みんなの新武将/北宋

Last-modified: 2024-04-12 (金) 00:13:54

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

北宋(960~1127)

後周の殿前軍都点検(近衛軍団長)だった趙匡胤が陳橋駅で禁軍将兵に推戴され、後周の天子に禅譲させたもの。
開封を国都と、中唐以来の軍害に顧慮して文尊武卑を国是とし、兵・政・財権を皇帝に集中させる独裁君主制を確立した。
文尊の象徴として科挙の本格的運用と、舌禍・筆禍による処刑を禁じたことが挙げられ、
多数の文人学者が任用されただけでなく、市民を含めた諸文化が開花した。
反面、名文論が先行し、朝議はしばしば党争の場となって政務が停滞し、新旧法争などはその典型といえる。
加えて、武卑策は“良鉄不釘”に象徴されるように武人の質と戦意を大きく低カさせ、貧民対策としての傭兵が状況を助長し、
莫大な軍費に反して契丹・党項・女真には劣勢を強いられ、歳幣などによる講和外交と常備軍の肥大化は財政の大きな負担となった。
神宗期に王安石が断行した新法は社会矛盾の是正と財政再建を骨子としたが、祖法遵守を主張する保守官僚や後宮勢力から排撃され、
以後は新旧法党がしばしば攻守を替えたことで政策が転変し、徒らに社会・経済を混乱させて状況を悪化させただけでなく、
徽宗期には天子と側近の道楽趣味などが加わって苛斂誅求が甚だしくなり、各地で暴動・叛乱が続発した。
また、燕雲十六州回復のために新興の女真族と提携しながら、滅遼後は“以夷制夷”を称して契丹族を煽動するなど背信を重ね、
1127年に金軍の大攻勢を招いて開封が陥落し、徽宗・欽宗のみならず皇族・百官の殆どが塞外に護送され、宋朝は一時断絶した。



趙匡胤

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9892909298任才闘将規律英名仁政大器大徳神威穿貫激励鼓舞投石経世済民王道
9998939699任才闘将規律英名仁政大器大徳神威穿貫激励鼓舞投石経世済民王道

【チョウキョウイン】
北宋の太祖。
郭威(後の世宗)に仕え、後周建国後に禁軍の将に任じられる。
高平の戦いでは後周軍が壊乱状態となる中、自ら先頭になって敵陣へ突撃して督戦し勝利を収める。
南征では南唐の清流関を陥落させ、その後の反攻も防ぎ、南唐の城塞を次々と攻略した。
世宗崩御に乗じて北漢が侵攻すると、幼帝に不安を抱く将兵らに皇帝に擁立される(陳橋の変)。
その後、恭帝から禅譲され宋を建国。荊南、後蜀、南漢を征服し、天下統一を目前とする中で急死した。

補足:その死には諸説有り、酒好きが祟って中毒死したとも弟で後を継いだ太宗趙匡義による毒殺説がある(千載不決の議)。

趙匡義

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8665919765

【チョウキョウギ】
北宋の太宗。太祖趙匡胤の弟。
趙普とともに陳橋の変を主導し、趙匡胤の皇帝即位を説得する。
晋王に封じられ臣下の序列一位となり、太祖が各地に親征をする際には留守を任される。
太祖が急死すると太宗として即位。呉越が投降し、北漢を滅ぼし、天下統一を成し遂げる。
その後、燕雲十六州の奪回を目指して遼に親征を行うが失敗に終わる。
治世では太祖の文治主義を継承し、軍人から文人による統治へと転換させた。
なお、即位後に太祖の太子を自殺させ、自身の息子を立太子させたことから、太宗による太祖暗殺説も根強い。

補足:名前は、趙匡胤が宋を建国すると忌諱して趙光義、即位後には趙炅と名を改めている。

趙普(則平)

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3427939537

【チョウフ(ソクヘイ)】
後周、北宋の政治家。
後周の官吏で、趙匡胤の書記となりその知恵袋となる。
陳橋の変を主導して将兵達に趙匡胤に黄衣(皇帝の衣)を着させる。
その後、趙匡義を仲間に引き入れ、趙匡胤が皇帝に即位するよう説得した。
北宋の元勲として宰相に任命される。
趙匡胤が進めた文治主義の実務を取り仕切り、節度使の軍権を削り、科挙による文人の登用に辣腕を振るった。
幾度か讒言により職を追われ、その後復職するを繰り返し、都合三度宰相位に就いている。
「沈毅果断」と称されたが、その反面収賄などで度々弾劾・讒言されている。

曹彬(国華)

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9086734281

【ソウヒン(コクカ)】
後周、北宋の武将。
朴訥な人柄で、略奪を嫌う清廉な人物だった。
北宋の元勲として各地を転戦。
後蜀の征伐戦では僚将による殺戮・略奪を止められなかったが、
これに加わらなかったため、太祖趙匡胤より信頼を受け節度使に任じられる。
南唐の首都・金陵?の攻略前には、諸将に略奪を禁ずるために誓紙を出させている。
このため江南は破壊を免れ、北宋に文化隆盛をもたらすこととなった。
太宗趙匡義のもとでは北伐に参加し東路を進むも、兵糧が尽きたところを遼軍に襲撃され敗北している。

高懐徳(蔵用)

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【コウカイトク(ゾウヨウ)】
後晋、後漢、後周、北宋の武将。
父の高行周に従軍し、初陣では濮陽?で契丹軍に包囲されるもこれを突破する。
高平の戦いで活躍したことで後周の世宗に重用され、南征に起用される。
淮河を渡って敵軍を数騎で偵察し、世宗が淮河で襲撃された際には救援に駆けつけた。
北伐では先鋒を務め、瓦橋関の戦いで勝利した。
陳橋の変で北宋が成立すると、趙匡胤の妹を妻とし皇族に連なる。
各地の反乱鎮圧、十国征伐、北漢征伐に従軍し北宋の元勲として活躍、冀国公となる。
その後、武勝軍節度使に任じられた直後に病没した。

潘美(仲詢)

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8580827729

【ハンビ(チュウジュン)】
後周、北宋の武将。
趙匡胤に重用され、陳橋の変では諸将が趙匡胤に服するよう説得している。
南漢征伐の指揮を任されると、賀州や韶州で南漢の大軍を撃破し、南漢を降伏させている。
その後、太宗趙匡義の北漢親征・遼親征に従う。
雁門の戦いでは主力軍を率い、別働隊の楊業と挟撃を成功させ勝利を収める。
続く北伐では、西路軍の大将として侵攻するも、遼軍に敗れ撤退。
その際、楊業に出撃を促し見殺しにして撤退したため、その責任で官位を削られ爵位を剥奪された。
後に復官し、晩年には宰相位に就任するも直ぐに亡くなった。

※「楊家将演義」では潘仁美の名で呼ばれる。

呼延賛

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【コエンサン】
北宋の武将。晋代に漢化した匈奴系の出身。
兵卒時代に武勇を太祖趙匡胤に見出され、軍使に任じられる。
後蜀征伐では先鋒を務め奮戦、北漢征伐では鉄騎軍を率いて太原?攻略戦に加わる。
常に自ら軍の先頭に立ち、負傷しながらも敵陣や城壁を突破し、数々の軍功を立てた。
宋の統一後は北辺の守備に就き、定州を守る。
太宗趙匡義の御前では鉄鞭と棗木槊の演舞を披露し、褒賞を受けている。
忠義心厚く勇猛だったが、その反面で猪突する軽率な面もあった。
また、「赤心殺賊」の刺青を一族郎党に施し、紅巾を頭に纏うなど傾奇者でもあった。

※「水滸伝」に登場する呼延灼?は呼延賛の嫡流の子孫という設定となっている。

楊業

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9595563089神威疾走長駆不屈胆力神威穿貫突撃牽制撹乱鋒矢強化割拠

【ヨウギョウ】
五代十国末期の北漢、および北宋初期の武将。
北漢の節度使として代州に駐屯するが、北漢が宋に降伏したため楊業も宋に下る。
遼が十万の軍で雁門関を攻めると、楊業は雁門関を迂回して遼軍を奇襲し打ち破っている。
このため「楊無敵」と恐れられた。
宋の太宗趙匡義による北伐では潘美の副将として西路より遼へ侵攻する。
しかし潘美らが北漢の降将である楊業を疎み、楊業が戦わざるをえない状況に置き、
友軍に見殺しにされた楊業の軍は壊滅。捕虜となった楊業は絶食して命を絶った。

補足:本名は楊重貴、北漢時代は劉継業、北宋時代は楊業と名前が変わる。
後代に北宋の忠臣として讃えられ、「楊家将演義」(明代に成立)の第1世代として語り継がれている。

楊延昭

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【ヨウエンショウ】
北宋の武将。楊業の六男。「楊六郎」の異名で恐れられた。
楊業に従軍し、北伐西路の先鋒を任され朔州を陥落させる。
この北伐戦で父と兄が戦死したため、楊家軍を引き継ぐ。
遼軍が南進すると、武器も兵糧もない中で三千の兵で遂城を守備する。
厳冬期を利用して水を流し城壁を凍らせたため遼軍は攻略に失敗し、「鉄遂城」と畏怖された。
さらに遼軍が報復戦を挑むと、伏兵をもって撃退している。
保州では遼軍の速攻に敗れるも、その後真宗より兵一万を加増され古城を陥落させた。
その直後に宋と遼との和約が成立し、抗遼の戦いは終息した。

補足:本名は楊延朗だが、後に真宗が奉じた道教の神・趙玄朗の名を忌諱して楊延昭と改名している。
また、『楊家将演義』の「四郎探母」で知られる兄の楊貴(楊四郎)の字が延朗で通称「楊延朗」とも呼ばれ非常にややこしいため、六男を「楊延昭」としておく。

寇準(平仲)

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【コウジュン(ヘイチュウ)】
北宋の政治家。
剛直な人柄で直言をはばからず、太宗や真宗に信頼された。
参知政事(執政位)に任じられ、工部、刑部、兵部の要職を歴任し、同平章事(宰相位)に就いた。
遼の聖宗による親征においては、王欽若の南遷論が主流となる中で真宗に親征を主張する。
寇準の主張が入れられ真宗自ら出陣し遼軍と対峙、澶淵の盟が締結される。
北宋はこれにより朝貢国となったが、遼の侵攻以前の国境が維持されることとなった。
しかし、南遷論を覆されたことで恨んだ王欽若が讒言したため失脚する。
没後に名誉回復が行われている。

王欽若(定国)

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【オウキンジャク(テイコク)】
北宋の政治家。江西の人。
江南出身者として初めて宋の宰相に上る。
真宗の信任を受けるが狡猾で讒言を得意とし、士人に憎悪された。
遼の侵攻に対して南遷を主張するも寇準の親征論に敗れる。
戦後、澶淵の盟を「恥ずべき城下の盟」と讒言して寇準を退け、真宗のために天書を捏造して泰山に封禅の儀を行った。
一時失脚するが仁宗の代に宰相に復し富貴を全うして死ぬ。
真宗朝の奸臣「五鬼」の筆頭に挙げられ、仁宗には「真の奸邪なり」と評された。

丁謂(公言)

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【テイイ(コウゲン)】
北宋の政治家。蘇州の人。奸臣「五鬼」の一人。最初の字は謂之。
経済に通じ、三司使(財政長官)に任じられて宋の財政を一手に担った。
澶淵の役では避難民の保護にあたり黄河の渡し舟を確保。
偽兵の策を用いて戦わず遼軍を撤退させる。
真宗の歓心を買うため王欽若に協力し宮殿造営・宗教儀式に国庫を浪費する。
寇準とその党派に苛烈な粛清を行い、王欽若をも追い落として宰相の地位を手にしたが
二年足らずで失脚。崖州(海南島)へ流された。
熱心な仏教徒でもあり、渡宋してきた日本僧寂照(大江定基)を庇護している。

狄青(漢臣)

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【テキセイ(カンシン)】
北宋の将。一兵卒から叩き上げで武官最高位まで出世した稀有な人物。汾州西河の人。
貧家の出身だったが、武勇に優れ、西夏との国境で活躍。
4年で25回もの戦いに参加し、8度も矢傷を負う等満身創痍の激戦の中、多くの戦果を挙げる。
この時、兵卒の身分を示す刺青を隠す(兵卒出身の自分が指揮官だと敵に侮られる)ため
ざんばら髪に銅面を被っていたという。
范仲淹の知遇を得、春秋左氏伝と助言を受けて学問に励み、知勇兼備の将に大成した。
西夏との和議が成ってしばらくして、中央に召喚され軍のNo2である枢密副使に大抜擢される。
文知政治の宋では軍の上層部は文官出身が成るのが通例であり、武官の、しかも元一兵卒だった者が就任するのは
異例中の異例だった。
儂智高の乱が起こると志願して討伐軍平定に出陣する。現地軍の士気が低さが酷かったが、計略によって士気を揚げ
初手から部下が抜け駆けして敗北すると、位の上下に関わらず処刑し軍規を引き締めた。
その後も計略によって油断を誘い敵の要衝を奇襲して奪取、儂智高軍を野戦に引きずり出して大破し乱を平定した。
この時安南(ベトナム)が援軍を派遣しようとしたのを、政治的配慮から断っている。
反乱討伐の功によって枢密正使に昇進するが、出世し過ぎて周囲から疑われ陳州長官に左遷され、その地で死去した。

信賞必罰を徹底し、兵卒と苦楽を共にしたため、部下からは非常に人気が高かった。
主君である仁宗から刺青を消すことを提案されたが、「兵たちの励みになるから」と断っている。
また従軍した文官に対しても無私無欲に接したため、彼等からも人柄を絶賛されている。

※左伝繋がりで関羽、杜預あたりと親愛を付けたい。

※何故か途中から包拯の話になっていた為、その部分を削除し後半を加筆しました。

范仲淹(希文)

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【ハンチュウエン(キブン)】
北宋の政治家、文学者。
進士及第後、吏部に勤めるも改革論を唱え左遷される。
西夏が興ると、陝西で屯田を行いながら数年にわたり侵攻を防ぐ。
韓琦とともに西夏領への侵攻も行うが、これは失敗に終わる。
西夏の人々から「龍図老子」「小范老子」と畏怖され、范仲淹の辺境在任中は国境を犯さなかった。
中央政界に復帰し参知政事(副宰相)となると慶暦の改革を推進するが、反対派によって数ヶ月で左遷された。
文学者としては散文の「先憂後楽」が著名で、
この思想は新法・旧法派の双方に影響を及ぼし、後代にも高く評価された。

欧陽修(永叔)

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【オウヨウシュウ(エイシュク)】
北宋の政治家、文学者、歴史学者。号に醉翁、六一居士。唐宋八大家の一人。
独学で進士及第し、包拯の後任として開封府尹に就任。
范仲淹と改革に取り組むも、強硬な手法が疎まれ度々左遷される。
中央に戻ると要職を歴任、参知政事(副宰相)に昇る。
その中で蘇軾、蘇洵、王安石らを見出し登用している。
王安石の新法改革を初めは支持していたが、青苗法が施行されると反対派に転じて政界を引退した。
文学者としては、初めて「号」を用いた人物とされ、古文復興運動を進めた。
また「新五代史」「新唐書」を編纂し、金石学を創始している。

王安石(介甫)

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267889765振興文化農政能吏寡欲

【オウアンセキ(カイホ)】
北宋の政治家。撫州臨川の人。唐宋八大家の一人。
財政破綻に苦しむ神宗の治世下で、青苗法・募役法等の様々な新法を施行し、宰相の地位にまで昇り詰める。
だが、これらの法は特権階級の既得権益を脅かすものであり、
司馬光を中心とする旧法党の猛反発を受けた。
結果として、哲宗の摂政を務めた宣仁太后、及び宰相の司馬光の力で多くの新法が廃止されたが、彼らの死後に復活している。
徽宗の代でも悪用こそされたが廃止はされず、南宋にも影響を与えた。

司馬光(君実)

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148876286

【シバコウ(クンジツ)】
北宋の史家・政治家。陝州夏県の人。司馬孚の末裔とされる。
王安石の新法への反対派である旧法党の最右翼であり、王安石と論争を繰り広げた。
決して一枚岩とはいえなかった旧法党だが、神宗の死後宣仁太后が摂政となったこともあり、宰相に就任し多くの新法を廃止した。
だが、在任一年程度で亡くなったため、財政政策の代案を打ち出せたかは疑問視される。
最大級の編年体の史書である『資治通鑑』の編者として知られ、
皇帝の輔弼を目的に書かれた本書は極めて評価が高く、帝王学の名著として定評がある。

沈括(存中)

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7250988571発明名声振興文化特使

【チンカツ(ソンチュウ)】
北宋の政治家、科学者、文章家。号は夢渓丈人。
天文・科学・数学などの科学分野に精通し、芸術や文学まで多様な分野を網羅した万能型の才人。
地方官として干拓事業を成功させた後に、科挙に合格して宮中図書館に勤務。
天文台長として精密な天体観測を行い、正確な天体図や暦を作成した。
新法党と旧法党での争いでは王安石の協力者となるがやがて不和に、王安石失脚後は三司使(大蔵大臣)まで出世する。
しかしその後、出世を恨まれ弾劾されて失脚し、最後には官位剥奪・蟄居の処分を受ける。
蟄居中にかつて皇帝から命じられた中国全土の地図「天下州県図」を完成して献上。
その功により鎮江の自邸「夢渓園」へ移住し、『夢渓筆談』をはじめとする著作の執筆に専念する。

蘇軾(子瞻)

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【ソショク(シセン)】
北宋の政治家、詩人、書家。号は東坡居士。唐宋八大家の一人。
進士及第後、地方から中央へと出世するが、王安石の新法改革に反対して左遷される。
さらに、讒言を受け黄州に左遷され、この地を東坡と名づけて東坡居士を名乗るようになる。
この時期に有名な「赤壁賦」を詠んでおり、詠んだ場所は文赤壁と呼ばれるようになった。
旧法派が復権すると中央政界に復帰する。
司馬光が新法を全て廃止しようとすると、有用な新法は残すべきとして対立した。
その後、新法派が再台頭すると再び左遷され、海南島へ追放された。
なお彼の好物は後世に「東坡肉(トンポーロウ)」と命名され、現代に伝わる。

种師道(彝叔)

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【チュウシドウ(イシュク)】
北宋の政治家、武将。
進士及第後に地方官吏となるが、蔡京?の弾劾により十年の間免職する。
復職後は辺境で西夏防衛に功績を上げるが、童貫?の無用な出兵を諌め、金との和約に反対し軍権を剥奪される。
後に金が東京開封府を包囲すると、援軍に駆けつけ完顔宗望の軍と黄河で対峙する。
この進軍中に宋の人々を「百万の援軍を率いてきた」と鼓舞し、開封にもその知らせが届いて士気が上がったため金軍は撤退した。
その後も欽宗の金に対する挑発を諌めながら、病没。
靖康の変に際して欽宗は諫言に従わなかったことを後悔したという。

※「种」の字は、字義の「種」か、似ている「狆」で代字とする。