エルシア司祭の証言

Last-modified: 2009-02-09 (月) 22:11:59

この証言は、<第二次対暗黒戦争>と呼ばれる、オレニア、アウロラ国境付近での戦闘に関するものです。
わたしがいたのはその最終局面、<暗黒の目>といわれる異界の門の破壊の場でしたが、門の破壊とはいっても、よく知られていますように、現実は強力な敵との激しい戦闘にほかなりませんでした。

わたしは、エルシアのウィカヌス神殿の司祭として、その戦闘の支援にかりだされました。
わたしどもの役目は、戦闘に参加している者たちの生命を後方から神聖呪文によって守り、同時に<暗黒の目>とそこからわき出してきたあらゆる災厄を、結界のなかに封じ続けるというものでした。
楽な任務ではありませんでした。
後方とはいえ、いつ味方の戦闘員たちが力尽き、結界が破られてすべてが闇に呑まれてしまうかと思うと、わたしの内心はもう恐怖でいっぱいで、逃げ出したい気持ちを抑えて神聖呪文を紡ぎ出すのがせいいっぱいでした。

<暗黒の目>から溢れ出した、夥しい数の魔物や怪物たちとのこの地での戦闘はすでに六日以上に及び、疲労と消耗があらゆる人々のうえにのしかかっていました。
各地からの援軍もぽつぽつとは届くものの、なんといっても敵の数が多すぎました。
<暗黒の目>が閉ざされない限り、この戦いに終わりはこないのです。
わたしよりもさらに前から戦い続けている者たちも多く、もはや限界という状況でした。
それでも確実に戦況はわれわれの勝利へと近づき、敵の数は減っていました。それを実感できなければ、とてもあれ以上戦い続けることはできなかったでしょう。

この戦いの希望でもあり要でもあったのは、いうまでもなくオレニア大公殿下、<光の黒龍>でした。
<光の黒龍>が現れ、その右手から<黒龍の剣>を呼び出すさまを目にしたときには、さすがに激しい畏怖と畏敬の念に全身が痺れたようになりました。
<竜剣>は美しく、そこに宿る力の強大さと高貴さは疑うべくもありませんでした。刀身をふちどる虹のような焔のゆらめきは、まさに伝説が語るとおりでした。

<光の黒龍>の役目は<暗黒の目>を破壊することであり、そのためにあの方は戦場の中心で戦っていました。一切の補給もなく不眠不休で、詠唱と戦闘を続けていたのです。
正直、人間業とは思えませんでした。いかに一級魔導師といえど、何日にもわたってあれだけの大魔力の放出を続けながら、戦闘状態を維持して肉体を支えるなど、ふつうでは考えられません。
遠くからではよくわかりませんでしたが、もっとも激しい反撃を受けていたのもあの方だったと思います。

怖ろしい戦場にあって、ゆいいつの救いは、ルナイア殿でした。
わたしは当初、エルカレア人の歌い手に胡散臭さを感じていました。
見ればまだ少年であり、当然魔導師でも聖職者でもなく、なにか特別すぐれた能力をもっている様子もなかったからです。
ただの歌い手の子供が何の役に立つのか、わたしはそう思っていました。

彼は、途中からこの戦場にやってきました。
聞いた話では、聖龍王を癒す役目を放棄してこの戦いに加わったということでした。
その心がけを評価したものかどうかは迷うところですが、とりあえず戦場にいた者としては、ルナイア殿が来てくれたことはまさにこれ以上はない幸運であり、最大の援軍であったといえます。

戦闘の間中、ルナイア殿は歌い続けていました。彼もまた休むことを知らないようでした。
ルナイア殿の歌声を耳にしたとき、わたしはこの少年がいかに強力な味方であるかを思い知らされました。
彼の歌声はなににも勝る強力な光の盾であり、聖なる剣でありました。
彼の歌によってわれわれの神聖呪文は強化され、治癒能力は向上し、瘴気は浄化されていました。
さらに、彼の歌声はわれわれの心を癒し、恐怖を払い、希望と活力を与えてくれたのです。

すばらしい歌い手でした。奇跡の歌声というのは、決して誇張だとは思いません。
実際、彼がいなければあの戦いの結果は、もっと違ったものになっていただろうと思います。
<光の黒龍>も、生きて戻ることはできなかったかもしれません。それほど厳しい戦いでした。
わたしは戦いが続く間中、きつく目を閉じ、ルナイア殿の歌声以外のものは無視して、ひたすら詠唱をつづけていました。

ついに荒々しい戦闘の音が消え、邪悪な気配が薄れはじめたときになって、ようやくわたしは目を開けることが出来ました。
目の前の光景は一変していました。
大地は裂け、地表は焼け、大気には血と肉の焼ける臭い、さらにもっとおぞましい悪臭が充満し、いたるところに、敵味方の屍となにかどろどろとした黒い塊が散らばっていました。
死傷した戦士や魔導師たちが、運ばれていくのが見えました。
歌声は消えていました。かわりに悲鳴やうめき声、嗚咽が耳を打ち、わたしは 自分が死のすぐそばに立っていたことをあらためて実感しました。

そして煙と靄の奥に、<光の黒龍>の姿が見えました。すでに<黒龍の剣>は消えており、地面には大きな血溜まりが出来て、そのうえにあの方の躰が倒れていました。
わたしは<光の黒龍>が死んでしまったのかと驚きました。しかしすぐに、「殿下はご無事である」との報告が届きました。
ついに<暗黒の目>は閉じたのです。戦いは一気に終熄に向かいはじめました。安堵と歓喜のざわめきがひろがり、一部では歓声もあがっていました。
わたしもやっと、自分達の勝利を確信することができました。躰から力がぬけ、久々に落ち着いた気持ちを取り戻すことができそうでした。

とはいえ、異界からあふれ出た敵は完全に消滅したわけではなく、周囲はいまだ危険な状態でした。
われわれは、<光の黒龍>が戻るまでは持ち場を離れずに、いまの結界を保ちつづけるようにと、あらためて命じられました。
あたりには瘴気が漂い、地揺れや地鳴りも続いていました。
局所ではまだ 残っている魔物らと戦っている者たちもいましたから、わたしもあえて結界のなかに踏み込みたいなどとは思いませんでした。

そのとき、誰かが結界のなかに飛び込み、<光の黒龍>のほうへ向かって走っていったのです。
それは、ルナイア殿でした。いや、すくなくとも最初わたしにはそう見えました。
しかしその輪郭というのか姿形は、煙や戦塵のせいもありますが、妙に曖昧で定まらず、やがてそれは別人のように見えはじめました。
ルナイア殿に見えたのも、錯覚だったのかもしれません。
人影が<光の黒龍>のそばに立ったとき、それは あきらかにルナイア殿とは別の人間でした。

まばゆい白金のような髪が腰までたれ、服からは驚くほど白い四肢がのびていました。
後ろ姿ではありますが、それは少年ではなく女のようでした。
遠目にも、姿の良さと清らかさはよくわかりました。

わたしは、その女の顔を夢想しました。こちらを振り向いてくれたら、と願いました。
それほどにその後ろ姿からは、つねの人間とはかけはなれた神々しさ、輝きがみちあふれていたからです。
妖精か精霊だろうかと、わたしはぼんやり考えました。いままでそのような輝かしい姿が、戦場のどこかにいたとは思えませんでした。
ですからそれが天上から降りてきた女神だったとしても、わたしは驚かなかったでしょう。

彼女は<光の黒龍>の傍らに膝をつき、その頭を抱え起こしました。長い髪の間から、ちらりと女の横顔が見えました。
彼女の美しさの片鱗をかいまみて、わたしの胸は高鳴りました。思わずふらふらと、危険な前方へ足を踏み出しかけたほどでした。

たしかに、<光の黒龍>は生きていました。あの方の顔が、銀髪の女に向かってなにか話しかけているのが見えました。
もちろん声はとどきませんから、なにを話しているのかまではわかりませんでしたが、それでも二人の親密な様子は見てとれました。二人は、あきらかに互いをよく知っているようでした。
<光の黒龍>は ゆっくりと手をあげて、女の髪に触れ、その顔に触れました。女は身をかがめ、銀色の髪が<光の黒龍>の顔を覆いました。

どういうわけか、胸がしめつけられるような思いがしました。
二人のあいだにながれる、互いへの慈しみと愛情のあまりの深さのためでしょうか。にもかかわらず、二人の姿があまりにも、現世の事象からかけはなれていたためでしょうか。
なによりも鮮明な像をもちながら、彼らはまるで亡霊のように世界から隔絶されていました。
なにものもそこには立ち入ってはいけないのだと、わたしは感じました。実際、だれも二人の側に近づく者はありませんでした。
もちろん、まだ危険な状況でありましたし、<光の黒龍>自ら、他者に近寄るなと命じてもいたわけですが、ルナイア―――いえ、その銀髪の女を連れ戻そうとする者もいませんでした。

それでもとにかく目を離すことはできず、わたしは二人の姿をみつめつづけていました。
わたしは不謹慎にも、神々がついに英雄の魂を迎えに天使をよこしたのだろうかと考えていたのです。

すると、前方でかすかなざわめきが起こりました。そして今度は小さな人影、幼い少女らしき人影が<光の黒龍>と銀髪の女のほうへむかっていったのです。
わたしは驚きました。こんな戦場に子供がいることにも、その子供が危険な結界のなかに入っていったことにもです。
誰か止めないのかと思っていると、<光の黒龍>が身を起こしてなにかを叫び、いえ、それよりも先に銀髪の女が振り向いて、少女のほうを見ていました。

美しい女でした。わたしの想像よりもはるかに、このうえもなく美しい女でした。
どのような言葉でも、わたしにはあの完璧さを表すことができません。
同じ人間としてあのように美しい存在がありうるのかと、わたしは衝撃をうけました。

彼女もまた衝撃を受けたかのように目を見開き、少女を見つめていました。
あれは、悲哀、だったのでしょうか。それとも後悔、あるいは慚愧の表情だったかもしれません。遠くからでは、はっきりとはわかりませんでした。
つぎに立ち上がった彼女は、すでに美しい女の姿ではなくなっていました。
そこにいたのは、ルナイア殿でした。

わたしは、目がおかしくなったのだろうかと思いました。
もちろんわたしのいた場所からでは、ルナイア殿とはっきり確認できたわけではありませんが、しかしどうみてもそれは、あの黒髪と浅黒い肌をもつエルカレアの少年でした。
銀髪の美女ではありませんでした。

<光の黒龍>が、ふたたびなにかを叫びました。
女の名前を呼んだのでしょうか、もしかしたら少女の名前だったかもしれません。
ルナイア殿はふりむきませんでした。彼はそのまま<光の黒龍>をおいて、こちらへむかって歩き出しました。

なにがなにやらわかりませんでした。
あの美しい女はなんだったのでしょうか。わたしは、幻を見ていたのでしょうか?
しかし、<光の黒龍>にもおそらくは、あの女の姿が見えていたにちがいないのです。
とにかく彼女は消え、こちらへ戻ってくるルナイア殿と、その手前に立ったままでいる少女だけが残されていました。

混乱したままなおも見つづけていたその時、不意に強い地揺れが起こりました。
唐突に激しい憎悪が地下から噴きあげ、大地の裂け目から黒い蔓のようなものが幾筋も飛び出してきました。
<暗黒の目>が、再び開きかけたのです。たちまち、われわれは戦闘に引き戻されました。
怒号と詠唱、魔力と剣戟のぶつかりあう音、躰に響く闇の波動と吐き気をもよおす腐臭。それらが一斉に周囲を充たし、いったんは去りかけていた恐怖と緊張がわたしに襲いかかりました。
見ると、さきほどの幼い少女が地面に倒れ、数多の黒い蔓に絡めとられようとしていました。
わたしはぞっとしました。彼女は、結界のなかに入りすぎていたのです。

<光の黒龍>が立ち上がり、息もつかせぬ間に<黒龍の剣>を握り、降り注ぐ暗黒の蔓を断ち切って少女のもとへと駆け寄りました。
けれどあのかたですら、少女を救うには遅すぎました。
間に合わない、そう思いました。
どこかで悲鳴があがり、わたしも最悪の光景を怖れて目を閉じかけました。

そこで、白光が弾けました。爆風がすべてをなぎ倒しました。
なにが起きたのかわかりませんでした。ただ、ルナイア殿が、おそらくそれはルナイア殿だったと思うのですが、少女を庇ったのです。
少女の躰は、はじき飛ばされて<光の黒龍>が伸ばした腕に抱きとめられ、そしてルナイア殿の姿は消えていました。
わたしの目には、勢いを失った黒い蔓とともに、地の割れ目に消えていく銀色の髪だけが見えました。

<光の黒龍>は、咄嗟にもう片方の手を伸ばしていました。そのまま、自身も地の割れ目へ飛び込むのではないかと思ったほどです。
なんらかの詠唱をこころみたのでしょう。地の底へむかっていく強い魔力が感じられました。
しかし傷と疲労が重すぎたのか、少女を庇っていたからなのか、それ以上にすべてが速すぎたのか、なんにせよあのかたの手がなにかに届くことはありませんでした。
次の瞬間には、あらゆる邪気と瘴気をのみこんで 大地の割れ目は塞がり、世界から音が消えていました。
<暗黒の目>は完全に失われていました。ほんの一瞬のできごとでした。

命令が飛び交い、わたしは自分の役目に意識を集中させねばなりませんでした。
戦闘は終わったのです。結界は解かれ、今度は治療と看護がわたしどもの役目になっていました。
目の端に映ったのは、呆然と大地を見つめる<光の黒龍>の姿でした。偉大な英雄とは思えぬ痛ましい姿でした。

そしてそれが、ルナイア殿を見た最後でもありました。