後期クイーン的問題について論ずる。問題自体の説明からそれを踏まえた解決策を検討・模索する。
後期クイーン的問題の概略
※経緯にまで興味がある人はwikiを参照のこと。また、wikiより下文引用。()内追記
- 「探偵の知らない情報が存在する(かもしれない)ことを探偵は察知できない」ゆえに、
「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか(作中の探偵には)証明できないこと」
もう少し厳密に概念的に言うと、ゲーデルの不完全性定理を引き合いに出し、閉じられた世界(形式・理論体系)の中では、理論体系に矛盾がないことを その理論体系の中で決して証明できないということを
ミステリ(閉じられた世界)にも当てはめたのである。↓不完全性定理に関するわかりやすい説明は以下を。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
簡潔に言えば、小説の登場人物には、小説内の事柄を証明しきることはできないということ。
後期クイーン的問題で何が問題になるのか?
ミステリの一番の目的や根幹は、作者が用意した唯一の真実に対して、作者と読者が行う知恵比べの勝負ということである。
いわば、作者は真実を隠そうとし、読者は真実を暴こうとするゲームなのである。
ゲームである以上、別の答でも正解にならないように、唯一の真実だけ成立するように構築されるべしというルールがあり、
また、フェア、アンフェアがよく論争されるように、お互いにとって公平な勝負であることもこのゲームの重要なルールに含まれる。
後期クイーン問題とは、作者の用意した唯一の真実は、作品の構造上、探偵がその真実を推理し披露するという形で読者に説明されるというミステリの構造に対し、
上述の不完全性定理より、小説の登場人物は閉じられた世界の中にいるため、
作中の探偵がこれが唯一の真実だと証明することはできないという脆弱性を指摘した問題なのである。
作品内の探偵にすれば犯人や容疑者らの発言をウソか真か完全に見極めることはできないし(うそをつく必要がないような場合でも、
うそをついていない可能性はなくならない。)、証拠や痕跡においても、どの証拠や痕跡が犯人に用意されたものか、真か偽か、
そして推理に必要な情報は出揃っているのか、更に新しい情報がでてこないかは作中の探偵には、同じく断定できず100%には至らないのである。
ゲームのゴールである唯一の真実には、作中の探偵は絶対にたどり着けない。つまり、探偵という存在やその推理の不完全さを指摘したのが、後期クイーン的問題である。
ただ、あくまでこれは”作中の”探偵の不完全さであり、その世界の外にいる作者と読者には、唯一の真実に問題なくたどり着くことができる。
なぜなら、作中の探偵にしてみればそれが偽か真か判断つかないかもしれないが、
しかし読者からすれば、それはウソの手がかりなのかどうかは、作者の注意書き(描写)をみて、判断すれば済む話だからである。
ただし、読者と作者の間でどの痕跡や証言を信じればいいのか、これ以上情報は追加されないのといった了解が得られるような作りになっていなければ読者も、この探偵と同じ立場に簡単に貶められてしまう。
以上を踏まえれば、この後期クイーン問題が実際的にミステリというゲームに与える影響は下記であり、
解決編や問題編を完結させる役目は登場人物だけでは完遂できず、作者や上位存在の力を借りる必要があること。
どの痕跡や証言が真か偽か、また信じればいいのかを読者に明示するルールや作法がなければ、読者も探偵同様に、唯一解にたどり着けない危険をはらんでいること。
例をあげるなら、探偵が集めた情報を元に、推理した結果(すべての情報を網羅できないゆえに不確実な推理)を披露し、それを聞いた犯人が自首し、物語としては完結した後に、
探偵の推理がこの事件の100%正しい真相であったことを、物語の外にいる上位の存在によって証明(保障)される必要がある。
探偵の推理は(一応作者が書いて言わせている文章であっても)、作中の探偵の情報収集の結果、推理した事として表現される以上、それが正解とは断定できないのだから、
(上述した不完全性定理が示すように、小説の人物に小説内の完全な証明ができないのだから)
作者が最後に一言、この人物の言ったことが真相ですとでも書く必要がある。実際問題としては、突き詰めれば後期クイーン問題はそれで解決される話である。
なぜなら作中の探偵が、仮定に仮定を重ねたり、ある痕跡だけに着目しておこなった不完全な推理であっても、
作者が読者に提示した上位情報(ウソだウソでない等)とそれらの仮定がすべて一致すれば、結果だけ見れば同じ結論になるからである。
言い換えるなら、探偵自身は100%正しいという証明を提示できないが、作者の用意した結論と同じ結論を導く事は可能である。
結局のところ、本文中のどの痕跡やどの情報をどう解釈することが正解に至るのか、その道しるべとルールがなければ、読者は唯一解にたどり着けずに反感を覚えるし、
また厳密には、いくら作者がそういった想定をしても、物語中の人物は真相にっしてたどり着けないという悲しい事実があるのである。
少し違った角度からこの問題を眺め、作者によって保障されるのでもなく、また不完全な推理でもなく、探偵自身の力で100%の推理とその披露を実現するべきと考える人もいるかもしれない。
いわば、完全な探偵を作り出すにはどうすればよいのかと発展して考える人もいるだろう。
その場合、超能力で真実がニセモノか判定できるその世界で唯一無二の力を持った探偵とか、作者か読者といった上位存在に関与するような神の力(超能力)を与えればよい話である。
ただ、その力で犯人を見つければいいとか、物語の世界観を壊しかねない気がする。
私的には、ゲームとして成立するのに問題ない話なのだから、探偵の推理の完全性を追求する必要はないと思う。そもそも探偵という存在がミステリにおいて、必要不可欠ではないのだから。
さて、探偵の存在を完璧なものにしたいという願望からか、さらに派生した問題点を挙げる人も見受けられるように思う。
そういった不完全な推理しかできないくせに、真実はいつも1つ等の言葉を使うのは変だであったり、その点に探偵自身が苦悩しないのかだったり、
解決編として皆を集めてよく話を披露できるなとか。偽の手がかりにきづけないんだから、犯人はもっと探偵を騙すトリックを使えば、探偵は騙せて完全犯罪だったのにとか。
あるいは、人間的欠陥はあるにせよ、事件を解決する推理力では絶対性を誇るはずの探偵という存在に、推理の点で欠陥があるという点を感情的に受け入れ難いとかなどなど。
しかしこういった(後期クイーン的問題の第二問題とも関わる)派生問題 = 探偵のキャラクターや存在のあり方に関して正当性や正解を求めるのはムリである。
突き詰めれば、主観的な好き嫌いの話にしかならず、ミステリ談義の話題になることはあっても、論題にはなりえない。主観的な話に正解はないのだから。
まぁ、今流行りの探偵像、多くの読者が気に入りそうな探偵像としてなら共通の見解や結論を導けるかもしれないが、それは正解とよぶものではない。
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補足 小説の技巧的側面からの話
理屈としては上述したとおりで、これ以外の要素は追加されず、今あるものがすべてだとか、真や偽に関する判断などの唯一の真相にたどり着くのに必要な情報を、上位視点の作者が、読者には提示すればいいわけである。
しかし、実務?実際的には、小説などの物語では、探偵や登場人物の視点を通じて、読者が情報収集していくという流れに親しんでいる。そうなると、
どういう描写ができるかに関わる小説の視点問題ともリンクしてくると思う。例えば、一人称(私)の視点だと、登場人物の私が見た事しかかけないのだから、
私が情報収集するたびに作者がウソか真かなどの注釈をつけるという無粋なことをしなければいけないのだろうか。現状の地の文にウソはないというルールの範囲を明確に定義していけばよいのだろうか。
これは三人称視点であっても登場人物の目を通じてみることには変わりない・・・。
と少し考えたが、小説的技巧にそもそも明るくなく作品執筆の経験も浅く、これ以上は難しいので、後期クイーン的問題はこのあたりでやめることにする。