ソビエト RankX 中戦車 T-64 (1971)
概要
Update 1.10 “Steel Punch”にて実装された新機軸を色々搭載したソ連の第2.5世代MBT。自動装填装置の導入により搭乗員は3名になっている。
機体情報(v1.21.3.27)
必要経費
| 必要研究値(RP) | *** |
|---|---|
| 車輌購入費(SL) | **** |
| レベルMAX(GE) | *** |
| プレミアム化(GE) | *** |
報酬・修理
| SL/RP倍率 | 2.4 |
|---|---|
| 修理費用 | 8 |
車両性能
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 砲塔旋回速度(°/s) | 20.0⇒28.6 |
| 俯角/仰角(°) | -6/14 |
| リロード速度(秒) (自動装填) | 7.1 |
| スタビライザー/維持速度(km/h) | 二軸 / 67 |
| 車体装甲厚 (前/側/後)(mm) | 80 / 85 / 45 |
| 砲塔装甲厚 (前/側/後)(mm) | 180 / 150 / 65 |
| 重量(t) | 38.0 |
| エンジン出力(hp) | 700 |
| 2,800rpm | |
| 最高速度(km/h) | 67/-5 |
| 視界(%) | 73 |
| 乗員数(人) | 3 |
武装
| 名称 | 搭載数 | 弾薬数 | |
|---|---|---|---|
| 主砲 | 125 mm 2A26 cannon | 1 | 37 |
| 機銃 | 7.62 mm PKT machine gun | 1 | 2000 |
弾薬*1
| 名称 | 砲弾名 | 弾種 | 弾頭 重量 (kg) | 爆薬量 (kg) | 初速 (m/s) | 貫徹力(mm) | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 10m | 100m | 500m | 1000m | 1500m | 2000m | ||||||
| 125 mm 2A26 | 3BK12M | HEATFS | 19 | 2.06 | 905 | 440 | |||||
| 3OF19 | HE | 23.2 | 3.15 | 850 | 35 | ||||||
| 3OF26 | HE | 23 | 5.24 | 850 | 42 | ||||||
| 3BM9 | APFSDS | 3.6 | - | 1800 | 321 | 317 | 303 | 285 | 268 | 249 | |
| 3BM15 | APFSDS | 3.88 | - | 1780 | 440 | 430 | 420 | 410 | 405 | 400 | |
| 3BM22 | APFSDS | 4.83 | - | 1760 | 425 | 420 | 415 | 405 | 393 | 380 | |
装甲*2
| 分類 | 場所 | 位置 | 対運動弾 | 対化学弾 |
|---|---|---|---|---|
| 複合装甲 | 車体 | 正面 | 250mm | 530mm |
| 砲塔 | 正面 | 520mm | 600mm | |
| 側面 | 330mm | 320mm | ||
| 防盾 | 砲塔 | 正面 | 350mm | |
| 分類 | 場所 | 位置 | 材料 | 装甲厚 |
| 外部装甲 | 車体 | 側面 | アルミニウム | 4mm |
迷彩
研究ツリー
解説
特徴
--加筆求む--
【火力】
主砲は125mm 2A26砲を搭載し、最大貫徹力440mmで7.1秒の自動装填。俯角は-6°・砲旋回速度は35.6°/s。最大貫徹力は高いが、速度関連は西側戦車と比べ遅い。
- 【弾薬性能】
3種類にAPFSDSとHEATFS、2種類の榴弾を使用できる。機銃は7.62mm PKTが同軸に1挺のみ。- 3BM22(APFSDS)
- 最大貫徹力425mm・弾頭重量4.83kgと貫徹力以外は最高RankのAPFSDSにも匹敵する。60度傾斜の貫徹力193mmと傾斜装甲への貫徹力不足が懸念されるが、同格以下には十分通用する。
- 3OF26(HE-TF)
- 中国のDTB-125に次ぐ42mm。炸薬は5.24kgとMBTでは多く、榴弾砲の様に雑に当てて撃破というのは難しいが、少なくとも天板に当てたのに貫徹力不足で抜けないという事は起こらない。
- 3BK12M(HEATFS)
- 最大貫徹力440mm・炸薬量も2.06kgと少量であり、西側120mm HEATFSに完全に劣る。また加圧を発生させる点においては3OF26に軍配が上がる。
- 3BM15(APFSDS)
- 最大貫徹力や砲口初速は優れるものの、弾頭重量は3.88kgで60度傾斜への貫徹力は169mmと極めて低く、実質的な加害範囲は105mmと大差ない。
- 3BM9(APFSDS)
- 砲口初速は最高Rank機体にも勝るが、その他の性能が非常に低く、105mm DM33に砲口初速以外で大きく劣る。また傾斜装甲への耐性がなく、78度以上の傾斜で確実に跳弾を起こす。*3
- 3OF19(HE)
- 3OF26の完全劣化砲弾。弾速以外では122mm HEに負けているため、最初以外で使用することは稀だろう。
- 【砲駆動機構】
俯仰角は-6°/14°・砲旋回速度は35.6°/sで昇降速度はソ連MBTらしく遅め、2軸スタビライザーは最高速度まで維持。オーバーライド機能は非搭載であり、砲手が気絶すると即座に反撃できない。東側MBTとしては広い俯仰角幅に、同格西側MBTよりも硬い装甲を持つ。
- 【装填速度】
ソ連発のカルーセル式自動装填により、28発×7.1秒の自動装填。これはT-80を除く東側MBTの標準速度で、ほとんどの西側戦車の最短速度より遅い。
同格では平均的な速度で、本車より遅い戦車はMBT-70(7.5秒)やChieftain Mk 10(9.8~7.5秒)、Leopard 2K(8.7~6.7秒)などが居る。CM11はこちらが先に撃っても相手の方がほぼ確実に装填を終えてしまう可能性が高い。しかしこれらの手動装填の戦車は初弾で装填手を撃破出来ていれば勝算が上がる。
【防御】
ソ連MBTは初の内装式複合装甲を封入しているが防御力は低く、格下APFSDSにも容易に貫徹される上に弱点は100mm程度の砲弾にも抜かれてしまう。また、弾薬庫は東側MBTらしく床置きなので誘爆しやすい。
- 【装甲配置】
[添付]
車体上部と砲塔前側面に複合装甲が封入されている。砲塔正面の対KEは防盾部付近を除いて500mm以上の防御力があり、遭遇確率の高い120mm DM23やType 1985-Iを安定して防御可能。対CEはHEATFSを防ぐ程度有している。しかし炸薬量2.65kg以上の化学弾を砲塔正面に被弾すると加圧により撃破されるため、高い対CE耐性を活かす事が出来ない欠点がある。車体の対KEが操縦手ハッチを除き約250mmと砲塔に比して非常に脆く、格下の105mm DM23はおろか、貫徹力300mm未満のVCC-80/60やMBT-70にすら貫徹力される。よって同格APFSDSを防げる程度の防御力は有していない。対CEはHEATFSや格下ATGM程度を防御可能。
本車は化学弾対策にエラ型補助装甲という特徴的な装備があり、車体前側面に片側4枚の鋼板が60度で展開され、垂直に着弾した化学弾に対して600mm前後の対CEがあり、I-TOWやAPS03などを防ぐ効果が期待できる。
弱点は防盾付近・車体下部・操縦手バイザー。これらの箇所には複合装甲や無く、防盾部分は150mm・その横は300~400mm、車体下部は200mm程度の防御力。防盾付近は貫徹されると射撃関係の損傷で済むが、車体下部となると確実に誘爆を起こす。操縦手ハッチは140mm程度しか無く、Strf 9040Bに貫徹される可能性がある。
- 【携行弾数】
T-72と同じ23発。一次弾薬庫は28発だが過剰な上にT-72と異なり装薬が垂直に保管されている為、生存性を上げたいなら23発に留めよう。弾薬比率はAPFSDSが20発、HE-FSかATGMが3発。File not found: "949px-Ammoracks_T-64B.png" at page "T-64A (1971)"[添付]配置弾薬 満載 1 2 3 残弾数 37発 36(-1)発 28(-8)発 1(-36)発 - 【防護装置】
発煙弾発射機の代わりにエンジン発煙装置(ESS)が使用可能。
【機動性】
重量がLeopard I以下という驚異の軽さを誇る38.0tと700馬力により出力重量比は18.4hp/tを発揮する。最高速度は67km/hと同格では平均的だが走り出しの加速が良好。しかしMBTでありながら後退速度は驚異の-5km/hであり、運用に支障をきたす程で、撤退や陣地移動で大きく遅れを取る可能性がある。また超陣地旋回も不可なだめ、狭い道ではすぐに撤退する事が出来ない。
史実
ソ連軍は1950年代初頭、第2次世界大戦以来の主力MBTであったT-34中戦車の後継として56口径100mmライフル砲D-10Tを搭載するT-54中戦車を完成させ、戦後第1世代MBTのデビューを飾らせた。
そしてすぐに火力、防御力、機動力の三大要素面で、一層画期的な性能を目指した戦後第2世代MBTの開発に着手した。
ソ連軍機甲局科学技術検討委員会はこの課題の追求のため新たに技術試験監督局を設置し、次世代中戦車が備えるべきスペックの検討、およびそれに基づく生産企業・開発陣(各設計局)への試作発注を行うこととした。
技術試験監督局はこの次世代中戦車の開発を第75ハリコフ・ディーゼル工場の第60設計局と、第183ウラル貨車工場(UVZ)の第520設計局に発注した。
第60設計局(主任技師A.A.モロゾフ)は、第2次世界大戦における最優秀中戦車の1つといわれるT-34中戦車を生み出したハリコフ機関車工場(KhPZ)の第520設計局を前身としていた。
KhPZは侵攻してくるドイツ軍から逃れるため1941年10月にウラル山脈東部のニジニ・タギルに疎開し、その地にあったUVZと統合されて「第183ウラル戦車工場」となりT-34-85中戦車、T-44中戦車などの開発・生産を行った。
第2次世界大戦が終結した1945年、ウラル戦車工場はUVZとKhPZに再分割されてKhPZはハリコフに戻り、「第75ハリコフ・ディーゼル工場」として再建された(1957年にV.A.マールィシェフ工場に名称変更)。
1951年、ハリコフ・ディーゼル工場にモロゾフ主任技師が統括する第60設計局が創設され、1966年にはハリコフ機械製造設計局(KhKBM)に改組された。
一方ニジニ・タギルに所在するUVZの第520設計局(主任技師L.N.カルツェフ)は、ウラル疎開時のKhPZの施設を引き継いだもので第60設計局とは兄弟関係にあり、KhPZからT-54中戦車の開発を引き継いで改良型のT-54A中戦車やT-55中戦車を完成させている。
いわばT-34中戦車を生んだ後に分かれた2つの潮流が、次世代中戦車の開発で競い合うことになったのである。
技術試験監督局は第60設計局と第520設計局の双方に対し、「攻撃力、防御力、機動力の全ての面でT-54中戦車を上回り、なおかつ車体サイズと重量はこれを上回らないこと」を次世代中戦車開発の第一の指針として示した。
そして火力面については、第9火砲工場設計局のF.F.ペトロフ主任技師の統括下、「ラドガ計画」の名の下に開発された新型戦車砲である100mmライフル砲D-54シリーズを新型中戦車に搭載するものとしていた。
この100mmライフル砲D-54は、T-54中戦車が搭載する100mmライフル砲D-10Tよりも高初速でAPDS(装弾筒付徹甲弾)を発射することができ、砲身先端に多孔式の砲口制退機を取り付けていたのが特徴の1つである。
また戦車砲そのものの威力増大と共に、技術試験監督局は弾薬搭載数の増加も設計指針として提示していた。
これは航続距離の延伸(路上で550~600kmへ)と合わせ、長距離機動作戦を想定した継戦能力の向上を狙ったものである。
ちなみにT-54中戦車の100mm砲弾搭載数は34発、航続距離は路上で約400kmであった。
機動力向上の要求については車体の大きさと重量がT-54中戦車並みであるから、それ以上の性能アップを図るためにエンジン出力の増大と、足周りの駆動抵抗の減少を追求することが必要であった。
しかし他の要求仕様(強力な戦車砲搭載と防御力増大)を考えるなら、当然機関室の容積を一層切り詰める必要が予想され、並大抵のことでは各要求仕様との整合を図ることができないものであった。
第60設計局と第520設計局はそれぞれ1952年に要求仕様に基づく基本プランをまとめ、その後2年以内に設計完了・木型製作にかかることになった。
第60設計局が提案したのは「オブイェークト430」およびその火力・装甲強化タイプである「オブイェークト430U」、第520設計局のものは「オブイェークト140」と呼称されるものであった。
試作中戦車はオブイェークト430は1958年、オブイェークト140は1957年に完成し各種試験に供された。
結局、第60設計局のオブイェークト430が次世代中戦車として開発を継続すべき本命と見なされ、第520設計局のオブイェークト140は不採用となった。
その理由は今のところ不明であるが、大戦中以来の功績者であるモロゾフ主任技師の政治力が影響したことも考えられる。
第520設計局のオブイェークト140は戦闘重量37.6tとT-54中戦車の36tよりやや重く、伝統的なV型ディーゼル・エンジンをベースにパワーアップを図ったV-38 V型12気筒液冷ディーゼル・エンジン(出力700hp)を搭載して路上最大速度64km/h、路上航続距離400~500kmの機動性能を発揮できた。
武装は2軸砲安定化装置2E18「メーテル」を装備する62口径100mmライフル砲D-54TSと、副武装として7.62mm機関銃SGMTを2挺装備し、装甲防御力も装甲厚が車体前面で100mm、砲塔前面で240mmで避弾経始をより追求した強力なものだった。
足周りはやや大きめな直径のアルミ鋳鋼製転輪を片側6個装備するなど、オブイェークト430よりはT-54中戦車のスタイルを素直に発展させたオーソドックスなものながら、性能的に不足な点は無く完成度が高かった。
ただし、対抗馬のオブイェークト430が装備するステレオ(基線長方式による二重像合致)式測遠・照準機を持たず、従来型のスタジア・メトリック式測遠・照準機を持っていた。
これは照準環内の目盛と目標物の見かけ上の高さを比較して射距離を読み取るシステムで、中射程までは素早く操作でき機構も単純だったが、ステレオ式等に比べて遠射程における測定精度が著しく劣るのが難点で、ソ連軍MBTが西側MBTに射撃精度で一歩譲る原因ともなっていたものである。
ただし、この点はステレオ式システムを装備すれば改善できるものである。
オブイェークト140が不採用になった後、第520設計局のカルツェフ主任技師はこれを不服とし、再考を求める異例の書簡をソ連共産党中央委員会およびソ連閣僚会議に提出している。
結局この異議申し立てによっても不採用の決定は覆らなかったが、第520設計局にはT-55中戦車をベースに55口径115mm滑腔砲U-5TSを搭載した、暫定的な火力強化型中戦車T-62の開発が割り当てられた。
T-62中戦車は1961年にソ連軍に制式採用されて1970年代まで量産されたが、これが結局T-64中戦車の完成の遅れのために一時期、事実上のソ連軍主力MBTの座を担ったのは皮肉な話である。
そしてオブイェークト140は、1970年代に既存の技術をベースに開発された125mm滑腔砲搭載のT-72戦車のベースにもなったのである。
次世代中戦車の本命となった第60設計局のオブイェークト430シリーズは、当初のプランでは100mmライフル砲D-54TS装備の通常型と、122mmまたは130mmライフル砲搭載で装甲厚を大幅に強化したオブイェークト430Uの二本立ての計画となっていた。
1958年までに2両が製作されたオブイェークト430は技術試験監督局の要求仕様通りに製作されており、装甲厚は車体前面で120mm、砲塔前部で240mmであった。
車体、砲塔とも徹底した避弾経始とコンパクト化が追求されており、36tの戦闘重量で当時運用されていたT-10重戦車並みの防御力を実現していた。
耐弾試験では、射距離1,000mからT-54中戦車の100mmライフル砲D-10Tの発射する徹甲弾に対して充分な耐弾性を示した。
煙幕展張装置としては、T-54中戦車以来採用されてきた排気ガス・マフラー内に燃料を噴射して発煙させるTDAシステムを備えた。
また少しでも装甲を重要部の防御力の強化に振り向けるために、T-54中戦車やその先駆者T-44中戦車以来行われてきた手法である機関室容積の削減と、それによる後方部分の装甲板面積の節約がより徹底して行われた。
T-44中戦車の開発時には、V型ディーゼル・エンジンを横向きに搭載するという斬新な発想で機関室の全長と容積を削減したが、オブイェークト430では、変速機構ユニットの上部に載せるようにエンジンを配置するという大胆な手法でさらに機関室容積の削減を図った。
ただしこの手法では既存のエンジンを用いることができないので、新規に4TPD 水平対向4気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジン(出力580hp)が開発された。
水平対向エンジンとは、シリンダーが水平に寝かされてピストンが向き合うように圧縮爆発を繰り返すもので、コンパクトで出力があり、特に機関室の高さが低くできるのが特徴である。
この4TPDエンジンは途中で改良が加えられ5TDエンジン、そして今日T-80UD戦車にも搭載されている6TDエンジンに発展したが、デザインの基となったのは、第2次世界大戦中にアメリカからレンドリース供与されたフェアバンクス・モース社製の蒸気機関車のエンジンである。
変速・操向機等はT-54中戦車以来のものを改修して用いたが、T-54中戦車で使用されていた大型のフリクション(はずみ車)に代わるシステムを組み込むのに設計上苦労したようである。
いずれにしろ、これらを組み合わせたパワートレインは容積わずか2.6m3(車内容積の25%)となり、ディーゼル・エンジンを用いる戦車の動力システムとしては当時としては画期的にコンパクトなものとなった。
しかしながらこの新機軸の導入が、T-64戦車シリーズに長年に渡って取り付いた不具合、信頼性の欠如、整備のやり難さといった災いの元となった。
足周りについては、1930年代以来のBT快速戦車やT-34中戦車から採用していた大直径転輪を止め、鋼リム式の小直径転輪(片側6個)を採用したのが最大の特徴である。
この転輪はT-54中戦車までの転輪に比べて直径が小さいだけではなく、厚みも相当減らされていた。
これは転輪そのものの重量を軽くすると共に、駆動時の各種の抵抗を低減することも狙ったものである。
また小直径転輪は、不整地走行時における1輪当たりの上下モーメントが大直径転輪よりも少なくて済み、サスペンションへの負担が少ない上に滑らかで安定した機動が可能になることも重要な利点と見られた。
鋼リム式転輪の基本的な構造は、独ソ戦初期のKV重戦車や大戦後期のドイツ軍戦車に採用されたものと同じように緩衝ゴム内蔵式であった。
転輪の外周にゴムタイアを装着した転輪よりもゴムの磨耗は少ないが、走行時の騒音が激しいのが最大の難点であった。
この転輪と共に片側3個の上部支持輪、後部の星型起動輪、転輪と同型の誘導輪に、当初はドライ・シングルピン式の高マンガン精密鋳鋼製履帯が掛けられる方式であった。
しかしより走行時の抵抗を減らすために、独ソ戦中にアメリカからレンドリース供与されたM4中戦車のものを参考に開発された、ウェット・ダブルピン式の組み立て履帯がすぐに導入された。
これは制式採用されたT-64中戦車から今日のT-80戦車シリーズ、一部のT-90戦車改修型にまで使用されているものである。
サスペンションはトーションバー(捩り棒)方式で、前部の第1、第2転輪と後部の第6転輪には油気圧式のダンパーも取り付けられていた。
以上の足周りシステムによりオブイェークト430は路上最大速度55~60km/h、路上航続距離600kmの機動性能を発揮することができた。
主武装は砲塔の旋回と俯仰角のジャイロ式2軸安定化装置2E18「メーテル」を付属させた100mmライフル砲D-54TS、副武装は同軸機関銃および車体固定機関銃に7.62mm機関銃SGMT、それに砲塔上面右側の装填手用ハッチのマウントに対空用の14.5mm重機関銃KPVTを装備した。
搭載弾薬は100mm砲弾が50発、7.62mm機関銃弾が3,000発、14.5mm重機関銃弾が300発である。
FCS(射撃統制システム)は遠距離射撃に長けた西側の新型MBTに対抗し得るよう、ステレオ式測遠・照準機TPD-43Bを装備した。
これにより、射距離1,500~2,000mにおける命中精度を向上させることを狙った。
砲塔内配置はT-34-85中戦車以降にソ連軍で導入された3名式で、車長と砲手は主砲の左側、装填手が右側に位置した。
狭い戦闘室内で操作性を向上させるため主砲の撃ち空薬莢はブリーチから排莢後、トレイによって自動的に砲塔後部上面の小ハッチから車外に放り出されるシステムが採用されていた。
このシステムは後に、115mm滑腔砲を搭載するT-62中戦車でも採用された。
第60設計局のもう1つのプランであるオブイェークト430Uは122mmまたは130mmライフル砲を装備し、車体前面装甲厚を160~180mmに強化することを企図した事実上の重戦車型であった。
本車は既存のT-10シリーズ等の重戦車を火力、防御力、機動力の全ての面で完全に凌駕することを狙ったプランであるが、1956年に政府と党の実権を掌握したN.S.フルシチョフ首相が「重戦車不要」の見解を保持していることから、結局本格的に試作車も作られないままプランはお蔵入りとなった模様である。
1958~59年の間、オブイェークト430はハリコフ近郊の工場付属実験場、そしてモスクワ郊外のクビンカにある第38装甲・戦車技術研究所(38NIIBT)で各種運用試験、T-54/T-55中戦車との比較試験等が実施された。
試験結果は概ね良好で後は制式採用を待つばかりと思われたが、技術試験監督局は改めてオブイェークト430の火力、装甲防御力の見直しを発令するに至った。
それは1959年までにアメリカ軍が、それまでの主力MBTであったパットン戦車シリーズをベースに主に火力を強化したM60スーパー・パットン戦車を採用することが確実になり、また同戦車が採用していたイギリスの王立造兵廠製の強力な51口径105mmライフル砲が西側MBTの標準的な装備になる見込みとなってきたからである。
M60戦車はシルエットこそソ連軍戦車に比べて高かったものの、ステレオ式測遠機を弾道計算機と組み合わせてシステム化した優秀なFCSを装備し、105mm砲の威力を高い精度でバックアップするものとなっていた。
そして車体前面で5.63インチ(143mm)に達する重装甲を持つため、優れた遠射能力と組み合わせればソ連軍MBTのほとんどに対してアウトレンジ戦法を展開することが可能と見られた。
技術試験監督局はオブイェークト430の見直しにおいて、まずM60戦車の105mmライフル砲を凌駕する威力と遠射性能を保証し得ると見られた滑腔砲の搭載を求め、併せて耐弾力強化のため、非鋼材質を組み合わせた複合装甲を車体前面と砲塔前半部周囲に施すことを要求した。
滑腔砲は発射エネルギーが砲弾の腔内旋転で消費されずに、そのままダイレクトに飛翔体(矢型弾)の速度向上に繋げられまた砲身も軽量化できる特徴があることから、ソ連軍では1950年代に対装甲砲(戦車砲および牽引式対戦車砲)として開発が行われてきた。
そして55口径115mm滑腔砲U-5TSが1960年までに実用化され、その戦力化を急ぐためにT-55中戦車の改修型というべきT-62中戦車にこれを搭載し1961年より量産が始められた。
T-64中戦車に導入された複合装甲は、「耐砲弾複合装甲」(プラチヴァスナリャードナェ・コンビニラヴァンナェ・ブラニラヴァーニェ)と称される、6角形のハニカム構造を持つセラミック層や積層ガラス樹脂を圧延鋼板やチタニウム装甲板と組み合わせたもので、軽量な上、対装甲弾の命中エネルギーを拡散して吸収できる装甲素材として1950年代後半より研究され、対戦車誘導ミサイルを主武装とするミサイル戦車シリーズにまず導入が図られようとしていたものである。
第60設計局は2両製作されたオブイェークト430の内の1両を改修ベースとし、滑腔砲搭載と複合装甲導入を盛り込んだ「オブイェークト430M」と称する新規試作プランを立案し、1960年より試作車の製作を開始した。
主砲はT-62中戦車に搭載された115mm滑腔砲U-5TSをベースに、分離薬莢式にした115mm滑腔砲D-68T(2A21)を搭載することとした(「D-68T」とは開発企業である第9火砲工場設計局による開発名称であり、「2A21」とはソ連軍ロケット砲兵局(GRAU)による登録番号である)。
115mm滑腔砲は、ペトロフ技師らが中心になって1950年代初期より進められた対戦車用滑腔砲開発計画「ラピーラ」(長剣)で完成された100mm滑腔砲T-12をベースにして開発され、特に高い威力のHEAT(対戦車榴弾)を発射できるよう口径を115mmに増大させたものである。
オブイェークト430Mに搭載された115mm滑腔砲D-68Tは分離薬莢式とした以外、砲身等基本的な部分はT-62中戦車の115mm滑腔砲U-5TSと同一で同様な弾道性能を持っていた。
装甲貫徹力はAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)を用いた場合、射距離1,000mで300mm程度(直立したRHA(均質圧延装甲板))、HEATの場合射距離に関わらず610mm(同)であった。
自動装填装置は、6ETs10「コルジーナ」(籠)と呼ばれる砲塔底部に回転式トレイを設けて115mm砲弾30発を充填するもので、弾頭は先端を砲塔回転軸の中心に向けて配列し、薬莢についてはトレイ外側に直立させた形で配置されていた。
砲手の操砲計器盤のボタンで選択された弾種はトレイの回転で砲尾下まで運ばれ、可動式ラマーで拾い上げられ、別に拾い上げられた薬莢と共に砲尾に押し込まれるようになっていた。
そして発射後に取り出された空薬莢は、また元の位置に収納されるという複雑な機構であった。
自動装填装置が導入されたのは100mm砲弾より巨大な115mm砲弾の発射速度を低下させないためと、何よりも装填手を省いてオブイェークト430Mの砲塔をコンパクトにするためであった。
しかし、この「コルジーナ」自動装填装置は装填不良になったり乗員を巻き込んだりする事故を多発させたといわれ、「ソ連軍の新型MBTの自動装填装置は人を食う」と西側にまで噂が広がる有様だった。
その他武装面では、同軸機関銃が7.62mm機関銃SGMTからカラシニコフ設計局によって開発された7.62mm機関銃PKTに替わり車体側の固定機関銃が廃止されたことと、前線防空を別途の対空自走砲部隊に集約させるというソ連軍機甲部隊の運用ドクトリンに従って対空用の14.5mm重機関銃KPVTを外したことが主な変更点であった。
搭載する7.62mm機関銃弾は、2,000発となっていた。
パワートレイン関係では、オブイェークト430に搭載された5TD 水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジン(出力600hp)の改良型である5TDFディーゼル・エンジン(出力700hp)を搭載し、その結果出力/重量比が19.5hp/tに達したことで路上最大速度70km/hを発揮できた。
これは、1960年代初期のMBTとしては世界最高の速度性能であった。
さらに地形障害をものともしない長距離行動能力を確保するため、T-55中戦車以来の潜水渡渉装置OPVTも装備した。
これは車内および吸気キャブレイター用の送風用パイプタワーと、排気管に取り付ける逆流防止弁から成るもので、乗員による取り付けに10~15分程度を要した。
これによりオブイェークト430Mは水深5mまでの渡渉が可能となったが、OPVTを使用しなくても水深1.4mまでは渡渉できる能力を有していた。
自動装填装置の導入で乗員が操縦手、車長、砲手の3名となったオブイェークト430Mは「オブイェークト432」と改称され、1964年より増加試作車の生産が限定的に開始されて部隊での運用試験も開始された。
そして1966年末に「T-64中戦車」(Sredniy Tank T-64)として制式採用が決定されるに至ったが、各種の技術面での新機軸を導入したために部隊では運用や整備に戸惑い、また当時、設計者たちの革新的な構想と製作現場での技術力のギャップが大きくなりつつあったソ連工業の実態が本車の運用面での信頼性を乏しいものにして、これが結局足枷となって制式採用が遅れたのである。
T-64中戦車は、1964~69年の6年間に600~1,700両が生産されたとされている。
この間、一部の戦車学校や親衛戦車連隊に配備されたが、1960年代中は対外的にその存在は明らかにされず、1968年の「プラハの春」に端を発したチェコスロヴァキア侵攻「ダニューブ作戦」にも投入されなかった。
仮にT-64中戦車の生産数が多い方の1,700両だったとしても、6年間における年間平均生産数は300両にもならず、当時のソ連ではT-55中戦車やT-62中戦車等を年間3,000両程度量産していたことを考えると、その数はあまりに少ないものといえる。
これは複雑な機構に起因した高コストが原因といえるが、併せて運用面での信頼性の欠如も、軍と政府中央をしてT-64中戦車の本格的量産に踏み切らせなかった要因だったと見られる。
T-64中戦車はその短い生産期間中に、車体前面装甲板形状の変更(6角形から通常の長方形に)等の設計変更が行われた。
これは生産コストを下げるための措置だったが、運用部隊ではギリギリまで容積を削減された機関室によって複雑化したパワートレインの整備作業が煩雑になったり、新機軸の自動装填装置が乗員を巻き込む等の事故(これも根本的には狭い砲塔内容積に起因する)が頻発して不評を買っていた。
また、今までのV型エンジンから袂を分かった5TDF 水平対向5気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジンも、当時の製造部門における技術的停滞(労働規律の弛緩や製造・加工機器の老朽化等による)の影響で部品不良や故障頻発等の問題をなかなか克服できなかった。
概して登場の初めから、T-64中戦車の評判は良くなかったのである。
開発陣はこうした評価を挽回するため一層改善に力を注ぐと共に、西側MBTを火力面で決定的に凌駕するために開発された大口径の125mm滑腔砲を搭載して、T-64中戦車を強力なMBTとして玉成させることを企図した。
1962年頃よりペトロフ設計局で開発が着手された51口径125mm滑腔砲D-81T(2A26)は、射距離2,000m前後で当時のあらゆる西側MBTをアウトレンジで撃破し得る能力を持つことを目標に開発されたものである。
この125mm滑腔砲D-81Tは、1962年頃にソ連に亡命したイラン陸軍の将校が乗車して越境してきたアメリカ製のM60戦車をソ連軍が試験したところ、主砲の51口径105mmライフル砲M68の威力がソ連戦車開発陣が予想した以上のものであることが判明したために、急遽115mm滑腔砲に代わるものとして開発を発令したものである。
D-81Tは、半燃焼式薬莢を持つ分離装薬式の弾薬を使用する。
弾芯重量3.6kgの鋼製APFSDS(3BM9)を用いた場合砲口初速1,800m/秒を発揮し、射距離2,000mで150mm厚(傾斜角60度)のRHAを貫徹できた。
また弾頭重量19kgのHEAT(3BK12)を使用した場合、同じ条件での装甲穿孔力は220mmに達した。
これは、1960年代当時のいかなる西側MBTをも撃破できる威力を持っていたことを示している。
この火力性能と、T-64中戦車の複合装甲による強固な防御力(対HEATで450mm厚、対APDSで250mm厚のRHAと同等)をもってすれば、西側の105mm砲搭載MBTに対してはアウトレンジが可能であると確信された。
125mm滑腔砲を搭載する試作MBT「オブイェークト434」の開発は1962年に開始され、1964年にはT-64中戦車の増加試作車だったオブイェークト432の内の20両に125mm滑腔砲D-81Tを搭載する作業が行われている。
115mm滑腔砲から125mm滑腔砲への換装に併せて、自動装填装置も後のT-72戦車等と同じ6ETs15「カセートカ」(カセット)システムに変更された。
これは砲塔底部に125mm滑腔砲の弾頭と半燃焼式薬莢が、先端を中心部に向けた形で取り巻くように配置されていた。
ただし後のT-72戦車シリーズ等よりも車内配置の関係で小振りの装置にしてあったらしく、自動装填装置に配置された即用弾はT-72戦車の40発に比べて少ない28発(予備弾を含めた搭載弾数は37発)であった。
そして当初は測遠・照準機をT-64中戦車のものと同じTPD-43Bを使用したものの、後に基線長が延長されたTPD-2-49に替えられた。
また夜戦用装備として、主砲左側の「ルナ」(月)アクティブ式赤外線投光機と組み合わせた暗視照準装置TPN1-49-23(実用暗視距離800m)を装備した。
さらに中東戦争の戦訓から全てのソ連軍MBTに対空用の重機関銃を搭載することが決定されたため、オブイェークト434の車長用キューポラに当初は12.7mm重機関銃DShKMが、制式採用後しばらく経った1972年以降には新規開発の12.7mm重機関銃NSVTが搭載された。
キューポラ搭載の対空機関銃は戦術核使用下の状況での使用も考慮して、対空射撃・地上掃射を車内からの遠隔操作で行えるようにされた。
12.7mm重機関銃弾の搭載数は300発で、50発ずつ連結された金属製ベルトリンクを入れた鋼製弾薬箱で搭載された。
こうして1969年にソ連軍に制式採用されたオブイェークト434は「T-64A主力戦車」(Osnovnoy Tank T-64A)と呼称されるようになり、V.A.マールィシェフ工場で生産に入った。
また、オーバーホール時にT-64戦車の主砲をT-64A戦車と同じ125mm滑腔砲D-81Tに換装する作業も実施されるようになり、この改修を受けた車両は「T-64R」と称されるようになった。
T-64A戦車の登場でソ連軍はようやく、西側の戦後第2世代MBTを凌駕する性能を持つMBTを実現したといえた。
そして以後、様々な装備の追加や改修を経ながらT-64戦車シリーズが発展していった。
1976年まで量産されたT-64A戦車のヴァリエーションには、以下のものがある。
☆T-64A戦車(1969年生産タイプ)
戦闘重量38t、路上最大速度65km/hで、車体側面部に対HEAT用の展開式エラ型補助装甲を持っていた(こ
のエラ型補助装甲はT-72戦車にも装備されたが1970年代後半には姿を消していった)。
☆T-64AK戦車(1973年生産)
指揮官用タイプで車両間交信用の無線機R-123Mに加
え、上級司令部との交信用の長距離無線機R-130を装
備していた。
R-130は高さ11mになる伸縮式ポール・アンテナを使用した。
自車(および部隊)位置確認のための指揮官用衛星ナビゲイション装置TNA-3も搭載した。
そのため自動装填トレイ上以外の予備弾薬を搭載するスペースが無くなり、主砲用弾薬は28発になった。
☆T-64A戦車(1975年生産タイプ)
2軸砲安定化装置を改良型の2E28Mとし、主砲もこれに対応する51口径125mm滑腔砲D-81TM(2A46-1)とな
った。
戦闘重量38.5tで、車体前面に30mm厚の追加装甲が取り付けられた。
また、ローラー式地雷処理装置KMT-6の取り付けが可能となった。
砲塔や車体各部の水密性も向上し、OPVT装置無しの渡渉水深は1.8mとなった。
以上のタイプはその後もオーバーホール時に次々に改修が加えられ、1983年以降には発煙弾発射機902B「トゥーチャ」(黒雲)が砲塔前面に装備され、1979年以降に追加され始めた鋼メッシュ入り強化ゴム製のサイドスカートも標準化され、さらに出力1,000hpの6TD 水平対向6気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル・エンジンを搭載したものを「T-64AM」と称した。
また1984年にはT-64AK戦車の一部もエンジンを6TDに換装し、「T-64AKM」と称されるようになった。
T-64A戦車は4,600両、T-64AK戦車は780両が生産された。
T-64A戦車は1970年頃より東ドイツ駐留ソ連軍部隊に配備が開始され、運用部隊での評判の悪さと裏腹に西側機甲部隊と第一線で対峙する期待の高性能MBTと見なされるようになった。
そして本型の就役と東ドイツへの配備により西側情報筋もこのソ連軍新型MBTの存在に感付き、時々意図的に流される不鮮明な写真等から類推して「T-70戦車」とか「M1970」等の呼称を付けてその性能を推測するようになった(少なくとも1970年代前半期には、西側ではT-64戦車シリーズとT-72戦車シリーズの区別が付けられていなかった)。
小ネタ
ソ連MBTにはカルーセル式自動装填装置が搭載されているのはご存知かと思うが、実は2種類存在している。T-64/80のカルーセルはカセトカ、T-72/90はコルジナと言われている。しかしこれは日本でのみ使われている呼称で、海外の人にこの名称で呼んでも「???」状態である。
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