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Last-modified: 2024-07-04 (木) 21:30:18

あなた自身を、気づいている存在知りとして、感じてください この気づいている存在により、全ての体験は知られている この気づいている存在の中で、全ての体験はやがてそして最終的には、この気づいて いる存在から、全ての体験が作られているのです 私たちの体験に気づいているものです

、私たち自身を、この気づいている存在であると、

感じるのは現実に努力を必要とするのは、自分が気づき以外の何かだと想像することです

私たちのほとんどは、「自分は オープンで空っぽで愛に満たされた気づきしている存在以外の何かである」と信じ、感じることに慣れっこになっていて

それが努力のいることだってことに、気づけなくなっています

自分は気づき以外のもの だと思うのに、進路順応し、慣れてきっこていまっているのは

自問自答してみてください

「私はここにあるものは嫌いだ」「私はここにあるものは嫌いだ」  、私はここにないものを求めている」

いえ、気づきは、好き嫌いもなく、差別もなく、自分から選ぼうとすることもなく、、オープンでいる質問で?

もの、しかし現在の状況や境遇に対して、抵抗したり、執着したりすることなしに、ただ言葉があるでしょうか?

あれはダメ」だったと言ったことがあるでしょうか?

そもそもにあるのは、抽象的で形而上的に理論的な、悟りの境地にある気づきのことではありませ

ん 今の私たち一人一人の本来の姿としての、気づきについて言っているのです

何年もの瞑想の後、 完璧になり、静寂になった寂しさについて言っているわけではありません

私たち一人一人が、今、そうである、ただ ただ、ごく普通の、身近で消えなき気づきについて言っているのです

静止している、部屋の空っぽの空間のようなもの

です それは抵抗しようとしていません。その内部で起こっている何に対しても、抵抗することは決してありません。

空間は、それでひきとめようとはしません。

ゆるしについて

あれ消えるものが消えるのをゆるします

気づきである私たちは、そのような存在なの

です 気づきである私たちはそこに

現れるのを

ゆるし ものが消えるのをゆるします

別の言葉で断定すれば、気づきとしての私は、抵抗、あるいは探索という言葉の意味を知りませ

ん これと同じ理由から、気づきは、「苦悩」という言葉の意味を しりません

苦悩を終わりにするため、別の言葉で断言すれば、幸せを見つけるために必要なのこは、自分自身の本性を知ることだけだと、言われているのも、これと同じ理由から

「私はここにあるものは嫌いだ、私はここにないものを求めている」と言うのは、思考に あまりにないことを、はっきりと見て

とって私くださいたちの全ての苦悩はこの思いでつくられます

ここで私が苦悩と言う言葉で一瞬においているのは、ような身体の痛みや不快感のことでは ありません

心理的、感情的な、あるいは苦悩をただいまにおいています

「私はここにあるものは嫌いだ、私はここにないものを求めている」という思いは、体験の上に、足を付けられた ものにあまりないのを見て

とってください 映画に、字幕が足されたようなもの

です それは必要なものではない

ので 字幕なしで映画を見ることも可能です それとちょうど同じ

ように、「 私はここにあるものは嫌いだ、私はここにないものを求めている」という思いは、体験に必要なものではないのです

それは体験に反論されたもの、体験に後から足を付けられた ものに過ぎません

その思いが、現れるのをやめたからといって、体験そのものから何かが減るこ とはありません

この

思いが現れるのをやめたからといって、失われるものはないのです 私たちの苦悩以外は、何も失われるものはないのです

人には、偉大な道は難しいものではない」と

言ったことを思い出してください 愛も憎しみも無いな時、あらゆるものが集中に、偽装を解いて来る しかし

、どんなに微かであれ、差別をすると 、天国と地上は永遠に成立してしまうこの

微かな差別をするものは何でしょう?

その思いこそが、天国と地上を、離れてしまうの

です この思いが現れた途端、私は気づきの現前であることをやめてしまいます。

好きだけど、あの体験は嫌いな、分離した自分になるように見えます

この分離した自己の視点から見ると、世界は私たち自身から遠ざかった、異なるものに見えます

別の言葉で決めれば、分離 した自己の視点から見ると、天国と地球は永遠に解明されているのです

抵抗

と探索に乗り出すことで、停止してしまったのです

これが分離した自己だと私は言いましたが、分離した自己 は実は存在しませ

ん 分離した自分は、好き嫌いをしたり、探索したり、抵抗するものとして、想像されていますが

そのようなものは実際には存在しないのです。 と、これからつつある思考や感情、感覚、

知覚だけです たもの

です 想像上のものとしてだけ存在するその自己は、「私はここにあるものは嫌いだ、私はここにないものを求めている」という思いでつくられています。

あなたの人生の壮大な実験をはじめようではありますか

あなた自身に言ってみてください。

のだと

私は、このオープンで空っぽな気がしている存在だと、頭で理解するだけでなく、感じんだと

そ してその視点から、全ての体験に直面するのです 注目

している存在として、全ての体験に衝突するのです

は受容し、あるものは反応したり 抵抗したり、探索したりする自分からではなく気づい

ている存在として、体験に直面してください

そうするからということで、私たちは、一瞬一瞬起こる体験に 対して、適切に、慈しみ深く、知的に応答する能力を推測したりはしません

ものが、あの禅の老師の言葉を借りると、「濁った、偽装したもの」になって

しまいます 「好き嫌いがなくなると、あらゆるものがクリアで偽装を解かれたものになる」という彼の言葉 を思い出しましょう

彼は何を言われたのでしょう?

、クリアで、偽装を解かれ、ありのままに知られます そうなると、どんな

物でもあれ、私が置かれた瞬間 一瞬の状況に対して、適切に対応することができるようになります

この実験を、  1日、試してみて

ください そして、もし、この体験の結果が整ったら、

やり続けてください 一体、誰が、人生は今、現れている状態とは違うものであるはずだと言っているのでしょう

それはただ、今現れているの

思考です、今現れているの思考だけが、「人生は、違うようであるべきだ。

いるこの思考ですが、もちろん、人生そのものの一部

この人生そのものの一部は、自分自身を他の人生の全てから、捜索してしまいました

それは、他の人生から探求され、他の人生と は違う、断片になってしまった そしてそれは自分こそ

が、何が起こるべきかを裁定できる、裁判官として、合理と思いこんでいます。

その代わり、私たちはオープンで空っぽで、私を知らない気づきの存在なの抵抗だという事実に依拠した人生を送ることは、可能で感じる?

それに依拠して人生を生きると、どんなものになるでし

この考え方に全般的に同意しなさいと言っているわけでは、もちろん、ありませ

ん 一瞬一瞬の個別ケースにおいて、この考え方の真実を、生きて欲しいのです

禅の三代目の老師は次のように

続けます 「真実を見たければ、何事においても平等、あるいは反対の意見をもつな

あなたの好きなものを嫌いなものに対置させるのは、心の病である」

物事の深い意味が理解されない時 、心本来の平安は阻害されて、有効になった」と

、ただ、「私はここにあるものは嫌いだ、私はここにないものを求めている」という思いが、本来の心の平安を阻害するの

それこそが、気づきという、私たちの本来の

安らかな本性です 気づきの平安と充足は、私たちの心本来の性質です。

ものを、嫌いなものに対置する、私たちの偏や反対の意見によってのみ、均等られ

ますということで、私たちの真の本性である平安と充足は「私はここにあるものは嫌いだ、私」 はここにないものを求めている」というたった一つの思いだけによって、律されるということです

このたった一つの思考に、私たちに本来内在している平安と、静かな喜びを奪うことを、ゆるし いるのです

誰もこの思考を私たちに押し付けたりはしませ

ん その思いは私たち自身による活動なのです

禅の老師は、こう続けます

「何も欠けることはなく、何も通じないとき、 でも

、私たちは、物事の真の本性を見れないのは、受け入れるべきものを選択しようとするから

なんだ物事の真の本性が曖昧になって しまうのは、あくまで私たち、選ぼうとしたり、仮説しようとしたり、探索したり、抵抗したりするからなんだ

選択したり結合したり、探索したりする思考が解消すると、私たちと世界と の距離が溶解します

私はこの瞬間と、究極的には、衝突に一つになります

私たちと世界、私たちと向かいとの間の見かけ上の距離は溶解します

そして存在の統一 性が

輝きますが それは常に輝いていて、今も常に輝いているの

この思いだけが、私たちは何よりも大切にしている、平安と喜びと愛を、私たちから奪うのです