太平洋戦争

Last-modified: 2024-01-07 (日) 02:35:27

太平洋戦争とは、1941年11月12日から1946年8月15日までの大日本帝国とアメリカ合衆国を中心とした連合国とその植民地、オーストラリア・ニュージーランドの間で行われた戦争。第二次世界大戦の中でドイツを中心とした欧州戦線と対比し、こちらは太平洋戦線と呼ばれる。

背景

概要

結果

戦力

海軍戦力

1941年11月12日(開戦時)

大日本帝国
戦艦:12隻
航空母艦:11隻
重巡洋艦:18隻
軽巡洋艦:17隻
駆逐艦:140隻
潜水艦:130隻
その他の小型戦闘艦:400隻

アメリカ合衆国
戦艦:25隻
航空母艦:14隻
重巡洋艦:22隻
軽巡洋艦:38隻
駆逐艦:370隻
潜水艦:160隻
その他の小型戦闘艦:1200隻

1942年英・仏・蘭参戦時

航空戦力

1941年11月12日(開戦時)

大日本帝国
戦闘機:3800機
爆撃機:2980機
攻撃機:600機
飛行艇:170機
輸送機:300機

アメリカ合衆国

1942年5月17日(英・仏・蘭参戦時)

被害

艦艇

戦艦空母巡洋駆逐潜水その他
日本581378692479
アメリカ2227322211373400
イギリス
フランス
オランダ
オーストラリア
ドイツ
イタリア
スペイン
ソ連

影響

アメリカ

経済
アメリカでは、大戦中に本土へ上陸を受け、工場地帯への爆撃や都市部への攻撃などによって経済力は低迷した。

軍事
アメリカの軍事力においても東海岸で建造されていた艦艇と大西洋方面で活動していた艦艇を除く太平洋方面の海軍戦力は壊滅し、陸軍はオーストラリア、西海岸の包囲下とアラスカ包囲によってその戦力の4分の1が捕虜となり、本土防衛戦力においても不足となった。これらは、ソ連との冷戦を迎える上で非常に大きな障害となり、1955年までアメリカ軍再建を推進する国家運営を行い、アメリカの経済成長が著しく低下した。

領土
旧アメリカ領のグアム、ハワイなどの太平洋諸島全てとアリューシャン列島の一部である、「バルディア島、ニア諸島、コマンドルスキー諸島」は日本領として割譲された他、パナマ租借地をパナマへ返還した。これら割譲地域は、戦略的重要性が高く日本との軋轢を生む原因となるため、ハワイは独立国家とし、グアムは共同利用を前提とした日本領特別区となった。その後、アリューシャン列島は1960年に締結されたニア・バルディア返還協定に伴ってアメリカに返還され、冷戦が終結後の1999年にアリューシャン列島協定に伴いコマンドルスキー諸島も返還された。そして、2005年に締結された太平洋領土確定条約とも呼ばれる「サンフランシスコ条約」によってアメリカと日本との領土問題は収束することになった。

戦後について

その他

太平洋戦争の結果とその要因

太平洋戦争は、アメリカ合衆国が大日本帝国に宣戦布告する形で始まり、最終的に戦争継続のためとして東南アジア植民地の資源獲得のためにイギリス・フランス・オランダの3カ国に対して宣戦布告したため、第二次世界大戦における太平洋の戦いと呼ばれることが多い。しかし、アメリカが宣戦する形で始まった戦争になぜ日本が優位に進めることが可能であり、連合国が失敗したのかの要因について記載する。まず、連合国の敗因に繋がる大きな要因が4つある。
1,日中戦争の終結、2,アメリカ国内の混乱、3,イギリスなどの連合国の不参加、4,欧州戦線における連合国不利である。

日中戦争の終結

日中戦争の終結における、日本に与える大きな影響点として、中国戦線配置の兵士の配置転換と戦線整理、資源獲得が挙げられる。日中戦争は、太平洋戦争が開戦する4ヶ月前の1941年7月18日に臨時首都重慶が占領されると同時に中華民国が降伏し、蒋介石政府から汪兆銘政府への委任という形で中華民国を継承することなどを記載した「南京条約」の締結により、日中戦争は終結した。この南京条約には、資源などの輸入や軍隊に関する様々な条約が含まれ、鉄資源の確保やインドシナへの鉄道網の構築と物資輸送が円滑になるなど、太平洋戦争初期において、中国戦線に配備されていた大部隊の物資輸送や部隊展開が行えた大きな要因であった。

アメリカ国内の混乱

太平洋戦争において、日本へ宣戦布告を行ったのはアメリカであるが、アメリカ国内は対日強硬・戦争推進派などの過激派と、対日融和、中立・非戦派などの穏健派に2分されていた。そのような事情もありながら、ルーズベルト大統領は、対日強硬論を前面に強気の姿勢と軍備拡張、参戦に向けての外交を実行していた。ただし、この強硬派に対して大きな対日融和派は軍備拡張などに反対し、議会においても激論が続いた。しかし、これに転機が起きたのがフランス領インドシナへの日本軍進駐、スペインの参戦による地中海封鎖、何よりも日中戦争の終結、最後に満州油田の発見などによって対日融和派は強硬派と同調するようになり、日本打倒の動きが活発になっていった。そして、10月28日に行われた日米交渉が決裂となり、これが決め手となって11月5日にいわゆる「ハル・ノート」を提出し、これが日本に対する事実上の最後通牒となり、これを同月の10日に日本政府が拒否したことで、アメリカ議会で「戦争権限法」、「戦時経済法」などが可決されたことで11日にルーズベルト大統領による対日演説が行われ、12日に正式な対日宣戦布告が行われた。

イギリスなどの連合国の不参加

太平洋戦争は、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フィンランドが日本に対して宣戦布告したことで始まったが、その他の連合国であったイギリスやフランスなどは参戦しなかった。これの理由に、イギリス・フランス両国が太平洋に兵力を派遣する力が残ってないことと、地中海封鎖により部隊移動が不可能であったからである。これらによって、航空機の数や艦船の数においては日米両国ともに同等であり、防戦であった日本が優位に戦闘を進めた。そして、日本がアメリカとの戦争継続に必要不可欠な資源を獲得するためイギリス、フランス、オランダに宣戦布告を行った。これらの宣戦布告に対して、オランダとインドを除いてほとんどの部隊は大した戦力を保持しておらず、わずか3ヶ月でシンガポールとインドネシアの大半に加えてビルマの占領を完了させるなど、日本の進撃スピードが猛烈に早くなった要因になった。そして、イギリスがインドから大半の戦力をアフリカ戦線に引き抜いたことで、インド方面の戦力では大きく不利となり、物資輸送もままならなかったため、インドは1944年2月に降伏した。

欧州戦線における連合国不利

太平洋戦争よりも前から、第二次世界大戦における主要な戦いはヨーロッパで行われており、フランスが陥落し、1941年には独ソ戦が開始した。その中で、スペインが1940年12月にドイツなどの要請を受けて参戦し、ジブラルタルの占領やフランス植民地への攻勢などを実行するなど、イギリスが単独で戦闘を続けるにはあまりにも戦線が広く、戦力が乏しかった。これらはアメリカに対して強く参戦を要請した理由でもあった。

これらの要因において、特に1,4はアメリカが半年早く参戦していればスエズ運河の占領を未然に防ぎ、日中戦争を継続中の日本に対して優位に進めることができたと言われる。また、3は連合国として日本はドイツ相手に共闘したことや、イギリスが太平洋・インド洋における海上護衛などを日本が担当することになり、これによってイギリス本国と地中海にその大半の戦力を維持することができた反面、日本が戦争から離脱した際にインド洋に空白地帯が生まれたことなど、太平洋方面において日本を頼りにしていたことも理由とされている。そのほかに、イギリスの対日感情は安定しており、参戦すること自体国民感情を考えると難しかったと思われる。