【信仰・宗教】/覚者の教え

Last-modified: 2024-02-02 (金) 03:37:57

アルファベット表記:Algitism
読み:かくじゃのおしえ
分類:宗教・哲学
該当地方:主に華州楪州綴州栄州
発案者:tocoma110
Tag: 華州 楪州 綴州 栄州 信仰宗教 覚者の教え 発案:tocoma110


「君よ、夢と笑うなかれ。君のまま目覚めよ」
~最古の紙片に残る“正覚者”の言葉~

概要

楪州の小国に端を発する、救済思想の強い宗教あるいは哲学。
同地方に存在する宗教的哲学をベースに、教祖独自の体験による“目覚め”──“覚者”に至ることを重要視している。
そのために己の中にある三つの要素を一つとし、それらを練り上げ、統べ、その先へ至るための道とすることを目的とする。そのため求道的な性質を持つことから、考えること・実践することを強く奨励する。


元々は過去を語らぬ流浪の青年が語ったものであるとされ、その青年の言葉が源流にあるとされる。


“目覚め”を説く一方、そこへ至るための道筋を自ら考え実践することが求められたこともあり、いくつもの宗派が生まれている。
そのため、自己努力を強く求める原理主義的宗派から、より広く受け入れられるために様々な要素を取り込んだ庶民的な教えまで、多種多様。宗派ごとの対立なども存在する。
だがそうした広がりが多方へ広まるきっかけともなっており、華州楪州綴州栄州など、広い範囲で浸透している。

 

教義・目的

「“目覚め”、真なる魂を解き放つ」
 
己の内なる魂を開放することで、本当の意味で世界を見ることの出来るものとなること、それが“覚者”とされる。

 

特徴

前述の通り“目覚め”るために修練を積み、己を高めることを課す。
そのための道筋は明確に定められておらず、それ故に様々なアプローチがなされていることが特徴。
主に下記の『三伸素』という概念を高めることを目的に、「どのようにすればよいか?」を個々で考え、実践していくことが求められる。それ故に同じ宗派であっても真じゃそれぞれが自ら考え、その道を歩んでいかねば、真の意味での“覚者”への道は開けないものであるという。

  • そもそも、肉体・精神・魂の形は千差万別である。
    種、性別は勿論、個々人でもそれらは大きく異なる。それらを踏まえ、覚者の教えでは応えの実を示し、その道までは示していない──とされる。

世界の真を知るためには、あらゆる雑念を超える必要がある。
そのため、覚者の教えでは俗世的な欲求と俺の満足を切り離すことが修行の主要な要素となる。
物欲、淫欲、野心、美食、嫉妬、激情……そうしたものから己を開放する試みがなされる。
だが、これの難しいところはただ「禁欲に浸ればよい」というものではないところにある。
欲を禁ずるのではなく、捕らわれず弾かぬ在り方を実現することが、正道であり正答とされている。そのため、覚者の道を歩む者はそうした俗な悦び(世間的にそれが高尚とされるものであっても)と、一定の距離を保つための振る舞いを心がける。
ただし、先の通りそのための手法や距離の考え方などは、修行者による。

  • この点については、「楽しむを知らずして開くものなし、苦しむを知らずして見えるものなし」と語られる。

また、それと並んで善徳を積むことも推奨される。
それは「他者は己と同じ」ということを知るための行動とされる。他者を助けることは人の喜び・苦しみを知ることであり、それはつまり己、ひいては世界を知ることにつながっていくためである。

  • これは楪州の大宗教の万物流転論の影響を受けた考え方である。
    万物の転生と万象の無限のつながりを論じている故、それらの連なりの先に答えがあるのだ、という考えと至っている。
    • しかし、一方で「流転に捕らわれること」は厭っている。
      これは非常に根本的な理由である「“目覚め”の妨げとなる」ためである。
      物事のつながりを知り、それを踏まえて考え・振る舞うことは大切であるが、そこに捕らわれれば今度は俗世のあらゆるしがらみがその心を縛る。そうなれば、身も心も“目覚め”からは遠のいてしまう。
      故に、古来よりあるその流れに殉ずることは厭うものとされる。
      その流れから、“覚者”は転生しないとするものが正当な思想となっている。

そうした禁欲と生活の狭間を強く発する一方で、俗世的な習合による宗派が多い点も特徴である。
地方ごとの信仰・思想などと合体し、宗派から田舎ば別の宗教、異教への吸収など様々な形でその亜種が存在している。

『正道』

正しく、“目覚め”を得るための道。またその要素。
後述の『三伸素』を高めることがその基本とされる。
そのために、欲と向き合いそれに呑まれず捕らわれず、また禁ずることに縛られない生活を営む。加えて、善行を通し人の苦しみと喜びを知ることも是とされる。


この正道から外れる行ない・考えを『外道』と呼ぶ。

 

“覚者”

かくじゃ。ΑGITΩ。
覚者の教えにおける最終目標。この世の何たるかを正しく知る状態、すなわち“目覚め”を得たもののこと。
瞬間ではなく真の意味で“目覚め”たものはこの世の何たるかを真実に知り、俗世のあらゆるしがらみから解放される。
そこはあらゆる苦悩を超えた境地とされ、故に死・病・飢え・老いと言ったあらゆる悲しみ苦しみとも無縁となる。故にそこは至福の祝着であるとされるが、そのためには己の持つ肉体・精神・魂を極限まで高めなくてはならないとされる。


一般に、図画化される際は三つの眼と六本の角を持つ姿とされる。

 

『三神素』

覚者の教え全流派に共通する、「高めるべきもの」。
これらが人間の意識・器を超えて高まることで、“覚者”という領分へと至ることが出来るとされる。


これらを鍛え上げている最中の信者は「三つ目を持ちながら一つ以外の目を閉じた、一対の角を持つ姿」で描かれる。

『金地』

こんち。Grand Elements。
物事を定める力、つまり肉体と理性を現わす概念。
覚者の教えでは肉体・物質はこの世界で何より強固な規定存在と見なす。
それ故に、強い肉体は強い意識(自我・理性)を生むとされるが、同時に固まり切った肉体・精神は変化を受け付けなくなってしまう。


禅と呼ばれる精神統一の修行などは、元来この要素を高めるための一環であった。


流転論においては「過去」を司るとされる。
また、図画化される際は「額にある金眼が開き、金色の筋・帯が入った黒衣を纏う姿」とされる。

『青嵐』

せいらん。Storm Elements。
自在な流動や変質を司る、思考・空想の力を示すもの。
考える力は無限の広がりと往来を可能とするため、極めて強くしなやかである。考えることはそよ風にも、雨雲にも、嵐にもなると語られる。
その一方で、空想する力はそれだけではあまとまることが出来ず、また強く一つに力を注ぐことも出来ない。そのため、他の力と合わせて伸ばす必要がある。


柔軟な発想や知力を鍛えることから、多数ある知恵問答はこの力を伸ばすためのものとされる。


流転論においては「未来」を司るとされる。
また、図画化される際は「左の青眼が開き、左側が青い衣を纏う姿」とされる。

『紅炎』

こうえん。Falame Elements。
生物を突き動かす原動力、情動・信念を司るもの。
何かを成し遂げるための強力な力を生み出す要素であり、そのものの内外問わず何かを変える可能性を示す。これがある故に人は世界を開き、また物事を変えることが出来るとする。
ただし、これ単体では短絡的な変化しか起こせず、良し悪しを踏まえることも出来ない。故に、考え、定め、耐える力と合わせることで、本当に注ぐべき場所に正しく向かわせることが出来る。


前述の二つと異なり、これそのものを伸ばす修業はほとんど存在しない。
どちらかと言えば、これを御すための修行法を学ぶことの方が多い。
それは、これ自体が元来生命にある最も根源的な力であり、故にこそ当人の思惑を超えて生まれてしまうためである。しかし、それは同時に更なる高みへ至るためには、どうしたところで切り離せない、重要な要素であることも示している。


流転論においては「現在」を司るとされる。
また、図画化される際は「右の赤眼が開き、右側が赤い衣を纏う姿」とされる。

『三真合一』

さんしんごういつ。Trinity。
『金地』『青嵐』『紅炎』の調和がとれた状態を示す。
本来は“目覚め”の境地に立てたことを意味していたが、徐々に意味が変化し、現在では「“目覚め”の状態にあること、あるいはその一端を体験している瞬間」を指すものとなっている。
俗世的に「聖者」と語られるようなものの多くはこの視座を体験したものとされ、その瞬間を知ることが多くの信者にとって目標となっている。


真にこの状態にある者は心身ともに高みにあり、常人とは比にならぬ深さで、物事の本質を理解出来るという。
常時そう在れることこそが“目覚め”であり、また『銀輝』であるとされる。


もちろん、その一端に触れた経験があるだけでもそれは超絶的な出来事である。
だが、それだけでは真の意味で『覚者』と呼ぶには程遠い。その一端に触れたことで勘違いを起こし、“目覚め”から遠のく修行者は少なくない。
特に、ここに来たことを祝着と思い違えた者は、みな道を誤り外れていくという。


図画化される際は、上記三種の特徴を合わせたもの。
三つの眼はうっすらと開き、角は一対のままである。

『銀輝』

ぎんき。Shinning。
“目覚め”の境地、揺らぐことない『三真合一』にあるもの。祝着。
真の意味で“覚者”と呼ぶことが適うもの。
ここに至った者は俗世の欲望・因縁を超えたところにあるとして、只人や聖人とは一線を画す。この境地はもはや神魔の類とすら渡り合う常理の外であり、それ故に人としての在り様を超えた振る舞いが出来るという。
その一方で、ここまで至れば人らしい執念はなくなるとも伝われる。


一般には『仏(ほとけ)』とも呼ばれることがある。
図画化される際は「六角に三眼が開き、銀地に赤い筋・帯の衣を纏う姿」とされる。

 

『上外道』

うわげどう。
『三真合一』を経験しながら、『銀輝』への道を違えているものを指す言葉。
大別して、以下の三つに分けて語られる。

『業火』

ごうか。Burning Soul。
『三真合一』を体験したのち、新たな視座に振り回されている者を指す。
新たな視座の感覚に触れたものは、その体験に戸惑い、思惑を巡らせ、応えに至ることだけに捕らわれてしまう。そうなった者は皆己の内なる火に目を奪われ、“目覚め”から遠ざかる迷い子になってしまうという。


これは新たな視座へ辿り着いた喜びが、『紅炎』だけを高めてしまい、起こるとされる。
真を知ったことにより、より強く至ることを己に強いてしまい、開くべき道を情熱の炎で閉ざしてしまう状態と語られる。


図画化される際は「六角が開き両眼は開かれるが、纏うものは衣でなく鎧姿」とされる。

『幻影』

げんえい。Mirage Mind。
『三真合一』を体験した後、俗世のしがらみに捕らわれる者を指す。
より高い視座を知ってしまった者は、それ故に俗世の理不尽に疑問を抱きやすくなる。真理に触れたが故により深く物を思惑出来るようになり、これまで見えなかった俗世の謎や問いに目が奪われてしまう。そして、“目覚め”から遠ざかることに、気づかなくなる。


これはとめどない外への関心、『青嵐』に偏ってしまう状態で起こるとされる。


図画化される際は「片側三角と両目が開かれ、白色の衣を纏う姿」とされる。

『独影』

どくえい。Another Body。
『三真合一』を果たしながら、そのことに驕りこれを祝着であると思い違えた者を指す。
常人より聡明だがその発想・視座は俗世のそれを抜け出せておらず、それ故に己の垣間見たものだけを真実と勘違いしてしまう。だが、そここそが答えであると信じてしまった者は、山の頂が終わりだと思い込むのである。まだその先にある道も、見なくなるほどに。


これは『金地』に傾きが強くなってしまうことで起こるとされ、堅くに成る変化の起こりにくい生き方を示す。


図画化される際は「短い六角に二つの眼が開き、草色の衣を纏う姿」とされる。

 

他の宗教について

基本的に過ぎた求める心につながる故、否定的。
とはいえ、よほど極端な信者・論者でもない限りは多宗教とは折り合いをつけていることが多い。
特に光の国信仰とは開祖に縁があるらしく、『銀輝』を光の巨人と同一視する宗派を生み出すこともある。また、他者救護理念は共感を呼びやすく、共存する地域も珍しくない。


一方、他の信仰をまやかしとするイルヴァース聖教殻は疎まれ、また帝家を絶対とする帝偉思想とは本来相性が悪い。
だが、帝偉思想とはうまく折り合いをつけ、華州では長く信仰の場を勝ち取ってもおり、その影響力がうかがい知れる。

 

神格・神性一覧

  • 【信仰・宗教】/“正覚者”?
    本来の意味と活用で意味に乖離が生じている概念。
    一般には、開祖その人を指す。
    本来、開祖は人であり人として死んだことで輪廻から抜けたとあれるが、その果てに超越的存在になったとみなす向きは強い。中期以降では神格化し一般的な神霊を超えた位置にあるものとし、多数の化身で世界に現れているとされる。
    なお、開祖は過去を語ることなき人であったとされるが、記憶を捨てたとも語らなかっただけともされる。

 

宗派

  • プロメス派
  • オンメガ派
  • デケドー派
  • ジンオウ派
  • 新クルガ派

他多数。

 

関連するもの

  • 【住民】/“覚者”アルギトゥルス?

 


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