想像を絶する作戦は、1945年5月22日にイギリス軍?が作成したソビエト連邦?との戦争計画。「アンシンカブル作戦」とも呼ばれる。
1945年11月7日より実行に移された。
背景
この作戦は、1945年1月に行われたヤルタ会談?にて決められたドイツの連合国による分割統治において、連合国軍が予想よりも遅い進軍であったために、ソ連軍がベルリン占領後も西進を続け、ドイツ降伏時には旧ドイツ領全域を占領下においたことでソ連に対する不信感が現れたことがあった。これは、元々決定していたドイツ分割占領案にはないものであり、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス国境部より東側の旧ドイツ領を主としたほとんどの領土がソ連によって制圧・軍政下におかれた。これにより、主にイギリスのウィンストン・チャーチルはヤルタ会談における決定を無視したと判断し、ソ連に対して抗議を行った。ソ連は、その3週間後に連合国にヤルタ会談時に決められていたドイツ占領案に基づき、領土を明け渡した。しかし、この事案によってソ連の脅威度が更に増していることに気づかないわけもなく、特にチャーチルは即時にソ連軍を撃滅すべきだと主張した。その後、統合参謀本部に対してソ連に対する作戦計画を命じた。当初の開戦予定日は7月1日であった。
この時期になると、アメリカ海軍の太平洋艦隊が壊滅したことで日本によるアメリカ本土上陸が見え隠れしている段階にあり、アメリカはヨーロッパの部隊を早急に本土へ帰還させようと試みた。しかし、チャーチルはそれに猛反発し、日本と講和をしてでもソ連に対抗すべきであると主張した。そのため、アメリカ軍はほとんどの欧州派遣軍をヨーロッパに駐留させたままにすることが決まった。1945年8月9日にはヤルタ会談で決められたソ連対日参戦が行われ、ソ連軍は満洲になだれ込んだ。しかし、日本軍は予想以上の反撃を繰り出したことで、ソ連軍の急速な拡大を防ぎきることに成功し、9月後半には戦線が一時膠着した。これは、イギリスにソ連軍に対して攻撃を加えるチャンスを与えているかのように見えた。そして、1945年10月11日に日本軍による本土上陸が始まると、アメリカ軍はその迎撃に失敗し橋頭保を確保された。それによって、アメリカ政府は焦り、欧州派遣軍から12個師団を早急に輸送することを独断で決定した。しかし、この時に日本軍の伊400型潜水艦によるロンドン空襲?が行われ、イギリス及びアメリカは驚愕した。これにより、大西洋に潜水艦が展開していると判断し、輸送は中止された。その際に、イギリスはやはりソ連への一撃を加えるべきだと主張し、日本とソ連が再度同盟を締結する可能性がないことを確信したうえで同作戦を実行に移すことを10月26日に決定し、アメリカはこれを承認した。そして、部隊を展開し終えた11月7日の未明に侵攻作戦が行われた。
作戦内容
作戦の目的はイギリスとアメリカ合衆国の意志をソビエト連邦に承認させることであり、そのための軍事的勝利を収める可能性について検討が行われた。
特にイギリスは、戦後におけるソ連の台頭を防ぐという目的を持ち、それはヨーロッパにとどまらず、アジアも含まれていた。もしも、日本がソ連の参戦によって満洲又は中国全土を占領された際に、日本は戦争継続が困難となるのは明白であった。しかし、それは日本ひいてはアジアにおけるソ連の影響が確立することを意味しており、旧植民地領を中心としたアジア全体に共産主義が蔓延する恐れを危惧した。そのため、イギリスは日本をアジアにおけるソ連(共産主義)の防波堤として利用すべきだと考え、そのために日本と講和を行うという選択をとるべきだと主張した。しかし、この意見は日本によって完全に進行されているアメリカを振り向かせることはできず、フランスやオランダなどは植民地を奪われているため同意は得られなかった。また、イギリス内でもアジアの植民地のほぼ全てを奪われたことに対する日本への恨みなどを唱える者もいたが、日英同盟によって得られた長年の同盟関係の影響はこのころまで依然として残っており、反日感情が強い国民は比較的少なかった。そして、その日本を間接的に援助する目的でもあるのが本作戦である。しかし、ソ連のドイツ駐留軍の規模は150個師団以上と連合国軍の数倍以上で尚且つ兵器や練度は同等であったため、早急に支配地域を拡大しなければ、全面戦争に突入することを意味していた。これを避けるため、機甲師団を中心としてソ連占領下のドイツ国境部を突破しオーデル・ナイセ線まで突破を図り、そこでの大規模な戦車戦で勝利をつかみ取った後にダンツィヒとヴロツワフを結ぶ線まで到達することを目標とした。
結果
この作戦は、連合国軍による完全な奇襲の形で戦闘状態に突入したその際にはソ連占領下のドイツの各都市とポーランドの都市にそれぞれ各爆弾を投下して侵攻した。そのため、ソ連軍は開戦早々約17個師団が都市部で消滅し、ここにはソ連ドイツ占領軍の司令部も含まれており、ゲオルギー・ジューコフ元帥もここで死亡した。これに伴って、ソ連軍は司令部からの指令を受信することが不可能となり、対応は遅れた。その間に、アメリカの機甲師団を中心として大規模な侵攻を行い進軍開始から僅か6時間でベルリンへ到達し占領した。そして、2日午後15時になってようやくドイツへ連合国軍が進軍していることを把握した第1親衛戦車軍は直ちに後方へ状況を伝達し迎撃に当たった。しかし、進軍スピードが非常に速かったこともあり効果的な防御を行うことはできなかった。3日午前3時にスターリンは連合国軍によって侵攻を受けたことを知った。これにより、極東戦線とヨーロッパにおいて2つ目の戦線が開け二正面作戦となることが分かり、その後連合国からソ連に対してドイツ領からの完全撤退とポーランドの占領を認める報告を見た時にはめまいが生じたという。しかし、スターリンはこれを無視し直ちに迎撃に充てさせるよう命じ、極東戦線からも複数の部隊を引き抜いて対応することとなった。これにより、極東戦線は完全に停滞に移行し、ソ連はヨーロッパを主眼に置いた。連合国軍はソ連の予想外のはんげきにより次々と撤退を繰り返さざるを得なかった。しかし、オーデルランド戦にて防衛戦を確立した。その後、第2親衛戦車軍がチェコのモストから北方へ進軍を開始し、連合国軍主力を包囲しようと試みた。