンキ(セイソク)】
唐の武将。
太宗の治世で給事中まで昇るが、李義府により青州刺史に左遷される。
高宗の百済討伐では海運を担当するが、暴風に遭遇して失敗し免職された。
百済の残党が起兵し百済城(泗沘)を攻めると救援に赴き、熊津江で百済軍を打ち破る。
さらに白江口(白村江)で倭・百済の連合軍を迎撃し、軍船四百艘を焼き払い倭の勢力を朝鮮半島から駆逐した。
百済を鎮守し、高宗の封禅には新羅、百済、耽羅、倭の四国の使者を連れて参加している。
高句麗、靺鞨、吐蕃との戦いでも活躍し、武則天の親政時にも重用された。
裴行倹(守約)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
91 | 75 | 78 | 82 | 84 | 妙算 | 長駆 | 泰然 | 文化 | 親羌 | 鉄騎突 | 急襲 | 激励 | 足止 | 混乱 | 文事武備 | 王道 |
【ハイコウケン(シュヤク)】
唐の武将、政治家。
明経に及第して長安令を務める。
高宗の武照(後の武則天)立后に反対したため、西域へ左遷される。
西域諸国を服属させ、中央に召喚されると少常伯(吏部侍郎)となって、
官吏の選定のための法整備に尽力した。
この間、蘇定方から兵法を学び、誠心を尽くして兵の信頼を得て、異民族との戦いで勝利を重ねた。
ササン朝ペルシャが滅亡して亡命してきた王子ナルセスの帰国を名目に、
途上で一万の騎兵を募って西突厥を破り、帰還後に礼部尚書に任じられる。
東突厥が反したため、三十万の軍を率いて平定した。
許敬宗(延族)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
5 | 3 | 58 | 70 | 15 | 史官 | 小心 | 悪名 | 強欲 | 罵声 | 太学 | 名利 |
【キョケイソウ(エンゾク)】
隋、唐の政治家。許善心の子。
隋末に秀才に挙げられ隋に仕えた。煬帝の江都巡幸に随行するが宇文化及の乱に遭遇。
父が殺される傍ら、舞を踊って命乞いしたという。唐が建国されると太宗の秦王府に招かれる。
文才を評価され、史官として重用された。高宗が即位すると武照?を立后したい意向に阿り、
立后を手助けしたため宰相職に昇る。武照?が政権を掌握した後も権勢を振るい、
長孫無忌ら旧臣を排除した。史官時代に行ったとされる史書改竄は悪名高く、
私生活も奢侈を極めた。宋代に編纂された新唐書では姦臣伝に収録されている。
嫌悪:長孫無忌?
李義府
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
9 | 4 | 57 | 59 | 13 | 悪名 | 高慢 | 強欲 | 罵声 | 太学 | 名利 |
【リギフ】
唐の政治家。
文才に長け、李大亮の推挙で唐に仕える。
太宗の治世は太子舎人らを歴任し、晋王李治(後の高宗)に近侍した。
高宗が即位すると一早く武照?に取り入り、宰相職に昇り詰めた。
賄賂と売官を横行させ、高宗と武照?の恩寵を笠に恣に振舞った。
最終的には汚職と不遜な言動が高宗の我慢の限界を超えたため失脚し、配流先で憤死した。
表面上は柔和な物腰だが、僅かでも自身の意に背く者があれば誣告したため「笑中に刀有り」と恐れられた。
彼の死を聞くと官民こぞって慶賀したという。新唐書では姦臣伝に収録されている。
王玄策
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 68 | 87 | 71 | 75 | 機略 | 胆力 | 論客 | 特使 | 嚮導 | 斉射 | 火矢 | 突撃 | 鉄壁 | 激励 | 縦横術 | 王道 |
【オウゲンサク】
唐初期の官僚。
643年に副使としてインドのヴァルダナ朝に赴いた。
647年に正使として二度目のインド行きとなったが、ヴァルダナ朝においてはハルシャ王が
亡くなり混乱の状況にあり、王玄策らの使節はハルシャ王の死後に簒奪したアラナシュの捕虜となる。
その際、王玄策は脱出して友好国であるネパールと吐蕃から兵を借りてアラナシュ率いるインド軍を撃破し
捕らえたアラナシュを長安まで連行した。
その後の657年にもインドに赴いており「中天竺国行記」を残している。