注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
唐(705~907)、武周(690~705)
隋の太原?留守李淵が創始。
実質的な創建者は次子李世民とされ、隋末の群雄を平定し、国家の基礎を確立した。
均田制・郷里臨保制を支配の基礎として租庸調を財政の根本とし、自立農民による自然経済が主体で、
商工業は官許の市に局限され、登記人口は最盛期には5000万人に達した。
貞観の治と呼ばれる太宗期に突厥・薛延陀などの北方異民族を征服し、
羈縻支配を介して北アジア・西トルキスタンにも威令を及ぼす未曾有の版図を有し、ビザンツ・イラン・インドととも交渉を持った。
高宗期には隋朝からの懸案だった高句麗を征服したが、トルコ系諸族の離叛が絶えず、玄宗期のタラス会戦と安史の乱は唐の内向化を顕著にした。
武后期は向上する生産力を背景に富商・地主の社会的・政治的発言力を増し、
その反動でもある玄宗のクーデターで始まった開元の治は史上稀な盛時となったが、
土地兼併・商業資本の発展で無産人民が増大し、国家の柱礎である均田制と府兵制を崩壊させた。
さらに玄宗後半の政治的無気力は羈縻体制の破綻と節度使の抬頭を招来し、律令制の全般的解体が決定的になった。
中国史の1つの分水嶺とされる安史の乱は玄宗朝で表面化した社会矛盾の結果でもあり、
反貴族・反朝廷の気運は節度使の自立化を促したが、宮中では宦官の跳梁を背景に貴族官僚と科挙官僚の党争が絶えなかった。
朝廷は両税法の実施と対節度使戦争の強行などで再建を図ったが、
財源確保の為に行なわれた塩の専売は民衆からの搾取に転じ、黄巣に代表される民衆叛乱が頻発するようになった。
安史の乱後も一定の権威を保っていた朝廷は、黄巣の乱後は関中の一部のみを支配する存在となり、黄巣から帰順した朱全忠に簒奪された。
武韋の禍
武照
「武照?」を参照。
武三思
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
47 | 33 | 59 | 55 | 36 | 封殺 | 築城 | 浪費 | 悪名 | 高慢 | 挑発 | 罵声 | 工法改革 | 名利 | |||
48 | 35 | 62 | 57 | 38 | 封殺 | 築城 | 浪費 | 悪名 | 高慢 | 挑発 | 罵声 | 工法改革 | 名利 |
【ブサンシ】
唐の政治家。武照?の甥。武周の梁王。
武照?の権力拡大に伴い唐朝中枢に進出した。
武照?から寵愛を受ける張易之・張昌宗らと政権を牛耳り、張柬之ら唐朝の正統派官僚との政争を繰り広げた。
一時は皇太子になろうと画策するが、狄仁傑の反対で失敗に終わる。
武照?死後は韋后と手を結び、息子の武崇訓へ安楽公主が降嫁したことで権勢を保持した。
中宗の皇太子・李重俊と不仲であったことから廃太子を目論むが、先手を打って起兵した李重俊に殺された。
中宗から大尉が追贈されるが、睿宗の代に逆節を理由に墓所が破壊された。
親愛:武照?
狄仁傑(懐英)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
53 | 42 | 90 | 97 | 88 |
【テキジンケツ(カイエイ)】
唐の政治家。号は徳英。高宗から武則天の四代に仕えた。
大理丞になると、滞っていた案件を一年で処理し、
一万七千人を裁いて冤罪者を一人も出さず、大きな名声を得た。
地方に出ると異民族も良く統治して人心を得、
叛乱の連座に問われた者達を減刑して命を助け、その仁政から民に慕われた。
酷吏の来俊臣に謀反を誣告され獄に下され、後に地方に左遷される。
中央に戻ると宰相に復帰し、武則天に直言・諫言を行い続け、武則天の信任も厚く非常に慕われた。
狄光嗣、張柬之、桓彦範、敬暉、姚崇らを抜擢し、後の唐中興の礎を築いた。
婁師徳(宗仁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 56 | 84 | 95 | 90 | 明鏡 | 屯田 | 調達 | 農政 | 工面 | 奮戦 | 斉射 | 足止 | 鎮静 | 運搬開発 | 王道 |
【ロウシトク(ソウジン)】
唐の政治家。
科挙から官僚となり、宰相の器と評された。吐蕃が辺境を侵すと文官ながら募兵に応じて吐蕃を討伐。
その後辺境で屯田を行い数百万斛の軍糧を得た。
一度は中央で宰相となるも屯田を重視する武后により再度辺境で屯田を実施。
證聖年間に吐蕃に敗れて降格するも程なく宰相に復帰。中央と辺境を行き来すること三十年に及び、
当時酷吏により多くの高官が失脚する中、終始失脚しなかった。狄仁傑を宰相に推挙したが、
狄仁傑はそのことを知らず、婁師徳を排斥していたが、のちに知ると「私は婁公に遠く及ばない」と嘆いたという。
張柬之(孟将)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 8 | 87 | 87 | 76 |
【チョウカンシ(モウショウ)】
唐の政治家。襄陽?出身。
若い時に太学生となり、経史を広く読み、三礼に精通していた。
進士になると清源丞を務めた。
七十歳近い年齢の時に賢良征試で第一位となり、監察御史に抜擢される。
しかし武則天に逆らって合州・蜀州の刺史に左遷された。
洛州司馬になると、狄仁傑が司馬より宰相の器であると進言して中央へ戻された。
宰相となり、武則天が病床に伏せると桓彦範らと起兵し、
武則天に寵愛された張兄弟を斬り、武則天を退位させて唐を再興した。
しかし、武三思が権力を握ると左遷され、故郷で憤死した。
論弓仁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
77 | 82 | 56 | 53 | 65 |
【ロンキュウジン】
唐の将軍。吐蕃の出身で本名はガル・マンブジ。
父論欽陵は吐蕃王朝の名将として知られていたが、698年にその名声と武功故に粛清されてしまい、翌年論弓仁は唐に降る。
その後は将軍として活躍し、714年の突厥九姓の反乱では奮戦。赤柳澗で500の兵を率いた際に多数の敵軍に包囲されてしまうが、
彼は自若として見事に包囲を切り抜け、その勇壮ぶりに人々を心服させた。
左驍衛大将軍まで昇り、61歳で没した。大小百戦して不敗の名将であった。
王晙
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 76 | 86 | 78 | 87 | 疾走 | 妙算 | 屯田 | 規律 | 胆力 | 明鏡止水 | 急襲 | 牽制 | 混乱 | 文事武備 | 王道 |
【オウシュン】
唐の将軍、政治家。
科挙及第後、中央官僚を務めた後に都督として桂州に赴任。
江水を引いて数千頃を開墾して領民から慕われた。
吐蕃が背き十万の兵で臨洮に来寇すると七百の兵で夜襲を敢行。
吐蕃の服装をした兵を敵中に忍ばせる奇策で同士討を誘い撃退した。
オルドスで突厥の降胡や康待賓が相次いで背くと討伐し、功績により中山公に封じられ、宰相職に昇った。
熊虎の容貌を持ち、節義を重んじる様は吏民から畏愛された。
権臣張易之による魏元忠の誣告をただ一人弁護した際は宋璟をして「私は王晙のようにできない」と嘆かしめた。
韋氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
7 | 3 | 62 | 55 | 37 | 応援 | 悪名 | 高慢 | 強欲 | 罵声 | 鼓舞 | 政令徹底 | 我道 |
【イシ】
唐の中宗の皇后。韋皇后。
名門京兆韋氏の出。皇后となるが、中宗は即位後わずか55日で廃位され房州へ流された。
このとき中宗は自害を考えたが韋后が励まし、夫婦で苦難を乗り切った。
このため中宗は復位が叶った暁には韋后の政治参加を認めたという。
中宗の復位が叶うと韋后は上官婉児の進言を容れ、第二の武照を目指して朝政を壟断。
外戚一族で要職を占め李氏の権限を抑制した。やがて娘の安楽公主と謀って中宗を毒殺。
帝位簒奪を目論み、その前段として幼い李重茂を即位させるが、李隆基らの政変により誅殺された。
親愛:武照?
李裹児(安楽公主)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
4 | 2 | 53 | 46 | 67 | 傾国 | 悪名 | 高慢 | 強欲 | 挑発 | 罵声 | 施設開発 | 名利 |
【リカジ】
唐の安楽公主。中宗と韋后の末娘。武照?の孫。
武照?登場以降の女性が政治的に優位な時代で育ち、母から寵愛を受け幼少期から政治に参画した。
幼い頃から皇帝位を望み、中宗に皇太女とするよう求めたという。
初め武崇訓に嫁いだが、武崇訓の死後に武延秀と密通してそちらと再婚するなど淫蕩な振舞いが目立った。
政治の私物化も深刻化し、これらが中宗に発覚しそうになると母と謀って中宗を毒殺。
帝位簒奪を目論み、その前段として幼い李重茂を立てるが李隆基らのクーデターで誅殺された。
容姿に優れ「光艶動天下」と史書に記されている。
親愛:武照?
上官婉児
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
10 | 2 | 75 | 64 | 33 | 詩想 | 才媛 | 悪名 | 高慢 | 挑発 | 罵声 | 太学 | 我道 |
【ジョウカンエンジ】
唐の女官。上官昭容。
高官を輩出する家柄に生まれたが、祖父が罪を得たため後宮の奴婢に落とされた。
文才に長け、実務に明るいことから武照?に登用され、
武照?から中宗の治世にかけて群臣の上奏から天下の大事まで全ての決裁に関与した。
女帝となるよう韋后を唆し、中宗毒殺後に簒奪の前段として幼い李重茂を立てるが、
李隆基(後の玄宗)らの政変により韋后と共に誅殺された。
宮廷では一流文人を率いて詩会を主催するなど文学的に評価された反面、
保身のために武照?の甥の武三思と密通したり、密通した下級官僚を取り立てた醜聞も残る。
親愛:武照?
李氏(太平公主)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
35 | 8 | 71 | 66 | 53 | 言毒 | 慎重 | 消沈 | 強欲 | 足止 | 混乱 | 鎮静 | 政令徹底 | 名利 |
【リシ】
高宗の末娘で母は武照?。太平公主。
幼い頃から武照?に愛され、吐蕃が降嫁を求めても拒絶した。
薛紹に嫁いだが、薛紹が獄死すると武照?一族の武攸暨に再嫁した。
智謀に長け、武照?の相談役として数々の謀議に与った。
武照?死後に政権を掌握した韋后を李隆基と共同で誅殺。
これにより権勢は絶頂期を迎え、百官はごく一部を除き太平公主の派閥の者が任命された。
程なく英邁な李隆基との対立が激化すると排除を目論むが、先手を打ち挙兵した李隆基に敗れて死を賜った。
これを以て武照?以来続いた外戚、公主による政治的混乱は終息する。
親愛:武照?
開元の治
李隆基
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 62 | 85 | 98 | 90 | 任才 | 楽奏 | 詩想 | 文化 | 仁政 | 大器大徳 | 鼓舞 | 井闌 | 経世済民 | 王道 |
※晩年時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
45 | 58 | 74 | 32 | 56 | 楽奏 | 詩想 | 文化 | 動転 | 惰弱 | 大器大徳 | 鼓舞 | 井闌 | 経世済民 | 王道 |
【リリュウキ】
唐の9代皇帝・玄宗。
即位前は武則天、韋皇后らによる専横により政治が混乱する時期であった(いわゆる武韋の禍)。
睿宗から譲位された当初も太平公主と争っていたが、ついに死を賜ることで実権を握る。
当初は軍事では府兵制から募兵制への変更、節度使の導入を行い、税制改革、学問・芸能の奨励など様々な改革を行う。
この「開元の治」により唐王朝の中興の祖と言えるほどまで国は発展した。
しかし晩年は、自身の18子・李瑁の妃であった楊玉環を自身の妃として寵愛し、政務を蔑ろにして国を乱した。
阿倍仲麻呂が科挙に合格し、唐に仕官していた頃の皇帝でもある。
また、道教では芸能の神・西秦王爺として祀られている。
親愛武将:楊玉環? 安禄山
姚崇(元之)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
45 | 28 | 86 | 97 | 82 |
【ヨウスウ(ゲンシ)】
唐の政治家。初名は姚元崇。
門蔭で入仕し、契丹防衛に関する情報収集の功績で、武則天の代に宰相に抜擢される。
睿宗の代に宰相に再任するが、太平公主によって失脚する。
玄宗が即位して宰相職を要請されると、
厳法の廃止、租税の軽減、外戚の排除など十ヶ条を提議し、玄宗が同意すると拝命した。
宋璟と政治改革を行って「開元の治」を招来し、唐の最盛期を築き上げた。
山東の蝗害では指揮をとって蝗九百万匹を捕殺し蝗禍を根絶した。
幕僚の賄賂発覚の際に死刑減刑を求めて玄宗の不興を買い、
後任の宰相位を宋璟に託して引退した。
宋璟(広平)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
35 | 22 | 84 | 96 | 80 |
【ソウケイ(コウヘイ)】
唐の政治家。
17歳で進士に挙げられ、武則天に抜擢されて監察御史などを務め、名声を博した。
睿宗の代に宰相に任ぜられたが、太平公主によって失脚する。
玄宗が即位すると、刑部尚書となり、姚崇の引退後に再び宰相に任ぜられて、
後宮の女性が政治に容喙するのを禁じた他、
刑法の改正や、公正な人事の励行、国防の徹底などの内政の刷新を断行した。
姚崇と共に成したこれらの政治改革により唐の全盛期を現出させ、その治世は後世「開元の治」と呼ばれた。
しかし、あまりにも厳格な政治手法をとったため、玄宗の憂いを招き、左遷された。
その後、尚書右丞・広平郡開国公に任じられ、その4年後に政界を引退した。
張説(道済又は説之)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 48 | 85 | 87 | 80 | 詩想 | 文化 | 召募 | 慰撫 | 学者 | 斉射 | 足止 | 鎮静 | 太学 | 王道 |
【チョウエツ(ドウセイ又はエツシ)】
唐の政治家。
科挙に及第すると初めは武后に仕えたが、権臣・張易之に逆らい欽州に流された。
中宗が復位すると中央に戻り、睿宗が即位すると宰相となった。
韋后が専横すると李隆基(後の玄宗)に刀を送り、これを除くよう促した。
玄宗が即位すると燕国公に封じられ宰相となるも、姚崇に排斥され辺境に左遷。
辺境では異民族をよく慰撫し、軍を率いて突厥、党項を討伐した。
科挙官僚のため門閥貴族との対立を避けられず、二度宰相を逐われたが最終的には左丞相に昇った。
詩文で評価が高く、蘇頲と共に「燕許大手筆」と評された。
王忠嗣
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
95 | 96 | 87 | 42 | 78 |
【オウチュウシ】
唐の武将。初名は王訓。
九歳の時に父親が戦死すると、玄宗の仮子となり忠嗣の名を賜る。
玉川で吐蕃が閲兵中と聞くと諸将の制止を振り切って三百騎で出陣し、
数千を斬って吐蕃王を敗走させた。
吐蕃からの防衛や奚・契丹への北伐で活躍。
投降した突厥が召喚に応じなかった際には、突厥の三部に離間を仕掛けて降した。
吐蕃の石堡城攻めに反対し、軍を進めなかったため罪を問われる。
また、安禄山に謀反の兆しがあることを上奏していたが、逆に李林甫に讒訴された。
哥舒翰の尽力で極刑からは救われたが、閑職に左遷され間もなく没した。
補足:石堡城攻めに逆らったのは、吐蕃の防備が堅固なために数万の将兵の命が無駄になると見通していたため。
李林甫
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
43 | 5 | 99 | 83 | 71 | 扇動 | 言毒 | 調達 | 使役 | 悪名 | 酖毒 | 混水摸魚 | 混乱 | 罵声 | 挑発 | 鎮静 | 上兵伐謀 | 名利 |
【リリンポ】
唐代の政治家。貴族派を率いて科挙出身者の派閥との権力抗争に勝ち、他の政治家たちも謀略によって追い落とし、宰相として国を動かした。しかし晩年には楊貴妃の従兄弟の楊国忠との権力争いに苦戦し、死後に庶民の地位に落とされた。
また、李林甫は陰で人を中傷したが、顔色や言葉に表さず、それを悟られることはなかった。玄宗の信頼を受けたもので李林甫の門下でないものには始めは親密にし、地位が自分に迫り始めた時に、陰謀で失脚させた。このやり方から逃れられるものはいなかったという。そのため、口に蜜あり腹に剣ありと称された。
楊国忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
31 | 59 | 81 | 43 | 23 | 召募 | 徴税 | 高慢 | 強欲 | 悪名 | 混乱 | 挑発 | 罵声 | 戸籍整備 | 名利 |
【ヨウコクチュウ】
唐代の政治家、宰相。学問を好まずに酒と博打を好んだため、一族では嫌われていたが、30歳で蜀地方軍に入り、軍功を挙げ新都県尉に任命された。その後、従兄弟の楊貴妃を通じて玄宗に出会い、引き立てられる。初めは、李林甫に従っていたが後にこれと敵対する。李林甫の死後は、安禄山と権力を巡り争う。このことが、唐の衰退へと繋がった。最後は、反乱を起こした安禄山の軍から玄宗と共に逃れる途中で禁軍によって殺される。
楊玉環
「楊玉環?」を参照。
安史の乱
安禄山
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 95 | 74 | 5 | 2 | 梟雄 | 掃討 | 崩壁 | 豪傑 | 悪名 | 倒山傾海 | 火矢 | 業火 | 投石 | 混乱 | 侵略荒廃5 | 我道 |
【アンロクザン】
唐の将・節度使。大燕国皇帝。
本姓は康で、サマルカンド出身のソグド人と突厥系の混血の巨漢。
語学に堪能で交渉事で頭角を現す一方、業績と忠誠のアピールに長け、
その膨らんだ腹の中には何が入っているのかと玄宗に聞かれた時、「ただ忠誠のみが入っています」と答えた逸話も残る。
玄宗からの反乱への疑いを逸らす為の苦肉の策とされる。
賄賂や箴言を駆使し中央の有力者に取り入る一方で、領民に自身を神に見立て生贄を求め、
地方の酋長を宴に呼び毒酒で酔わせ、数千人の部族諸共生埋めにして賊討伐の武功を上げる等、
唯我独尊を地で行く暴虐振りを見せた。
また玄宗に取入る為に自ら望んで楊玉環の養子となり、入朝の際に赤子プレイの露骨なパフォーマンスも行った。
その甲斐あって寵愛を受けたが、玄宗の寵愛が楊国忠に移ってからは謀叛の準備を進めた。
楊国忠の讒言を承けて安史の乱を起こし大燕帝国皇帝を僭称、
最期は息子に殺されるも、天下は虐殺と略奪・残虐行為に明け暮れる無秩序の極地を往った。
生来太り易い体質の彼は糖尿病で、蜂起して洛陽占領の頃には完全に失明していた。
彼の叛乱軍には「石臼部隊」が存在したと謂われ、
敵味方無関係に戦没兵の屍を元にした「人肉団子」を兵糧とした。
この乱以降、唐王朝の衰退は加速していく。
親愛武将:史思明
史思明
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
90 | 85 | 63 | 23 | 53 | 驍将 | 遠矢 | 強奪 | 補佐 | 軽率 | 長駆直入 | 突撃 | 斉射 | 攪乱 | 鋒矢強化3 | 我道 |
【シシメイ】
唐の将。大燕国皇帝。
突厥とソグド人の混血出身で、同郷で一日先に生まれた安禄山とは親しい仲にあった。
最初は窣干と名乗っていたが玄宗に気に入られて思明の名を与えられた。
安禄山の軍が契丹と奚に挟撃されて大敗した際にも壊滅した軍を立て直して脱出に貢献した。
安禄山が乱を起こすとそれに従い、華北を中心に敵対する城を陥落させた。
安禄山が息子の慶緒に殺されると当初は従ったが、兵権を巡る対立の末に反抗して唐に帰順した。
しかし、粛宗による殺害の計画(史思明による捏造との説もある)を知って唐への敵意を抱く。
そして、鄴に籠る慶緒の救援要請に乗じて再び唐に対して反旗を翻して鄴を救援すると
そのまま慶緒を殺害して自らが皇帝になり、その兵と領土を継いだ。
その後も長安を目指して南下して汴州、洛陽を再び占領するなど唐への攻勢を強めたが、
盟友の安禄山と同じように自身の息子に殺害される敢え無い最期を迎えた。
親愛武将:安禄山
哥舒翰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 97 | 74 | 61 | 72 |
【カジョ・カン】
唐の武将。突厥出身。
吐蕃との戦いでは、槍を巧みに扱って敵将三人を討ち取る。
王忠嗣が李林甫に陥れられると、自らの官爵を賭して弁護した。
十万の兵を率いて石堡城を攻め、数万の死傷者を出しながらも陥落させる。
安禄山と対立する中で酒色に溺れ、病を患って療養生活を送った。
安史の乱では、処刑された高仙芝らに代わって潼関防衛の指揮を執る。
堅守に徹しようとするが、楊国忠の猜疑を受け、玄宗から出撃命令が出される。
敗戦を承知で安禄山軍の崔乾祐に挑んで大敗し、捕虜となる。
安慶緒が洛陽?から逃亡する際に殺害された。
補足:哥舒の二字姓。
高仙芝
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
755 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
95 | 88 | 74 | 29 | 68 |
【コウセンシ】
唐の武将。高句麗の出身。舎鶏の子。
玄宗の命により、歩騎一万を率いて西域に進軍する。
カシュガルからパミール高原を越え、ギルギットを攻め取り、タシュケントなどを征服していく。
アッバース朝イスラム帝国とタラス河畔で決戦するが、西域部族が離反して敗北し、長安?に帰還した。
安史の乱が勃発すると副元帥に任じられる。
先行した封常清が洛陽?を失陥すると、撤退を支援し唐軍の潼関への退却を成功させた。
しかし、宦官らが兵糧を着服したと讒言し、冤罪によって処刑された。
高仙芝を失った唐軍は潼関も陥落し、玄宗が長安から逃亡する事態となった。
杜環
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
39 | 58 | 70 | 49 | 61 |
【トカン】
唐の臣。京兆郡万年県の人。杜預?の同族に当たる。
751年、タラス河畔の戦いでアッバース朝の捕虜となった。
しかし、行動の自由はかなり認められていたようで、アッバース朝領内各地を旅した。
秋薩羅国(エルサレム?)から摩鄰国(モロッコ?)まで足を踏み入れたようで、恐らく初めてアフリカに到達した中国人。
762年に船で唐に帰国すると、旅行記『経行記』を著した。以降の消息は不明。
『経行記』の全文は失われ、族父の杜佑による辞典『通典』などに引用された1775字のみ現存している。
大食国(アッバース朝)、拂菻国(東ローマ帝国)始め、既に滅んだ国を含め、13ヶ国の情報が書かれている。
また、大食法(イスラム教)、大秦法(キリスト教)、尋尋法(ユダヤ教またはゾロアスター教)が広まっていると報告し、その信仰内容を記録している。
郭子儀(子儀)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
95 | 84 | 92 | 86 | 90 | 神眼 | 矍鑠 | 掃討 | 英名 | 富豪 | 深謀遠慮 | 奮戦 | 激励 | 牽制 | 足止 | 三軍強化 | 王道 |
【カクシギ(シギ)】
中唐の将。玄宗以降四代に仕えた名臣。客家人。郭令公。
寒門の出だが、武挙に通り、左衛長史に任ぜられ、安北都府使兼九原太守に累進した。
後、安史の乱を鎮定し国難を救う功を挙げ、続いて僕固懐恩の叛乱を撃退。
更に、吐蕃・ウイグルの叛乱を平定し、徳宗より尚父の号を賜り、大尉・中書令に昇進した。
李光弼と武名を斉しくし、世に「李郭」と尊称され、寛厚な人柄で万人に敬愛の対象となり、
外征の帰還に際し皇帝が自らで迎えるなど、特別待遇を受けた。
ウイグル人などの異民族からも畏敬の念を持って遇せられたという。
李光弼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 90 | 85 | 62 | 88 |
【リコウヒツ】
唐中期の武将。契丹族の出身。
郭子儀に才能を見出され、安史の乱に際して河東節度使に任じられ、各地を転戦する。
史思明・史朝義の軍と幾度も戦い、頻発する賊も平定して軍功を重ねた。
郭子儀と並んで「李郭」と称され、特に戦功は第一とされている。
軍規に厳しく用兵は冷静で、謀略を立ててから戦いに臨み、寡兵をもって大軍に勝つというものだった。
晩年は軍権を握る宦官と対立して恨まれ、官を辞そうとし引き止められる中で病に倒れた。
死に際して俸給の金と絹を将兵に分け与えるなど、部下思いの人物でもあった。
顔真卿(清臣)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 62 | 74 | 78 | 90 | 堅守 | 不屈 | 堅牢 | 文化 |
【ガンシンケイ(セイシン)】
唐の政治家、武将、書家。楷書四大家の一人。
進士となり、監察御史や侍御史を務めるが、権臣の楊国忠に忌避され平原?太守に左遷される。
安史の乱が起きると平原を堅守し、義兵を率いて河北で史思明と戦う。
忠臣として賞賛され、工部尚書、憲部尚書、御史大夫などを歴任。
淮南節度使の李希烈が反すると、名声を妬んだ盧杞らによって慰撫の使者として送られる。
李希烈に捕えられ幾度も帰順を勧められるが、拒否し続けて殺された。
書家としては、「顔体」と呼ばれる楷書を編み出し、王羲之以来の伝統を変革した書法の改革家として名高い。
李白(太白)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
5 | 3 | 70 | 74 | 81 | 詩想 | 文化 | 人脈 | 酒乱 | 地域巡回3 | 我道 |
【リハク(タイハク)】
盛唐期の詩人。号は青蓮居士。
奔放で変幻自在な詩風から、後世に『詩仙』と称された。
その文学的功績は杜甫と並び称される。
安史の乱に際して反乱軍と見なされて野郎への流刑を受けた後に
罪が許されて帰る途上で詠ったのが著名な『早発白帝城』である。
その反面、出自や家族については不明な部分も多い。
親愛武将:杜甫 阿倍仲麻呂
杜甫(子美)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
2 | 1 | 65 | 68 | 90 | 詩想 | 文化 | 人脈 | 消沈 |
【トホ(シビ)】
盛唐期の詩人。杜少陵、杜工部とも呼ばれる。三国時代の名将杜預?の末裔。
律詩の表現を完成させ、後世、詩人としての最高位の呼称である『詩聖』と称された。
その文学的功績は李白と並び称される。
反面、士大夫としては終生不遇と貧困に苦しみ、傑作が生み出されたのはその苦境の中であった。
親愛武将:李白
中唐
李晟(良器)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 90 | 81 | 54 | 85 |
【リセイ(リョウキ)】
唐の武将。
王忠嗣の吐蕃討伐に従い、敵将を一矢で倒し「万人敵」と賞賛される。
安史の乱以後に吐蕃の侵犯が活発化すると、禁軍の神策軍を率いて吐蕃を退ける。
朱泚が秦を建国して徳宗が長安?を追われると、徳宗を追って奉天へと向かう朱泚の軍勢を破った。
長安攻略戦では民衆に危害が及ぶのを避けるために市街戦を回避し、
皇宮へ直接攻め入って朱泚を長安から駆逐し、徳宗を迎え入れた。
感激した徳宗により王に冊封され、肖像を凌煙閣の功臣に並ばせたが、
強大になった軍権を忌避され、後に軍権を取り上げられ名誉職に就けられた。
李愬(元直)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 76 | 88 | 74 | 72 |
【リソ(ゲンチョク)】
唐の武将。李晟の子。
謀略を有し、騎射に優れていた。
裴度が呉元済の討伐を朝廷で説得している最中に、軍備を整え情勢をつぶさに調べ上げる。
呉元済に詐言を流して自身を無能と思わせ、
呉元済麾下の丁士良、呉秀琳らに接触し寝返らせることに成功する。
李光顔の主力軍に呉元済が向かって蔡州の防備が薄くなると裴度に出兵を請い、
大雪の夜に蔡州に侵攻して奇襲によって蔡州を陥落させ、呉元済を捕縛して長安?へ護送した。
その後、鳳翔節度使に任じられるが、病に罹り四十九歳で没した。
劉晏(士安)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
28 | 20 | 76 | 89 | 73 |
【リュウアン(シアン)】
唐の政治家。
幼い時から神童と称され、八歳の時には玄宗の封禅を称える文を献上した。
安史の乱の後、粛宗のもとで中央・地方で要職を歴任し、
塩鉄使、轉運使となって塩と鉄の専売や貨幣改鋳など、財政再建に尽力する。
代宗の代に宰相となり、吏部尚書、戸部尚書、塩鉄轉運使を兼任。
大暦年間には塩専売の利益で千二百万貫の財政収入を得、代宗に「朕の蕭何?なり」と賞賛された。
徳宗の治世で楊炎が宰相として実権を握ると誣告され、諸臣が陳情するも死を賜る。
没後二十年は財政政策に影響力を残し、楊炎失脚後に名誉回復された。
楊炎(公南)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
32 | 11 | 73 | 90 | 61 |
【ヨウエン(コウナン)】
唐の政治家。両税法の創設者。鳳翔郡天興の人。
呂崇賁の下で文才を開花させ、中央政府に入り高官を歴任。
徳宗の即位後に宰相職に抜擢され、朝権回復と財政再建という難題に取りかかる。
安史の乱以後の、藩鎮の割拠による国家分裂と農村の荒廃を打開すべく、
反対を押し切って両税法を導入し、宦官の収入流用禁止や人材登用に注力した。
だが、諸政策が貴族・宦官・藩鎮ら既得権益層の強硬な反発の対象となり、
徳宗の側近・廬紀の讒言に反対勢力も一斉に同調したため、
徳宗もそれに従い、左遷の途上で処刑された。
韓愈(退之)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
20 | 18 | 83 | 79 | 78 | 詩想 | 諌止 | 文化 | 眼力 |
【カンユ(タイシ)】
唐の政治家、文学者。
25歳で進士に及第すると監察御史、中書舎人、吏部侍郎、京兆尹を歴任している。
儒教を重んじる姿勢から仏教に傾倒する憲宗を批判した所、怒りを買い左遷されている。
詩人としても名高く孟郊・張籍・李賀・王建・賈島と言った「韓門の弟子」を輩出した。
賈島(浪仙)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
10 | 16 | 75 | 68 | 70 | 詩想 | 文化 | 粗忽 |
【カトウ(ロウセン)】
唐の詩人。
若き日に出家し無本と名乗っていたが、韓愈に詩才を見出されると還俗し、推挙される。
『題李欵幽居』という詩を作るときに、「僧推月下門」の一文を「僧敲月下門」に変えようか悩みながら歩いていたところに韓愈の行列にぶつかり、
悩みを打ち明けた所、韓愈に「僧敲月下門」の方が良いと助言を受けたとの逸話が「推敲」の語源になっている。
晩唐
王式
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 71 | 93 | 88 | 80 | 洞察 | 機略 | 策士 | 築城 | 慰撫 | 虚誘掩殺 | 撹乱 | 鎮静 | 連弩 | 軍制改革5 | 王道 |
【オウシキ】
唐の武将。
叛乱が頻発していた安南都護府の経略使として
兵の指揮を任されると柵や濠を築いて防衛を固める一方で
離間策を用いて反乱軍を鎮圧した。この結果、林邑と真臘は唐に再び朝貢するようになった。
その後、浙東で起きた裘甫の乱では、安南都護府での功績を評されて総大将として鎮圧に当たり、
弱兵をまとめ上げて討伐した。その数年後に勃発した徐州における
銀刀軍の反乱でも謀略を用いて反乱軍をたちどころに壊滅させた。
唐末の名将として各地で頻発する反乱の対処で多大な功績を挙げた。
黄巣
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 82 | 67 | 48 | 95 | 脱兎 | 求心 | 調達 | 強運 | 再起 | 震天動地 | 奮戦 | 罵声 | 運搬開発 | 名利 |
【コウソウ】
黄巣の乱の首謀者。大斉国皇帝。
若い頃は官吏を目指していたが何度も科挙に落第したので塩の密売をしていた。
唐が塩の密売を取り締まると反発して山東で王仙芝と共に反乱を起こした。
王仙芝が戦死した後はその軍を吸収して広州や福建など各地で転戦を重ねていく中で
軍勢は数十万の軍勢に巨大化して長安までも占領した。国号を大斉として
自ら皇帝になると中・下位の官僚を取り組む統治を試みたが、
配下の士大夫や大商人への略奪や殺戮を黙認したために政治は停滞した。
さらに四川に逃れた僖宗の要請を受けた李克用ら節度使の反撃に押されて長安から撤退。
最終的に王満渡の決戦で斉軍は大敗して黄巣は自害、
乱も鎮圧されたが乱を契機に唐は地方政権へ転落、朱全忠による簒奪へと向かった。
天補平均大将軍を称し、平等を訴えたこともあって民衆からの支持は厚く、
華南には各地で黄巣廟が建てられ、南宋期に至るまで生存説や財宝など黄巣にまつわる伝説が残ったという。
王仙芝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 74 | 47 | 39 | 48 | 調達 | 強奪 | 扇動 | 軽率 | 賊徒 | 奮戦 | 火矢 | 長蛇強化4 | 我道 |
【オウセンシ】
黄巣の乱の主導者の一人。
もとは農民であったが、重税にあえぎ、生活自衛のため塩の密売を行っていた。
山東で飢饉が起こると、陳留郡長垣で衆数千を率いて叛乱を起こした。
曹州・濮州を攻めると黄巣らが呼応し、大勢力となって河南を転戦した。
しかし、唐の懐柔策に乗って官位を受けようとすると黄巣に罵倒された
上に殴られた。これ以降、黄巣軍との離合集散を繰り返した。
その後、再び唐と交渉したがそれも失敗、
唐軍の攻撃を受けて敗走し、黄梅で戦死した。
尚譲
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 75 | 53 | 15 | 20 | 使役 | 徴税 | 猪突 | 粗忽 | 急襲 | 火矢 | 魚鱗強化3 | 我道 |
【ショウジョウ】
黄巣軍の幹部の一人。
もとは農民であったが、山東で王仙芝が叛乱を起こすと
兄の尚君長と一緒に王仙芝の軍に参加した。
しばらくして黄巣軍に移って各地を転戦した。黄巣が
長安を占領して斉を建国すると太尉と中書令を兼任した。
斉の統治を風刺した詩に怒って、犯人捜しとして
官吏の目を抉り出して逆さ吊りにして、
城内で読み書きができる民衆を集めて虐殺するなど恐怖政治を敷いた。
長安陥落後も黄巣に従ったが、李克用率いる討伐軍に敗れると
時溥に降伏して、黄巣の討伐に加わった。
崔胤(垂休)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
53 | 48 | 78 | 64 | 42 | 徴税 | 智嚢 | 教唆 | 混乱 | 挑発 | 政令徹底4 | 王道 |
【サイイン(スイキュウ)】
唐の宰相。
崔林が出た清河崔氏を出自とする。
黄巣の乱で衰退した唐で宰相として熾烈な政争を
繰り広げて政敵の王摶や陸扆の追い落としを図った。
権力を得るために朱全忠と手を組むことで宰相の地位を固めた。
宦官によって鳳翔に連れ去られた昭宗の奪還に成功し、宦官勢力
を一掃した。しかし、朱全忠が簒奪を計画すると皇帝権力の強化を図る崔胤との間で
温度差が生じるようになった。そうした状況下で甥の朱友倫が事故死すると容疑をかけられて
誅殺された。
袁天綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
10 | 1 | 78 | 32 | 63 |
【エンテンコウ】
武則天が生まれて間もない頃に彼女の相を占った。その結果は「この子供は必ずや天に昇るであろう」というものであったという。果たして、彼女はのちに中華唯一の女帝として君臨することになる。