Book6:シルフェラの巫女の手記。予言を歪めたためか、恋敵を憎んだためか、神の声を失うまでの顛末が書かれている。

Last-modified: 2008-11-15 (土) 20:40:35

わたくしは、由緒ある王家の巫女姫として生まれ、その血を裏切らぬ神聖な力をもっていた。最高の予言者としての力。神の声をきく力を。
けれど、あの時からその力はわたくしを見捨て、わたくしはただの女になってしまった。
なにも知らぬ者たちは、恋をすれば巫女はおしまいなどと云うけれど、それはちがう。

ものごころついた時から、わたくしは第二王子であるマルケス様のことを想いつづけてきた。
あの方の声、姿、ふるまい、すべてがわたくしの心をふるわせた。優しくて、いつも夢見るような瞳をしたマルケス様。
わたくしの心はあの方のことで占められていたけれど、神の声は正しくわたくしにとどいていた。
わたくしの心はいつも穏やかで、みちたりていて、幸福だったから。
北の方では不穏な動きがあり暗雲がたちこめはじめていた。でもこのシルフェラにとっては、まだ遠い地の出来事でしかなかった。
わたくしの心を乱すものはなにもなかった。
けれど、マルケス様があの女を知った時から、わたくしの心の平安は失われてしまった。

神聖王国を訪れたあの方は、完璧な美しさをもつというあの女に、たちまち心を奪われてしまった。
シルフェラに戻ってからも、あの方が想い、話すのは、あの女のことばかり。
時間がたてば、いずれ忘れるだろうと思っていたのに、むしろ想いはつのるいっぽうのようだった。
あの女は、マルケス様の夢そのものだったのだと云う。夢が現実となって舞い降りてきたのだと、あの方はわたくしに熱っぽく語った。
あの方は手紙を書き送り、贈り物をしつづけた。おかわいそうなマルケス様。心のない女に、心をささげるなんて。

わたくしには解っていた。あの女は人ではない。あの女は女ですらない、心をもたぬ怪物なのだ。
けれど、わたくしの言葉はマルケス様にはとどかなかった。
あの方は、あの女を自分の妻にしたいと望み、王もその望みを認めた。
神聖王国からの返事は、はっきりとしないものだった。
返事をしたのは、もちろんあの女ではない。あの女ならためらうことなく、無情な一言であらゆる望みを断ち切っただろう。
結婚は当事者間ではなく、両国家間で協議される問題だった。けれど、マルケス様にはもはや、協議の行方を静かに見守ることはできなかった。
それほどにあの方の心を燃やす焔は、強く大きくなってしまっていたのだ。
なんということだろう。わたくしはただ巫女であるだけで、あの方の心を鎮めるようなことは何もできなかった。

マルケス様はとうとう、自らあの女に逢いに神聖王国へと渡ってしまった。
そして、その地であの方の心は壊れてしまったのだ。
あの女が何と云ったのかは知らないけれど、想像はつく。その時の表情さえ。
あの女にとって、まわりの人間たちはみな塵芥にしか見えなかったのだろう。
マルケス様が百万回愛を誓っても、あの女には吹きすぎていく風ほどにも意識されなかったにちがいない。
あの方の切実な訴えも、あの女の心には午後の鐘ほどにも響かなかったのだ。
響くべき心がないのだからあたりまえだけれど、あの方にそんなことを云っても無駄だった。

戻った時、マルケス様からかつての夢見る瞳はうしなわれ、優しい微笑みも二度とその顔をかざることはなかった。
そして、心を壊されてもなお、あのお方が見ていたのはあの女だったのだ。
マルケス様は死んだ瞳で、ただあの女の名をよび、その姿を求めつづけた。
わたくしは、何もできぬ自分を呪った。そして、なによりもあの無情で残酷な女を呪った。

わたくしには見えていた。
北方から、この地を覆いつくそうとする黒い影。その源をたたねば、やがて世界は闇の支配下となってしまう。
あの黒い影に抗しうるのは、神聖王国の聖龍王だけ。けれど、本来の聖龍王は何年も前に死んでしまっていた。
神聖王国にはもうひとつ、王国を護る銀の剣がある。邪なるものを滅ぼす<銀竜の剣>。
もしその剣の使い手が、かの黒き影の源に降り立てば、影はことごとく払われよう。

わたくしは知っていた。
<銀竜の剣>は、人ならざる者しか手にできぬ魔剣。
人の心をもたぬ、あの怪物にはふさわしい代物ではないか。
そうとも、確かに、魔剣と北の魔族の地こそが、あの女にはおあつらえむきだ。
わたくしの心にとどく神の声も、それを否定はしなかった。だから、わたくしは嘘をつげたわけではないのだ。
あの女を北に差し向けるのが正しいと信じたからこそ、それをほんの少し後押ししただけ。
北方の脅威に手をこまねいていては、遠からずユーフラニアが滅びてしまうというのも嘘ではない。ただ、王に伝える言葉をほんの少し削っただけなのだ。

それだけのことだった。
罪を犯したわけではない。
あの女を早急に北方に向かわせねば、ユーフラニアに災厄が訪れるというのは、決して嘘ではないはずだった。
それなのに、わたくしは、神の声を失った。
わたくしの心の耳は塞がれ、以後なにも聞こえなくなってしまった。

何がいけなかったのか?
わたくしが、すべてを告げなかったことが?
声が告げた以上のことを予言としたことが?
それとも、あの女を憎んだことが?
何の罪もないマルケス様のお心を壊した残酷な女を憎んだことが、それほどにいけないことだったのか?

わからない。
わたくしには、わからない。
わかっているのは、わたくしに神が語りかけてくることは、二度とないということ。
あの方がわたくしに微笑みかけてくれることも、もう二度とないということだ。