南明政権(1644年~1662年)
史可法(憲之)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 64 | 83 | 80 | 87 |
【シカホウ(ケンシ)】
明、南明の政治家。別字に道隣。
東林党の左光斗に師事し、師が誅殺されるとその忠義心を受け継ぐ。
李自成の乱で崇禎帝が自縊すると、南明の弘光帝の幕下に加わる。
江北四鎮で北伐を企図するも、南明の援助を受けられずに失敗に終わる。
清が李自成を滅ぼし南下すると、南京?郊外で清の侵攻を食い止め、揚州に篭って抗戦する。
多爾袞(ドルゴン)の降伏勧告に応じず、
砲撃で城壁が破られると市街戦で抵抗し、清軍に多大な出血を強いて自刎した。
その後、激烈な抵抗に怒った予親王多鐸(ドド)により、揚州十日と呼ばれる虐殺が起こった。
瞿式耜(起田)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 39 | 85 | 76 | 84 |
【クシキシ(キデン)】
明、南明の政治家。別字に伯略。号は稼軒。
崇徳帝の治世で戸科給事中となるも、佞臣の排斥により免官され投獄されている。
この間、「媿林漫録」などの著作を著している。
李自成により北京?が陥落し崇禎帝が自殺すると、桂王朱由榔(後の永暦帝)を擁立して桂林で挙兵。
桂林を守備し清軍の桂林侵攻を三度防ぐも、その後城壁を破られ清軍に制圧される。
永暦帝を逃がすも自身は城内に残り、捕縛される際には張同敞(張居正の孫)と酒を酌み交わしていたという。
捕縛後に処刑されたが、獄中でも屈せずに「浩気吟」など百余りの詩を詠み続けた。
朱之瑜(舜水)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
48 | 25 | 82 | 78 | 80 | 文化 | 親越 | 学者 | 操舵 | 特使 |
【シュシユ(シュンスイ)】
明、南明の学者で後に日本へ亡命する。
紹興府余姚県の人、明へ仕官はしていなかったが、鄭成功の復明運動に同調してその参謀を務めたり、越南や日本への使者として派遣されたりした。
1661年、柳河藩の安東省菴の支援を受けて日本に亡命して長崎に住み、4年後に水戸藩主の徳川光圀の招きを受けて、江戸、次いで水戸へと移った。
木下道順・山鹿素行ら日本の多くの儒学者と交流を持ち、明の儒教を日本に伝えたことで後世に大きな影響を与えた。
※「舜水」は号で、正しい字は「魯璵」であるが、著名性を考えて字を舜水とした。
黄宗羲(太沖)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
54 | 32 | 87 | 73 | 83 | 地利 | 文化 | 史官 | 学者 | 動員 |
【コウソウギ(タイチュウ)】
明、南明の学者。
紹興府余姚県の人。
明の滅亡後に義勇軍を率いて清軍に抵抗、日本にも救援の使者に赴いているが敗退。
以降は引退して著述活動に専念、清からも招聘されるが代わりに息子を出仕させた。
陽明学に基づく実学を重んじ、儒教だけでなく歴史や数学、天文にも通じていた。
著書『明夷待訪録』は明以来の強力な皇帝専制体制に対する批判として書かれたが、
その体制改革案は西欧の民主主義に通じる部分があり、後世に「東洋のルソー」とも呼ばれた。
李定国(寧宇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 89 | 73 | 54 | 87 |
【リテイコク(ネイウ)】
大西、南明の武将。別字に鴻遠など。
張献忠の養子となって明末の反乱挙兵に従う。
武芸と兵法に通じて武勲を重ね、張献忠の暴虐に苦心しながら大西政権樹立に貢献する。
張献忠が清に敗死すると、大西軍を纏めて清に抵抗し、南明の永暦帝を迎え入れて北伐を行う。
靖州・桂林・衝陽と大勝を重ねて湖南広西地方を一時回復するも、
鄭成功?の合流が遅れて孤戦を強いられ、北伐は頓挫した。
南明が瓦解し清の討伐を受けると、
永暦帝と昆明から落ち延びるが離散し、永暦帝殺害の報を受け憂死した。
鄭成功とともに抗清の英雄として讃えられている。
補足:字は『清史稿』では鴻遠、南明史の『永暦実録』では寧宇。これ以外にも霖宇、大授、一純などが伝わる。
その勇猛さから「小柴王」「小尉遅」「万人敵」等の異名で呼ばれたという。
秦良玉(貞素)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 81 | 78 | 70 | 95 | 驍将 | 胆力 | 疾走 | 英名 | 寡欲 | 鋒矢強化 | 王道 |
【シンリョウギョク(テイソ)】
四川の忠州の出身。姓は秦、名は良玉、字は貞素。明末期の将。中華の長い歴史において正史に列伝を持っている唯一の女性将軍として知られる女傑。石砡を治めていた宣撫使・馬千乗の妻。
少数民族の出身ながらその生涯を通じて漢民族のために戦った歴戦の名将。武勇や教養に優れ詩文を良くしたという。
若い頃から夫と共に戦場に立ち、白杆兵と呼ばれるトネリコの槍を揮う精兵を率いて多くの武功を挙げる。
夫が無実の罪で獄死した後はその跡を継ぎ、親族や息子達と共に各地を転戦。後金軍や相次ぐ反乱軍との戦いに明け暮れる。
後金が再度攻め寄せた際、崇禎帝の勤王令に応じて私財を投じて白杆兵を率いて駆けつけ奮戦。その忠勇ぶりを大いに讃えられている。
その後も頻発する反乱の討伐に奔走し、朝廷の厚い信任を得て、女性としては異例の昇進を重ねる。
老境に入ってもなお戦い続け、張献忠の60万とも言われる反乱軍を相手によく持ち堪え、滅び行く明に最期まで忠節を尽くした。
死後、忠貞侯と諡され、巾幗英雄(きんかくえいゆう)と称された。
三藩の乱(1673年~1681年)
呉三桂(長伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 84 | 56 | 33 | 41 | ||||||||||||
89 | 88 | 67 | 35 | 29 | ||||||||||||
89 | 88 | 67 | 55 | 29 | 掃討 | 使役 | 堅守 | 強欲 | 悪名 | 鶴翼強化 | 我道 |
【ゴサンケイ(チョウハク)】
明、清の武将。別字に月所。
清の侵攻を防衛する任に当たる。
李自成の乱が発生すると北京?防衛に向かうも間に合わなかった。
李自成の帰順勧告を聞かず、清に投降してドルゴンに山海関を明け渡す。
ドルゴンとともに北京に向かい、李自成軍を破って北京に入城する。
その後は陝西から四川を制圧し、雲南?に逃れた明の勢力(南明)を討伐する。
永暦帝を捕えて殺害し、南明を完全に滅ぼした。
功績により漢族の三藩の一つとなるが、康熙帝が廃潘を計画したため叛乱を起こす。
大周国を立て皇帝を名乗るが直後に病没し、乱も鎮圧された。
※呉三桂の世間で言われる悪行としては、様々な明への裏切り行為がある。
清への投降は俗説とされることもある陳円円絡みの件を除けば、袁崇煥のような部下すら粛清する崇禎帝への反感*1もあったのではといった、擁護部分も多少ある。
しかし、清投降後に自身が明撲滅に積極的に関わった挙句、叛乱時に明の再興を名目にした点はどうにも擁護が難しかったりする。
陳円円
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
2 | 4 | 44 | 9 | 83 |
【チンエンエン】
呉三桂の妾。「江南八艶」と呼ばれた妓女の一人。
崇禎帝の命で美女を探した田弘遇により見出され、献じられる。
その後田弘遇に身請けされ、そこで呉三桂に見初められ妾となる。
李自成の乱で北京?が陥落すると、賊将の劉宗敏に捕えられた。
呉三桂は北京への救援の途上にいたが、その知らせを聞くやドルゴンに投降し、
清軍を関内に招き入れて李自成を駆逐する。
愛妾を奪われたことを理由に清に投じた呉三桂の行為は批判の対象となった。
陳円円は北京奪還時に自縊したとも、呉三桂の元に戻って三藩の乱の頃に亡くなったとも云われる。
※生涯に関しては諸説あり、呉三桂の投降理由も真偽が疑われている。
鄭氏政権(1662年~1683年)
鄭成功(明儼)
「鄭成功?」を参照。
鄭経(賢之)
生年 | 登場 | 没年 |
1642年 | 1681年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 75 | 73 | 69 | 77 | 水戦 | 不屈 | 節約 | 駆逐 | 矢嵐 | 強襲 | 兵站改革 | 王道 |
【テイケイ(ケンノ)】
鄭氏政権第二代。鄭成功の子。
1662年に父が亡くなった後は後を引き継ぎ、他の南明政権と協力し反清運動を
行い、しばしば遠征を行ったが清の攻勢の前に台湾に撤退せざるを得なかった。
鄭克臧
生年 | 登場 | 没年 |
1661年 | 1681年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
69 | 67 | 65 | 76 | 74 | 法律 | 潜在 | 一心 | 政令徹底 | 王道 |
【テイコクゾウ】
鄭氏政権の武将・政治家。鄭経の庶長子。
鄭経が自身の乳母に産ませた子であったが、倫理的な問題もあり鄭成功は
鄭克臧とその生母のみならず鄭経の処刑も命じた程であったが、諸将はその命令に服せず
直後に鄭成功も亡くなった為に生き長らえた。
鄭経の遠征の際は監国として台湾で留守居を担い、重臣陳永華の補佐を受け陳永華の娘を妻とした。
その性格は祖父に似て果断と云われ父や陳永華には期待されたが、他の鄭氏一門や重臣の馮錫範ら
には嫌われており、父の死後程なくして殺害された。
鄭克爽(実弘)
生年 | 登場 | 没年 |
1670年 | 1707年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
27 | 18 | 46 | 51 | 63 | 消沈 | 割拠 |
【テイコクソウ(ジッコウ)】
鄭氏政権第三代。鄭経の次男。
鄭経の死の際に兄である鄭克臧が重臣で舅である馮錫範らの策謀で殺害され、
僅か十二歳で鄭氏政権の後継者となり、実権は馮錫範が握った。
1683年の澎湖海戦の敗戦により清に降伏して鄭氏政権は終焉し清の海澄公として生涯を終えた。
陳永華(復甫)
生年 | 登場 | 没年 |
1634年 | 1680年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 52 | 93 | 95 | 82 | 伏龍 | 屯田 | 王佐 | 振興 | 農政 | 経世済民 | 王道 |
【チンエイカ(フクホ)】
鄭氏政権の武将・政治家。
福建省泉州府同安県の出身で鄭成功と初めて面会した際、その才覚を「今の臥龍である」と
評価され、鄭成功の子である鄭経の学問の師となった。
鄭成功の死後は参謀として鄭経を補佐し、本拠地である台湾の経営においても屯田制の採用、
台湾沿岸で採れる塩の増産、科挙制度の採用など鄭氏政権の安定化に務めた。
劉国軒(観光)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 89 | 80 | 47 | 72 |
【リュウコクケン(カンコウ)】
鄭氏政権、清の武将。
鄭成功?のもとで北伐や台南攻略に従い、鄭経の代には台中の大肚王国を下す。
三藩の乱に呼応して鄭経とともに泉州に上陸。
度々清軍を打ち破って勇名を上げるも、三藩の乱が鎮圧されていくと孤立しながらも海澄を攻略する。
その後も泉州を堅守するが兵糧が尽き、海澄も奪回されたため、台湾に撤退した。
鄭経が死に清軍が侵攻すると澎湖諸島で清軍を食い止めるも、風向が変わった隙を突かれて大敗。
清に投降後は天津総兵となり、漢軍八旗に加わった。
間諜を利用し敵情に通じて勝利を収めたため「劉怪子」と呼ばれた。