ドイツ軍自走砲/突撃砲シリーズ

Last-modified: 2018-09-10 (月) 14:11:09

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Ⅰ号対戦車自走砲

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Ⅰ号戦車と言えば、ヴェルサイユ条約によって戦車の保有を禁じられてたドイツが「軽トラクター」の秘匿名称で開発し、非力な武装、脆弱な装甲にもかかわらず、第二次世界大戦初期において戦車の数が少ないが為に、Ⅱ号戦車と共に主力戦車として前線に引っ張り出される羽目になった戦車である。
最大13mmの装甲は戦車砲はおろか歩兵の対戦車ライフルや機関銃弾ですら貫通される可能性があり、また搭載された7.92mm機関銃x2という武装では敵戦車の相手など出来るわけもなく、それどころか榴弾が使えるサイズではないために歩兵相手ですら威力が不十分という有様であったため、ポーランド戦が終わる頃になりⅢ号やⅣ号の数が揃ってくると、当然ではあるが次第に前線から退いていった。

 

時を同じくして1940年はじめごろ、ドイツ軍はこのⅠ号戦車を流用した対戦車自走砲の開発に着手する。
その開発理由は、ポーランドに侵攻した際に砲の到着が遅れ、進軍が停滞することがあったためだ。従来式の牽引砲では機甲部隊や自動車化部隊はおろか、場合によっては通常の歩兵部隊にすら置いていかれることがあり、砲それ自身で機動力を持つ自走式の対戦車砲や野砲が必要であると判明したのである。
一ヶ月ごとに護衛空母を一隻完成させてしまうような国力を持つアメリカであれば、歩兵師団の編成に戦車を組み込むという力技で「砲の機動力」という問題を解決できるが、第二次大戦を通して慢性的な戦車不足に悩まされていたドイツにはそんなことが出来るはずもない。そのため手持ちの兵器を使って何とか「機動力を持った砲」を持とうと腐心したドイツ軍は、Ⅰ号戦車に白羽の矢を立てたのである。

 

こうした経緯で開発されたⅠ号対戦車自走砲は、大雑把に言えばⅠ号戦車から砲塔を取り外し、替わりにチェコのシュコダ社製43.4口径47mm対戦車砲KPUVvz36(ドイツ名4.7cm PaK(t))を搭載したものである。
前線から退いたⅠ号戦車はダイムラー・ベンツやクルップといった複数の会社によって1940年3月から1941年7月にかけて追加発注分も含め、合計202両が改造された。

 

戦闘室はオープントップで、主砲は左右10度ずつの限定旋回方式、携行弾数86発、乗員は3名。
搭載している47mm砲はなかなか強力で、Pzgr36(t)を用いて初速782m/s、
 距離100m 54mm(衝角60度)
 距離500m 48mm
 距離1000m 41mm
の貫徹力を誇り、高速徹甲弾Pzgr40を用いるとさらに初速1080m/s、
 距離100m 100mm
 距離500m 59mm
にまでなった。
Ⅰ号4.7cm対戦車自走砲は、各師団や軍直轄の対戦車砲兵大隊に配属され、フランス電撃戦でその初陣を飾った。
外見とは裏腹に意外と活躍したらしく、その後各戦線に投入され1943年末ごろまで第一線で活躍した。

4.7cm PaK(t)(自走式)搭載I号戦車B型 製造初年1940年
搭載機関:マイバッハNL38TR(100hp)ガソリン
全長:4.42m 全幅:2.06m 全高:2.25m 重量:6.4t 乗員:3名
路上最高速度:40km/h 航続距離:140km
武装:4.7cmPaK(t) L43.4×1 最大装甲厚:14.5mm

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>

 

  • こういう間に合わせの兵器ってロマンがあっていいよね -- 2016-07-31 (日) 10:29:18

Pz.Sfl.V シュトゥーラー・エーミール

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 VK3001(H)12.8cm対戦車自走砲、通称「シュトゥーラー・エーミール」は1941年5月、トーチカや将来遭遇するであろう連合軍重戦車に対抗するために、ラインメタル社製12.8cm/L61 K40を搭載する対戦車自走砲を作成せよとの命令に基づき、ヘンシェル社によって作られた。
 本車はヘンシェル社が試作したVK3001(H)(ティーガーIの2つ前の試作車両)の設計を流用して新規に製作された。ベースのVK3001(H)のままでは巨大な主砲が搭載できず、後方へ車体が延長されている。変速機はⅣ号戦車にも搭載された「SSG77」を負荷を抑えるためにギア比を変えて搭載したため最高速度が25km/hしか出ない。
 この車両の一番の特徴である12.8cm/L61 K40はラインメタル社製12.8cm Flak40がベースになっている。口径長61口径は長さだけで言えば、ヤクトティーガーに搭載されたPAK44よりも長砲身である(あっちは55口径)。弾種はAPC-HE(Pzgr.)とHE(Sprgr)のみでヤクトティーガーに搭載されたようなAPC-BCは無い。

Pzgr.を初速880m/sで発射可能で

 

距離  貫通
100m  200mm(衝角60°)
500m  175mm
1000m 150mm
1500m 132mm
2000m 120mm

 

の貫通力を持ち、当時のソ連戦車を全て1km以遠で撃破できた。ただ、APCなためかAPC-BCを持ったヤクトティーガーよりも遠距離での貫通力は劣る(それでも十分すぎるが)。携行弾数は非常に少なく、15発とも18発とも言われる。写真では弾頭ラックと薬莢ラックが15発までしかないのが分かる。
 1941年8月には早くも2台の試作車が完成したが、それ以上の生産は行われていない。試作された本車はのちに「12.8cm砲搭載V号装甲自走車台」という正式名称が与えられた。また、本車は「Der Sture Emil」(きかん坊のエーミール)という俗称で呼ばれていたことが知られている。(良くネタにされるけどヘルマン=ヘッセの「少年の日の思い出」に出てくるエーミールとは関係ないぞ。一応。)個別には「マックス」「モーリッツ」という愛称で呼ばれていた(ドイツで有名な絵本「マックスとモーリッツ - 7つのイタズラの話」より)。
 1942年5月12日に第521駆逐戦車大隊(主にⅠ号対戦車自走砲を運用していた部隊。DickerMaxも運用していた。)への配備が決定され、同年7月には東部戦線に投入された。この頃、第2次ハリコフ線で勝利を収めたドイツ軍はブラウ(青)作戦を発動、カフカス油田方面へ南下している時期である。作戦中にはそこそこの戦果を挙げたらしく、写真では22台のキルマークが見られる。分かっている範囲では、T-34やKV-1を相手に1,500m程度の遠距離戦で活躍している。
 最終的にはスターリングラード市街戦に投入され、1台は撃破、もう1台は鹵獲された(自走砲を市街戦に投入したらそうなるよね)。鹵獲された1台はクビンカ戦車博物館に現存している。

 同世代の対戦車自走砲がようやく75mm長砲身クラスになり始めた時期に12.8cm/L61というOPとも言える主砲を搭載しており、本車の攻撃力がいかに先を進んでいたかがわかる。また、後に来たる8.8cm/L71や12.8cm/L55時代へと怪物化していくドイツ軍対戦車自走砲の先駆けのようでもある。そして何より「他を犠牲にしてでも載せられる一番強力な主砲を搭載!」といういかにも対戦車自走砲らしい車両であると思う。

 

 なお、よく言われる「シュタール・エミール」は形容詞"stur"(=頭の硬い、頑固な、片意地な)の類義語"starr"(=こわばった、硬直した、弾力のない、ごわごわした、硬い)と混同したものと思われ、「きかん坊のエーミール」の意にはならないので注意(しかも形容詞格変化を入れ忘れておりドイツ語としても間違っている)。きちんと格変化(男性1格の強変化)を付加した場合「シュターラー・エーミール(硬いエーミール)」となる。薄いのに硬いって・・・
加えて、この間違いがいつごろからどこを発端として広まったのかは不明である。


  • ドイツ語として変だとすると「言語→翻訳(誤訳)→再翻訳(外国が)」みたいなことがあったのかも。もしくはドイツ以外の国が呼んだとか(個別にはマックスとモーリッツがあるし)? あとこれはそもそも「der sturer emil」という書き方自体がドイツ語文法としておかしいという意味でいいのかな?(格変化よく分からない・・・orz) -- 2016-09-14 (水) 18:42:36
  • 形容詞の直前にder sturer emilと定冠詞(英語で言うThe)を付ける場合、Der Sture Emil(男性1格の弱変化)となるのが正しいかと。再翻訳で変な訳になったのが日本語になってもっと変になっちゃた可能性はたしかにあり・・・ -- 2016-09-14 (水) 19:48:43
  • ↑ミス。コメントの投稿に失敗した。 -- 2016-09-14 (水) 19:40:19
  • ミスの投稿消しときます -- 2016-09-14 (水) 19:46:43
  • ありがとうございますm(_ _)m -- 2016-09-14 (水) 19:50:33
  • 少し調べた感じ、この車両に関するドイツ語サイトを調べようとすると「Sturer Emil」のキーワードよりも「Sturen Emil」の方がよくヒットする。「Sturer Emil」表記はわざわざ「" "」付きで表記してあったりする。 -- 2016-09-14 (水) 19:59:22
  • エーミールは男性名だからそれだと4格に…ドイツ語やっぱり難しい -- 2016-09-14 (水) 20:11:47
  • 文章中に使われるから4格になって、それがヒットするからかもしれない(即席で調べた感) -- 2016-09-14 (水) 20:16:29
  • 戦車研究室では格変化がより正確なDer Sture Emilの読みを載っけてる。 -- 2016-09-15 (木) 02:35:28

Ⅲ号突撃砲C/D型

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1935年当時、陸軍参謀本部作戦課長の職にあったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン少将(のちに元帥)が、攻撃の際に「砲兵」が直接歩兵に火力支援を与えることが出来る強力な火力と機動性を有する歩兵支援用装甲車両を開発するべきだと提案し、これが認められて1936年6月15日、「突撃砲」という新しい車種の戦闘車両の開発が始められた。

 

具体的な開発要項は以下のようなものになった。
まず少なくとも軽歩兵砲以上の砲、つまり口径7.5cm以上の砲を装備し、方向射界は車体を停止させた状態で左右30度以上、砲身最大仰角において射程距離6㎞以上、砲威力は当時確認されている厚さのあらゆる装甲を距離500mで貫徹できること、車体全高は人の背丈を越えない程度、装甲は前面20mm、側後面は小銃徹甲弾に耐える程度であること。

 

この要項をもとにⅢ号戦車B型の車体を使用して、5両のVシリーズ(プロトタイプの事)が1937年から1938年に完成、試験が行われ、そこで良好な成績を示し、晴れて1939年末にⅢ号突撃砲として制式採用された
Vシリーズに装甲の増加といった改良を加えた最初の生産型であるA型、それに更に足回りなど改良を加えたB型があり、Ⅲ号突撃砲C/D型はB型に若干のマイナーチェンジを加えたものである。
前バージョンの弱点であった戦闘室前面に開口してあった照準口を塞ぎ、新たにペリスコープ型の照準器を戦闘室上面から突き出す様にしたのがC型。(この方式は以降のこの種のドイツ軍車両の標準となった。
そのC型に車内電話を装備したのがD型である。
主砲である7.5cmStuK37 L24は最大射程6km、榴弾のほかに徹甲弾、成形炸薬弾なども発射可能であった。
だがこの徹甲弾の初速は385m/sと遅く、対戦車戦闘はあくまで副次的なものであったと言える。
C型100両、D型150両が生産され、戦争の拡大で必要となった新編成の突撃砲大隊への配備、及び既存大隊への補充に充てられた。

なおあまり向いてはいないとはいえ、短砲身Ⅲ号突撃砲を用いての対戦車戦闘はいくつか行われており、戦車戦エースとして名高い「ミハエル・ビットマン」はウマーニ戦においてⅢ号突撃砲A型を駆り、敵戦車7両を撃破している。
ビットマン、パネェっす(´・ω・)

ちなみにこの突撃砲というのは、唯一、砲兵が騎士十字章を獲得することが出来る兵器であり、1943年にハインツ・グデーリアンが装甲兵監の職に就いた際、突撃砲を装甲兵科に編入しようとしたら砲兵から猛反対されたそうな。
欲しかったんだね、騎士十字章……(´;ω;)

Ⅲ号突撃砲C/D型 製造初年:1941年
搭載機関:マイバッハHL120TRM(300hp)ガソリン
全長:5.4m 全幅:2.93m 全高:1.98m 重量:20.2t
路上最高速度:40km/h 航続距離:160km
武装:7.5cmStuK37 L24×1 最大装甲厚:50mm
乗員4名

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>
小林源文(2007)『武器と爆薬[悪魔のメカニズム図解]』大日本絵画


Ⅲ号突撃砲F型

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前述の通りⅢ号突撃砲の本来の任務は歩兵の敵、すなわち銃座やトーチカといった歩兵進撃の際の障害になる固定火点を撃破することにあった。しかし戦争が進み歩兵の敵が固定火点から戦車に変化してくるにつれ、Ⅲ号突撃砲もまた対戦車戦闘を任務としなくてはならない場面が増えるようになった。さらに低車高のおかげで被弾面積が少なく被発見性も低いということが解ると、それが対戦車戦闘において有利に働くということで、Ⅲ号突撃砲は本来の任務ではない対戦車戦闘に次々と投入されていくようになる。
しかし悲しいかなⅢ号突撃砲が装備する主砲は短砲身の低初速砲であり、対戦車任務には向いていない。
この主砲ではソ連のT-34に対して有効打を与えることが非常に難しいのは明白である。
そこでこの短砲身砲を長砲身砲へと換装し対戦車戦闘を可能にするように、とのヒトラーの命令が1941年9月に下された。
ダイムラー・ベンツ(車体)、ラインメタル・ボルジーク(砲)によって開発が行われ、41年末までにⅢ号突撃砲E型(ベースは三号戦車H型)に43口径長の7.5cmカノン砲StuK40を搭載した試作車両が完成した。
これがⅢ号突撃砲F型である。
乗員4名、携行弾数44発(後に54発)。
43口径長7.5cm突撃カノン砲StuK40は、APCBC弾(被帽付徹甲弾)を用いて初速740m/s、
 距離1000m 82mm(衝角30°以下同じ
 距離2000m 63mm
の装甲板を貫徹することが出来る威力があった。
そして主な改造点は以下の通り。
・43口径長StuK40を搭載し、マズル・ブレーキを装備(ダブル・バッフル式とシングル・バッフル式の混用
・長砲身化による戦闘室天井と砲尾の干渉を防ぐため、戦闘室上面を切り欠いて台形のでっぱりを設け、砲基部上
 部にコイルスプリング2本の取り付けている。
・発砲煙増加に対処するため、ベンチレーターの付加。
・照準器が新型に変わり、戦闘室上面の開口部周りの形状がリファインされている。
・後になるが、全面装甲が50ミリから80ミリへと増加
と、色々挙げたが長砲身化の改造自体は砲をのっけて車体にちょこっと改造を加える程度なので簡単だそうだ。
その後アルケット社において、1942年3月から9月までに364両が生産され、最後に生産された31両は48口径長の主砲が装備された。
こうしてようやくⅢ号突撃砲は対戦車戦闘を容易に行うことが出来る駆逐戦車へと変貌を遂げたのである。
この突撃砲を駆れば、例え擲弾兵部隊から「村の西にT34! 戦車を止める手だてなし。支援求む!」と緊急の無線連絡が入ったとしても「了解した! 村へ急行す。2号車、支援に向かうぞ」と余裕綽々で対処できるぞ!
やったねナウマン! エースが増えるよ!

Ⅲ号突撃砲F型 製造初年1942年
搭載機関:マイバッハHL120TRM(300ph)ガソリン
全長:6.31m 全幅:2.92m 全高:2.15m 重量:21.6t 乗員:4名
路上最高速度:40km/h 航続距離:140km
武装:7.5cmStuK40 L43×1 最大装甲厚:50mm(80mm)

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>
無線台詞:
パンツァーフロントbis. オリホワトカ


Ⅲ号突撃砲G型

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Ⅲ号突撃砲には様々な型式のものが存在するが、このG型は最終生産型で、Ⅲ号突撃砲シリーズ中最も生産された車両でもある。
G型と言うのだから、もちろんF型から見て色々と改良が加えられているのはいうまでもない。
まず、戦闘室。
間に合わせで生産されたF型などはそれまでの短砲身砲を搭載した突撃砲と比べ、長砲身砲を搭載したが為に戦闘室内が狭く動作に支障をきたすことがあった。
そこで戦闘室を左右のフェンダー部まで拡大し、上部をかさ上げし車長用キューポラをとりつける等して戦闘室内のスペースを確保したのだ。
これに伴って戦闘室後面は垂直になった。
またキューポラを設置したことによって、眼鏡を突き出すか身を乗り出すしかなかった車長が安全に周囲を確認出来るようになり、戦闘能力の向上に繋がった。
その他にも、自衛機関銃用の防楯が取り付けられたり、車体側面にシュルツェン(視察孔や転輪を狙ってくる対戦車ライフル対策の防弾板。成形炸薬弾にも効果がある)をとりつけたり、ツィンメリットコーティング(磁気吸着地雷対策)を施したりと防御力の向上が行われている。
機動力や生産性を高める改良も加えられているため、Ⅲ号突撃砲G型は戦闘能力が高い上に生産性も高いという、まさに最終形態のⅢ号突撃砲なのだ。
最後にG型に加えられた改良の一つについて話そうと思う。
全てのⅢ号突撃砲の基本装甲が80mmに増加した後は、45~50mmの主砲防盾が弱点となった。
1943年11月に鋳造製防盾が採用され、前線部隊からは「ザウコプフ」(豚の頭)型防盾と呼ばれる。
G型の写真の砲の付け根を、合わせてF型の砲の付け根もまた見てもらいたい。
F型の四角い方が旧型の溶接防盾、G型の丸っこい方が新しい「豚の頭」である。
これによってG型はより一層防御力が向上した。
しかし、ドイツ軍の兵士たちはなんと素晴らしいユーモアを持っているのだろうか。
単なる車両の部品でしかない防盾に「ぶたさんのあたま」と名をつけるとは。
殺伐とした戦争の中で、こういった小さな面白おかしなことを見つけると、当時の兵士たちに思いを馳せ、心温まってくるのは私だけだろうか。

Ⅲ号突撃砲G型 製造初年1942年
搭載機関:マイバッハHL120(300ph)ガソリン
全長:6.77m 全幅:2.95m 全高:2.16m 重量:23.9t 乗員:4名
路上最高速度:40km/h 航続距離:155km
武装:7.5cmStuK40 L48×1 最大装甲厚:80mm

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>

因みに三号突撃砲全般に言える事だが、実は正面装甲に重大な欠陥があり、その部分は傾斜が付いてるとはいえ
30mmしか装甲がない、しかも背後には弾薬庫が控えている・・・
史実ではその弱点を知っている者はコンクリートを盛ったり木材だとか土嚢だとか、あるいは予備履帯を装着してでも増厚しようとしてたとか・・・この戦車と撃ち合った時は是非そこを狙うと良い、どことは言いません
すべての三突乗りがかわいそうだからね。


Sd.Kfz132 マルダー

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バルバロッサ作戦が発動し、ドイツ軍がソ連領内へ進行していくと、ドイツ戦車をはるかに凌駕する性能のソ連戦車が現れる。
どれだけ弾を撃ち込んでも平気な顔のKV-1やKV-2重戦車、T-34ショックを引き起こした張本人のT-34中戦車。
アハト・アハト(8.8 cm FlaK)ぐらいしか効き目がなく、Ⅳ号戦車は成形炸薬弾で、Ⅲ号や3.7 cm PaK 36に至ってはゼロ距離射撃か、針の穴に糸を通す様に弱点を狙撃するか……。
「無理ゲー」とさじを投げたくなるほどの差をドイツは目の当たりにしたのだった。
なにしろ、対戦車戦闘を主任務としⅢ号やⅣ号を越える貫通力を誇っていたⅠ号4.7cm対戦車自走砲でも、KVの前ではオープントップ式戦闘室から雪の降り注ぐ空を仰ぎ見るぐらいのことしかできなかったのである。(ウソです。仰ぎ見る暇もなく悪戦苦闘していたと思います
もちろんドイツ軍がそのまま指を銜えて見ている筈もなく、すぐさまⅡ号戦車を流用し7.5cm級対戦車砲を搭載する新型の対戦車自走砲の開発を始めた。
車体はトーションバーサスペンションを採用したⅡ号戦車D/E型が改造のベースにされたが、これはすでにⅡ号火焔放射戦車に改造されていたものを更に改造して使用することになった。
砲については対戦車砲である7.5cm PaK40を搭載するつもりであったが、この砲はまだ十分な数が揃っておらず、緊急の大量配備を目的とする新型の対戦車自走砲に搭載するわけにはいかなかった。
そのためPaK40は見送られることになり、代わりに白羽の矢が立ったのが、ソ連から大量に鹵獲してあった48.4口径76.2mm師団砲F-22(M1936)だった。
この砲は野砲として設計された物ではあったが、良好な初速を発揮し対戦車戦闘に投入するのにも十分な性能を有していた。
ドイツ軍はこれに7.62cm FK296(r)という名称を与え、さらに改良を加えたものを7.62cm PaK36(r)L51.5とし、Ⅱ号戦車(の車台)に搭載することを計画した。
改造はアルケット社に依頼され、1942年4月から1943年6月の間に合計201両が改造された。
これがⅡ号7.62cm対戦車自走砲マルダーⅡである。
申し訳程度に戦闘室の前左右に装甲板を取り付け、後方及び上方はオープントップ。
左右25度ずつの限定旋回式、携行弾数30発、乗員4名。
7.62cm PaK36(r)L51.5はPzgr39を用いて初速720m/s、
 距離100m 98mm
 距離500m 90mm
 距離1000m 82mm
を誇り、高速徹甲弾Pzgr40を用いると初速960m/s、
 距離100m 135mm
 距離500m 116mm
にまで跳ね上がった。
マルダーⅡは戦車師団及び機甲擲弾兵師団の戦車駆逐大隊に配属され、主に東部戦線で戦い1944年ごろまで一線で活躍していた。
最後になるが、これに続くマルダーⅡ(7.5cmPaK40)と比べると、違いがはっきりと見て取れる。
マルダーⅡ(7.5cmPaK40)がどこか洗練された姿であるのに比べ、マルダーⅡ(7.62cmPaK36(r))は段ボールの箱を積み重ねて戦車を作ったような雑な仕上がり。
当時どれほど現場がひっ迫し早急な開発が求められていたのかが良くわかる、非常に面白い戦車だと思う。
皆はどう思うだろうか?

マルダーⅡ(7.62cmPaK36(r)) 製造初年 1942年
搭載機関:マイバッハHL62TRM(100hp)ガソリン
全長:5.65m 全幅:2.3m 全高:2.6m 重量11.5t
路上最高速度:55km/h 航続距離:220km
武装:7.62cm PaK36(r) L51.5×1 最大装甲厚:30mm 乗員4名

参考文献:
Ⅰ号4.7cm対戦車自走砲の項と同じ


Sd.Kfz131 マルダーⅡ

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1942年5月、その当時まだ生産が続けられていたⅡ号戦車F型の車体と7.5cmPaK40を利用して、ある対戦車自走砲の開発が始まった。
プロトタイプが6月初めに完成し(この時は5㎝PaK38を搭載)、その結果に満足したドイツ軍はⅡ号戦車の生産のうち当初50%、後に75%を対戦車車両に割り当てることを決定(12月にはⅡ号戦車生産終了により100%)、1942年6月から1943年6月までの間に576両が完成することになる。
また改造車両については、1943年7月から翌1944年3月にかけて前線から引き上げたⅡ号戦車車体(c、A、B、C、F型)から75両が改造される。

そう……Ⅱ号7.5cm対戦車自走砲マルダーⅡである。
前項の対戦車自走砲と同じくマルダーⅡを冠する車両であるが、その外見の差、そして開発経緯を辿ると、7.62cmマルダーⅡは急造品、7.5cmマルダーⅡは本命であったと容易に推察できる。
乗員3名、携行弾数37発、主砲は7.5cmPaK40でPzgr39(徹甲弾、弾量6.8kg)を用いて、初速790m/s
 距離100m 106mm
 距離500m 96mm
 距離1000m 85mm
Pzgr40(高速徹甲弾、弾量4.1kg)で初速990m/s
 距離100m 143mm
 距離500m 120mm
という驚くべき威力を発揮した。
この砲は1939年から将来の強力な戦車に対抗できるようにとのんびり開発を続けていた砲で、T-34の出現をきっかけに大急ぎで開発、1941年末に完成する。
7.5cmマルダーⅡは、車体がMAN社、戦闘室はアルケット社、砲はラインメタル・ボルジーク社が開発にあたり、FAMO社、後にMAN社とダイムラー・ベンツ社で生産が行われた。
ベースのⅡ号戦車車体の改造範囲は比較的狭く、中央部戦闘室部分だけ切り開かれ、そこに7.5cm砲の砲架が設けられた以外は大した改造は行われていない。
戦闘室は前30mm、左右10mmの装甲板が周りを取り囲むように取り付けられているが、後方及び上方は何もないオープントップ式であった。
砲の旋回範囲は左32度、右25度、砲前面には4+4mmの防盾が取り付けられ、携行弾はエンジン上部に車体幅いっぱいに設けた弾薬箱に収められている。
乗員は3名だが、これじゃいくらなんでも手が足りんわ!という事で後に1名増えて4名となる。
ちなみに、マルダーⅡという名称は1943年11月29日にアドルフ・ヒトラーによって与えられ、1944年2月に正式に承認されて呼ばれるようになった。
それまではいろいろな呼び方があったらしく、当初は「7.5cm PaK40搭載II号戦車車台自走砲」と呼ばれてたいたらしい。
やっと落ち着ける名前つけてもらってよかったね、マルダーⅡ君(´・ω・)

マルダーⅡ(7.5cmPaK40/2) 製造初年 1942年
搭載機関:マイバッハHL62TRM(100hp)ガソリン
全長:6.36m 全幅:2.28m 全高:2.2m 重量10.8t
路上最高速度:40km/h 航続距離:190km
武装:7.5cm PaK40/2 L46×1 最大装甲厚:35mm 乗員3名(後に4名

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>


Sd.Kfz138マルダーⅢ H型

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1942年、春。
ドイツは新しい対戦車自走砲の開発を進めていた。
チェコ製の38(t)軽戦車の車台をベースにして、III号突撃砲にも使用された7.5cmStuK40を主武装とした新自走砲を開発せよと、ドイツはチェコのBMM社に命令したのだ。
そして試作車が1942年3月末には完成した。
さぁこれから試験だ、と言うところでこの試作車とは別に並行して作製していたもう一つの設計案、主砲を7.5cmPaK40/3にする等、先の試作車と少々異なるものをBMM社はドイツ陸軍兵器局に提出、1942年5月18日付でこちらが採用されることになった。
すぐさま新設計案の試作車両が作られ、7月30日射撃試験を行った結果、成績良好ですぐに生産されることになる。
これが、38(t) 7.5cm対戦車自走砲マルダーIII H型である
乗員4名、携行弾数38発、主砲の7.5cmPaK40/3はPzgr39(徹甲弾、重量6.8kg)を用いて初速792m/s
 距離100m 106mm
 距離500m 96mm
 距離1000m 85mm
 距離1500m 74mm
 距離2000m 64mm (傾斜角30°)
の均質圧延装甲を貫徹することが出来た。
Pzgr40(高速徹甲弾、重量4.1kg)を使用すれば、砲口初速933m/s
 距離100m 143mm
 距離500m 120mm
にまで跳ね上がる。
このマルダーIII H型の主な改造点は(見た目的にどこ改造してるか一目瞭然だけど……)
・38(t)戦車の中央戦闘室部分が切り開かれ、砲架が設けられている。
・新戦闘室は前左右に15mmの装甲板が囲むように取り付けられている。後方上面はオープントップ。
・砲前面の防盾が対戦車砲そのままのモノと違い、湾曲した新しい設計のモノになっている。
・エンジンルーム上に床板が張られていて、作業の便が図られている。
マルダーIII H型の生産数は、38(t)からの改造も含めれば611両。
これらの車両が機甲師団や機甲擲弾兵師団、歩兵師団の戦車駆逐大隊と独立戦車駆逐大隊に配属され、東部戦線、チュニジア、イタリアなどの各戦線で使用された。
使い勝手が良かったのか、かなり善戦していたようだ。
しかしこの戦車、なんと美しいのだろうか。
Ⅱ号7.5cm対戦車自走砲マルダーⅡも十分美しいが、これはさらにその一歩先を進んでいるように見える。
「デザインが美しければ性能は必ず良い」とは航空宇宙評論家、佐貫亦男氏の言葉であるが、これは航空機のみならず戦車にも言えるのではなかろうか。
……そうでもないか。

マルダーⅢ(7.5cmPaK40/3) 製造初年 1942年
搭載機関:プラガEPA/2(140hp)ガソリン
全長:5.77m 全幅:2.16m 全高:2.51m 重量10.8t
路上最高速度:35km/h 航続距離:240km
武装:7.5cm PaK40/3 L46×1 7.92mm MG37(t)×1(600発) 最大装甲厚:50mm 乗員4名

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>


ブルムベーア

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Ⅲ号突撃歩兵砲という車両がある。
これはⅢ号戦車の車体に15㎝の歩兵砲を搭載したもので、見た目は戦闘室がちょっと高くなった初期のⅢ号突撃砲みたいなものだった。
ただこのⅢ号突撃歩兵砲には、ある欠点があった。とにかく狭いのである。
Ⅲ号戦車の車体は15㎝歩兵砲を搭載するには少々小さかったのだ。
この為、Ⅲ号戦車よりも大型の車両で重突撃砲を製作しようということになったのである。
そこで白羽の矢が立ったのがⅣ号戦車。
Ⅳ号戦車の車体であればⅢ号戦車より余裕がある。
アルケット社が1942年10月に入ってからⅣ号戦車を使用した重突撃砲の計画案をヒトラーに提出した。
この計画をお気に召したヒトラーは直ちに生産を命令するものの、重量が計画より増加することが判明する。
そのため足回りの改修が必要となり、生産は遅れることとなった。
ところがヒトラーはこの車両を1943年5月のツィタデレ作戦に投入することを計画、5月13日までに40両を、さらに追加で20両を生産せよとの命令を下す。
これでは足回りに改修を施す時間などなく、結局のところ、IV号戦車G型の車体をそのまま流用して生産することになった。
これがIV号突撃榴弾砲「ブルムベーア」である。
IV号戦車G型の砲塔と車体上部を切り取って、チェコのシュコダ社で生産された12口径15cm突撃榴弾砲StuH43を載せて、密閉式の戦闘室をかぶせた。
元になった車両が違うだけで、基本的なコンセプトはⅢ号突撃歩兵砲と変わらない。
しかし、見た目的にはⅢ号突撃歩兵砲に比べ、ずっと洗練された印象を受ける。
もちろん見た目だけではなく、装甲板の組み合わせ方法や照準装置などに手が加えられた。
戦闘室正面の装甲厚はなんと100mm。
ティーガーの正面装甲厚とほぼ同じだ。
また、側面は50mmの装甲を備えている。
ブルムベーアは当初の60両で生産が打ち切られたが、その後イタリアでの戦訓などにより有効性が見直され、1943年12月から生産が再開し、1945年3月までに306両が生産、改造された。
このブルムベーアは前期型と中期型、後期型とで様々な変更点が加えられている。
特に後期型は戦闘室などの形状が異なり、前方機銃が取り付けられている。
肉薄してくる敵歩兵に悩まされたため増設されたのだろう。
本車は突撃砲大隊に配属され、東部、西部、イタリアで活躍している。
ちなみに、ブルムベーアとは気難し屋という意味だ。(よく言われる「灰色熊」は誤訳)
個人的には戦車に気難し屋とはちょっとどうなのだろうと思う……。
突撃番長のような名称なら頼もしく感じるが、気難し屋と言うと少々頼りなく感じてしまうのは私だけでしょうか(´・ω・)

ブルムベーア 製造初年1943年
搭載機関:マイバッハHL120TRM(300ph)ガソリン
全長:5.93m 全幅:2.88m 全高:2.52m 重量:28.2t 乗員:5名
路上最高速度:40km/h 航続距離:210km
武装:15㎝StuH43 L12×1 7.92mmMG34×1(最後期型のみ) 最大装甲厚:100mm

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>

 

  • 情報源があやしいし、うろ覚えだけどこいつの前身ともいえるⅢ号突撃歩兵砲はたしかスターリングラード戦かそれまでに全滅してる、 -- 2015-04-24 (金) 08:02:40
  • 「気難し屋」の他にそのまま「灰色熊」って意味でもあるようだから、 -- 2016-07-31 (日) 11:02:20
  • 途中送信すみません、アニマルシリーズの命名としてはそっちの意味合いの方が強いんじゃない? -- 2016-07-31 (日) 11:03:42
  • 灰色熊は多分誤訳。ドイツ語について最も詳しい辞書「独和大辞典」によるとBrummbartの転でBrummbärなのでそんな名前の熊いないはず。英語版ウィキペディアにもBrummbär does not mean "Grizzly Bear"と書かれているのでやっぱり誤訳が広まったものかと。 -- 2016-08-04 (木) 07:27:35
  • おおナルホド、勉強不足でした…そうするとやはりというか当たればデカイけど扱いは難しそうな本車を評したニックネームなんですかねぇ -- 2016-08-11 (木) 19:19:41
  • スターリングラードで全滅したのは3号改造の方 -- 2017-11-08 (水) 18:02:58
  • そもそも、ドイツの公式書類にはBrummbärの名称は書かれてたことはないんだとか -- 2018-09-10 (月) 14:11:09

ヘッツァー

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いよいよこの車両について話す時が来た。
私が間違った事柄を記述していた場合、即時訂正をよろしくお願いします。

それまでのⅢ号突撃砲は、歩兵支援兵器の陰を引きずっており、ヤークトティーガーやヤークトパンターなどは、わざわざ元の兵器から改造する必要性が感じられない無駄な兵器とも思えるが、その点このヘッツァーは極めて理想的な駆逐戦車とも言える車両だ。
この理想的な駆逐戦車の開発の歴史を覗いてみよう。
1943年11月26日、連合軍の爆撃によってⅢ号突撃砲の生産ラインが打撃を受け、一時的にその生産がストップしてしまった。
このため、38(t)軽戦車の車体を利用して各種の自走砲を生産しようと取り組んでいたチェコBMM社に対し、Ⅲ号突撃砲の生産を行えないかと打診する。
しかし、工場の規模から言って、Ⅲ号突撃砲を生産するのは不可能であった。
そこで、ヒトラーは38(t)軽戦車の車体をベースとする軽駆逐戦車の開発を命じるのである。
その時に掲示された要求は以下のとおりである。
・戦闘重量は13tを限度とし装甲は薄くとも可
・路上最大速度60km/h
この要求に従い、BMM社は設計に着手、1943年12月には設計図を完成させ、1944年1月24日には木製のモックアップが完成する。
その後、試作車の製作に邁進していくが、ここで注意して欲しい。
38(t)軽戦車の車体をそのまま流用している訳ではないということだ。
確かに38(t)軽戦車とは部品の80%が共通となっているが、車内容積を確保するために、車体幅を広げた新しい専用の車台が用いられている。
主砲にはラインメタル・ボルジーク社の48口径7.5cm対戦車砲PaK39が採用され、車体上部には機関室まで一体となる完全密閉式の固定戦闘室が載せられた。
この車両の装甲板は大きな傾斜角が与えられている。
小型車体であるため、それによって重厚な装甲を施す余裕が無いため、極力防御力を向上させようと避弾経始で補ったためだ。
そして、車内から安全な射撃を行うために、上面にはリモコン式の機関銃が備え付けられた。
このリモコン式機関銃は、その後Ⅲ号突撃砲などにも採用されることになる。
1944年3月に試作車3両が完成する。
試験の結果、直ちに生産が始められることになり、1944年4月から生産型の引き渡しが開始され、1945年5月のドイツ降伏までにチェコのBMM社とシュコダ社で合計2,827両が生産された。
これがヘッツァーである。
ヘッツァーとは、1944年12月に制式名称としてヒトラーより与えられた名で、Hetzer:勢子、狩猟の場で鳥獣を追い出したり他へ逃げるのを防いだりする役目の人、という意味がある。
ヘッツァーはその後、戦車師団、歩兵師団、国民擲弾兵師団などすべての戦車駆逐大隊に配属され、さらに大戦末期には戦車大隊に戦車の代わりとして配備され、東部西部あらゆる戦線で絶望的な戦いを繰り広げることになる。
さて、このヘッツァー、実は色々と問題があるのである。
まず、砲が大きく右側にオフセット装備されていて、ハッチを閉めると右側の視界がほぼ遮られてしまうのだ。
また、右側にオフセットされている関係上、乗員の半数以上が左側に並ぶことになり、敵弾が車体の左側を貫通すると正に大惨事に陥ってしまう。
操縦性も悪かったであろう。
他にもある。
ノーズヘビーで前に10センチ沈んでいて、砲口は地上から1.4メートルの高さにあり、一発撃つだけで土煙で何も見えなくなってしまうのだ。
このため、僚車を近くに置くなどして着弾観測をしてもらわなければならない。
このように、様々な問題を抱えている駆逐戦車であるが、大戦末期のさなかでは、貴重な対戦車兵器としてその職務を全うしただろう。
最後に、ヘッツァー、かわいいよヘッツァー

駆逐戦車38(t)ヘッツァー 製造初年1944年
搭載機関:プラガAC/2(160ph)ガソリン
全長:6.38m 全幅:2.63m 全高:2.17m 重量:15.75t 乗員:4名
路上最高速度:42km/h 航続距離:177km
武装:7.5cmPak39 L48×1 7.92mmMG34×1 最大装甲厚:60mm

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>
ワールドタンクミュージアム


Ⅳ号駆逐戦車L/70(V) ラング

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ヘッツァーのお兄ちゃん
・・・もとい、Ⅳ号駆逐戦車に70口径7.5センチ砲Pak42を搭載したタイプ。兵士達からのアダ名はラング(長っ鼻)。
搭載されているPak42はパンターの搭載砲、KwK42の改良型で、後座距離の変更によりマズルブレーキが不要な構造となっていた。(Ⅳ号駆逐戦車の砲の位置でマズルブレーキ付きの砲なんぞぶっ放すと土煙で視界ゼロに・・・)この砲はPz.Gr39を使用した際、1000m先の100mmミリ装甲板を貫通可能だった。これはスターリン戦車を除く全ての連合軍戦車をアウトレンジから撃破できる数値である。

 1942年9月、ドイツ陸軍兵器局の基本会議において、このPak42をⅣ号駆逐戦車の主砲に搭載する案が提出される。Ⅲ号突撃砲には搭載不可能だったPak42も車内スペースに余裕のあるⅣ号駆逐戦車なら搭載可能だった。
 この案は1944年1月に行われた総統会議の中で可決された。
 PaK42を搭載したラングは酷いノーズヘビーに見舞われた。(もともとPak39搭載型でも結構アレだったらしいが・・・)ノーズヘビー解決のために前部転輪の2つがゴム内蔵型鋼鉄製転輪になり、履帯もニク抜きに凝った新型に変更された。ヒトラーは前面装甲を薄くするよう命令したが、防御力の低下を嫌った兵器局はこれを無視、削りも減らしもしなかった。こうして完成したラングの写真を見たヒトラーは「ラングこそ戦車工学の究極的形態である」とベタ褒め。ヤクトパンターの時といい、鋭角的な傾斜装甲と長砲身の組み合わせはヒトラーのお気に入りなんじゃないだろうか・・・。1944年11月以降は現場の意見を取り入れ、牽引装置の溶接、簡易クレーン用アタッチメント、測遠機用のピポットの増設などの改良が施された。

 生産はフォノマーク社により1944年8月から開始され、1945年3月のプラウエン爆撃により生産ラインが破壊されるまでに約930輌のラングが生産された。最高月産数は1945年1月の185輌だった。
 ラングは1944年7月から配備が始まり、重戦車駆逐大隊のほか、損耗した一般の機甲師団にも補充として配備された。多くは西部戦線に配備され、アルデンヌ攻勢時には300輌のラングが配備されていたという。また、東部戦線には280輌が稼働状態にあった。最後に輸送されたラングは大戦末期の1945年3月、崩壊しつある西部戦線への補充として送られた59輌である。このラング達は3回にわたって輸送され、全車が受領された。

 

 総括すると、「地味だが優秀」と言ったところか。最も多くの敵車両を撃破したⅢ号突撃砲、無敵の極みにして無駄の極みのヤクトティーガーなどと比べるとどうしても知名度で負けている。しかし、パンターと同等の砲、120mm相当の正面装甲、重量バランスの悪さを除けば及第点の機動力、そこそこの生産性と、極めて優秀な駆逐戦車である。ゲーム、アニメなどのメディア露出は以外と多い。(パンツァーフロントだと結構なミッションに登場するよね)


  • 久々にワロタ -- 2015-12-22 (火) 20:09:00

フェルディナント

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言わずと知れたポルシェ博士のおもちゃ・・・もといティーガーI(P)になるはずだった90輌の車体を改造、
固定戦闘室に長砲身8.8cm砲を載せ、前面装甲200mmを誇り、敵対するソ連軍に虎以上の大悪魔として恐れられた、43年最強の駆逐戦車である。
当然足回り、もといエンジンなどはティーガーI(P)時代と同様に電気で動くと言う非常に信用なら無いものであるが、足が遅い以外の機動力は悪くなく、
むしろ良好だったようだ・・・ただし大重量ゆえんの通過可能な橋が限られるなどの制約は多かったが・・・。
最初に実戦投入されたのは伝説となったクルスク戦でソ連軍のもつありとあらゆる対戦車砲の攻撃を弾き飛ばし、
ありとあらゆる戦車を撃破し、こんな怪物に近づく勇者などそうそういるはずもなく、ただ重砲の砲撃のみがこの怪物をとめることができた。
クルスク戦の後、生き残ったフェルディナントは前方機銃を備え、名をエレファントと改めイタリア戦線へ投入
その後も生き残った数少ないエレファントは東部戦線等を転々とし、重駆逐戦車大隊から中隊になり、
ベルリン戦で最後の2輌が撃破されるまでを戦いぬいたのである・・・。

ソ連側からしたらよほど脅威だったのか、対フェルディナンドガイドなんて物が出されていた...
ttp://rkka.ru/docs/real/sau/main.htm


ヤークトパンター

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パンターの車体を使用した駆逐戦車で、ティーガーIIやフェルディナントと同じ8,8 cm PaK 43 L/71を積んでいる。
開発構想としてはナースホルン・フェルディナント(エレファント)2輌の有効性が認められた為である、しかしナースホルンは防御力が決定的に不足しておりフェルディナント(エレファント)は機動性の面と元々試作車を流用して少数しか量産されてなく、部品供給面でもいずれ運用が不可能になることが分かっていた。
こうした流れとは別の所で8.8cm砲を搭載する車両がクルップ社によって1939年代から計画されていた、42年になると完全密閉式戦闘室に8.8cm砲を搭載する車両に進化し、3輌の試作製造計画が兵器局第6局によって正式にクルップ社と結ばれた、そして同年8月計画は大幅に変更された、試作車に新型主力戦車(パンター)の構成部品を流用することが兵器局より求められたのである。
このプランは9月半ばの会議によりヒトラー総統直々に許可がおりパンターの車体下部・走行装置を共有する71口径8.8cm砲装備の重突撃砲として開発されることが決定した。
10月には担当メーカーがクルップからダイムラー・ベンツ社に変更された(パンターのトライアルで負けたベンツが後のヤークトパンターを担当するとは何たる皮肉)クルップよりノウハウ・技術協力を得て開発は進み同年12月の会議では量産を行うメーカーはMIAG社が選定され、こうしてヤークトパンター開発は本格的に始動・開発が行われたのである。
当初の計画ではパンターを上回る前面100mm、側面60mmという重装甲が予定されていた。
最終的にパンターG型をベースとして43年10月試作1号車(V101)は完成、先のモックアップは10月20日に催された新型車両展示においてティーガーⅡ、ヤークトティーガーとかもヒトラー総統の検閲を受けている。
翌11月には試作2号車が完成しヤークトパンター(8.8cmPak43搭載、駆逐戦車パンター)Sdkfz.173として制式化され44年1月より量産を開始した。
量産は担当したMIAG社のみで行っていたが工場を連日の爆撃で破壊され生産が大きく落ち込んだがパンターの生産を請け負っていたMNH社装甲車両の経験がないMBA社の2社が協力、3社体制で量産を行い45年4月までに425輌が造られた。
部隊編成については43年8月より行われ最初の受領部隊は第654重駆逐戦車大隊である、訓練に関しては実車が影も形もなかった為ベルゲパンターにより行われていた、実際に部隊に引き渡されたのは44年4月である。


ヤークトティーガー

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1941年5月26日、ヒトラーは強力な装甲、火力を兼ね備えた戦線突破用の新重戦車の開発を命じた。
それに伴い新重戦車用に新たに主砲を開発することになり、本格的な新重戦車の開発は1943年1月に始まる。
この新戦車がケーニッヒスティーガー、すなわちキングタイガーであったが、このケーニッヒスティーガーの開発と並行して、ある重駆逐戦車の開発も並行して開始された。
その重戦車の開発要領は次の通り。
『クルップ社において開発中の12.8cm対戦車・野砲両用砲を、ケーニッヒスティーガーの車体に搭載し、あらゆる車両を撃破できる駆逐戦車を開発する』
この開発要領に則り、ヘンシェル社は1943年4月に2種の自走砲基本設計案をまとめ上げ、同年5月、兵器局第6課は機関室を後方に配した案を採用、重駆逐戦車の基本仕様を具体化した。
1943年10月、木製モックアップが東プロイセン、アリス演習場にてヒトラーに展示。
同年12月ニーベルンゲン製作所において生産することを計画。
1944年2月、最初の2両が完成した。
これがVI号駆逐戦車ヤークトティーガーである。
このヤークトティーガー、その特徴は何と言ってもそのデカイ主砲と分厚い装甲であろう。
主砲は12.8cmPaK44で、128mm55口径という大きさだけであれば現代の120mm滑腔砲やライフル砲に匹敵するどころか上回る程のサイズであり(攻撃力は当たり前だが遠く及ばず)、Pz.Gr.43風帽付被帽徹甲弾(28.3kg)を用いて初速920m/s
 距離1000m 252mm
 距離2000m 221mm
の装甲板を貫徹することが出来た。
当時の戦車は遠距離から楽に貫徹することが出来る威力である。
実戦では128mm砲の威力はすさまじく家の裏側に逃げ込んだM4シャーマンを家ごと貫通し撃破しちゃっていたりする。
また装甲については、戦闘室前面250mm、側後面が80mm、車体前面が150mmとまさしくその容姿と相まって化け物と呼ぶに相応しい厚さである。
このヤークトティーガー、少なくとも82両が生産され、第653独立重戦車駆逐大隊と第512独立重戦車大隊はこの駆逐戦車をもって編成された。
第653独立重戦車駆逐大隊はアルデンヌ、第512独立重戦車大隊はルール地方へと投入されたようだ。
またヤークトティーガーは、パンツァーフロントでも有名なルーデンドルフ鉄橋、すなわちレマーゲン鉄橋での防衛線に投入されたことでも有名であろう。
最後に、この戦車のちょっとおかしな話をご紹介。
ある時、このヤークトティーガーの部隊が90キロの移動を行うことになった。
この行軍には三日間かかると思われていたが、なんとその部隊は2日で現地に到着した。
これは大快挙と見なされる記録だったという……。
……1日30キロっすか、そうですか。
いくらなんでも遅過ぎね?と思う方もいるかもしれない。
しかしこれは仕方のない事、このヤークトティーガー、車体を延長したり装甲増やしたりで重量が増えているにもかかわらず、エンジン等の足回りはケーニッヒスティーガーのそれと同じなのだ。
スピードが出にくく、エンジンに多大なる負荷がかかる事は想像に難くないだろう。
でもやっぱり遅いよね……(´・ω・)

VI号駆逐戦車ヤークトティーガー 製造初年 1944年
搭載機関:マイバッハHL230P30(700hp)ガソリン
全長:10.65m 全幅:3.63m 全高:2.95m 重量70t
路上最高速度:38km/h 航続距離:190km
武装:12.8cm PaK44 L55×1 7.92mmMG34×1
最大装甲厚:250mm 乗員6名

参考文献:
齋木伸生(1998)『異形戦車ものしり大百科』光人社
「戦車研究室」<ttp://combat1.sakura.ne.jp/>
赤外線コントロール ワールドタンクミュージアム WR-01ティーガーⅡヘンシェル型重戦車パイパー戦闘団 取扱い説明書兼解説書

 

  • 化け物じみた性能を持つものの、もう末期にはこれを満足に扱える兵も補充する燃料や消耗品も・・・ -- 2016-07-29 (金) 17:00:57
  • ノルマンディ戦から開発者がやる気無くしたんだよな… エンジンぐらい開発しとけや -- 2017-11-08 (水) 17:59:42

コメント欄

  • 僭越ながら解説入れてみました(´・ω・)不都合なところがありましたらすぐに修正します…… -- 【パンフロで】【ガルパン】? 2013-07-24 (水) 22:37:45
    • 戦友!追記ありがとうございます! -- ぱんふろ@記事主? 2013-07-24 (水) 22:52:13
  • またまた書いちゃいました(´・ω・)ご指摘お待ちしてます…… -- 【パンフロで】【ガルパン】? 2013-11-13 (水) 11:38:41
    • 戦友!またまた追記ありがとうございます!SFK1942も、米軍車輌が充実してきたりイタリア戦車のプレイアブル化が決まったりとだんだん楽しめる幅が広がってきました。 -- 2013-11-13 (水) 21:19:42
  • まだホルニッセは実装されてないのか -- 2014-01-16 (木) 11:22:24
  • 3号突撃砲G型に加筆 -- 2014-05-14 (水) 09:26:09
  • フェルディナントに陳腐な文章ですが書いておいた、内容薄いから加筆、編集求む。 -- 2014-05-14 (水) 09:38:57
    • たくさんの追記ありがとうございます!情報量十分です。またお暇ありましたら、よろしくお願いします。 -- 2014-05-14 (水) 23:00:35
  • ドイツ戦車に対して128mm砲って表記を辞めろ cmで統一しろ -- 2015-04-29 (水) 00:55:20
    • 最低限の礼儀は弁えましょう -- 2015-04-29 (水) 02:15:32
    • つーかwikiなんだから自分で直せば? -- 2015-04-29 (水) 09:24:26
  • ラングの説明文を加筆。読みやすさを重視したつもりです。バルバロッサから叩き上げの熟練戦車兵諸兄には鼻で笑われるレベルの文ですが、多めに見てやってください。 -- 補充兵(14歳)? 2016-07-29 (金) 18:20:48
    • 加筆乙です。少し体裁を整えました。 -- 2016-07-29 (金) 19:12:37
    • そんなことはない二級鉄十字章ものだぞ -- 2016-07-31 (日) 10:28:36
  • 対フェルディナンドガイドなるものを見つけたので追記しました。 -- 2018-01-16 (火) 00:13:37